第1章 第10話 町娘の花嫁衣装
春の陽ざしが澄月庵の庭をやわらかく包んでいた。
縁側に座った紗江は、池の水面に揺れる光を眺めながら、ほっとひと息をついていた。
膝の上では、クロが丸くなって寝息を立てている。
そこへ、お蘭が湯気の立つ急須を持って現れた。
「紗江様、お茶をどうぞ」
「ありがとう、お蘭」
紗江は湯呑みを受け取り、ひと口含んだ。
「紗江様、加賀屋へ納品に行ってまいります」
「私も反物を見たいから、一緒に行くわ」
加賀屋に着くと、女将が紗江に声をかけた。
「紗江様、実は会いたいって方が来てるんだよ」
「私に?」
奥の部屋へ案内されると、若い男が座っていた。着古した木綿の着物をこざっぱりと着ている。日に焼けた顔立ちはすっきりとしていて、膝に置いた手には、小さな傷がいくつもあった。紗江を見るなり、背筋を伸ばして頭を下げた。
「新太です。紗江様に、お願いがあって来ました」
新太は結婚を控えているという。
「お澄に、どれすを仕立ててほしいんです。千代姫様が着ていたような、裾の広がる衣装を」
「お澄さんの花嫁衣装ですね」
「はい。結婚式の日に着せてやりたくて」
「新太さんの衣装は、もうお決まりですか?」
「おれはこのままでもいいと思ってたんですけど、そうもいかないから、親父のお古を借りました」
「次にいらっしゃるとき、その衣装も見せていただけますか? お二人が並んだときに、よく似合うように整えたいんです」
「おれの分まで考えてくれるんですか」
「もちろんです。お二人の結婚式ですから」
新太は懐から包みを取り出し、紗江の前に置いた。
「一年前から、お澄と祝言を挙げる日のために、仕事を増やして少しずつ貯めてきました。お澄には内緒なんです。あいつ、家のことを先に考えて、欲しいものがあっても口にしないから」
包みの中には、こつこつと貯めた銭が入っていた。
「この間、たまたま川で千代姫様のどれす姿を見たんです。それで、貯めた銭でお澄にもあんな衣装を着せてやりたいと思って」
新太は包みを紗江のほうへ押し出した。
「せめて結婚式の日くらい、きれいな衣装で晴れの日を迎えさせてやりたいんです。どうか、お澄に似合うどれすを仕立ててください」
紗江は包みに目を落とした。そこには、一年分の働きと、お澄を想う気持ちが込められていた。
「はい。心を込めて仕立てます」
紗江は顔を上げ、新太に微笑んだ。
「お二人は、どうやって出会ったんですか」
新太は照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「色気のねぇ話さ。近所のばばぁに『働き者のいい子がいる。あんたはいい男だし、浮気もしそうにないから、紹介してやってもいいよ』って言われてな」
「それで、紹介してもらったんですか?」
「まさか。『うるせぇやい、自分の女房くらい自分で探せるよ』って断ったんだ」
新太は、そこで笑った。
「ところが、ある日、そのばばぁの家からお澄が出てくるのを見ちまってさ。驚いたね。優しい春風みたいな女だと思った」
「それから、どうしたんです?」
「ばばぁのところへ戻って、すぐに紹介してくれって頼んだ。一生頭が上がらなくなるが、それでもいいと思ったんだ。……まぁ、どっちにしろ、ばばぁには頭なんか上がらねぇがな」
新太は照れくさそうに笑った。
「幸い、お澄はおれについていくって言ってくれたんだぜ。そんなこと言われたら、絶対、幸せにしてやりたいだろ」
紗江は頷いた。
「はい。お澄さんが心から笑える一着を作ります。当日、驚いていただきたいので、それまでは内緒にしましょう」
「はい、お願いします」
「新太さん、お澄さんの寸法を測ってこられますか? 気づかれないようにですよ」
「それなら任せてください。おれ、木こりだから寸法を測るのは得意です」
「木と人は違いますよ」
紗江が笑うと、新太もつられて笑った。
「私もお澄さんに似合う形を考えたいので、そっとお姿を見られる場所を教えてください」
「気づかれないように、か。お澄なら、町はずれの『たぬき屋』って茶屋で働いてるんですけど……」
紗江はお蘭に目配せした。お蘭もその意図を察し、小さく頷く。
「新太さん、それなら大丈夫です。私たちだと分からない姿で、たぬき屋へ行きますから」
「結婚式はいつですか?」
「それが、七日後なんです」
「えっ、七日後だって? 紗江様は今、注文で手いっぱいなんだよ」
そばで話を聞いていた女将が驚いた。お蘭も困った顔をする。
「では、急がなくてはね」
紗江だけは楽しそうだった。
「受けてくれるんですか? 本当に? ありがとうございます。よろしくお願いします!」
新太は深々と頭を下げた。
三日後に再び会う約束をして、新太は加賀屋を出ていった。
「お蘭……」
「はいはい。たぬき屋に行くんですよね。何に化けますか?」
「お蘭、ありがとう」
紗江はにっこり笑った。
「おばあちゃんになりましょう。二人とも」
お蘭は一瞬目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。
「承知しました。紗江様、どちらが年上に見えるでしょうね」
澄月庵へ戻ると、紗江とお蘭はさっそく支度を始めた。
地味な色の着物を選び、髪を白く見せる。お蘭は背を少し丸め、紗江には薄い手拭いを頭からかぶせた。
「どうでしょう、紗江様」
「お蘭、すっかりお婆ちゃんね」
「紗江様もですよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
町はずれのたぬき屋に入ると、若い娘が茶を運んでいた。忙しそうに立ち働きながらも、客に呼ばれるたび、にこやかに返事をしている。
「あの娘ですね」
お蘭が声をひそめた。紗江は頷く。
二人が腰を下ろすと、お澄が湯呑みを持ってやって来た。
「お待たせしました。お茶をどうぞ」
「ありがとうねぇ」
紗江が声を少し低くして答えると、お澄は変装を疑う様子もなく、紗江をいたわるように優しく微笑んだ。
そのとき、隣の席の客が立ち上がり、足元に置いていた包みを忘れていった。お澄はすぐに包みを手に取り、店先まで追いかける。
「お忘れ物ですよ」
客が何度も礼を言うと、お澄は「間に合ってよかったです」と笑って店へ戻ってきた。
紗江はその姿を目で追った。
お澄は派手な衣装を着慣れていないかもしれない。けれど、新太が語った春風のようなやさしさは、その笑顔によく似合っていた。
「お蘭。桜色のドレスに、桜を咲かせたいわ」
「桜、ですか?」
「ええ。お澄さんが歩くたび、薄桃色の花びらが揺れるの。春の日に咲く、大きな一輪の花みたいに」
紗江は、お澄の笑顔をもう一度見た。
「お澄さんのやさしさが引き立つ花嫁衣装にしたい」
「それから、新太さんの胸元にも、同じ花を一輪だけ添えたいの。嫌がるかしら?」
「少し照れるかもしれませんね。でも、お澄さんとお揃いなら、きっと喜ばれますよ」
紗江は茶をひと口飲んだ。
結婚式の日、この娘はどんな顔で笑うだろう。
その笑顔を思い浮かべると、仕立てたい衣装の形が少しずつ見えてきた。
澄月庵に戻ると、紗江は加賀屋で選んだやわらかな桜色の反物を広げ、薄桃色の布を重ねてみた。
春風のような人。新太がそう言ったのも、お澄を見た今なら分かる。
上半身はすっきりと、腰から下は足首に向かってやわらかく広がる形にする。そこへ薄桃色の布を重ね、花びらを一枚ずつ縫い付けよう。お澄が歩けば花びらが揺れ、スカート全体が一輪の花のように見えるはずだ。
花びらを付けた重ね布は取り外せるようにする。晴れの日のあとも、桜色のドレスをお澄に着てもらいたかった。
お澄の寸法は、見たところ九号くらいだろうか。新太に確かめてから、布を裁とう。
紗江はまず、薄桃色の布で花びらを一枚作ってみた。桜色の布に重ねると、春の花が咲き始めたようだった。
――三日後。
加賀屋を訪れた新太に、紗江は衣装の絵を見せた。
「スカートの上に重ねる布に花びらを縫い付けます。その布を外せば、結婚式のあとも普段着として着ていただけますよ」
「へえ……お澄が普段にも着られるんですね」
新太は嬉しそうに絵を見つめた。紗江が仕立て代を書いた紙を渡すと、目を丸くした。
「こんなに安くていいんですか?」
「加賀屋の女将さんが、反物を安く融通してくれたんです。お二人へのご祝儀だって」
「女将さんまで……ありがとうございます」
新太がもう一度衣装の絵を見ると、紗江は微笑んだ。
「たぬき屋でお澄さんに会ったら、すぐに浮かんだんです。優しい春風のようなドレスが」
「お澄に似合いそうだな」
その日、新太はお澄の寸法と、父から借りた衣装を持ってきていた。紗江は寸法を確かめ、新太にも衣装を羽織ってもらう。
「少し、こちらを向いてください」
紗江は新太の胸元に、小さな布の花を一輪当てた。お澄のスカートを飾る花びらと同じ布で作ったものだった。
「お澄さんとお揃いです。どうでしょう?」
「おれに花ですか?」
新太は照れたように笑ったが、花を外そうとはしなかった。
「……お澄が気づくかな」
「きっと、気づきますよ」
澄月庵に戻った紗江は、裾が歩くたびにやわらかく広がるよう、布の重なりを確かめながら針を進めた。スカートの上に重ねる布には花びらを一枚ずつ縫い付けた。
結婚式の前夜、ドレスが仕上がった。
紗江はスカートを広げ、重ね布をそっと揺らしてみた。花びらがひらひらと動き、桜色の布の上に大きな春の花が咲いた。
「お澄さん、喜んでくれるかしら」
「きっと。新太さんも驚くでしょうね」
お蘭の言葉に、紗江は微笑んだ。
――結婚式当日。
紗江とお蘭は、新太に教えられた神社へ向かった。花嫁の支度のために借りた一室では、お澄とおばばが二人でお茶を飲んでいた。
お蘭が戸の外から声をかける。
「失礼します。お澄さんはいらっしゃいますか」
「はーい」
お澄が戸を開けると、紗江とお蘭が大きな包みを抱えて立っていた。
「本日はおめでとうございます。花嫁衣装をお持ちしました」
「えっ、何かの間違いでは? 私は頼んでいませんけど……」
「新太さんからの贈り物です」
お蘭が包みを開き、紗江がドレスを広げた。
上半身はすっきりとした形で、腰から広がる桜色のスカートは光をまとったようにやわらかく輝いていた。その上に重なる薄桃色の花びらが、紗江の手の動きに合わせてひらひらと揺れる。広げた姿は、一輪の大きな花のようだった。
「……きれい」
お澄の頬を涙が伝った。紗江とお蘭は顔を見合わせ、微笑む。
「さあ、着てみましょう」
お蘭に手伝ってもらい、お澄はそっとドレスに袖を通した。紗江が裾を整え、鏡の前へ案内する。
「これを、新太さんが私に……」
鏡の中では、桜色のドレスに重なった薄桃色の花びらが、お澄の動きに合わせて揺れていた。
お澄はそっと裾に触れた。
「……桜が咲いてる」
「お澄さんが歩くと、花びらも一緒に揺れるんですよ」
紗江が言うと、お澄は涙をぬぐい、小さく一歩踏み出した。鏡の中で花が揺れる。
「新太さんに、見てもらいたいです」
その声は、涙に濡れながらも弾んでいた。
お澄は裾に目を落とし、続けた。
「ずっと仕事を増やしていたんです。寂しかったけれど、私のどれすを仕立てるためだったんですね」
「いい男じゃないか」
そばで見守っていたおばばが、嬉しそうに笑った。
支度を終えたお澄が、お蘭に付き添われて外へ出た。
新太は、人々の間に立っていた。父から借りた衣装の胸元には、お澄のドレスと揃いの花が一輪、添えられている。
お澄に気づいた新太が、話していた相手に頭を下げた。
こちらへ歩きかけ、その足が止まる。
「……新太さん?」
呼びかけられても、新太はすぐには答えなかった。
桜色の裾からお澄の顔へ、確かめるように目を移す。
「お澄……きれいだ」
お澄は頬を赤くし、少し俯いた。
その動きに合わせて、薄桃色の花びらが揺れた。
「このどれす、新太さんが頼んでくれたんですね」
「ああ。驚かせたくてな」
新太は照れくさそうに笑った。
「おまえに似合うと思ったんだ。けど……こんなにきれいになるとは思わなかった」
お澄は何かを言おうとして、唇を結んだ。
裾に添えた指先が、小さく震えている。
「どうした?」
「……このところ、ちっとも会えなかったから」
新太の笑みが、ふと止まった。
「仕事があるって、そればかりで……少し、寂しかったんです」
お澄は顔を上げた。
目元には、また涙が浮かんでいた。
「でも、私のために……」
新太は目を伏せ、鼻の頭をかいた。
「……悪かった。そんな思いをさせてたんだな」
「いいえ」
お澄は首を振った。
「会えなかった日に、新太さんが私のことを考えてくれていたんだって分かって……それが、嬉しくて」
新太は黙ったまま、お澄を見つめた。
「ありがとう。大切に着ます」
お澄が差し伸べた手を、新太が取った。
その手を両手で包み、お澄は指に残る小さな傷を見つめた。
「もう、無理はしないでくださいね」
「ああ」
新太は頷いた。
「これからは、おまえと飯を食う時間も、ちゃんと取る」
「約束ですよ」
「ああ。約束だ」
お澄がようやく笑った。
新太もほっとしたように、その手を握り返す。
そのとき、お澄の目が新太の胸元で止まった。
「同じお花……」
「紗江様が付けてくれたんだ」
新太は空いた手で、胸元の花にそっと触れた。
「おれには、ちょっと可愛すぎるかと思ったんだけどな」
「そんなことありません」
お澄は涙をぬぐい、新太の胸元へ手を伸ばした。
少し傾いていた花を、丁寧に直す。
「よく似合っています」
新太は花を直すお澄を見下ろし、照れたように笑った。
今度は、お澄も目を逸らさなかった。
「おやおや。いつまで二人で話してるんだい」
声に振り向くと、おばばが立っていた。
「皆、待ちくたびれちまうよ」
「ばばぁが、お澄を連れてきてくれたらよかったんだ」
「迎えに来た花嫁を前に、突っ立ってたのは誰だい」
新太が言葉に詰まり、お澄が小さく吹き出した。
二人は手をつないだまま、おばばの前へ進んだ。
「……ばばぁの思いどおりになっちまったな」
「断ったくせに、すぐ戻ってきたのは誰だったかねぇ」
「それは、もういいだろ」
新太が困った顔をすると、お澄はおばばに頭を下げた。
「新太さんに会わせてくれて、ありがとうございました」
おばばは何か言い返そうとして、口をつぐんだ。
二人のつないだ手を見て、目元をぬぐう。
「……大事にしてもらいな」
「はい」
「新太」
「分かってるよ」
新太は、お澄の手を握り直した。
おばばは頷き、二人に道を空けた。
「ほら、お行き。いい顔を、皆にも見せておやり」
新太とお澄が並んで進むと、待っていた人々から声が上がった。
「まあ、きれい」
「お澄ちゃん、こっちを向いておくれ」
お澄は恥ずかしそうに笑った。
新太が歩調を緩め、その隣を歩く。
一歩進むたび、桜色のスカートに重なった花びらが、ふわりと揺れた。
少し離れたところで、紗江とお蘭は二人を見守っていた。
「喜んでくださいましたね」
お蘭の声に、紗江は頷いた。
返事をしようとすると、胸がいっぱいになった。
お澄が、新太の胸元の花を指さして何かを話している。
新太が笑い、お澄も笑った。
仕立てている間、何度も思い浮かべた花嫁の姿。
けれど、今、目の前にいるお澄は、そのどれよりも幸せそうだった。
お澄がふと、こちらを向いた。
紗江を見つけると、新太の手を取ったまま、深く頭を下げる。
紗江も頭を下げ返した。
顔を上げると、春風に花びらが揺れていた。
その隣で、新太の胸元の小さな花も揺れていた。
――その夜、澄月庵。
紗江は縁側に腰を下ろし、庭を眺めていた。
「祝言は、どうであった」
葵に声をかけられ、紗江は顔を上げた。
「とても温かな祝言でした」
葵は少し離れて腰を下ろした。
紗江は、昼間の二人を思い返しながら続ける。
「新太さん、お澄さんを見たら、言葉が出なくなってしまって。お澄さんも泣いていらしたのに、最後は二人とも笑って……」
話しているうちに、紗江の頬にも笑みが浮かんだ。
「胸元に付けたお揃いの花を、お澄さんが直してあげていたんです。とても大切そうに」
葵は静かに耳を傾けていた。
「よい一着になったのだな」
「……はい」
紗江は膝に置いた自分の手を見つめた。
花びらを縫い付けた指先には、まだ針を持っていた感覚が残っている。
「仕立てさせてもらえて、よかったです」
庭を渡る風に、紗江はそっと目を細めた。
今ごろ二人は、ようやく一緒に、ゆっくりと食事をしているだろうか。
新太の胸元の花を見て、またお澄が笑っているかもしれない。
その頃、澄月庵の屋根の上では、ひとつの影が静かに立ち去ろうとしていた。
夜鴉の黒羽――冥。
「……なるほど。あれが織原紗江か」
月は変わらず、澄月庵を照らしている。
その光の届かぬ場所で、新たな影が動き始めていた。




