第7話 地味令嬢の値段
第7話 地味令嬢の値段
カーライル領の療養所で働き始めた日、エレナは薬棚より先に食堂を見た。昼を過ぎているのに、卓上には脂の固まった肉料理と冷たい豆の煮込みが残っている。窓は固く閉ざされ、薬草の匂いに汗と湿った毛布の臭いが混じっていた。
「患者には、こちらの薬を一日三回飲ませています」
医師のロベルトが、黒い液体の入った瓶を見せた。白衣の袖にはインクの染みがあり、眼鏡の片方を紐で留めている。エレナは瓶を受け取らず、食堂の隅で腹を押さえている若い騎士へ目を向けた。
「薬を飲む前に、朝食は召し上がりましたか」
「食べました。昨日の夜に」
「今朝のことを聞いています」
「朝は訓練があったので、水だけです」
騎士は悪びれずに答えた。薬を飲んだ時刻を尋ねると、「たぶん鐘が三回鳴る前」と言う。隣の寝台にいた別の騎士も、自分が何時間眠ったのか覚えていなかった。
エレナは患者ごとに一枚の記録表を作った。食事、睡眠、薬、室温、勤務時間を、それぞれ違う色の印で記録する。文字を書くのが苦手な者には、食事は椀、睡眠は月、薬は瓶の絵へ印をつけてもらった。
「子どものような絵ですね」
腕を負傷した騎士が、月の絵を指でなぞった。枕元には食べかけの干し肉が置かれ、塩辛い匂いがしている。彼は記録表を裏返そうとしたが、エレナは鉛筆を一本渡した。
「では、大人らしく睡眠時間を書きますか」
「月の絵に印をつけます」
「賢明な判断です」
エレナが答えると、周囲から笑いが起きた。騎士は口をとがらせながら、昨夜眠った時間に印をつけた。三時間しか眠っていないことが分かると、ロベルトの顔から笑いが消えた。
一週間分の記録を集めると、体調を崩した者の多くが夜勤明けにも訓練へ参加していた。薬の副作用だと思われていた胃痛も、空腹のまま薬を飲んだ日に集中している。療養所の室温は夜になると大きく下がり、窓際の寝台では水差しに薄い氷が張っていた。
「薬を増やす前に、夜勤明けの訓練を休ませてください。朝食を取れない者には、厨房で麦粥を残してもらいます」
「しかし、騎士が訓練を休めば体が鈍る」
教官が腕を組んだ。軍服の襟はきちんと留められていたが、片方の靴紐がほどけている。エレナは以前のように言葉を引っ込めず、記録表を卓上へ広げた。
「倒れて一週間欠勤するより、夜勤明けに半日休むほうが訓練時間は減りません。こちらが三か月分の数字です」
ヴィンセントは表を確認し、その場で勤務規則の変更を命じた。窓枠も修理され、重い毛布は日ごとに干されるようになった。料理人は最初こそ不満を言ったが、余った肉を麦粥へ入れる方法を覚えると、食材の廃棄が減ったと喜んだ。
三か月後、療養所の欠勤者は半分以下になった。胃痛を訴える騎士も減り、薬代は前年の同じ時期より銀貨百二十枚少なくなった。浮いた予算で厨房に新しい竈が入り、料理長は最初の一鍋で粥を焦がした。
「エレナ様、焦げたところも体に良いことにできませんか」
料理長が鍋底を見せた。エレナは匙で黒い部分を少し削り、苦さに顔をしかめた。窓辺では早咲きの水仙が黄色い花を揺らしている。
「できません。今日は焦げていない上だけ食べましょう」
その返事に、厨房中が笑った。エレナも口元を押さえずに笑い、焦げた鍋を磨くための灰を取りに行った。離れで一人、祖母の鉄鍋を磨いていた頃より、声がよく出るようになっていた。
春の初め、療養所の改善結果が王宮へ報告された。薬代と欠勤が減った仕組みを説明するため、エレナはヴィンセントとともに王宮の園遊会へ招かれる。招待状には「生活環境改善顧問、エレナ・ランバート」と正式な肩書が記されていた。
園遊会の朝、エレナは自分の給金で仕立てた深緑色のドレスに袖を通した。胸元を締めつけず、歩幅に合わせて裾が広がる作りになっている。宝石の代わりに、庭で摘んだ小さな白い鈴蘭を髪へ挿した。
「もう少し飾りをつけなくてよろしいのですか」
迎えに来たリタが、真珠の耳飾りを差し出した。エレナは鏡の前で背中を伸ばし、左右へ体をひねった。どこも苦しくなく、深く息を吸うことができた。
「これで十分です。今日は飾りを見せるのではなく、仕事の話をしに行きますから」
「でも、おきれいですよ」
「ありがとうございます。けれど、それより動きやすいのが気に入りました」
王宮の庭には、桃色の薔薇と青い勿忘草が咲いていた。卓上には苺の焼き菓子や薄切りの鶏肉が並び、春の日差しの下で銀の食器が輝いている。エレナは空腹になる前に小さなパンを一つ食べ、それから王宮の役人たちの前へ立った。
「騎士たちに特別な薬を与えたわけではありません。食事を取り、眠れる勤務時間へ直し、体調を記録しただけです」
「それだけで、欠勤者が半分になったのですか」
「それだけのことが、守られていなかったのです」
エレナは表を示しながら、一つずつ説明した。声は途中で震えなかった。隣にいるヴィンセントも代わりに話そうとせず、エレナが説明を終えるまで黙って待っていた。
少し離れた場所に、ジュリアンが立っていた。薄紫色の上着は肩の辺りに皺が寄り、目の下には濃い影がある。手にした皿には脂の多い肉料理ばかり載り、彼は時折、胃の辺りを押さえていた。
「カーライル辺境伯の隣にいる女性は誰だ」
ジュリアンは近くの貴族へ尋ねた。深緑色のドレスを着た女性には、見覚えがある気がした。しかし背筋を伸ばし、大勢の前で数字を説明する姿は、彼の知っているエレナと結びつかなかった。
「ランバート伯爵令嬢のエレナ様ですよ。療養所を立て直した顧問です」
「エレナだと?」
ジュリアンの持っていた銀の匙が、皿の上で音を立てた。美しくなったから分からなかったのではない。以前のエレナは、部屋へ入るとまずジュリアンの顔色を確かめ、彼が眉を寄せればすぐに言葉を止めていた。
今のエレナは、ジュリアンが近くにいることへ気づいていなかった。正確には、一度だけ彼の姿を見たが、すぐに役人の質問へ視線を戻した。怯えも未練も見せず、仕事の続きを話している。
「エレナ!」
ジュリアンが呼ぶと、エレナは説明を終えてから振り返った。以前なら、声を聞いた瞬間に駆け寄っていただろう。今は招待客の一人を見るように、静かに一礼した。
「お久しぶりです、ハドソン様」
「その呼び方は何だ。君は、私をジュリアン様と呼んでいただろう」
「婚約者ではなくなりましたので」
エレナはそれだけ答えると、ヴィンセントに呼ばれて別の役人のもとへ向かった。ジュリアンは呼び止めようとしたが、周囲の目に気づいて手を下ろした。自分が捨てた女性に無視されたようで、胃の痛みが強くなった。
そこへ王宮の財務官が通りかかった。彼はエレナの作った報告書を褒め、正式な王宮顧問としても依頼したいと話していた。提示された報酬額を耳にしたジュリアンは、思わず会話へ割り込んだ。
「それほどの金額を、あの女に払うのですか」
「療養所では、彼女の働きによって年間金貨三百枚以上の経費が削減される見込みです。この報酬でも安いくらいでしょう」
財務官は不思議そうに答えた。エレナの年間顧問料は、ジュリアンが婚約中に贈った髪飾りや布地の総額をはるかに超えている。彼が長年無償で使っていた仕事には、それだけの価値があった。
「だが、エレナは薬師でも医師でもない。ただ、人の食事や予定を細かく管理していただけだ」
「その管理をしてもらえず、困っている方がいらっしゃるようですね」
財務官の視線は、ジュリアンの皺だらけの袖と、食べすぎた肉料理へ向けられていた。近くにいた貴族たちが顔をそらし、笑いをこらえる。ジュリアンは皿を給仕へ押しつけ、その場を離れた。
園遊会が終わる頃、エレナは王宮から新しい契約書を受け取った。署名する前に条件を読み、勤務日数について一箇所だけ修正を求める。ヴィンセントは口を挟まず、焼き菓子を二つ皿へ取って待っていた。
「お腹が空いただろう。一つは君の分だ」
「二つとも差し出してくださるのではないのですか」
「半分は私が食べる。私まで空腹になったら、君を馬車まで送れないからな」
エレナは市場で交わした言葉を思い出し、一つ受け取った。苺の焼き菓子は少し酸っぱく、表面の砂糖が指先へついた。自分の仕事で得た契約書を膝に置き、エレナは春の庭でゆっくり菓子を食べた。




