第6話 世話係を失った元婚約者
第6話 世話係を失った元婚約者
婚約破棄から一か月後、ジュリアンは昼近くになって目を覚ました。寝台の脇には空の葡萄酒瓶が転がり、脱いだ靴下が暖炉の柵に引っかかっている。昨夜着ていた白い礼服には肉汁の染みがつき、薔薇の香油と酒の酸っぱい匂いが寝室にこもっていた。
以前なら、朝の七時にはエレナが侍従を通じて予定表を届けていた。胃が弱いジュリアンのため、温かい麦粥と薄切りの林檎も用意されていた。彼はそれを婚約者として当然の気遣いだと思い、一度も礼を言わなかった。
「なぜ誰も起こさなかった!」
呼び鈴を鳴らすと、若い従僕が慌てて入ってきた。腕には洗濯前のシャツを抱え、袖から石鹸の泡を垂らしている。ジュリアンが投げた枕を避けると、従僕は壁の時計を見た。
「何度もお声をかけました。しかし旦那様は、もう少し眠ると……」
「今日の予定はどうなっている」
「私どもには分かりません。これまではエレナ様から予定表が届いておりましたので」
ジュリアンは寝台から飛び起きた。その日は十時から、北部の小麦を扱う商会との会議が入っていたはずだった。ところが机の上には舞踏会の招待状と請求書が重なり、必要な資料が見つからない。
急いで着替え、朝食も取らずに商会へ向かった。しかし、会議室に人影はなかった。窓辺に置かれた冬薔薇だけが、冷たい日差しの中で白い花を咲かせている。
「ハドソン様。会議は昨日でございました」
老支配人は、銀縁の眼鏡越しにジュリアンを見た。卓上には、冷めた紅茶と手をつけられなかった焼き菓子が残っている。昨日、商会の代表者たちは二時間待ったという。
「日付が変更されたのではないか」
「変更されておりません。エレナ様が作成なさった予定表にも、昨日の日付で記載されていたはずです」
ジュリアンは舌打ちした。エレナの名前を聞くだけで、胃の奥が焼けるように痛んだ。何も食べていないせいだと思い、帰りに肉を挟んだ揚げパンを二つ買った。
その日の午後、別の商会から抗議が届いた。同じ布地の買い付けについて、一通目の契約書には一反銀貨五枚、二通目には銀貨八枚と記されていた。どちらにもジュリアンの署名と印章がある。
「先に送ったものが正しい。後の契約書は破棄させろ」
「どちらを先に送ったのか、記録がございません」
「エレナの控えを見れば分かるだろう」
「エレナ様は、もうこちらにはいらっしゃいません」
秘書の返事に、ジュリアンは机を拳で叩いた。以前のエレナなら、署名する書類を順番に並べ、間違いには赤い紙を挟んでいた。自分はそれを確認もせず、言われた場所へ署名していただけだった。
夕方、セラフィナが新しいドレスを着て部屋へ入ってきた。真紅の絹には金糸の薔薇が刺繍され、胸元には大粒の真珠が並んでいる。その後ろでは、宝石商と仕立屋が請求書を抱えて待っていた。
「ジュリアン様、見てくださいませ。次の舞踏会には、こちらの首飾りを合わせたいのです」
「また買ったのか。先週も青いドレスを仕立てただろう」
「青は伯爵夫人の茶会で着ました。殿下の舞踏会へ同じものを着ていけるはずがないでしょう」
セラフィナは鏡の前で一回転した。重い裾が机の脚へ当たり、積んであった契約書が床へ落ちる。彼女は紙を拾わず、その上を靴で踏んだ。
ジュリアンが請求書を見ると、ドレスと宝飾品だけで金貨六十枚を超えていた。侯爵家の次男である彼に、領地から直接入る収入はない。毎月の手当は十分だったが、セラフィナの買い物を続けられるほどではなかった。
「こんな金額は払えない」
「何を仰っていますの。侯爵家はお金持ちだとお聞きしました」
「家の財産は父と兄のものだ。私が自由にできるわけではない」
セラフィナの笑顔が消えた。彼女は真珠の首飾りを握り、ジュリアンを見上げた。百合の香油をつけすぎたのか、甘い匂いが喉へまとわりついた。
「聞いていた話と違います。私は、あなたと結婚すれば何不自由なく暮らせると思っていました」
「私もだ。君は明るく華やかで、私の運気を上げてくれると言っただろう。それなのに、君が来てから請求書ばかり増えている」
「仕事に失敗したのは、私のせいではありませんわ!」
二人の声を聞き、廊下の従僕たちは足音を立てずに遠ざかった。ジュリアンは胃を押さえ、冷めた揚げパンを葡萄酒で流し込んだ。夜になるとさらに痛みが強まり、寝台の上で体を丸めた。
医師からは、酒と脂の多い食事を控えるよう言われた。食事の時間も一定にし、睡眠を取る必要があるという。どれも以前、エレナが繰り返し言っていたことだった。
翌朝、ジュリアンは机の引き出しをすべて開けた。エレナが作った予定表さえあれば、仕事を立て直せると思ったのだ。けれど、書類の間から出てきたのは、セラフィナと観劇した半券や未払いの請求書ばかりだった。
「予定表はどこだ。青い表紙で、日ごとに色を分けてあった」
「婚約破棄の翌日、旦那様が暖炉へ投げ込まれました」
従僕に言われ、ジュリアンは暖炉を振り返った。灰は何度も片づけられ、燃え残った紙すら残っていない。腹の痛みとともに、あの夜、書類を拾わずに去ったエレナの背中が浮かんだ。
その頃、エレナは離れの窓辺で靴下を繕っていた。屋根を直してもらってから、雨の日にも寝具が湿らなくなった。暖炉には根菜のスープがかかり、窓の外では赤い実をつけた柊の枝に小鳥が集まっていた。
扉を叩いたのはヴィンセントだった。今日は辺境伯の礼装ではなく、濃紺の騎士服を着ている。手には革製の書類鞄を持ち、後ろには灰色の口ひげを生やした男性が立っていた。
「突然訪ねてすまない。先日話した仕事について、正式な提案を持ってきた」
ヴィンセントは暖炉の前へ勝手に座らず、エレナに勧められてから椅子を引いた。同行した男性は辺境伯家の文官で、テオドールと名乗った。卓上へ広げられた契約書には、仕事内容、勤務日、報酬、交通費、契約期間が細かく記されていた。
「カーライル領には、負傷した騎士や鉱山で働く者が利用する療養所がある。だが、薬を与えても体調を崩す者が減らない」
「食事や睡眠に問題があるのですか」
「それを調べてほしい。君には料理人としてではなく、生活環境を整える顧問を頼みたい」
エレナは契約書を最初から読み直した。月に十日勤務し、仕事を持ち帰らないこと。夜間の呼び出しはなく、追加業務には別の報酬が支払われること。体調が悪い日は休めることまで書かれていた。
「この報酬は、間違いではありませんか」
「間違いではない。君が私へした助言を、医師に確認させた。正しい知識だった」
「でも、私は学校で専門的に学んだわけではありません」
「だから最初の三か月は、医師と協力して働いてもらう。その間に必要な知識も学べるよう手配する」
ヴィンセントは、エレナを恩人だから雇うとは言わなかった。できることと、まだできないことを分け、それに見合う条件を提示している。エレナは契約書の金額をもう一度見た。
その額は、ジュリアンの書類を整理し、食事や予定を整えていた三年間にもらった贈り物の総額より多かった。自分が無償でしてきたことに、値段をつける人がいる。そう考えると、羽根ペンを持つ指が震えた。
「一つ、加えていただきたい条件があります」
「聞こう」
「私にできない仕事は、理由を説明したうえで断ることができる、と書いてください」
テオドールがヴィンセントを見た。ヴィンセントはすぐに頷き、自分で一文を書き加えた。乾いたインクの匂いが、温かなスープの湯気へ混じった。
エレナは契約書へ署名した。羽根ペンの先から落ちたインクが、小さな点を一つ作った。以前なら失敗だと思って紙を取り替えていたが、今日はそのまま自分の名前を書き終えた。
「これで私は、カーライル領療養所の顧問ですか」
「そうだ。君の知識と働く時間に、報酬を払う」
ヴィンセントが差し出した手を、エレナは両手ではなく右手だけで握った。左手には、自分の契約書をしっかり持っている。暖炉では、二人分ではなく三人分に水を足したスープが、静かに煮えていた。




