39.公爵令嬢の花嫁修業~アイゼンボルグ辺境伯領編~(5)
アイゼンボルグ伯爵邸内のマルガレーテの寝室。
ウォークインクローゼットの奥にある隠し扉を開き長い螺旋階段を下ると、圧縮され、元が土とは思えなくなった濃色の壁面に覆われた様々な倉庫と実験施設がそこにはあった。
「教授、これひょっとして上の本邸より規模デカくありゃあせんか?」
「うん、まあ、地上には影響のない深さに作ってあるしあんまり問題ないんじゃないかなっ。てへへ」
「今度てへぺろやったら肉体言語で説教しますよ」
『マリ、それをやるのは月に1回くらいに抑えておいた方が良さそうだな』
「わかったわレクシス、月1回までだったらやってもいいってことね」
『それは違うんじゃないかな~』
「で、見せたいものって何すか」
「あ、こっちこっち。ちょっとついてきて」
扉を開けるとそこには木と酒の香りが充満していた。
「木の樽?一体何樽あるんですかこれ」
「1樽約1ガロン。酒精が蒸発する分を考慮に入れ、約200Lを1樽に詰めている。予備分を入れて110樽だ」
「うふふ驚いた?領民が作ったエールの中にはね、発酵に失敗して酸味が強くて飲み辛いものも多かったの。そういう失敗作を片っ端から分けてもらってね、それをちまちま溜めて魔法で一気に蒸留したの。この世界にもドワーフたちの作る原始的な蒸留酒、いわゆる火酒と言われるアルコール度数26%以上のものはあるでしょ?」
『この蒸留酒は泥炭が産出されないこのアイゼンボルグ領で泥炭特有の燻蒸香、いわゆるピート香が無い分をこの特製の樽で補うという我が宿主の小賢しい発想で作られた一品だ』
「レクシス君、小賢しいって誰のことかな?さて次郎君、キミは前世でも酒飲みだったと思うけど、こっちの世界でも結構飲む方?」
「ええ、そりゃまあ人並みには」
「じゃあキミがある程度の酒飲みと仮定して話を進めるわ。前世のヨーロッパ世界ではお酒の熟成保存に使うもの、それが木の樽。基本的に素材はオーク。素材として木目が詰まってて、筋が真っ直ぐ立ってるから樽を作るには最適の素材よ。でも、お酒の保存に使われるのはその殆どがオーク樽だわ。そこで問題。何故酒樽にオーク材を使うか。板材としての使いやすさ以外で答えよ」
「え、あ、うーん何だっけかな、確か……」
『ヒント、琥珀色』
「ひょっとして……オーク材の成分とかが味や香りに違いを……?」
「ピンポンピンポンピンポーン!正解よ」
『そう、バニラの香りの主軸成分となるバニリン。それを初めとしてクマリン他、私が知る限り約7種の複雑な香り成分がアルコール飲料の香りや味を左右するといって間違いはない。その他にも人間は木の樽の内側を炙って焦がしたりワインやシェリー、エールなどの醸造酒の空き樽を再利用し、その香りを利用するなどトライアンドエラーを繰り返し、尽きぬことのない味の探求を続けているのだ』
「はあ、なるほど。でもああいうのって少なくとも5年、高い奴だと20年も30年も寝かせた奴がありますよね。いくらなんでもこんな短い期間じゃ……あっ!」
「気が付いたようね。賢い子は好きよ。レクシス、スタンバイ」
『了解だ。あの風魔法の失敗がこういう形でリサイクルされるとは、世の中どんな失敗が成功につながるかわからないものだ』
「余計なこと言ってんじゃないの。いくわよ、熟成音波魔法エルキュールハミング……!」
大気を操る風の魔法力と言われる緑色の輝きが真里の両手に溢れたかと思うと、次の瞬間その光は色を無くし、人の耳には聞こえない音波をその部屋に振動させた。
『あら面白いわねこの部屋。超音波が反射共鳴するのに最適な構造になってるじゃない』
『流石私と同じジュピターサイエンス社謹製のスマートブレインのことだけはある。よくそこに気が付いたな。前世イタリアの地下古墳の構造を参考にしてみた。これでしばらく音波の反響増幅が持続される』
「で、教授、酒に音波なんか聞かせてどうするつもりで」
「呆れた。あなた本当にロボット以外の工学知識に興味が無いのね。超音波熟成って聞いたことない?」
「聞いたことあ……ったような」
『マスター覚えてないの?特定の周波数の音波をアルコールに当てると、本来は時間をかけなければいけないアルコールと水分の結合を一般熟成の約150倍で進めてくれる。今のところ人間が作り出した数少ない時間短縮のチート技よ』
「あー思い出した思い出した。確か大学のコンパの時に酒オタクがそんな薀蓄語ってた」
「ものは酒類だけど立派な工業分野の話なんだけどねえ」
『ちなみに小賢しい工夫はそこだけではない。樽を制作する上で素材となる木を成分を分析し、材木をブレンドすることによってよりよい味と匂いになるように私が36種類の木材をピックアップし、シミュレーションしてできた最適解の樽だ』
「おやおや結構ドヤってますねレクシス君。結果を誇りたいお年頃なのかな~?」
『ドヤるという単語は2000年代初頭の流行り言葉で大きな顔をする的な意味合いだったな。残念ながらマリ、我々スマートブレインには顔という意思伝達デバイスは搭載されていない』
「はいはい解ったわよ」
『まあどっちにしてもどんな出来になるのかしら。樽開けが楽しみね、マスター』
「ん、ああ、そうだな。ドワーフの連中は作った端から飲んじまうし、熟成なんて単語知らんからな。こりゃこの世界発のウィスキー。まさに命の水ってことか。確かにこりゃ楽しみだ」
そう言うと長身痩躯の銀髪の好青年は前世でよく飲んだそれの語源となる「ウシュク・ベーハー」を語源とするゲール語の響きを、口内で舌を転がすようにまるで未知の美酒を味わうかのように呟くのだった。




