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第8話 燃え残った帳簿

第8話 燃え残った帳簿


園遊会が終わりに近づいた頃、給仕たちは卓上の空いた皿を片づけ始めていた。春の日差しは傾き、白い鈴蘭の花壇から湿った土の匂いが漂っている。エレナは王宮との契約書を鞄へしまい、指についた苺菓子の砂糖を布で拭いた。


そのとき、真紅のドレスを着たセラフィナが人垣を押し分けてきた。胸元には大粒の紅玉が三つ並び、金色の髪には孔雀の羽根が挿してある。歩くたびに甘い百合の香油が広がり、近くにいた夫人がそっと鼻を押さえた。


「皆様、騙されてはいけませんわ!」


セラフィナはエレナを指さした。突然大声を出したため、手にしていた葡萄酒が揺れ、赤い雫が手袋へ落ちた。楽団の演奏も止まり、招待客たちが振り返った。


「その女に、療養所を立て直すような能力などありません。地味な顔をして辺境伯様へ近づき、食事を作って誘惑したのです!」


エレナの手が、鞄の留め金を強く握った。以前なら、疑われることが怖くて何度も頭を下げただろう。けれど今日は、深緑色のドレスの胸元でゆっくり息を吸った。


「私はカーライル領から、顧問として報酬を受け取っています。料理人として雇われたのではありません」


「その契約自体が、誘惑の証拠でしょう!」


セラフィナは勝ち誇ったように笑った。隣に立つジュリアンは止めようとせず、胃を押さえながらエレナをにらんでいる。彼もまた、エレナが評価された理由を自分への当てつけだと思いたかった。


ヴィンセントは声を荒らげなかった。従者へ合図し、療養所の報告書を持ってこさせる。卓上に厚い記録簿、患者一覧、食費と薬代の帳簿が順番に並べられた。


「彼女が勤務する前、月平均の欠勤者は四十六人だった。現在は二十一人だ」


ヴィンセントは数字の記された欄を示した。エレナが作った表には医師、料理長、騎士団の教官がそれぞれ署名している。薬の購入費、廃棄された食材、療養期間も月ごとにまとめられていた。


「一人の証言なら、私情を疑う余地もある。しかし、これは七十六人分の記録だ。君は、この者たち全員をエレナが誘惑したと言うのか」


「そんなことは……。でも、数字などいくらでも書き換えられますわ」


「原本は療養所、写しは財務局で保管している。毎月、別々の担当者が照合している」


セラフィナの赤い唇が動いたが、声は出なかった。招待客の間から低い笑いが漏れる。エレナは笑わず、記録簿の端をそろえた。


「私が一人で行った仕事ではありません。医師、料理人、教官、騎士の皆さんが記録し、決まりを守ってくださった結果です」


その言葉に、王宮の財務官が頷いた。彼は一枚の紙を持ち上げると、ジュリアンへ目を向けた。園遊会の場には似つかわしくない、ハドソン侯爵家の契約書だった。


「数字の書き換えといえば、ハドソン殿へ確認したいことがあります」


ジュリアンの顔から血の気が引いた。財務官は同じ商会へ送られた二通の契約書を並べた。一通には布地一反につき銀貨五枚、もう一通には銀貨八枚と記されている。


「これは秘書の手違いだ。エレナが勝手に書類を作った」


「私には、契約内容を決める権限はありませんでした」


エレナは静かに答えた。ジュリアンに命じられ、書類を清書したことはある。しかし、署名や印章を使ったことは一度もなかった。


「嘘をつくな。お前がすべて管理していただろう!」


ジュリアンが一歩近づいたため、ヴィンセントがエレナの前へ立った。それでも剣へ手はかけず、衛兵を呼ぶこともしなかった。代わりに、エレナへ話すかどうかを目で尋ねた。


「証拠があります。王宮へ提出できます」


エレナはそう答えた。婚約中、ジュリアンは確認済みの原本を暖炉へ捨てる癖があった。エレナは火事を防ぐため、毎晩灰を片づけ、燃え残った書類を拾っていた。


後日、王宮の調査官がエレナの離れを訪れた。屋根の直った室内には、洗った薬草が窓辺へ吊るされ、卓上には飲みかけの生姜湯が置かれている。エレナは戸棚の奥から、紐で束ねた黒ずんだ書類を取り出した。


紙の端は焼け焦げ、一部の文字は煤で読めなくなっていた。それでも、金額を書き換えるよう命じたジュリアンの覚書と、彼自身の署名は残っている。帳簿には、正規の代金との差額を「交際費」として受け取った記録もあった。


「どうして、これを保管していたのですか」


調査官が燃え残った紙を光に透かした。エレナは生姜湯の薄い膜を匙で混ぜた。以前はジュリアンを守るためだと思っていたが、今になってみれば自分が責任を負わされることを恐れていたのだと分かった。


「何か起きたとき、私の間違いではないと証明するためです」


「実際、そのとおりになりましたね」


調査官は書類を一枚ずつ布へ包んだ。ジュリアンの部屋から押収された帳簿とも照合するという。エレナは受取証を確認し、自分の控えを戸棚へ戻した。


調査が進むと、ジュリアンが商会から受け取った差額を、観劇や酒宴に使っていたことが判明した。さらに、侯爵家の事業費にはセラフィナのドレス、宝石、香油の代金まで紛れ込んでいた。請求書には「取引先への贈答品」と書かれていたが、宝石商はセラフィナ本人が品物を選んだと証言した。


二週間後、王宮の小会議室で処分が言い渡された。窓辺には薄紫色のライラックが飾られ、長い卓上には誰も口をつけない紅茶が並んでいる。ジュリアンは皺の寄った黒い礼服を着て、何度も襟元を引っ張っていた。


「私は次男とはいえ、ハドソン侯爵家の人間だ。この程度のことで家の仕事から外すつもりか」


「この程度ではない」


父であるハドソン侯爵が、低い声で遮った。目の前には、ジュリアンが署名した契約書と経費一覧が置かれている。侯爵は息子をかばわず、紅茶の脇へ家の印章を置いた。


「お前には今後、侯爵家の契約へ関わることを禁じる。流用した金は、港の倉庫で働いて全額返済せよ。給金の半分を返済へ充てる」


「倉庫で働けというのですか。私に荷の検品をしろと?」


「できないなら、さらに返済が遅れるだけだ」


ジュリアンは椅子の背へ体を預けた。以前なら、エレナが父親を説得し、返済計画まで作ってくれただろう。しかし、会議室にエレナの席はない。


セラフィナにも、購入した宝飾品を売って費用を返すよう命令が下された。彼女は紅玉の首飾りを両手で隠し、ジュリアンへ助けを求めた。だが彼自身に、彼女の借金を肩代わりする財産は残っていなかった。


「ジュリアン様、私を愛していると仰ったでしょう。侯爵様へお願いしてください」


「君が勝手に注文した品だ。自分で払え」


「あなたが何でも買ってやると言ったのではありませんか!」


二人の声が小会議室に響いた。ハドソン侯爵は眉間を押さえ、二人の婚約を認めないと告げた。セラフィナは椅子を倒して立ち上がったが、誰も追いかけなかった。


同じ時刻、エレナは療養所の厨房にいた。料理長が春キャベツのスープへ塩を入れすぎ、鍋の前で頭を抱えている。エレナは茹でた芋を加えて味を調整し、皆で少しずつ試食した。


「私の首が飛ばずに済みました」


料理長が胸を撫で下ろした。窓の外では、白い林檎の花が風に揺れている。エレナは匙を置き、薄味になったスープをもう一口飲んだ。


「塩を入れすぎても、首は飛びません。次から匙で量ればよいのです」


ジュリアンとセラフィナを呪った者はいなかった。二人が破滅を引き寄せたのでもない。エレナが書類を直し、支払いを立て替え、失敗を隠すことをやめたため、二人の行動の結果が見えるようになっただけだった。


燃え残った帳簿には、誰の運気も書かれていない。そこにあったのは金額と日付、そしてジュリアン自身の署名だった。エレナは自分の椀へスープをよそい、冷めないうちに食卓へ運んだ。


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