第3話 祖母の「ごきげん帳」
第3話 祖母の「ごきげん帳」
エレナが目を開けると、床板の木目がすぐ目の前にあった。頬には冷たい板の跡がつき、右手は戸棚の下へ入り込んでいる。朝食を知らせる鐘はとうに鳴り終わり、窓から差し込む光が黄色い蔦の影を床へ映していた。
体を起こそうとしたが、胃の奥が縮み、腕に力が入らなかった。昨夜から何も残っていない腹が音を立て、口の中には古い鉄のような味がする。エレナは誰かを呼ぼうとしたものの、家族の朝食を用意できなかったことを叱られる気がして、唇を閉じた。
「ごめんなさい。今からでも、林檎を切らなくては」
かすれた声だけが、黴臭い部屋に残った。立ち上がる代わりに、エレナは戸棚へ手をかけ、ゆっくり上半身を起こした。そのとき、戸棚の下から何かが床をこする音がした。
指先に触れたのは、薄い革表紙の帳面だった。長い間、戸棚の脚に挟まれていたらしく、表紙の角が折れ、灰色の埃が厚く積もっている。エレナが袖で埃を払うと、薄緑色の革に押された小さな鈴蘭の模様が現れた。
「これ、お祖母様の……」
祖母は鈴蘭が好きだった。春になると離れの窓辺へ白い花を飾り、咲き終わったあとも葉へ水をやっていた。エレナが「花がないのに、どうして水をあげるのですか」と尋ねると、祖母は丸い眼鏡を押し上げて笑った。
「見えないところで、来年の支度をしているのよ。人間だって、休んでいるように見える日に、次の元気を作るのです」
幼い頃に聞いた声が、耳の奥によみがえった。エレナは帳面を胸元へ引き寄せ、戸棚にもたれた。革には、祖母が使っていた乾燥ラベンダーの香りがわずかに残っていた。
帳面を開くと、最初の頁に「季節の養生」と書かれていた。文字は大きく、急いでいる日でも読み間違えないよう、料理と薬草ごとに違う色の線が引かれている。頁の端には茶色い染みがあり、乾いたパン屑まで一つ挟まっていた。
秋の項には、冷えた朝は白湯を飲むこと、胃が弱っているときは豆や脂の多い肉を避け、よく煮た麦や根菜を食べること、と書かれていた。眠れない夜は無理に眠ろうとせず、足を温め、呼吸をゆっくり数える。食欲がないときも、水と塩だけは少しずつ口にするよう注意が添えられている。
エレナは割れた水差しを見た。床へ流れた水は乾き、白い跡だけが残っている。喉がひどく渇いていたが、台所まで歩ける自信はなかった。
そのとき、扉が二度、控えめに叩かれた。昨日、食事を運んできた侍女のリタが、湯気の立つ小鍋を持って入ってきた。灰色の仕事着の裾には小麦粉がつき、前掛けのポケットから赤い糸がのぞいている。
「お嬢様、まだお休みでしたか。朝の盆が戻ってこないので、見に来ました」
「ごめんなさい。今朝は屋敷へ行けませんでした。お母様は怒っていらっしゃるでしょうね」
リタは返事をせず、小鍋を卓上へ置いた。中に入っていたのは、柔らかく煮た麦の粥だった。昨日のスープとは違い、塩と刻んだ蕪だけの素朴な匂いがした。
「料理長には、鍋の底に残ったものを捨てに行くと言ってきました。少し焦げていますけれど、冷たいスープよりはましです」
「でも、私は昨日いただいたものまで吐いてしまいました。また無駄にしたら……」
「食べられる分だけでよろしいでしょう。食事は罰ではありませんから」
リタはそう言いながら、床へ落ちていた毛布を拾った。その下に残った汚れを見ると、顔をしかめる代わりに窓を開けた。冷たい風と一緒に、庭の金木犀と湿った落ち葉の匂いが入ってきた。
エレナは匙で麦粥をすくった。湯気を吹き、米粒より小さな麦をゆっくり噛むと、焦げた香ばしさのあとに蕪の甘みが広がった。一口食べても胃は痛まず、二口目には冷えていた指先が少し温かくなった。
「おいしいです。温かいものは、こんな味だったのですね」
「大げさなお嬢様ですね。ただの余り物ですよ」
リタは口ではそう言ったが、小鍋の蓋を閉めずに置いていった。帰り際、割れた湯たんぽを拾い上げ、午後までに使えるものを探してくると約束した。扉が閉まると、エレナは残った粥へ布をかけ、もう一度帳面を開いた。
祖母の記録は料理だけではなかった。「疲れているときに決めてはいけないこと」「頼まれ事を断る言葉」「一日中働いた人が、夜にしてはならない家事」など、生活の小さな決まりが並んでいる。洗濯物を畳まずに眠っても朝は来る、と書かれた横には、祖母自身が描いた靴下の絵があった。
頁をめくるうちに、文字が途中から乱れ始めた。祖母が若い頃、伯爵家の使用人と家族の世話を一人で背負い、食事を取る時間も惜しんで働いていた頃の記録だった。ある冬の朝、祖母は厨房で倒れ、三日間目を覚まさなかったという。
「倒れる前の私は、皆に必要とされていると思っていた。けれど、目を覚まして分かった。必要とされていたのは私ではなく、私が無償で差し出していた手と時間だった」
エレナはその一文を、指でなぞった。ジュリアンの資料、父の帳簿、母の手紙、姉たちのドレスが頭に浮かんだ。皆が必要としていたのは、エレナという人間ではなく、断らずに働く手だったのかもしれない。
帳面の最後には、ほかより大きな文字で短い言葉が書かれていた。何度も読み返した跡があり、頁の端は指の形に黒ずんでいる。エレナは背筋を戸棚へ預け、声に出して読んだ。
「他人の機嫌を取る前に、自分をごきげんにすること。それは我が儘ではなく、自分を守る仕事です」
読み終えると、庭から雀の鳴き声が聞こえた。エレナは自分が暗いことを考え続けたから、不幸を呼び寄せたのだと思っていた。しかし、夜会で泥へ落としたのはセラフィナであり、書類を捨てたのはジュリアンだった。離れへ追いやったのも、エレナの心ではなく父と母だった。
エレナが悪かったとすれば、相手の機嫌を損ねることを恐れ、何をされてもその場に残り続けたことだった。それは不幸を引き寄せる力ではなく、自分を守る方法を知らなかっただけである。祖母も同じところで倒れ、それから生き方を覚え直したのだ。
昼を過ぎた頃、母付きの侍女が大きな包みを持ってきた。中には長姉の黄色い舞踏会用ドレスが入っている。胸元の真珠が取れ、裾の刺繍も一部ほどけていた。
「奥様からです。今夜のうちに直すようにとのことでした」
「今夜までですか」
「明後日の音楽会でお召しになります。お嬢様なら、一晩あれば十分だろうと」
エレナは黄色い布へ手を伸ばした。姉は金糸の刺繍を好むが、裏側へ糸が出ると肌がかゆいと言う。仕立屋へ頼めば銀貨十枚は必要な仕事だったが、エレナはこれまで一度も代金を受け取ったことがなかった。
指先が布へ触れる前に、祖母の帳面が膝からずり落ちた。開いた頁には、「頼まれ事を断る言葉」が残されている。エレナは黄色いドレスではなく、卓上の便箋を取った。
羽根ペンを持つ手は震えた。断れば母が怒り、父から食事を減らされるかもしれない。けれど、この体で一晩中針を持てば、再び床へ倒れることだけは分かった。
「お嬢様、どうなさいますか。私は返事を持ち帰るよう言われています」
エレナは小さな紙へ、ゆっくり文字を書いた。長い謝罪も、言い訳も書かなかった。インクが乾くまで待ってから、二つに折って侍女へ渡した。
「こちらを、お母様へお願いします。ドレスもお持ち帰りください」
侍女が去ったあと、エレナは扉の鍵を閉めた。母の怒鳴り声が聞こえてくる気がしたが、実際に聞こえたのは風に揺れる黄色い蔦の音だけだった。卓上には、麦粥がまだ半分残っている。
エレナは冷めた粥を小鍋へ戻し、暖炉に火を入れた。温まるまでの間、祖母の帳面を抱えて揺り椅子へ座った。母へ返した便箋には、たった一言だけ書いてあった。
「できません」




