第1章 第9話 人に戻った夜
澄月庵では、平穏な日々が続いていた。
加賀屋には「千代姫と同じ着物を」と新たな客が次々と訪れ、注文は毎日絶えることなく、紗江は近くに裁縫場を借り、お針子を六人ほど雇うことにした。
庭では蒼馬が警護に立ち、蓮と隼人も交代で見回りを続けていた。
「最近、夜鴉の気配がないな」
屋根の上で蓮がぽつりと呟く。
「ああ」
蒼馬は庭木の向こうへ視線を向けた。
虫の音だけが、やけに遠く聞こえる。
静まり返った夜は、不気味なほど穏やかだった。
――その頃、夜鴉の郷。
玄斎は、鴦牙と朧火を前に静かに座していた。
「無刄の様子はどうだ」
鴦牙が答える。
「指令への反応に迷いを感じます。……紗江の件から、明らかにおかしい」
朧火が眉をひそめる。
「まさか、あの娘に……」
「そうだ」
玄斎の目が冷たく光る。
「無刄は、紗江に心を動かされた」
朧火は悔しげに唇を噛んだ。
(もしやあの娘のせいで……無刄の洗脳が解けかけている)
玄斎は静かに命じた。
「朧火、鴦牙。紗江を捕らえよ」
「御意」
二人は深く頭を垂れた。
「無刄にとっても、これが最後の機会だ」
玄斎は、わずかに口元を歪める。
「無刄が立ちはだかるなら、斬れ」
朧火と鴦牙は思わず顔を見合わせた。
「……無刄を、ですか」
「ああ」
玄斎の声に迷いはない。
「あいつの代わりはいくらでもいる……裏切りは許さぬ」
――その夜、澄月庵。
紗江は部屋でデザイン画を描いていた。膝の上では、クロが気持ちよさそうに丸くなっている。
ふと、窓の外に人影が揺れた。
「……?」
紗江は筆を置き、ゆっくりと立ち上がる。
その時、障子が音もなく、すっと開いた。
現れたのは、面をつけた黒装束の男――無刄だった。
「……!」
紗江は思わず身構える。
だが、無刄は刀に手を掛けることもなく、静かに面へ手を伸ばした。
ゆっくりと面を外す。
「怖がらないでくれ」
低く落ち着いた声だった。その響きには、不思議と敵意がなかった。
紗江は目を見開く。
「あなたは……あの時、助けてくれた……」
「そうだ」
無刄は静かに頷く。
「私は、あなたを傷つけるつもりはない」
まっすぐに紗江を見つめる瞳に、迷いはなかった。
「今夜、朧火と鴦牙があなたを捕らえに来る」
「え……」
紗江の表情が強張る。
「そして――」
無刄は苦しげに視線を落とした。
「私が邪魔をすれば、私を殺せと命じられた」
「そんな……」
紗江は息を呑む。
「どうして……そこまでして……」
無刄はしばらく黙っていた。
やがて、小さく口を開く。
「あなたを見ると……思い出す人がいる」
その声は、どこか寂しげだった。
「初めて会った時……怯えながらも、必死に前を見ようとするその瞳が――あの日の妹と重なった」
「だから、せめてあなただけは守りたい」
その言葉を残し、無刄は静かに面をつけ直した。
――その時。
庭に複数の気配が現れる。
無刄の表情が険しく変わった。
「もう来たか……」
「無刄さん……」
「逃げろ。蒼馬のところへ」
短く言い残すと、無刄は庭へ飛び出した。
紗江が後を追おうとした時、廊下を駆けてきたお蘭が、その腕をつかんだ。
「紗江様、こちらへ」
お蘭は紗江を背にかばい、庭の様子をうかがった。
庭には、朧火と鴦牙が立っていた。
無刄の周囲を、十数人の夜鴉の羽たちが音もなく取り囲んでいた。
「やぁ、無刄」
鴦牙が皮肉げに笑う。
「裏切り者の始末に来たよ」
「……」
無刄は静かに刀を抜いた。
「紗江には、手を出させない」
「残念だね」
朧火が毒粉を指先に挟み、不敵に笑う。
「あんたはもう、使えない駒なんだってさ」
無刄は一気に間合いを詰め、朧火へ斬りかかった。
しかし、その前に羽たちが立ちはだかる。
「くっ……!」
(ずいぶん大勢連れてきたな……)
その瞬間――
屋根の上から一つの影が舞い降りた。
「無刄!」
蒼馬だった。
鋭い一閃が夜鴉たちを薙ぎ払い、無刄の前に立つ。
「蒼馬……」
「言っただろう」
蒼馬は短刀を構えたまま、口元だけで笑う。
「お前を守ると」
無刄はその横顔を見つめ、小さく息をついた。
「……共に戦うか」
「ああ」
二人は並んで敵を見据えた。
その時、蓮と隼人も駆けつける。
「紗江は無事か!」
「もちろんよ」
お蘭は紗江をかばうように立った。
「よし、食い止めるぞ!」
蒼馬が短刀を構える。
次の瞬間、激しい戦いが始まった。
蒼馬と無刄は背中を預け合い、次々と迫る夜鴉の羽たちを迎え撃つ。
「無刄、右!」
「分かっている!」
二人の刃が月光を裂き、敵を薙ぎ払っていく。
「……見事な連携だな」
蓮が呟き、隼人も静かに頷いた。
朧火が毒粉を放とうと腕を振り上げる。
「させるか!」
蓮が風を巻き起こし、毒粉を夜空へ吹き散らした。
その隙を突き、隼人が羽たちを押し返す。
「今だ!」
無刄が踏み出した途端、頭の奥に鋭い痛みが走った。
――夜鴉に刃を向けるな。
何者かの声が、頭の内側で響く。
無刄の足が、わずかに止まった。
その瞬間だった。
鴦牙の袖口から、一筋の閃光が走る。
「無刄、下がれ!」
蒼馬の叫びも間に合わない。
鋭い刃が、無刄の背中へ深々と突き刺さった。
鈍い音が響き、無刄の身体が大きく揺らぐ。
「無刄!」
蒼馬が駆け寄る。
鮮血が月明かりに滲み、無刄は片膝をついた。
「無刄さん!」
紗江の悲鳴が夜に響く。
「くっ……」
「動くな!」
それでも無刄は刀を支えに立ち上がる。
「まだ……戦える」
そう言って朧火へ踏み出そうとした瞬間、蒼馬がその前へ躍り出た。
「無理をするな!」
しかし、夜鴉の羽たちが再び二人を取り囲む。
倒しても倒しても、闇の中から新たな羽たちが現れる。
四人の体力は、少しずつ削られていった。
「終わりだね」
鴦牙が口元を歪めた。
――その時。
「何をしている!」
凛とした声が、夜気を切り裂いた。
一陣の風が庭を吹き抜ける。
葵が静かに降り立った。
「葵様……!」
紗江が思わず叫ぶ。
葵は黒漆の刀を抜き、一歩踏み出した。
葵の気迫に、誰一人として動けなかった。
次の瞬間――
黒漆の刀が月光を描き、夜鴉の羽たちは次々と地へ伏した。
あまりの速さに、朧火も鴦牙も息を呑む。
「……相変わらず、とんでもないね」
鴦牙は苦笑混じりに肩をすくめた。
葵は刀を静かに構え直す。
「次は、容赦せぬ」
その一言に、庭の空気が凍りつく。
朧火は小さく舌打ちした。
「……撤退だ」
朧火と鴦牙、そして残った羽たちは闇へと姿を消していった。
静寂が戻る。
その途端、無刄の膝が崩れた。
「無刄!」
蒼馬が駆け寄り、その体を支える。
背中の傷は深く、着物を赤く染めていた。
「くそ……」
蒼馬が唇を噛む。
「……すまない」
無刄は力なく呟いた。
「足手まといに……なった」
「馬鹿を言うな」
蒼馬は無刄を抱き起こす。
「お前は紗江様を守った」
無刄は黙ったまま目を伏せる。
蒼馬は静かに続けた。
「それが、お前の正義だろう」
その言葉に、無刄の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
「私は……裏切り者だ」
「違う」
蒼馬は無刄の肩へ、そっと手を置く。
「お前は、人に戻っただけだ」
無刄は目を見開いた。
その言葉は、ずっと胸に閉じ込めていた後悔を、少しだけほどいてくれた。
紗江も駆け寄る。
「無刄さん……」
「紗江……」
「無事で……よかった」
「ありがとうございます」
紗江は涙を浮かべながら微笑んだ。
「私を助けてくださって……本当にありがとうございました」
無刄は優しく目を細める。
「あなたは……本当に、よく似ている」
その言葉を聞いた葵は、静かに無刄の前へ歩み寄った。
そして膝をつき、無刄と視線を合わせる。
「無刄」
葵は静かに右手を差し出した。
「我らと共に歩まぬか」
無刄は驚いたように葵を見つめる。
「……私が、ですか」
「そなたは命を懸けて紗江を守った。その覚悟に、敵も味方もない」
葵の声は穏やかだった。
「共に戦ってくれぬか」
無刄はしばらく言葉を失っていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
その手を握り返した。
蒼馬が安堵したように笑う。
「良かった」
蓮と隼人も顔を見合わせ、笑みを浮かべる。
そこへ、お蘭が慌ただしく駆け寄ってきた。
「傷が深いです! すぐに手当を!」
無刄は皆に支えられながら、澄月庵の中へ運ばれていった。
――その夜。
無刄は布団に横たわり、お蘭が傷の手当をしていた。
「深い傷ですが、命に別状はありません」
「……ありがとう」
お蘭が静かに部屋を出ると、紗江は無刄の傍らへ腰を下ろした。
「無刄さん、大丈夫ですか」
「大したことはない」
紗江はほっとしたように微笑んだ。
「よかった。今夜はゆっくり休んでくださいね」
無刄はしばらく黙っていた。
やがて、遠くを見つめるように口を開く。
「少し、話してもいいか」
「はい」
無刄は視線を落とし、一度、言葉を飲み込んだ。
それでも紗江のほうへ向き直り、静かに口を開く。
「妹は……いつも笑っていた」
その声は、どこか懐かしさを帯びていた。
「私が訓練で疲れて帰ると、小さな手でにぎりめしを作って待っていてくれてな……」
無刄の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「あれは、不格好なにぎりめしだった」
無刄はかすかに笑った。
だが、その笑みはすぐに消えた。
「……あれ以上に美味いものはない」
部屋に静寂が落ちる。
無刄はゆっくりと目を閉じた。
「忍びの里が襲われた」
「炎が里をのみ込み……ほとんどの者が命を落とした」
震える息が漏れる。
「泣きながら私に手を伸ばす妹を……私は助けられなかった」
その言葉だけで十分だった。
紗江は何も言わず、静かに耳を傾ける。
「それから私は……心を殺して生きてきた」
無刄はゆっくりと紗江を見る。
「だが、あなたを見た時……妹を思い出した」
「無刄さん……」
「だから、あなただけは守りたかった」
紗江はそっと無刄の手を包み込む。
「ありがとうございます」
紗江はそっと微笑んだ。
「妹さんは……きっと、無刄さんが誰かを守れる人になってくれたことを喜んでいます」
無刄は目を見開く。
「今日、無刄さんは私を守ってくださいました」
紗江は静かに頷いた。
「だから……もう、ご自分を許してあげてください」
無刄の瞳から、涙がこぼれる。
「……っ」
無刄は目を伏せた。
涙が頬を伝い、紗江の手に落ちる。
紗江はその手を離さず、ただ傍にいた。
物陰で聞いていた蓮の顔から、笑みが消えた。
(……あいつも、火事で……)
蓮は唇を引き結んだ。
しばらく、その場から動けなかった。
――同じ頃、夜鴉の郷。
玄斎は鴦牙から報告を受けていた。
「やはり無刄が、裏切ったか」
「はい。葵へ寝返りました」
「ふむ……」
玄斎の表情は変わらない。
だが、その瞳には冷たい光が宿っていた。
「ならば、次の手を打たねばならぬ」
「御意」
玄斎は静かに鴦牙を見た。
「冥を呼べ」
「はっ」
鴦牙が部屋を出ていく。
しばらくして――
音もなく、一つの影が闇から現れた。
足音すら聞こえない。
黒装束に身を包んだ小柄な忍び。
その目だけが、冷たく光っていた。
「お呼びでしょうか、玄斎様」
「冥」
玄斎は短く名を呼ぶ。
「葵の動きを探れ。澄月庵の周辺を見張れ」
「……御意」
玄斎は一拍置く。
「特に、織原紗江という娘だ」
冥は静かに頷いた。
次の瞬間、その姿は闇へ溶けるように消えていた。
足音すら残さず、闇そのものが人の形を取ったようだった。
「柳沢様にも報告せねばならぬな」
玄斎はゆっくりと立ち上がる。
「葵の勢力は確実に増している」
その口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「だからこそ……狩り甲斐がある」
冷たい瞳だけが、闇の中で静かに光っていた。
――翌朝、澄月庵。
障子越しの朝日が、部屋をやさしく照らしていた。
無刄はゆっくりと目を開く。
その傍らには、蒼馬が静かに腰を掛けていた。
「目が覚めたか」
「……蒼馬」
「傷はどうだ」
「痛むが……大丈夫だ」
起き上がろうとした無刄を、蒼馬がそっと制する。
「無理をするな。しばらくは安静にしていろ」
「……すまない」
「謝るな」
蒼馬は無刄の顔を見つめた。
「昨日とは、顔つきが違うな」
「……そうか」
無刄は少し考えてから、口を開いた。
「昨夜、鴦牙の刃を受ける直前、頭に激しい痛みが走った」
「痛みが?」
「ああ。だが、今は霧が晴れたように頭が澄んでいる」
「今まで何かに縛られていたのかもしれんが……分からない」
無刄はしばらく自分の手を見つめ、それから蒼馬へ目を向けた。
「蒼馬……」
「ん?」
「お前との戦いは、楽しかった」
蒼馬は思わず笑う。
「ああ。私もだ」
少しの沈黙。
「だが、これからは敵ではなく――」
「仲間、か」
無刄も静かに笑みを浮かべた。
「悪くないな」
二人は拳を軽く合わせる。
障子の向こうでは、小鳥のさえずりが聞こえていた。
柔らかな朝の光が、新たな仲間となった二人を静かに照らしていた。




