第5話 倒れた辺境伯
第5話 倒れた辺境伯
離れの庭に初霜が降りた朝、エレナは薬草を入れた籠を持って市場へ向かった。生成り色のブラウスに茶色の毛織物のスカートを合わせ、擦り切れた灰色の外套を羽織っている。道沿いには赤い山茶花が咲き、白い息を吐くたび、乾燥させたタイムとラベンダーの香りが籠から立ち上った。
薬草は、庭師のベンが紹介してくれた薬種屋へ売る予定だった。エレナは庭に生えたものを洗い、種類ごとに束ね、効能と使用量を書いた紙を添えてきた。自分で稼いだ銅貨で、塩と新しい寝間着を買うつもりだった。
「お嬢さん、文字まで書いてくれたのかい。これは助かるよ」
薬種屋の女主人は、丸い眼鏡を額へ押し上げた。指で葉を揉み、香りを確かめてから、薬草の束を一つずつ量りへ載せる。全部で銀貨一枚と銅貨八枚になった。
「多すぎませんか。庭に生えていたものです」
「土から勝手に束になって出てくるわけじゃないだろう。洗って、乾かして、分けた手間の代金だよ」
女主人は銀貨をエレナの手へ握らせた。自分の仕事で受け取った初めての報酬は、驚くほど冷たく、重かった。エレナは何度も礼を言い、銅貨だけを使って塩と生姜を買った。
市場には焼きたてのパンと干し魚の匂いが混じっていた。店先には赤い林檎や橙色の南瓜が積まれ、冬支度を急ぐ人々が行き交っている。エレナは林檎を一つ買うか迷ったが、今朝作った麦粥を持ってきたことを思い出し、財布を閉じた。
通りの端にある時計塔が、昼を知らせる鐘を鳴らした。祖母の帳面には、空腹を感じる前に食事の時間を決めると書かれている。エレナは日当たりのよい広場のベンチを探した。
その途中、狭い路地で金属の擦れる音がした。黒い外套を着た騎士が、石壁に片手をついている。もう片方の手は腹へ当てられ、短く切った黒髪の下には汗が浮かんでいた。
「大丈夫ですか」
エレナが近づくと、男は背筋を伸ばそうとした。しかし足元がふらつき、肩が壁へぶつかった。黒い外套の下には近衛騎士の制服が見えたが、階級を示す徽章は外されていた。
「問題ない。少し休めば戻る」
「顔色が蝋燭のようです。そのまま立っていたら、今度は頭を石畳へぶつけます」
「蝋燭と言われたのは初めてだ」
男は笑おうとしたが、眉間の皺が深くなった。エレナは彼の腕を無理に引かず、空いていた木箱を足で壁際へ寄せた。男はしばらく迷ったあと、そこへ腰を下ろした。
「朝食は召し上がりましたか」
「必要なかった」
「食欲ではなく、食べたかどうかを聞いています」
「食べていない」
エレナは水筒の蓋を開けた。水へほんの少し塩を加え、男へ差し出す。彼は一度に飲み干そうとしたため、エレナは蓋を押さえた。
「ゆっくり飲んでください。急ぐと、また気分が悪くなります」
「君は医師なのか」
「いいえ。以前、食事を取らずに倒れた者です」
男は反論せず、少しずつ水を飲んだ。手袋を外した指には、剣を握ってできた固いまめがある。目の下には濃い影があり、身なりは整っていても、何日も休んでいないことが分かった。
エレナは布包みから、小さな容器を取り出した。中には、蕪と人参を加えた麦粥が入っている。まだわずかに温かく、生姜の香りがした。
「味は薄いですが、何も食べていない胃には、そのほうがよいと思います」
「それは君の昼食ではないのか」
「そうです。ですから、半分だけお分けします」
エレナは容器の麦粥を木の椀へ半分移した。以前なら相手が貴族らしいというだけで、全部差し出していただろう。けれど今日は、自分の椀にも同じ量を残した。
「全部もらえるのかと思った」
「半分は私が食べます。私まで倒れたら、あなたを助けられませんから」
男は木の匙を持ったまま、エレナの顔を見た。鋭かった灰色の目がわずかに見開かれている。エレナは何か失礼なことを言ったのかと肩を縮めかけたが、自分の椀から一口食べた。
「なるほど。実に正しい」
男も麦粥を口へ運んだ。二人は木箱へ並んで座り、市場から聞こえる呼び込みの声を聞きながら食べた。途中で野良猫が干し魚をくわえて逃げ、店主に追いかけられているのを見て、男の口元が初めて緩んだ。
「三日間、まともに眠っていない」
「それは休んでください」
「仕事が残っている」
「仕事は、あなたが石畳で倒れても減りません」
エレナが答えると、男は匙を止めた。周囲の者からは仕事を頼まれ、部下からは判断を求められ、医師からも薬を渡されるだけだったという。休むよう命じられたのは、久しぶりらしかった。
「君の名を聞いてもよいか」
「エレナ・ランバートです。離れで薬草を育てています」
「私はヴィンセントだ。今日の礼は、必ずする」
「半分の麦粥ですから、礼は半分で結構です」
男は今度こそ声を出して笑った。食べ終わる頃には顔へ少し血の色が戻り、自分の足で立てるようになっていた。迎えに来た騎士たちが彼を見つけると、全員が青ざめて駆け寄った。
「閣下、こんなところに! カーライル辺境伯ともあろう方が、お一人で何をなさっているのですか!」
エレナは空になった椀を落としかけた。近衛騎士団長を兼ねるカーライル辺境伯の名は、社交に疎い彼女でも知っていた。冷徹で、部下の失敗を決して許さない人物だと噂されている。
「食事をしていた。彼女に助けられた」
ヴィンセントは騎士たちへ告げると、エレナに向かって頭を下げた。辺境伯が、古びた外套を着た伯爵令嬢へ礼をする姿に、騎士たちは目を丸くした。エレナも慌てて頭を下げ、額を籠へぶつけた。
その三日後、離れの前へ黒塗りの馬車が止まった。エレナは洗った寝間着を庭の綱へ干していたが、馬車から降りたヴィンセントを見て、濡れた布を持ったまま固まった。今日は黒い礼装を着ており、胸には辺境伯家の銀色の徽章が輝いていた。
「先日は世話になった。約束どおり、半分の礼を持ってきた」
従者が差し出した籠には、塩、生姜、林檎、蜂蜜が入っていた。高価な宝石も、豪華なドレスもない。どれも祖母の帳面に書かれ、エレナが少しずつ買おうと思っていたものだった。
「私には多すぎます」
「半分にするべきだったか」
「いいえ。どれも使えます。ありがとうございます」
エレナが籠を受け取ったとき、屋根から水滴が落ちた。晴れているのに、昨夜の雨水が屋根裏へ残っていたらしい。水はヴィンセントの肩を濡らし、黒い礼装に大きな染みを作った。
彼は屋根を見上げ、それから湿った寝台と窓際の桶を見た。エレナは恥ずかしくなり、干していた寝間着で桶を隠そうとした。けれどヴィンセントは、勝手に離れへ踏み込まなかった。
「屋根を修理する職人を手配したい。入って状態を確認してもよいだろうか」
「私を、辺境伯邸へ連れていくのではないのですか」
「君が望んでいない場所へ、なぜ私が連れていく」
ヴィンセントは当たり前のように答えた。ジュリアンも父も、エレナの返事を待たずに物事を決めてきた。何も差し出していないのに許可を求められたことが、エレナには不思議だった。
「では、お願いします。でも、修理代は少しずつお返しします」
「麦粥の礼だと言えば、君は断るか」
「半分の麦粥にしては高すぎます」
「それなら、仕事を頼みたい。騎士団の食事と休養について、君の知恵を借りたい。その前払いとして屋根を直す。それではどうだ」
エレナはすぐに頷かず、条件を考えた。慈善ではなく仕事なら、自分にも返せるものがある。けれど、以前のように無償で何もかも背負うつもりはなかった。
「仕事内容と報酬を、書面にしてください。できない仕事は、お断りします」
「承知した。私も、できないことを君へ押しつけない」
翌朝、三人の職人が離れを訪れた。傷んだ板を外し、新しい木材と瓦で屋根を直していく。金槌の音が響くたび、天井から積もった埃が落ちたため、エレナとリタは鍋や食器へ布をかけた。
夕方には、窓枠の隙間も塞がれた。試しに職人が屋根へ水を流したが、一滴も室内へ落ちてこない。エレナはいつも桶を置いていた場所へ、ヴィンセントからもらった赤い林檎を一つ置いた。
夜、雨が降り始めた。エレナは寝台へ入り、天井を見つめた。雨音は聞こえるのに、冷たい雫は落ちてこなかった。
何かを与え続けなければ、人から親切にされないと思っていた。しかしヴィンセントは、エレナの返事を待ち、条件を話し合い、約束どおりに屋根を直した。エレナは枕元の林檎へ手を伸ばし、つるりとした皮を指でなぞった。
「雨の日に、桶を置かなくてもよいのですね」
暗い部屋でそう呟くと、肩から余計な力が抜けた。屋根を叩く雨音を数えているうちに、エレナは朝まで一度も目を覚まさずに眠った。




