第1章 第12話 準備と暗雲
――その夜、夜鴉の郷
玄斎は、三人の黒羽を前にしていた。
朧火、鴦牙、そして新たな黒羽・冥。
「紗江が、団十郎と手を組んだ」
三人が顔を見合わせる。
「団十郎か……相手が悪いな」
鴦牙が舌打ちする。
「だが、団十郎本人には手を出すな」
玄斎が釘を刺す。
「あの男に睨まれれば、我々も無事では済まぬ」
「では、どうするのです?」
朧火が尋ねた。
「舞台を失敗させる」
玄斎は三人を見据えた。
「団十郎の顔に泥を塗れ。二度と葵たちに力を貸そうと思わぬほどにな」
三人は黙って玄斎の言葉を待った。
「冥、お前が指揮を執れ」
「御意」
冥が深く頭を下げる。
「朧火、鴦牙。お前たちは冥に従え」
「はっ」
玄斎は三人を見渡した。
「夜鴉の名を汚すな」
「御意」
三人の声が、低く揃った。
――澄月庵の屋根の上。
蒼馬は、庭を見下ろしていた。
不意に背後へ振り向く。
「何の用だ」
闇の中に、鴦牙が立っていた。
「やぁ、蒼馬。久しぶりだね」
鴦牙は、飄々とした笑みを浮かべていた。
「挨拶だよ。無刄が抜けて、寂しくてね」
鴦牙は肩をすくめた。
「でも安心して。俺たちは、まだまだ健在だから」
「……」
「近いうちに、また会おう」
鴦牙は闇に姿を消した。
蒼馬は刀の柄を握りしめた。
(……また、何かたくらんでいるのか)
遠くの闇で、新たな策謀が静かに動き始めていた。
――中村座の舞台裏。
紗江は団十郎に案内され、初めて舞台裏へ足を踏み入れた。
団十郎の後について進み、舞台へ出たところで足を止めた。
「……広い」
客席の間を、花道がまっすぐに伸びている。
紗江はその先まで目をやり、ゆっくりと舞台を見渡した。
ここを、私の着物を着た娘たちが歩く――。
「いかがですか」
団十郎の声に、紗江は振り向いた。
「思っていたより、ずっと広くて……」
「この広さを、どう使うか。楽しみですね」
団十郎が微笑んだ。
「さて、まずは何から始めましょうか」
「着物を着て、花道を歩いてくださる娘たちを選びたいと思います」
「役者ではなく、町の娘を?」
「はい。着物をもっと身近に感じてもらうためにも、普段から着物を楽しんでいる娘たちにお願いしたいんです」
団十郎は、興味深そうに紗江を見た。
「どのような娘を選ぶおつもりで?」
紗江は花道へ目を向けた。
「背丈や顔立ちだけではなく、その着物が似合う方を選びたいです。可愛らしい着物、落ち着いた着物、華やかな着物――それぞれに、違う魅力がありますから」
「なるほど。着物に合わせて、人を選ぶのですね」
「はい」
団十郎が花道を指した。
「ならば、歩き方も大切になります。ただ歩くだけでは、着物の美しさは伝わりません」
「歩き方……」
紗江の目が輝いた。
「そうですね。姿勢や歩幅、視線ひとつでも、着物の見え方は変わります」
「娘たちの所作は、私がお教えしましょう」
「本当ですか!」
「私も関わるからには、半端な舞台にはできません」
団十郎の目に、役者の鋭い光が宿った。
「必ず、成功させましょう」
――その日の午後、加賀屋。
加賀屋には、女将が声をかけた十人ほどの町娘が集まっていた。
皆、何が始まるのかと、期待と緊張の入り交じった顔で並んでいる。
女将が、娘たちを見回した。
「皆さんに集まっていただいたのは、ほかでもありません。今度、中村座で紗江様の着物やどれすを披露する舞台が開かれます」
「中村座で?」
「紗江様の着物を着られるの?」
娘たちの間に、驚きの声が広がった。
「大勢のお客様が見ている前で、花道を歩いていただきます。やってみたいという方は、いらっしゃいますか?」
娘たちは顔を見合わせた。
興味はあっても、人前へ出ることを思えば、すぐには手を挙げられないようだった。
やがて、一人の娘が、おずおずと手を挙げた。
「あの……私、やってみたいです」
その声をきっかけに、隣の娘も手を挙げる。
「私も」
「私も、歩いてみたいです!」
ためらっていた娘たちの顔が、次々と明るくなっていく。
「お願いします」
「ぜひ、私にも着させてください!」
気づけば、集まった娘たち全員が手を挙げていた。
紗江は、思わず胸に手を当てた。
こんなにも多くの人が、自分の舞台へ力を貸そうとしてくれている。
「ありがとうございます。皆さんに似合う着物を、必ず作ります」
紗江が深く頭を下げると、娘たちから嬉しそうな声が上がった。
――翌日、中村座。
舞台の空き時間を使って、娘たちの稽古が始まった。
「背筋を伸ばして。胸を開くように――そう、そのまま花道へ」
団十郎の声に導かれ、娘たちは一人ずつ花道を歩いていく。
初めのうちは、皆どこかぎこちなかった。
歩幅が揃わず足元を気にする者もいれば、緊張のあまり、俯いたまま歩く者もいる。
「客席を見ようとしなくてよい。もっと遠くへ目を向けなさい」
「はい!」
団十郎の指導を受けるうちに、娘たちの姿勢は少しずつ変わっていった。
紗江はその様子を見つめながら、披露する衣装の順番を考えていた。
娘たちが花道を一巡する時間が分かると、必要な衣装の数も見えてきた。
一人ひとりの顔立ちや雰囲気を思い浮かべながら、紗江は迷うことなく筆を走らせた。
淡い桃色、藍色、薄紫……
色とりどりの着物が、紗江の頭の中で形になっていく。
――江戸の町
「中村座にて、紗江の着物のお披露目だ!」
蓮が、通りの向こうまで届く声を張り上げる。
「団十郎様も舞台に立つぞ! 着物の好きな人は寄っといで!」
隼人も負けじと声を上げ、行き交う人々へ次々と引札を渡していく。
その少し後ろでは、蒼馬と無刄が、道行く人々へ一枚ずつ引札を手渡していた。
「おい、二人とも! 少しくらい声を出せ!」
蓮が振り返って叫ぶ。
蒼馬と無刄は、黙々と引札を配り続けていた。
「……まったく、似た者同士だな」
「だな!」
隼人が笑い、蓮もつられて笑った。
四人はそれぞれのやり方で、初めての引札配りを楽しんでいた。
やがて、舞台の噂が江戸の町に広がり始めた。
「紗江が芝居小屋で着物を見せる舞台をやるらしいよ」
「団十郎様が出るって言うじゃねぇか」
「紗江様の着物、近くで見たいねぇ」
「前の席の札は、もう売り切れてたよ」
――中村座を見下ろす屋根の上。
冥は仮面の奥から、舞台裏へ続く出入口や、周囲の路地を静かに見定めていた。
「……祭り騒ぎも、今のうちだけだ」
その背後へ、朧火と鴦牙が音もなく降り立った。
「下見は済んだ?」
朧火の問いに、冥が頷く。
「ああ。舞台裏の造りも、出入りする者の動きも把握した」
「それで、当日はどうする?」
鴦牙が尋ねた。
「舞台裏へ入り、火を見せる」
「火?」
朧火が眉をひそめる。
「本物ではない。私の幻影だ」
冥は静かに続けた。
「舞台裏から炎が上がり、煙が広がる――そう見せかける」
「客は、火事が起きたと思って逃げ出すでしょうね」
朧火の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「舞台は中止になる。それだけではない」
冥の声が低くなる。
「客を危険にさらしたとなれば、紗江は信用を失い、団十郎の顔にも泥を塗ることになる」
鴦牙が笑った。
「本物の火は一つもないのに、すべてを灰にするというわけか」
「そういうことだ」
冥は二人を振り返った。
「だが、蒼馬たちも警戒している。当日の守りは、さらに厳しくなるだろう」
「なら、どうするの?」
「お前たちが蒼馬たちを舞台から引き離せ。その隙に、私が中へ入る」
「囮になれということか」
「ああ」
短く答えると、冥は屋根を蹴り、闇の中へ姿を消した。
朧火と鴦牙もそれに続く。
あとには、中村座を包む静けさだけが残った。
――加賀屋
「どうしても、あの光が出ない……」
紗江は反物から手を離し、デザイン画へ目を戻した。
舞台の最後を飾る衣装。
その姿は、もう心の中にある。けれど、何度布を選び直しても、思い描いた光には届かなかった。
「迷っておられるようですね、紗江様」
背後から、穏やかな声がした。
振り返ると、加賀屋の番頭・誠一が立っていた。
「見せていただけますか?」
紗江がデザイン画を差し出すと、誠一はしばらく黙って見つめた。
「なるほど……光を纏うような衣装をお考えなのですね」
「はい。舞台の最後に、この衣装で花道を歩いてもらいたいんです。けれど、光沢の強い布では、重く見えてしまって……」
紗江は、紙に描いた裾の曲線を指でなぞった。
「もっと柔らかく、歩くたびに、光そのものが揺れるように見せたいんです」
誠一はもう一度、デザイン画へ目を落とした。
やがて、静かに頷く。
「少々、お待ちくださいませ」
加賀屋の奥へ消えた誠一は、しばらくして、三つの反物を抱えて戻ってきた。
一つは、艶やかな白絹。
一つは、淡い藤紫に銀糸を織り込んだ薄布。
そしてもう一つは、白糸の間に、淡い金糸が織り込まれた反物だった。
紗江は一つずつ広げ、明かりへかざした。
白絹の艶は美しい。
だが、布を揺らしても、求めている光とは違った。
藤紫の薄布は軽やかで、銀糸が涼しげにきらめく。
けれど、最後の衣装には、もう少し温かな光が欲しかった。
三つ目の反物を広げた時、紗江の手が止まった。
淡い金糸と白糸が、柔らかく光を映している。
そっと動かすと、その光は布の上を滑り、指先からこぼれるように揺れた。
紗江は息をのみ、もう一度、布を傾けた。
「……これです」
顔を上げた紗江の目に、迷いはなかった。
「私が探していたのは、この布です」
誠一の目が、わずかに細められた。
「その反物をお選びになりましたか」
「はい。光沢があるのに、柔らかくて……動かすたびに、違う表情を見せてくれます」
紗江は布の端を持ち上げ、裾のように揺らした。
「これなら、花道を歩く姿が、光を纏っているように見えると思います」
誠一はその揺れを見つめ、静かに頷いた。
「昔、京に、このような反物を織る職人がおりました」
「京の職人さんが……」
「糸に光を通すように撚るのだそうです。着る者が変わると、光の色まで変わる布……と伺っております」
紗江は、もう一度反物へ目を落とした。
「着る者が変わると、光の色まで……」
花道を歩く娘の姿が浮かんだ。
その肩から袖へ、袖から裾へと、光が流れていく。
最後に足を止め、ゆっくりと振り返る姿まで、はっきりと見えた。
紗江は反物を胸元へ引き寄せた。
「誠一さん。この布を、使わせていただいてもよろしいですか?」
「もちろんでございます」
誠一は穏やかに微笑んだ。
「良い布は、使ってもらってこそ生きるものです」
年季の入った手が、広げられた布の端をそっと整えた。
「この布は、紗江様のような方にこそ、使っていただきたいと思っておりました」
紗江は大切に反物を抱え、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。必ず、素敵な衣装にします」
「紗江様の手で、この布に新しい命を吹き込んでやってくださいませ」
誠一も、静かに頭を下げた。
紗江が反物を抱えて去ったあと――。
誠一は一人、その反物が置かれていた場所を見つめていた。
腕の古傷が、かすかに疼く。
思わず添えた手を下ろし、指をゆっくりと開いた。
かつては、わずかな撚りの違いを確かめながら、幾度も糸に触れた手だった。
今はもう、あの糸を撚ることはできない。
長らく誰にも渡すことのできなかった、自らが織った最後の反物。
今日も、必ず選んでもらえると思って出したわけではなかった。
それでも、紗江があの布を広げ、顔を上げた瞬間――待ち続けていた時が、ようやく訪れたのだと分かった。
(……ついに、この日が来たか)
「私が探していたのは、この布です」
紗江の声が、耳に残っている。
あの娘は、布を動かしながら、まだ誰も見たことのない衣装を見ていた。
誠一の手を離れた反物は、その手で形を与えられ、花道へ出ていく。
(わしの最後の仕事が、あの娘の手で花開く)
遠くから、紗江の明るい声が聞こえてきた。
誠一は顔を上げ、しばらくその声に耳を澄ませた。
(頼みましたぞ、紗江様)
その口元に、静かな笑みが浮かんだ。
紗江は裁縫所で針を握っていた。
お蘭とお針子たちも、黙々と作業を続けている。
「紗江様、無理なさらず……」
お蘭が心配そうに声をかける。
「大丈夫。あと少しで完成するから」
紗江は笑った。
自分でも疲れに気づかないほど、紗江は衣装作りに夢中になっていた。その目は、完成への期待に輝いていた。
葵が部屋に入ってきた。
「紗江、少し休まぬか」
「葵様……」
「このままでは、本番までに倒れてしまう」
葵が優しく言った。
「でも……」
「お前が倒れれば、舞台はできない」
葵は紗江の手を取った。
「だから、休むのも仕事だ」
「……はい……そうですね」
紗江は素直に頷いた。
葵と共に、庭へ出る。
月が綺麗だった。
「不安か?」
葵が聞く。
「……少し」
紗江は正直に答えた。
「こんなに大きなこと、初めてで……」
「そうだろうな」
葵は微笑んだ。
「だが、そなたなら大丈夫だ」
「葵様……」
「これまでも、そなたは多くの人を笑顔にしてきた」
葵が紗江を見つめる。
「……紗江の成功は嬉しい。だが……」
葵は少し言葉を詰まらせた。
「そなたが遠くへ行ってしまうようで……寂しくもある」
紗江は口元を手でかくす。
「クスクス……」
「なぜ、笑っている」
「だって、嬉しくてつい」
二人の手が自然と重なった。
温もりが伝わり、言葉よりも確かなものがそこにあった。
――その頃、屋根の上。
蒼馬の所へ、無刄が現れた。
「夜鴉が、動き出した」
無刄の声は重かった。
「やはりか」
蒼馬が頷く。
「冥が中心となって、舞台を妨害するつもりだ」
「どうやって?」
「詳細は不明だが……おそらく、当日仕掛けてくる」
無刄の声が低くなる。
「朧火と鴦牙も動く」
「三人か……」
蒼馬が顔をしかめる。
「俺たちだけで防げるか?」
「……分からない」
無刄が正直に答えた。
「私が抜けたことで、夜鴉は本気で来る。自分たちの実力を示すためにも」
「なら……」
蒼馬は刀の柄を握りしめた。
「俺たちも、本気で迎え撃つまでだ」
無刄が頷いた。
「ああ」
二人はしばし、闇の向こうを見据えていた。
――数日後、中村座。
娘たちの稽古も、いよいよ仕上げを迎えていた。
背筋を伸ばし、まっすぐ前を見つめて、一人ずつ花道を進む。
初めは俯いていた娘も、今では顔を上げ、堂々と歩いていた。
最後の一人が戻ってくると、団十郎が大きく頷いた。
「よし。これなら、もう心配はない」
娘たちの顔が、ぱっと明るくなる。
「明日は、教えたことを忘れなさい」
意外な言葉に、皆が目を瞬いた。
団十郎は、その戸惑いを見て微笑んだ。
「歩き方ばかり考えていては、顔が固くなってしまう。所作は、もう身についています。明日は、その着物を着られる喜びを胸に、花道を歩けばよいのです」
「はい!」
弾んだ返事が、舞台に響いた。
紗江も笑顔で拍手を送る。
「みんな、ありがとう!」
「紗江様、私たち頑張ります!」
稽古を終えても、娘たちは明日の話に夢中だった。
どの衣装を着るのか、家族は見に来てくれるのか――楽しげな声を聞きながら、紗江も胸を躍らせていた。
――その夜、夜鴉の郷。
玄斎は、三人の黒羽を前にしていた。
「明日だ」
冥、朧火、鴦牙が、黙って頭を下げる。
「失敗は許されぬ。紗江と団十郎の繋がりを、断ち切れ」
「御意」
三人は身を翻し、闇へ消えた。
――澄月庵、中庭。
葵が月を見上げていた。
蒼馬、無刄、蓮、隼人、お蘭が葵を囲む。
「夜鴉は……必ず来る」
「はい」
「どんな手を使って来るかは分からぬが……」
葵が続ける。
「大勢の命を守ってほしい。頼むぞ」
みんなが静かに頷く。
葵の言葉を胸に、五人は静かに持ち場へ散っていった。
蒼馬は刀を確かめ、蓮と隼人は中村座周辺の見回りへ。無刄は闇に目を凝らし、お蘭は紗江のそばについた。
それぞれが、明日に備えていた。
何が起ころうとも、守り抜く。
集まる人々の命も、紗江の夢も――。
月は静かに江戸の町を照らしていた。
その穏やかな光の下で、嵐は確かに近づいていた。




