1.目覚めの光
突然重苦しい眩暈が頭の奥で渦を巻き、マルガレーテは芝生に倒れ込んだ。
呼吸は浅くなり、心臓は早鐘のように打つ。起き上がろうにも体が思うように動かない。
水面のように揺れる視界に思わず目を閉じれば、急速に意識が遠のいていく。
自分を呼ぶ侍女の声ももう聞こえない…………。
闇に落ちた意識の中、大量の断片的な情報が浮かび上がってきた。
白い病室、天井から差し込む蛍光灯の光、己の微かな呼吸音、無機質に動き続ける計器、そして頭の奥で響く冷徹な声――レクシス。
これは前世の私が最期を過ごした病室……。全て思い出した。前世の私は……冴島真里。
まぶたの奥に光の渦が立ち上がる。
眠気の残滓を振り払い、ゆっくりまぶたを開く。
まず目に入るのは豪奢なベッドの天蓋。顔を横に向ければアンティーク家具のような装飾の窓から光が差し込んでいる。
「……ここは……?」
思わず声が漏れた。
意識を手放す前最後に見た光景とも、最期に見た光景ともまるで違う。
皺の無い真っ白な手も、肩に流れる金髪も見慣れているようで見慣れない。
だが、一瞬後にはそこがどこで自分が誰であるかを理解した。否、思い出した。
14年間かけて行っていた人格と記憶のダウンロードが完了し、ついに彼女の中で完全覚醒に至ったのだ。
(完了時に激しい頭痛と動悸が起こるのは「私」は想定内だったけど……マルガレーテは随分狼狽えてしまったわね。ま、すぐに寝室に運んでもらえる立場で助かったわ)
マルガレーテ・フォン・バルディアン。それが現世の冴島真里だ。
もうすぐデビュタントを迎える、花も恥じらう14歳の少女。そして、由緒正しいバルディアン公爵家の長女でもある。
幼い頃は中途半端にダウンロードされた情報をつい周囲に開示してしまい「少し奇妙な娘」と言われた事もあったが、今となっては無難に淑女修行をこなす及第点の令嬢。
世間での評価も、本人の自覚もそれだけだった。
だが今、マルガレーテの中には冴島真里としての意識が完全に蘇っていた。
前世の真里の知識や思考、科学理論が一切の欠落なく鮮やかに浮かび上がる。
確かに冴島真里はマルガレーテとして転生していた。
少々目覚めるのに時間はかかったが、彼女の仕掛けた実験――異世界転生実験「フォールアウト」は成功したのだ。
ベッドの上で小さくガッツポーズをキメてしまう。
「お嬢様、お目覚めですか。お加減はいかがですか?お庭で倒れられたので、急ぎお部屋にお運びしましたが……」
そこへ控えめな声が投げかけられた。マルガレーテ付きの侍女――倒れる前に聞いた声の主だ。
暗い色合いのシンプルなワンピースに白いエプロン。
前世日本のアニメでも見たクラシックなメイドスタイルが妙な懐かしい。
「問題ないわ、少し立ち眩みを起こしただけ。午後のダンスレッスンにも支障ないわ。お父様達への報告は必要ありません」
「承知いたしました」
返事が既に報告しました、でない事にマルガレーテとしての記憶がホッと胸を撫で下ろした。
レッスンを休んだりなどしたら、彼女の厳格な父親に何を言われるか解らない。
体調管理がなっていない、貴族の娘が弱味を晒すなという叱責も受けるだろう。
うっかり頭に思い浮かべてしまって背筋がぶるりと震える。
真里としての記憶を取り戻しても、マルガレーテとして過ごした十数年もしっかりと頭に残っているようだ。
侍女に手伝われながら身なりを整え、部屋を出る。
もう少し休んだ方がと言いたげな彼女には悪いが、じっとしてなどいられない。この目で耳で確認したい事が大量にあるのだ。
――これがマルガレーテの世界……異世界!
窓辺の金属装飾が差す日の光、見下ろす緑の庭、遠くで羽ばたく鳥の影。
真里のいた前世日本とはまるで違う作り物のような現実。新しい世界のすべてを目に収めていく。
(デザインは13世紀~14世紀ヨーロッパゴシックデザインに酷似している。金属加工の精度はまあまあ。窓ガラス……板ガラスを作るだけの加工技術はあるようね)
床の大理石の滑らかさ、光の反射角、家具の配置、壁にかかる絵画の光の反射――マルガレーテが当たり前に見ていた全てが計測対象だ。
目新しさに心が浮き立った。
(……レクシス、あなたはこの世界をどう考える?)
脳内で微かな電子的な反応音が響く。
頭の中の相棒――レクシスはまだスリープモードで、会話はできないようだ。思考補助以上の機能も使えない。
この世界を十二分に楽しみきる為には彼が必要だ。
再起動させるのに何が必要なのか。これも早々に見付けなければならない。
ふと、廊下の曲がり角から視線を感じた。
長男カール、次男フリードリヒ、三男ヴィクトール。マルガレーテの三人の弟達だ。
きょろきょろ辺りを見渡す姉の姿に興味を示したらしい。
「おねえさま、さがしもの?」
「どうしました、姉様?お手伝いしますか?」
「いいえ。光の反射率と日光の角度を計算しているだけ。デザインは美しいけれどより光を取り込むためには非効率な部分があるなと思って」
弟達は揃って首を傾げた。
しかし真里は気にも留めず、館内の安全性や効率、最適な動線までを頭の中で分析していた。
ふと、庭で作業をする人々の姿が目に入った。
井戸から懸命に水を組み上げ、不安定な体勢で運ぶ下働きの少年とその親らしき女性。
館内の物より随分と簡素で古典的な設備だ。
あんな物で作業をしているのか。あまりにも効率が悪い。
せめて設備の修繕と補強をしなければと脳内で計算が始まる。
「摩擦係数0.35、滑車負荷軽減率50%、木材と石で耐久性十分……」
「おねえさま……?」
「何を言っているんですか?まさつ……けいすうとは?」
「今日の姉上、普段よりもっとおかしい……」
意味の解らない呟きに弟達は半ば不安気に、半ば興味深げに姉を見上げていた。
だが、やっぱり真里は気に留めない。そんな視線は前世から慣れっこだ。
幼少期から神童か危険人物かと言われ続けた冴島真里を舐めないで欲しい。
そのまま廊下を歩いていると、カツンカツンと重厚な革靴の足音が後ろから響いてきた。
決してリズムを乱さない、お手本のような、機械のような足音だ。
振り向くと、想像通りの人物――父ライゼンボルゲンが堂々とした姿で立っていた。
黒い貴族服には金糸で刺繍された家紋の二竜が輝いている。
その眼差しは冷たく澄んでいて、少しでも気を抜けば魂を射抜かれるような威圧感があった。
(そっか。記憶を取り戻した今なら解る。お父様の雰囲気っておじいちゃんにそっくりなんだ……)
厳格、真面目、堅物。自分に厳しく、それを他人にも要求するのを当然と考えている。
正直、苦手なタイプだと言ってしまっていい。
「マルガレーテ、デビュタントの準備は進んでいるか?」
「……はい、お父様」
「よいか。貴族の娘とは、家を映す鏡だ。微笑みの角度、声の張り、視線の高さ。立ち振る舞い全て正解が求められる」
言われずとも解りきっていることだ。だがこの父は顔を合わせる度に念を押す。
マルガレーテが理解していない可能性を、決して許容しない。
相手はまだ14歳の少女なのに、だとか、逐一同じ内容を言い聞かせても委縮させるだけで非効率だとか。私ならもっと効率的に教えられるのに、とか。
脳内年齢計100歳の老教授としては反論の一つもしてやりたいところだが、マルガレーテの体にはすっかり父親への苦手意識がDNAレベルで染みついていた。
勝手に背筋が伸びるし、唇が決まった言葉以外を出せなくなる。
これは今すぐに直せるものではないとさっさと諦めをつける。
ゆえに真里は真面目な表情を崩さないまま、彼が望む通りの答えを返した。
「理解しております。私の振る舞い一つが、家の名誉を左右します」
「そうだ。同時に魔法の修練にも手を抜いてはならない。四大公爵家たる我が血筋が魔に疎いなど、笑い話にもならんからな」
魔法。その言葉に思わず胸が高鳴る。
そう、この異世界には魔法という前世では創作にしか存在しなかった技術が実在するのだ。
夢のような技術だが、高度な魔法を扱えるのは貴族だけの特権だった。
そして貴族は己の権威を示すため、平民を都合よく扱うためにしか魔法を使わない。
この父はそんな世界の貴族の典型のような男だった。
魔力の強さは家の力の象徴であり、威光であり、誇りそのものと考えている。
マルガレーテは彼の期待に応えるために、高度な指南書を与えられ、厳しい指導を受けてきた。
(改めて考えてもひっどい支配構造ねー。あーあ、科学の知識ならもっと広く役に立ちそうなのに……)
うっかり口に出してしまわないように唾液と一緒に飲みこむ。
その仕草を緊張しているとでも思ったのだろうか。父の眼光が一瞬鋭さを増した。
「社交界に出れば、同年代の令嬢や若者達までもがお前を値踏みするようになる。そこで怯えれば負けだ。分かるな」
「はい」
「公爵家の娘は、誰よりも堂々としていなければならない。媚びることなく、驕ることなく、威厳を失わずに立つのだ」
「……はい」
「お前には弟達もいる。だが、最初にデビュタントを迎えるのはお前だ。失敗は許されぬ。……一族の未来を背負っているのだという自覚を常に持ちなさい」
「心得ました、お父様」
父は短く頷き、威圧感を残しながら去っていった。
静寂の戻った廊下でマルガレーテ……真里は凝り固まった肩を回す。
(全く、14歳の若い体のはずなのに。長年の刷り込みってのは厄介ね……)
心の中でぼやいたその瞬間――胸の奥で眠る声が、かすかに震えながら響いた気がした。
まるで、いつも皮肉とツッコミを忘れない誰かさんのように。
(……レクシス……?)
思わず呼びかけるが、応えはなかった。
やはり相棒はスリープモードのままらしい。
(早く起きてくれなきゃ寂しいじゃない、相棒……)




