第9話 あなたの幸せは、あなたの仕事です
第9話 あなたの幸せは、あなたの仕事です
初夏の朝、エレナは療養所の裏庭でカモミールを摘んでいた。白い花弁には露が残り、籠へ入れるたびに林檎に似た甘い香りが立つ。生成り色の仕事着の袖を肘までまくり、泥のついた膝を気にせず、薬草を一株ずつ確かめていた。
昼には、患者たちへ薄い薬草茶を出す予定だった。朝食を取らずに働く癖が戻らないよう、エレナ自身も小さな丸パンと茹で卵を布へ包んで持ってきている。籠が半分まで埋まったところで、療養所の門番が庭へ駆け込んできた。
「エレナ様。ハドソン家のジュリアン様が、お目にかかりたいと門前にいらしています」
エレナの指が、カモミールの茎をつまんだまま止まった。胸の奥が縮み、王宮の階段から泥の中へ落ちた夜がよみがえる。息を吸うと花の甘い香りが入り、今いる場所はあの夜会ではないと分かった。
「ご用件は何でしょう」
「ご本人は、直接でなければ話さないと仰っています。お断りしましょうか」
門番は返事を急かさなかった。エレナは籠を地面へ置き、立ち上がって腰についた土を払った。会いたくないという思いと、最後に言葉を返しておきたいという思いを、胸の中で一つずつ確かめた。
「面会室でお会いします。扉は開けたままにしてください」
「承知しました。私も廊下におります」
エレナは井戸水で手を洗い、仕事着の上へ薄い青色の上着を羽織った。鏡の前で髪を結い直したが、化粧も宝石も足さなかった。ジュリアンに自分の変化を見せるための面会ではないからだった。
面会室には、開け放した窓から青い矢車菊が見えていた。卓上には水差しと二つの杯が置かれ、窓辺では洗った布巾が風に揺れている。エレナは自分の椅子だけを引き、祖母の「ごきげん帳」を膝へ置いた。
やがてジュリアンが入ってきた。以前より頬が痩せ、灰色の上着は肩に合っていない。袖口には黒い油の染みがつき、倉庫で働いて荒れた両手には、木箱を運んだ傷が残っていた。
「久しぶりだな、エレナ」
ジュリアンは向かいの椅子へ座ろうとしたが、エレナから勧められていないことに気づき、立ったまま手袋を握った。以前なら、エレナがすぐ椅子を引き、飲み物まで注いだだろう。水差しは二人の間にあったが、エレナは手を伸ばさなかった。
「ご用件を伺います」
「その前に、水をもらえないか。ここまで歩いてきたんだ」
「水差しは、そちらにあります」
ジュリアンはわずかに眉を寄せた。自分で水を注ぐと、杯の縁から数滴こぼれた。エレナは布巾を渡さず、彼が袖で卓を拭く様子を黙って見ていた。
「仕事はどうなさいましたか」
「今日は休みを取った。港の倉庫で荷物を数え、帳簿と照らし合わせる仕事だ。朝から晩まで立ちっぱなしで、食事も硬いパンと豆ばかりだ」
ジュリアンは傷のある手を見せた。エレナの頭には、胃に負担の少ない献立と、傷へ塗る軟膏が浮かんだ。それでも口には出さず、膝の帳面を両手で持ち直した。
「慣れないお仕事は大変でしょう。それで、本日のご用件は何ですか」
「謝りに来た」
ジュリアンは深く息を吸った。視線はエレナの顔ではなく、整えられた室内や窓辺の薬草へ向けられている。暖炉の横に積まれた記録簿を見ると、懐かしいものを見つけたように表情を緩めた。
「私は間違っていた。セラフィナの華やかさに目がくらみ、お前の価値が分からなかった」
「そうですか」
「彼女とは婚約を解消した。宝石を売っても借金が残り、実家へ戻ったそうだ。もう私たちを邪魔する者はいない」
エレナは返事をしなかった。窓の外では、干していた白い敷布が風に大きく膨らんでいる。ジュリアンは沈黙を許しと受け取ったのか、一歩近づいた。
「エレナ。もう一度、私のところへ戻ってきてくれ」
「戻って、私は何をするのですか」
「以前のように、私を支えてほしい。予定を整え、帳簿を見て、体に良い食事を作ってくれ。今度は、お前を大切にすると約束する」
ジュリアンは、やっと正しい答えを言えたという顔をした。しかし、その言葉の中には、エレナが何を望んでいるのか一つもなかった。並べられたのは、彼が取り戻したい暮らしばかりだった。
「私の好きな食べ物を覚えていますか」
「もちろんだ。お前は料理が得意だった」
「私が作る料理ではなく、私が好きな食べ物です」
ジュリアンの口が止まった。エレナは焼き栗が好きだった。けれど、婚約していた三年間、彼の前で食べたことは一度もない。
「では、私が何時に起きていたかご存じですか」
「朝食の前だろう」
「あなたの資料を整える日は、夜明け前でした。私が眠れずにいたことを、ご存じでしたか」
「そんな話は聞いていない」
「何度もお話ししました。あなたは、陰気な話をするなと仰いました」
ジュリアンは手袋を握り締めた。謝罪の言葉を探すように唇を動かしたが、出てきたのは別の訴えだった。腹が痛い、父に信用されない、倉庫の監督が厳しいと、自分の苦労を並べ始めた。
「お前がいないと、何もできないんだ。あの頃は、すべてうまくいっていた。頼む、私を見捨てないでくれ」
エレナは膝の帳面を開いた。頁の端には麦粥の染みが残り、祖母の丸い字が少しにじんでいる。指で「自分を守る仕事」という一文へ触れると、冷えていた手が落ち着いた。
「私がいなければ生きられないという言葉は、愛ではありません」
「ならば、どう言えば信じる。愛していると言えばよいのか」
「言い方の問題ではありません。あなたは、今も私に自分の人生を管理させたいだけです」
ジュリアンは反論しようとして口を開いた。しかし、自分で注いだ水、汚れた袖、見つけられない予定表のことを思い出したのか、声を出せなかった。エレナは帳面を閉じ、胸元へ抱いた。
「あなたの機嫌も、健康も、人生も、あなたの仕事です。私はもう、代わりに背負いません」
「私が不幸になってもよいと言うのか」
「あなたが不幸になることを望んではいません。きちんと食べ、休み、借金を返し、ご自分の生活を立て直せるよう願っています」
エレナはそこで言葉を区切った。相手の顔色を読み、安心させるための言葉を足したくなったが、祖母の帳面を持つ指へ力を込めた。今日、伝えるべきことは、まだ一つ残っていた。
「ただし、あなたを私の暮らしへ戻すことはありません」
ジュリアンは怒鳴らなかった。謝ればエレナは戻ってくると信じていたため、次に言う言葉を用意していなかった。開いた扉の前で、門番が黙って待っている。
しばらくして、ジュリアンは自分で手袋をはめた。片方を裏返しにしたため、もう一度外して直した。以前ならエレナが指先まで整えていたが、今度は時間をかけ、自分の手でできた。
「帰りの馬車はありません。徒歩で街まで戻ります」
「門番に、街道までの道を聞いてください。途中に食堂がありますから、ご自分で食事をお取りください」
エレナは財布も弁当も差し出さなかった。ジュリアンは何かを待つように立っていたが、やがて一度だけ頭を下げた。油染みのついた袖を隠さず、開いた扉から廊下へ出ていった。
窓の外で、砂利を踏む足音が遠ざかった。エレナは椅子へ座ったまま、胸の奥の速い鼓動が収まるのを待った。手のひらには、帳面の革表紙の跡が赤く残っていた。
ヴィンセントが廊下から顔を出した。面会中は一度も室内へ入らず、約束どおり門番と離れた場所で待っていた。手には昼食用の籠を持ち、焼いた鶏肉と香草の匂いがした。
「もう終わったか」
「はい。終わりました」
「昼食は食べられそうか。それとも、一人で休みたいか」
エレナは自分の腹へ手を当てた。朝から何も食べておらず、小さな音が鳴った。ヴィンセントにも聞こえたらしく、彼は笑わずに籠を持ち上げた。
「食べます。今日はカモミール茶もあります」
二人は庭の木陰へ移動した。籠の中には丸パンが二つあり、ヴィンセントは迷わず一つを自分の皿へ取った。エレナも残った一つを受け取り、焼いた鶏肉を半分に分けた。
青い矢車菊の間を、白い蝶が一匹飛んでいた。エレナはジュリアンの背中を追わず、自分の皿に載った昼食を冷めないうちに食べた。祖母の帳面は、手の届く場所へ置いてあった。




