序章
『カウントダウンタイマー……カウントダウン終了まであと3600秒を切ったか……』
脳内に浮かぶ無機質な声に小さく頷く。
残念ながら今の体ではその程度の動きが限界のようだった。
都内の病院の一室。
真っ白な個室で冴島真里は最期の時を待っていた。
脳内の同居人と通信中の息子のおかげで賑やかになっていい。
死に向かっているというのに真里の精神はひたすらに穏やか――否、好奇心に満ちていた。
ああ、私はもうすぐ……。
「何でだよ母さん!まだ86歳なのに老衰だなんて」
叫ぶような声に思考を画面へと戻す。
息子――冴島和彦の目には大粒の涙が浮かんでいた。
もう家庭と立場を持ったいい大人だというのに、鼻に皺を寄せて子供のような泣き顔だ。
こういうところは幼い頃からずっと変わらない。
「和彦は泣き虫ねえ。平成生まれのおばあちゃんからすると、86歳って十分長生きの部類なのよ?」
「今が何年だと思ってんだよ!2085年だよ?100歳越えは当たり前じゃないか」
2085年現在、人の平均寿命は120歳まで延びていた。
真里の若い頃の感覚ならば100歳越えたら長寿。それで死んでも大往生。
数十年の間に進歩したものだとしみじみ感じてしまう。
「まあ、それを言ったらお父さんなんて75歳だったじゃない」
「父さんは……最期まで頑固だったからね。新しい技術や医療を全然受け入れない人だったから」
「ふふ、確かに頑固だったわねえ。スマートブレインすら拒否したんだもの」
同じ平成生まれのはずなのに昭和世代みたい。
今は亡き夫にそう言ったのはいつの日だったか。
(死ぬ間際って色んなことを思い出すとは聞いたけど本当なのねえ)
微笑む真里に、和彦は涙を拳でぬぐい話を続ける。
母親との最後の会話が終わってしまうのを惜しんでくれているのだろう。
「世界のスマートブレインの導入率97%だって。父さん、世界で3%のレア人類だったんだよ」
「今やみんながみんな、スマートブレインを頭の中に飼っているのにね。本当……あれのおかげで人類は変わったわ」
スマートブレイン。
真里の頭の中でも稼働を続けている同居人だ。
2051年にジュピターサイエンス社がリリースしたバイオチップインプラントインターフェイス。
宿主の思考を補助し、宿主の身体データを管理することで病気を早期に発見し、運動補助をすることで突発的な事故も回避してくれる。
人間の寿命が飛躍的に延びたのは彼らが登場してからだ。
夢のような存在だが、最初にリリースされたスマートブレインには随分と皮肉な名前が付けられていた。
「フォビドゥンフルーツ……まさに禁断の果実ね」
「あはは、その言い方だと怪しい物に聞こえちゃうよ。病気も事故も克服させた革新的な発明だし、母さんの頭にも入ってるだろ?」
「ええ入ってるわよ。今あなたへの通信を中継しているのもこの子。ジュピターサイエンスのタイプ:レクシスがね」
「それならやっぱり80代で老衰だなんておかしいじゃないか……」
「それはね、私がちょっとばっかり普通の人より生き急いじゃっただけ。ワープエンジンの基礎理論を作ったり火星開発計画にも参加して……思えば好きなことばかりしてたわね」
「俺達が火星に持っていく自己進化型環境適応野菜も母さんが作ったんだろ」
それは晩年の真里が力を入れていた研究だった。
火星への惑星間移民船サジタリウス号――開拓団の主要メンバーとして向かう息子に託せたのが誇らしい。
今にも飽和しそうな地球人口100億人を支える礎になるだろう。
「我ながら美味しくできたと思うわ」
「火星環境専用野菜なんてすごい物作っておいて味の話?」
「大事でしょ?」
「母さんらしいや。頑張って栽培していくよ。移民目標は20億人だからね」
「その人数に達する頃にはあなたの娘も立派なレディになっているかしら」
「そうだね。さあ、こっちにおいでフランシーヌ。生きているおばあちゃんに最期のご挨拶をしよう」
和彦が手招くと画面の下部からちょこんと、ビスクドールのような少女の顔が現れた。
大きな瞳がベッドに横たわる真里を不安そうに見つめる。
「お久しぶりですマリーおばあちゃま。お体は大丈夫なの……?」
「大丈夫、どこも痛くないわ」
真里の言葉に、少女――フランシーヌはホッとしたように息を吐く。
顔立ちはフランス人の母親そっくりなのに、そんな表情は和彦そっくりだ。
「フランシーヌ、火星に行っても頑張るのよ。私の人格データは49日経ったらいつでもダウンロードできるようになるからね」
「はい、マリーおばあちゃま。そうすればおばあちゃまとずっと一緒にいられるんだって、白金80式もそう言ってます」
ね、と声に出して己のスマートブレインに話しかけている。
フランシーヌの頭に入っているのは、彼女が生まれた年に発売された日本初の純国産スマートブレイン「白金80式」だ。
「私の体は今日滅びるけど人格データはずっとずっとあなたを見守っているわ。お父さんやお母さんに相談できないことでも私にこっそり相談しなさい」
「怖い絵本を見て眠れなくなっちゃった日も?」
「眠くなるまでおはなししましょうね」
「ずっといっしょ……なのに、どうしてなのかな……わたしね、すごく寂しいです。今すぐそっちに行きたい。お父様とお母様と火星に行くって決まって、もう会えないのもちゃんとわかってたはずなのに……うっ、えぐっ……ぐす……」
涙を堪えきれず目をこするフランシーヌの肩を、彼女にそっくりな女性が抱きしめた。
「お義母様、ご安心ください。フランシーヌと和彦さんは私が責任をもってずっと愛していきます」
「ああ、エレオノールさん。あの女っ気のなかった和彦があなたみたいな素敵なお嫁さんを連れてきたときは本当に驚いたわ。まだ未熟な子だけどよろしくね?」
「そんなお義母様……和彦さんほど素敵な旦那さまはこの世にはおりません。あんな素敵な男性に育てていただいて心の底から感謝しております」
「あらまあ、亡くなる直前にこの世で一番甘い物をいただいちゃったわ。じゃあね、私の大切な家族たち。火星でも元気に暮らしてね。たとえ体が死んだとしてもあなたたちとずっと一緒にいるわ」
「じゃあ母さん、名残惜しいけど通信のリミットもそろそろ……そういえば姉さんは?」
「成美ちゃんなら旦那様と息子ちゃんを連れて急いでるって話よ」
「そっか。ああ、もう切らないと……ごめんな母さん、最期の時くらい一緒にいたかったんだけど……うぐっ……」
「こらこら、また泣いちゃって……しっかりなさいな。日本人移民団のキャプテンでしょう?お葬式は気にしないで。でもそうね……火星の方から青い星を見てちょっとだけ祈ってちょうだい」
言い終えた途端、目の前から息子たちが消えた。
代わりに無機質な声が頭の中で現状を報告する。
『通信限界時間オーバー、チャンネル強制終了。すまないな真里』
「いいのよレクシス。ところでどう?娘は間に合いそうかしら」
『だめだな、どうやっても28分足りない』
「そう、成美ちゃん残念がるでしょうね。それにしても、ふふ……最期の瞬間があなたと二人きりだなんて」
物理的にはたった一人――頭の中では二人。
家族と過ごすからと病院スタッフにも連絡したため、周囲はとても静かだ。
あとは自分が死んだら淡々と規定の処理が行われるだけ。
真里は静かにそのときを待つ。
『本当に良かったのか。延命手術を受ければもう15年くらいは生きられたと思うのだがね』
「いいのよ。星の並びがね、ちょうど良かったんだもの」
『キミが提唱した次元波動跳躍重力場理論の事か』
スピリチュアルにしか聞こえない返し方をしても、
この相棒はあっさりと受け止めて正式名称で返してくれる。
昭和生まれの親族の言葉を借りるならツーカーの仲という奴だ。
あまりにも心地がいい。
『何度計算しても成功確率は0.3%以下だぞ。本気か?』
「もちろん本気よ。あのねレクシス、あなたが開発される前……私の若い頃に異世界転生ものっていうのが流行ってね。私、それにずっと憧れていたのよ。いつか自分もしてみたい、って」
『全くそんな非科学的な事を科学の力で実現させようとしてるんだから大したものだよキミは。自分の死の瞬間まで実験に使おうだなんて。世界中何処に出しても惜しくない、立派なマッドサイエンティストだ』
「あらありがとう、今まで散々言われた言葉だけどあなたに言われるのが一番うれしいわ」
天井がぼやけてくる。
そろそろ本当に終わり――いや実験の始まりが近いのだろう、真里は目を閉じた。
「レクシス、カウントダウンタイマーはあと残りどれくらいかしら」
『残り10分を切ったよ』
「そう、じゃあオペレーション・フォールアウト。スタンバイしてちょうだい」
『言われるまでもない、もう始めてるよ。第二衛星軌道上、次元跳躍実験衛星アルゴスの主機関にキミのIDで接続した。臨界出力可能時間は0.03秒』
「それで十分よ。じゃあね、レクシス。生まれ変わってまた会いましょう」
『ああ、相棒。良き転生を――』
そうして冴島真里としての意識は、眠りに落ちるようにゆっくりと闇に溶けていった。




