第4話 自分のために作るスープ
第4話 自分のために作るスープ
翌朝、エレナは窓を開けた。冷たい風が寝間着の襟元へ入り込み、思わず肩をすぼめたが、黴と湿った藁の匂いが少しずつ外へ流れていく。庭では赤や黄色に染まった落ち葉が舞い、朝露をまとった紫苑が細い茎を揺らしていた。
祖母の「ごきげん帳」には、朝になったら窓を開け、日の光を浴びながら十回呼吸すると書かれていた。エレナは窓枠へ両手を置き、ゆっくり息を吸った。五回目で咳が出たため、無理をせずそこでやめた。
「十回できなくても、五回できました。これでよいことにしましょう」
自分へ声をかけると、妙な気分になった。今までは、できなかったことを数えてばかりいた。五回でもできたと考えるだけで、曲がっていた背中が少し伸びた。
暖炉の横には、祖母が使っていた黒い鉄鍋が残されていた。鍋底には煤がこびりつき、内側には赤い錆が広がっている。エレナは井戸から水をくみ、砂と灰を布につけて磨き始めた。
一度こすっただけでは落ちなかった。腕が痛くなると椅子へ座り、白湯を飲んでから続きを磨いた。昼を過ぎる頃には、錆の下から黒い鍋肌が見え始めた。
「お祖母様、ずいぶん頑固な鍋を残してくださいましたね」
庭から笑い声が聞こえた。窓の外を見ると、年老いた庭師のベンが熊手を持って立っている。毛糸の帽子には枯れ葉が一枚載り、長靴の片方へ泥が固まっていた。
「鍋が頑固なのではありません。先代奥様が、煮込み料理を焦がす名人だったのですよ」
「お祖母様が、お料理を焦がしていたのですか」
「話し込むと鍋を忘れる方でした。三度に一度は、厨房から煙を出しておられましたな」
ベンは熊手を壁へ立てかけ、離れの庭を見回した。枯れ草の間には、細い人参の葉や蕪が残っている。花壇として使われる前は祖母の菜園で、こぼれた種が毎年芽を出しているのだという。
エレナはベンから小さな籠を借りた。土を掘ると、曲がった人参と親指ほどの蕪が出てきた。垣根の近くには香草のタイムが生え、葉を指でこすると爽やかな香りが広がった。
「これは、私がいただいてもよいのでしょうか」
「このままでは霜にやられます。食べてやったほうが、野菜も喜びますよ」
「野菜が喜ぶかは分かりません。でも、私は喜びます」
その言葉を口にすると、ベンは目尻へ深い皺を寄せた。エレナは籠を抱え、久しぶりに自分の食べたいものを考えた。ジュリアンの胃や姉の好みではなく、自分の腹へ入れる料理を選ぶことが、ひどく難しかった。
人参と蕪をよく洗い、小さく刻んで鉄鍋へ入れた。リタが分けてくれた麦と塩を加え、火の上でゆっくり煮る。湯気と一緒に根菜の甘い匂いが立ち、最後にタイムを少しだけ加えると、離れから黴の匂いが消えた。
一口目を飲む前に、エレナは匙を置いた。自分一人のために薪を使い、鍋いっぱいの料理を作ったことが急にぜいたくに思えた。けれど祖母の帳面には、「空腹を罰に使わない」と書かれていた。
「これは、私が食べるために作ったスープです」
誰も聞いていなかったが、声に出してから匙を取った。熱い蕪が舌の上で崩れ、麦のとろみが傷んだ喉を通った。三口で胃が重くなったため、そこでやめ、残りにはきちんと蓋をした。
午後になると、母付きの侍女が箱を抱えてやってきた。箱の中には次姉の青いドレスと、銀糸や真珠が詰め込まれている。侍女は香油の匂いを漂わせながら、卓上のスープを見て眉をひそめた。
「奥様からです。黄色いドレスを断った罰として、こちらは今夜中に直すようにとのことです」
「今日は針を持てる体調ではありません。仕立屋へお願いします」
「奥様は、お嬢様の仕事だと仰せです」
エレナの指が、祖母の帳面へ伸びた。断れば、また食事を減らされるかもしれない。それでも一晩中働いたあと、床へ倒れた自分の姿を思い出した。
「できません。箱をお持ち帰りください」
「そのような返事では、私が叱られます」
「では、私が断ったと、そのままお伝えください。あなたの判断ではないことも書いておきます」
エレナは短い手紙を添えた。侍女は不満そうに箱を抱え直したが、帰る間際、鍋の匂いをもう一度嗅いだ。昼食を取っていないのか、腹が小さく鳴った。
「少し召し上がりますか。私の分を取り分けた残りならあります」
侍女は驚いた顔をしたあと、小さく頷いた。二人で卓を挟み、木の椀にスープをよそった。侍女は一口食べると、「蕪が甘いですね」と言い、箱を抱えたまま来たときよりゆっくり歩いて帰った。
三日後、父の使いが離れへ来た。持ってきたのは衣装ではなく、厚い帳簿だった。革表紙には葡萄酒の染みがつき、支払い期限の過ぎた請求書が何枚も挟まっている。
「旦那様から、今日中に整理するようにとのことです。商会から催促が来ております」
「それは、お父様の領地経営に関する帳簿ですね」
「これまでも、お嬢様が整理していたではありませんか」
使いの言葉を聞き、エレナは帳簿を受け取らずに両手を重ねた。以前は父から命じられるたび、夜中まで数字を合わせていた。その仕事が誰の役目なのか、考えたこともなかった。
「これまでは、婚約者の家との取引を守るために手伝っていました。婚約がなくなった今、私が無償で行う理由はありません」
「しかし、このままでは旦那様がお困りになります」
「私も今、困っています。自分の体を治すことで手いっぱいです」
使いは何も言えず、帳簿を抱えて戻っていった。その週、伯爵家では小麦代の支払いが遅れ、同じ布を二つの商会へ重複して注文した。母は姉のドレスを急がせたため仕立屋から割増料金を請求され、父は食卓で何度もエレナの名を怒鳴った。
離れまで声が届くたび、エレナの肩は跳ねた。それでも屋敷へ走っていかなかった。冷えた日は暖炉の前で毛布に包まり、眠れなかった翌日は、昼になっても寝台から出なかった。
「昼まで眠るなんて、怠けているみたいです」
「眠れるときに眠るのも、体を治す仕事ですよ」
粥を届けに来たリタに言われ、エレナは毛布から顔だけ出した。リタは寝台の横へ洗濯済みの寝間着を置いた。生成り色の柔らかな布には、日なたと石鹸の匂いが残っていた。
二週間が過ぎる頃には、エレナはスープを一杯飲めるようになった。夜中に目を覚ます回数も減り、朝まで続けて眠れる日が一度だけあった。頬はまだ痩せていたが、唇のひび割れは薄くなっている。
エレナは紺色のドレスを洗い、裂けた裾だけを自分のために繕った。泥の染みは完全には落ちなかったため、短く切り、残った布で鍋つかみを作った。ジュリアンのために選んだドレスが、自分のスープを守る道具へ変わった。
壁の鏡をのぞくと、口元が固く結ばれていた。以前のエレナなら、指で頬を持ち上げ、相手が安心する笑顔を作っていただろう。けれど今日は、笑いたい気分ではなかった。
「笑わなくても、朝は来ます」
鏡の中の顔は華やかではなく、急に美しくなったわけでもない。それでもエレナは顎を引き、曲がっていた背中をゆっくり伸ばした。無理に作った笑顔より、その顔のほうが自分らしく見えた。
窓辺では、祖母の鈴蘭が細い緑色の芽を出していた。花が咲く季節はまだ遠いが、エレナは小さな鉢へ水を注いだ。暖炉の鉄鍋から、今夜のスープがことこと煮える音がしていた。




