第1章 第11話 偶然の出会い
ある日、紗江は加賀屋を訪れた。
店先は今日も大勢の客で賑わい、紗江の作った着物を手に取る娘たちの笑顔で溢れていた。
「紗江様」
女将が奥から現れ、嬉しそうに微笑んだ。
「おかげさまで、毎日大盛況でございます」
「ありがとうございます。女将さんが、皆さんに届けてくださったおかげです」
紗江も笑顔で応えた。
「実は……」
女将は、店に並んだ着物へ目を向けた。
「お客様方が、もっと着物を見たいとおっしゃるんですよ。十枚、二十枚と、一度にお見せできませんでしょうか」
「十枚も二十枚も……一度に?」
これだけの客が訪れる店に、それだけの着物を並べる場所はない。
「それに、紗江様の着物は、吊るしてお見せするより、着た方がずっときれいに見えるんです……何か方法があれば」
紗江の仕立てる着物は、布の重なりや、袖や裾の動きまで考えて作られている。人がまとって歩いてこそ、その美しさが伝わる。
(人に着てもらって、一度にお披露目できたら……)
その瞬間、紗江の脳裏に鮮やかな光景がよぎった。
ランウェイ。
光の下を歩くモデルたち。
観客の拍手。
――夢にまで見たファッションショー。
「そうだわ!」
「女将さん、大勢の人が集まる場所はありませんか?」
「大勢の人が、ですか?」
女将はしばらく考え、やがて手を打った。
「それなら、芝居小屋はいかがです? 中村座なら、大勢の方に見ていただけますよ」
「芝居小屋……」
紗江の目が輝いた。
「花道を、私の着物を着た人たちが歩くんです。そうすれば、もっと大勢の人に見てもらえる!」
女将は目を丸くした。
「芝居小屋で着物をお披露目するなんて、聞いたことがありません」
けれど、やがて楽しそうに笑った。
「ですが、紗江様なら本当にやってしまいそうですね」
紗江は照れくさそうに笑った。
「そういえば今度、市川団十郎様がお店へお立ち寄りくださる予定なんですよ」
「団十郎様が?」
紗江は息を呑んだ。
江戸一の歌舞伎役者。その名を知らぬ者はいない。
「お会いになってみますか?」
「はい、ぜひ!」
団十郎が加賀屋を訪れるまでには、あと十日ほどあった。
その夜、紗江は部屋で舞台の衣装を描いていた。
袖を広げ、裾に色を重ねる。描いては首を傾げ、また描き直す。
一つ思い浮かぶたびに、また新しい衣装が浮かんでくる。
「着て歩いたら、布はどう動くんだろう……。実際に見てみたいな」
気がつけば、傍らには何枚もの絵が積み重なっていた。
翌日、紗江は使い切った紙を買い足すため、京橋の紙問屋へ向かった。
道すがら、行き交う人々の着こなしが自然と目に入る。
袖の揺れ。裾の流れ。歩くたび、重なった布の間からちらりと覗く色。
(やっぱり、衣紋掛けに掛けているだけじゃ、この美しさは伝わらない)
そう思いながら歩いていると、前から一人の男がやって来た。
深く笠をかぶり、目立たぬ色合いながらも、上質な着物をまとっている。
すれ違う町人たちは、さりげなく道を譲り、小さく頭を下げていた。
(……あの方、誰だろう)
紗江が見つめていると、男が足を止めた。
「……ん? お嬢さん」
低く、よく響く声だった。
男が笑う。
「いや、失礼。突然声をかけて、驚かせてしまったか」
「いえ……」
男が笠を少し上げる。
端正な顔立ちに、鋭い眼光。
だが、その目にはどこか温かさがあった。
「店先の品には目もくれず、着物をまとった人ばかり見ていたな」
「えっ……」
男は紗江の目をまっすぐに見た。
「袖が揺れるたび、お前さんの目も動いていた。何を探している?」
「着物が、一番美しく見える瞬間を探していたんです」
男の眉が、わずかに上がった。
「ほう」
「私、着物を仕立てる仕事をしています。人が歩いたときに布がどう動くか、知りたくて」
「それで、その着物をどうするつもりだ?」
「もっと大勢の人に見てもらいたいんです。芝居小屋の花道を、私の着物を着た人たちが歩いてくれたら……」
紗江は、思い浮かべた光景に胸を弾ませた。
「でも、そんな前例もありませんし……無謀でしょうか」
「いや」
男は首を横に振った。
「芝居とて、初めからあったわけではない。誰かが始めたからこそ、今がある」
「……」
「新しいことを恐れぬ心。それこそが大切だ」
紗江の胸が熱くなった。
「失礼ですが……どちらさまでしょうか?」
「私か」
男は少し笑った。
「……芸事に関わっている」
「芸事……」
「人を魅了することの難しさは、よく知っているつもりだ」
男は真剣な目で紗江を見た。
「お前さんの着物は、人を魅了できるか?」
「はい」
紗江はしっかりと頷いた。
「自信があります」
「ならば、恐れることはない」
男は満足そうに笑い、立ち去ろうとした。
「いつか、お前さんの仕立てた着物を見てみたいものだ」
「はい。ぜひ、ご覧いただきたいです!」
数歩進んだところで、男が振り返った。
「そういえば、お前さんの名は?」
「紗江です。織原紗江と申します」
男の目が、わずかに光った。
「……やはり」
「え?」
「いや」
男は微笑んだ。
「良い名だ。覚えておこう」
(今……何か言いかけた?)
だが、男はすでに背を向けていた。
男が去ったあと、近くにいた商人が紗江に声をかけた。
「お嬢さん、あの方と知り合いなのかい?」
「え? いえ、知りませんが……」
商人は驚き、目を丸くした。
「市川団十郎様だよ。天下の団十郎様じゃないか」
紗江は息を呑んだ。
「え……! あの方が……!」
――その夜、澄月庵
紗江は、京橋での出来事を葵に話していた。
「それで、偶然お会いした方が、団十郎様だったんです」
「団十郎殿に会ったのか」
葵がわずかに目を見開いた。
「はい。とても素敵な方でした。新しいことを恐れなくていいと、背中を押してくださって……」
「いつか私の仕立てた着物を見てみたい、とも言ってくださいました」
紗江は、あの時の言葉を確かめるように繰り返した。声が弾んでいる。
葵はその横顔を見つめた。
(紗江は……着物のことを話すとき、本当に輝いているな)
「団十郎殿に会えて、よかったな」
「はい!」
葵は微笑んだ。
だが、その胸には、わずかな不安が残っていた。
団十郎は、ただの役者ではない。
江戸の町に広く名が知れ、人を動かす力を持つ男だ。
その団十郎が紗江に関心を抱いたことを、柳沢が見過ごすとは思えなかった。
――同じ頃、柳沢邸
書院で、柳沢は玄斎の報告を聞いていた。
「紗江が、京橋で市川団十郎と言葉を交わしたようです」
柳沢の顔色が変わった。
「何……? 団十郎と?」
「偶然出会ったようですが、二人はしばらく話しておりました」
「何を話していた」
「紗江は、自らの仕立てた着物を、芝居小屋で大勢の者に披露したいと」
柳沢が眉をひそめた。
「それに、団十郎が興味を示したか」
「はい」
柳沢は黙り込み、やがて低く呟いた。
「……厄介だな」
柳沢は立ち上がった。
「紗江の才に、葵の後ろ盾。そこへ団十郎の名まで加われば……」
「桂昌院様のお耳にも、必ず届くでしょう」
玄斎の言葉に、柳沢は苦々しげに頷いた。
「団十郎と手を結ばれる前に、その芽を摘む」
「では……今のうちに、手を打ちますか」
「ああ」
柳沢の目が冷たく光った。
「紗江と団十郎の繋がりを、断ち切れ」
――団十郎が加賀屋を訪れる日
紗江は加賀屋を訪れた。
「紗江様、お待ちしておりました」
女将に案内され、奥の座敷へ入る。
そこに座っていたのは――。
「あの時の……!」
団十郎が、穏やかに微笑んだ。
「またお会いしましたな、紗江殿」
「団十郎様は、初めから私のことをご存じだったのですか?」
「女将から、若い娘がこれまでにない着物を仕立てていると聞いておりました」
団十郎は楽しそうに笑った。
「町でお前さんの目を見て、もしやと思ったのです。名を聞いて、やはり、と」
「そうだったのですね……」
団十郎様が、自分の評判を耳にしていた。
そう思うと、紗江の胸に嬉しさが込み上げた。
「町で、芝居小屋を使って着物をお披露目したいと話していましたな」
団十郎が紗江をまっすぐに見た。
「本気でやるおつもりですか?」
「はい」
紗江は迷わず答えた。
団十郎の目が輝く。
「では、中村座の座元へ、私から話を通しましょう」
紗江は思わず身を乗り出した。
「本当ですか……!」
「ええ。ただし」
団十郎の表情が、わずかに引き締まった。
「誰もしたことのない試みには、驚く者もいれば、快く思わぬ者もいるでしょう」
「……はい」
「それでも、やりますか?」
紗江は、団十郎をまっすぐに見つめた。
「それでも、やりたいんです」
団十郎は満足そうに微笑んだ。
「良い目だ。ならば、私も力を貸しましょう」
その後、団十郎は、着物を披露する新たな舞台について、中村座の座元へ話を持ちかけた。
芝居とは異なる、前例のない試みである。
座元はすぐには答えを出さなかった。
だが、団十郎自ら舞台に立つこと、そして二日限りの催しであることを条件に、ようやく許しが下りた。
その知らせを受けた紗江は、思わず胸の前で両手を合わせた。
「本当に……舞台を開けるのですね」
「ええ。これでもう、後には引けませんよ」
団十郎が、静かに笑った。
こうして、舞台へ向けた準備が始まった。




