第2章 第14話 商いの芽と恋の芽
芝居小屋での華やかなファッションショーが幕を閉じた。
舞台に撒かれた桜吹雪がまだ空に漂い、観客は口々に感嘆の声を漏らしていた。
「すてきだったわねえ……」
「私も一着、仕立てていただきたいわ。父上にお願いしてみようかしら」
「加賀屋で頼めるそうよ。今度、一緒に行ってみない?」
まだ拍手が鳴り止まず、熱気に包まれたままの中村座。
その隅で、腕を組んで黙り込んでいる一団がいた。
江戸でも名の知れた大棚の若旦那衆。
呉服屋・越後屋の清之助を筆頭に、商いに目ざとい連中である。
彼らはこの夜、舞台を台無しにしてやろうと集まっていた。
「女の考えた洒落など、一時の流行にすぎぬと思っていたが……」
「そうですね。江戸の粋には合わぬと、決めつけていました……」
だが、花道を彩る着物の輝き、観客の歓声、娘たちの誇らしげな笑顔――商人として、その見事さを認めないわけにはいかなかった。
誰一人、茶々を入れる者はいなかった。
清之助は腕をほどき、鋭い目を光らせた。
「……皆さん、急ぎましょう」
「え? どこへ急ぐというんで?」
「決まっているじゃありませんか。紗江殿のところですよ!」
若旦那衆が顔を見合わせる。清之助は続けた。
「紫蝶花魁がお召しになれば、娘たちが憧れる。客席でも、どこで買えるのかと話している客がいたでしょう!」
「これは流行ります!」
清之助は力強く言い切った。
「――いや、流行らせますぞ!」
はっとした若旦那衆は、すぐに真剣な顔つきへと変わり、頷き合った。
清之助は足早に舞台裏へ向かった。ほかの若旦那衆も、慌ててその後を追った。
舞台裏へ入ろうとしたところで、中村座の者に呼び止められた。
「お客様、どちらへ? 恐れ入りますが、こちらへはお入りいただけません」
「紗江殿にお目にかかりたいのです。ぜひ!」
「それでしたら、お取次ぎいたします。こちらで、しばらくお待ちください」
一同は控室へ通された。
清之助は腰を下ろし、黙って紗江が来るのを待った。
――中村座の舞台。
葵と紗江のいる舞台へ、袖から控えめな声が届いた。
「紗江様」
紗江は振り向いた。中村座の者が、遠慮がちに立っている。
「恐れ入ります……越後屋の清之助様をはじめ、商家の方々がお目にかかりたいと、控室でお待ちです」
「私に、ですか?」
「越後屋の若旦那さんが、そりゃあ熱心に……」
紗江は葵を見上げた。
「越後屋か。さすがに動きが早い」
葵が微笑む。
「すぐ、行きます」
紗江はそう答え、葵に一礼して控室へ向かった。
清之助は誰よりも早く紗江のもとへ駆け寄り、深々と頭を下げた。
「私、日本橋の越後屋でございます。
紗江様、いや、紗江殿! 先ほどのお披露目、まことに見事でございました」
息を整えて続ける。
「ぜひとも! 当店にてあなた様のお品を扱わせていただきとう存じます!」
突然の申し出に紗江は目を丸くしたが、やがて柔らかな微笑みを浮かべた。
「越後屋さんですか。
こちらこそ、お願いしたいです」
「実は、今回の舞台でも使った巾着や手提げなどを、置いていただけるお店を探しておりました」
清之助は、身を乗り出した。
紗江は少し照れたように続けた。
「桜の花弁を織り出した縮緬の巾着や、金糸で鳥をあしらった財布などがありますが、そちらも並べていただけますでしょうか」
「な、なんと……!」
清之助は息を呑み、そして次の瞬間、目を輝かせた。
「先ほどの舞台で拝見いたしました。庶民にも手が届くお品……着物は買えぬ娘でも、これなら手に取れます。これは……江戸中に広がります!」
口では商いの算段を並べながらも、清之助の胸の奥では別の思いが芽吹いていた。
――江戸の空気を、ここまで変えてしまう娘がいるとは。
着物の話をする紗江の笑顔から、目を離しがたかった。
芝居小屋を出る帰り道。
他の若旦那衆が肩を揺らして笑った。
「さすがは越後屋さん、手のひら返しがお早い!」
清之助は笑った。
「褒め言葉としていただいておきましょう」
「それにしても、ずいぶん熱心でいらした」
「たいそう大きな商いになりますからね」
「商いの話だけですか?」
清之助は言葉に詰まり、頬を赤らめた。
「……どうか、からかわないでください」
若旦那衆の笑い声が、江戸の夜に響き渡った。
そして――紗江の夢は、一人の夢ではなく、江戸中の商人を巻き込む大きな流れへと変わり始めていた。
――夜鴉の隠れ郷。
江戸の外れ。
深い森に囲まれた古い屋敷は、夜の闇に溶け込むようにひっそりと佇んでいた。
庭先では、玄斎が雲間に浮かぶ月を見上げている。
その背後で、微かに空気が揺れた。
音もなく現れたのは、白い面を着けた忍び――夜鴉の黒羽、冥だった。
「冥」
「はっ」
冥は片膝をつき、深く頭を垂れた。
「無刄が姿を消した今、お前が頼りだ」
玄斎がゆっくりと振り返る。
「葵の周囲には、蒼馬をはじめ手練れが集まりつつある。正面から攻めたところで、容易には崩せぬ」
「……葵を連れてくるのでございますか」
「いや」
玄斎の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「紗江を連れて来い」
冥の面が、僅かに動く。
「紗江一人を、でございますか」
「そうだ。あの娘が我らの手にあると知れば、葵は必ず動く」
月が雲に隠れ、庭が深い闇に沈んだ。
「手段は問わぬ。ただし――」
玄斎の目に、冷たい光が宿る。
「必ず、生け捕りにせよ」
「御意」
冥はそれ以上何も問わず、現れた時と同じように闇へ溶けていった。
一人残った玄斎は、再び月を見上げる。
「さて……葵。あの娘のために、どこまで己を捨てられる?」
低い笑い声が、闇に沈む屋敷へ静かに響いた。
――江戸の中心、日本橋。
数日後。
澄月庵を出た紗江は、葵とともに日本橋を訪れていた。
「今日の朝獲れだ! 見てけ、見てけ!」
魚河岸から威勢のよい声が飛ぶ。
天秤棒を担いだ商人、せわしなく行き交う駕籠、買い物を楽しむ町人たち。橋のたもとには荷を積んだ船が次々と着き、川面には水音と船頭の掛け声が絶え間なく響いている。
紗江は目を輝かせながら、辺りを見回した。
「ここも、日本橋なのですね……」
「そうだ。江戸から延びる五街道は、すべてこの橋を起点としている」
「江戸の真ん中なのですね」
「ああ。人も物も、ここへ集まる」
活気に満ちた町を見つめながら、紗江は初めて元禄の世へ降り立った夜を思い出していた。
あの時も、日本橋だった。
けれど、夜の闇と恐怖の中で立ち尽くしていた紗江には、町の景色を見る余裕などなかった。
今は、隣に葵がいる。
同じ場所でありながら、目に映るものすべてが違って見えた。
やがて二人は、越後屋の店先へ辿り着いた。
そこには、紗江が考えた小物が色鮮やかに並べられていた。
桜模様の縮緬巾着、花柄の手拭い、金糸をあしらった財布。反物を仕立てた際に残った布を生かし、一つひとつ形にした品々だ。
店先には人垣ができ、町娘たちが楽しそうに品物を手に取っている。
「まあ、見て。可愛らしい巾着!」
「芝居小屋へ持っていったら、きっと目を引くわ」
「では、わたしはこの赤いものを。お揃いにいたしましょうよ」
嬉しそうな声を聞いた瞬間、紗江の胸が熱くなった。
自分が考え、自分の手で作ったものを、知らない誰かが大切そうに抱えている。
令和では、まだ学生だった。
自分の作ったものが店頭へ並び、これほど多くの人の手に渡る光景など、見たことがない。
「……嬉しい」
思わず零れた声に、葵が紗江を見た。
「皆、とても喜んでおるな」
「はい。こんなふうに手に取っていただけるなんて、夢みたいです」
その時、背後から穏やかな声がかかった。
「おや、紗江殿」
振り返ると、越後屋の清之助が立っていた。
「清之助様」
「本日、お越しくださると伺っておりました」
清之助は店先の賑わいへ目を向け、満足そうに微笑んだ。
「ご覧のとおり、大変な評判でございます。品を並べても、すぐに売れてしまうほどで」
「本当ですか?」
「ええ。追加の注文も、すでに幾つも頂いております」
紗江の顔が、ぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。もっと作りますね」
「無理をなさらぬように。紗江殿の手を傷めてしまっては、元も子もございません」
そう言って、清之助は紗江の手元へ目を落とした。
「その細い指から、これほど新しい品が生まれるとは……。私どもには到底思いつかぬ発想でございます」
真っ直ぐに褒められ、紗江は照れたように頬を染めた。
「そんな……。私は、好きなものを作っているだけです」
少し離れたところで、葵は黙って二人を見ていた。
清之助が礼儀正しい男であることは分かっている。
紗江の才を認め、商いの道を開いてくれたことにも感謝していた。
それでも――清之助が紗江へ向ける柔らかな眼差しが、妙に気にかかる。
(……いささか、近すぎるのではないか)
胸の奥に、正体の分からぬ熱がじわりと広がった。
「紗江」
呼びかける声が、いつもより僅かに硬くなる。
「そろそろ戻るぞ」
「え? もうですか」
「日が暮れる前に、澄月庵へ戻った方がよい」
「あ……はい」
清之助は二人の様子に気づいているのかいないのか、変わらぬ笑みを浮かべている。
「では、紗江殿。また近いうちに、お願いいたします」
「はい。また出来上がったものをお持ちします」
紗江が笑みを返すと、葵は無言で歩き出した。
慌ててあとを追いながら、紗江は首をかしげる。
いつもより、葵の歩みが速い。
「あの……葵様?」
「何だ」
「もしかして、お急ぎですか?」
「いや」
振り返った横顔は、いつものように涼やかだった。
けれど、なぜかこちらを見ようとしない。
紗江には、その理由が分からなかった。




