第2話 離れに追いやられた令嬢
第2話 離れに追いやられた令嬢
ランバート伯爵家へ着いたとき、夜はすっかり更けていた。エレナは片方だけ靴を履き、泥で重くなった紺色のドレスを引きずって馬車を降りた。玄関脇の花壇では白い秋明菊が風に揺れ、夜露を含んだ花びらが月明かりに光っていた。
御者が扉の呼び鈴を鳴らすと、しばらくして老執事が顔を出した。彼はエレナの裂けた袖と、靴下のままの右足を見て眉を寄せた。いつもなら黙って中へ通してくれる人だったが、今夜は扉の前から動かなかった。
「お嬢様、こちらでお待ちください。旦那様から、屋敷へ入れてはならないと言いつけられております」
「着替えだけでも取りに行けませんか。泥を落とさないと、馬車の座席まで汚してしまいます」
エレナが尋ねると、老執事は目を伏せた。扉の隙間から、暖炉で燃える薪の匂いと焼き菓子の甘い香りが流れてくる。家族はまだ夜食を楽しんでいるのだろうと考えているうちに、奥から父の怒鳴り声が聞こえた。
「そこにいるのか、この役立たずが!」
父は夜着の上に茶色のガウンを羽織り、玄関から出てきた。片手には葡萄酒の杯を持ち、口ひげには菓子の粉がついている。エレナはいつもの癖でそれを教えようとしたが、父の赤い顔を見て口を閉じた。
「申し訳ございません。婚約破棄については、私も夜会で突然告げられました」
「言い訳をするな。侯爵家との縁を失えば、北部の取引まで危うくなるのだぞ。二人の姉にも、婚約者を奪われた妹がいるという噂がついて回る」
父が杯を振ったため、赤い葡萄酒が石段へこぼれた。エレナは布を持ってこなければと思い、腰のポケットを探った。けれどハンカチは、王宮の花壇で泥を拭ったため、すでに茶色く汚れていた。
「あなたは昔から、笑い方一つ満足に覚えられないのね」
母も玄関へ現れた。薄紫色の部屋着には銀糸で菫が刺繍され、結い上げた髪から薔薇の香油が漂っている。母はエレナの全身を眺めると、鼻の前で扇を開いた。
「その格好で屋敷に入らないでちょうだい。敷物が汚れるでしょう」
「お母様、私の部屋で着替えてから、すぐに床を拭きます」
「あなたの部屋は、もう客間に戻しました。衣装も必要なものだけ離れへ運ばせましたから、今夜からそちらで暮らしなさい」
庭の奥にある離れは、亡くなった祖母が晩年を過ごした場所だった。十年以上使われておらず、夏には蔦が窓を覆い、冬には屋根から雪解け水が落ちる。母は使用人にも使わせられないと言っていたはずだった。
「離れには、寝台が残っていますか」
「雨をしのげるだけありがたいと思いなさい。婚約を破棄された娘を置いてやるのだから、親として十分なことをしています」
母はそう言うと、秋の冷気を嫌うように肩をすぼめた。父も空になった杯を執事へ押しつけ、屋敷へ戻っていく。扉が閉まる直前、暖炉の前に並べられた焼き菓子と、姉たちの桃色の室内履きが見えた。
老執事は何か言いかけたが、背後に立つ母の侍女を見て黙った。代わりに、燭台を一つエレナへ差し出した。蝋燭は半分まで短くなり、溶けた蝋が銀の受け皿へ固まっていた。
「離れまでお持ちします」
「いいえ。あなたまで叱られます。ここからは一人で行けます」
エレナは燭台を受け取り、庭の小道へ向かった。右足の靴下は泥水を吸い、歩くたびに冷たい石が足の裏へ当たった。垣根のそばに咲く赤紫色の竜胆を踏まないよう避けたところで、自分でもおかしくなった。
花を踏まないように気をつける余裕があるのに、自分の足から血が出ていることには、今まで気づかなかった。
離れの扉は湿気を吸って膨らみ、両手で押さなければ開かなかった。中には古い木と黴の匂いがこもり、床の隅には枯れ葉が吹き込んでいる。祖母が使っていた揺り椅子には白い布が掛けられ、その上を小さな蜘蛛が歩いていた。
寝台には藁の詰まった敷布が残っていた。手のひらで押すと、湿った藁が音を立て、冷たい水が染み出した。窓枠には黄色い小花をつけた蔦が入り込み、室内まで枝を伸ばしていた。
「お祖母様のお部屋、こんなに狭かったのですね」
返事はなかったが、声に出すと少しだけ呼吸がしやすくなった。祖母は生前、寝る前に蜂蜜を入れた温かい乳を飲んでいた。エレナが遊びに来ると、戸棚から胡桃を一粒だけ取り出し、「よく噛むと二粒分になるのよ」と笑って半分に割ってくれた。
エレナが濡れた敷布を外していると、侍女が食事を運んできた。盆には冷えたスープと黒パンが一切れ載っている。スープの表面には白い脂が膜を作り、匙を入れると一緒に沈んだ。
「台所に残っていたものです。奥様から、お嬢様にはこれで十分だと」
「ありがとう。手を煩わせてごめんなさい」
侍女は「私が決めたことではありませんから」と小さく答えた。エレナが扉を閉める前に、彼女は割れた湯たんぽを足元へ置いた。使えない品だったが、その気持ちを断ることはできなかった。
エレナは硬いパンをスープへ浸し、少しずつ口へ運んだ。脂の冷たさが舌へまとわりつき、肉の古い匂いが鼻へ抜ける。それでも残しては申し訳ないと思い、皿を空にした。
もっと明るく笑えていれば、ジュリアンはセラフィナを選ばなかったのかもしれない。新しいドレスを欲しいと言い、夜会で踊り、胃に優しい食事の話などしなければよかった。そう考えながら濡れた藁の上へ毛布を敷くと、胃の奥が急にねじれた。
エレナは口元を押さえ、戸口の桶へ駆け寄った。食べたばかりのスープを吐くと、冷たい汗が額から首筋へ流れた。喉には酸っぱい味が残り、足に力が入らなくなった。
「申し訳ありません。せっかく、いただいたのに」
誰に謝っているのか、自分でも分からなかった。桶を洗おうと水差しへ手を伸ばしたが、指が震えて取っ手をつかめない。水差しは床へ倒れ、残っていた水が寝台の下まで流れていった。
その夜、エレナは何度も目を覚ました。雨粒が屋根を叩くたびにジュリアンが机を指で叩く音に聞こえ、風が窓を揺らすたびに母から呼ばれた気がした。返事をして体を起こしても、室内には短くなった蝋燭と濡れた床しかなかった。
朝になると、雨は上がっていた。窓の外では、濡れた秋明菊の花びらを雀がつついている。エレナは壁に残された小さな鏡を布で拭き、自分の顔を映した。
頬には泥が乾いて残り、唇は白くひび割れていた。目の下には青い影ができ、紺色のドレスは泥と吐いたスープで汚れている。それでも朝食の時刻が近づくと、体が勝手に動いた。
父は半熟の卵を好み、母は林檎を薄く切らないと食べない。長姉には蜂蜜入りの紅茶、次姉には温めた山羊乳が必要だった。自分が用意しなければ皆が困ると思い、エレナは扉へ向かった。
「早くしなければ、お父様が怒ってしまうわ」
一歩進んだところで、視界が暗くなった。エレナは揺り椅子へ手を伸ばしたが、指先は白い布を滑った。膝を床へ打ちつけ、そのまま冷たい板の上へ倒れた。
窓の外で、朝食を知らせる鐘が鳴った。屋敷の煙突から白い煙が上がり、焼いたベーコンの匂いが風に乗って離れまで届いた。誰かが砂利道を歩く音も聞こえたが、離れの前では止まらなかった。
エレナは呼びかけようと口を開いた。けれど、声は出なかった。半分まで割れた湯たんぽが朝日を受け、床の上で鈍く光っていた。




