第1話 「お前がいると運気が下がる」
第1話 「お前がいると運気が下がる」
秋薔薇が咲く王宮の庭を、エレナは書類の束を抱えて急いでいた。紺色のドレスは三年前に仕立てたもので、何度も裾を直したため、縫い目の周りだけ布の色が薄くなっている。金木犀の甘い香りに混じって、雨上がりの土の匂いがした。
夜会へ招かれていたわけではない。ジュリアンが翌日の領地経営会議に使う資料を、自宅の机へ置き忘れたのだ。夕食の豆のスープを二口飲んだところで侯爵家の使者が来たため、エレナは冷めた皿へ布をかけ、急いで王宮まで馬車を走らせてきた。
「こちらを、ジュリアン様にお渡しください」
入口の侍従に頼むと、エレナはそのまま帰るつもりだった。しかし、広間の奥からジュリアンのよく通る声が聞こえ、書類を抱え直した。彼は忘れ物を人に見られると機嫌を損ねるため、自分で目立たないように渡したほうがよいと思った。
大広間には、焼いた鴨肉と香油の匂いが満ちていた。楽団が軽快な曲を奏で、給仕たちは葡萄酒や砂糖菓子を運んでいる。昼から書類を整理していたエレナの腹が小さく鳴ったが、誰にも聞かれなかったかと周囲を見回してから、壁際を歩いた。
ところが、ジュリアンはいつもの場所にいなかった。広間の中央で、桃色のドレスを着たセラフィナの腰を抱いていた。セラフィナの金髪には真珠が散りばめられ、動くたびに百合の香油が強く漂った。
「ジュリアン様、資料をお持ちしました。明日の会議で必要だと伺いました」
エレナが声をかけると、楽団の演奏が止まった。何十もの顔が一斉にこちらを向き、エレナは反射的に背中を丸めた。ジュリアンが人差し指で机を二度叩くときは怒っているというように、エレナは他人の小さな癖ばかり覚えていた。
「ちょうどいい。皆にも聞いてもらおう」
ジュリアンはセラフィナを抱いたまま、口元をゆがめた。エレナは書類の角をそろえ、黙って次の言葉を待った。早く渡して帰れば、布をかけてきたスープを温め直せると考えた。
「エレナ・ランバート。私は今日をもって、お前との婚約を破棄する」
広間が静まり返ったあと、誰かが落とした銀の匙が床で跳ねた。エレナはジュリアンの言葉を理解できず、抱えていた書類を見下ろした。三日間、夜更けまで数字を確認し、間違いを見つけるたびに赤いインクで印をつけた資料だった。
「婚約を、破棄なさるのですか」
声がかすれたため、エレナは唇を湿らせた。ジュリアンは肯定する代わりに、セラフィナの肩を抱き寄せた。彼女の首には、エレナが贈られたことのない大粒の紅玉が輝いている。
「お前のような地味で陰気な女といると、こちらまで運気が下がる。いつも背中を丸め、古びた服ばかり着て、食事の話をすれば胃に優しいものを食べろとうるさい。私はセラフィナのような、明るく華やかな女性と生きる」
エレナは、自分の袖口へ目を落とした。そこには昨夜こぼした赤いインクの染みが残っていた。ジュリアンの帳簿を直していてついたものだと説明しようとしたが、セラフィナの笑い声に遮られた。
「まあ、本当に陰気なドレスですこと。今夜は夜会ですのよ。帳簿を抱えた女中が入り込む場所ではありませんわ」
周囲から控えめな笑いが起きた。エレナは書類だけでも渡そうと、一歩前へ出た。婚約を破棄されても、明日の会議がなくなるわけではない。
「こちらには、北部の小麦価格と輸送費をまとめてあります。契約書の数字にも誤りがありましたので、赤い印の箇所を修正してください」
「まだ私に指図するのか」
ジュリアンは書類を奪い、床へ投げ捨てた。紙が白い鳥の群れのように舞い、磨かれた床へ散らばった。セラフィナは一枚を靴の先で踏み、赤い印を見て鼻を鳴らした。
「こんな細かい数字、ジュリアン様ならご自分でできますわ。それより踊りましょう。せっかく新しい靴を履いてきたのですもの」
セラフィナが足を引いたとき、その踵がエレナのドレスの裾に引っかかった。布が裂ける音がして、エレナの体が傾いた。伸ばした手は柱へ届かず、開け放たれていた庭への階段を転がり落ちた。
肩と腰を石段へ打ちつけ、息が詰まった。最後の一段から雨上がりの花壇へ落ちると、冷たい泥が頬と胸元へ入り込んだ。折れた秋薔薇の枝が腕を引っかき、鉄に似た血の匂いが金木犀の香りへ混じった。
「エレナ、大げさな真似はやめろ。自分で転んだだけだろう」
階段の上からジュリアンが言った。誰も庭へ降りてこなかった。楽団は演奏を再開し、給仕が割れた杯を片づける音まで聞こえた。
エレナは泥の中で両手をつき、体を起こした。階段には資料が散らばり、夜露を吸った紙が少しずつ丸まっている。このままでは文字がにじむと思い、いつものように手を伸ばした。
指先が、一枚目へ触れる寸前で止まった。ジュリアンが資料を忘れた朝も、エレナは彼を起こし、上着を選び、胃薬を鞄へ入れた。昼食を取る時間も惜しんで資料を作ったのに、彼はそれを床へ捨てた。
「何をしている。早く拾え。明日の会議に必要なのだろう」
その声を聞いた瞬間、エレナの手がゆっくりと戻った。泥のついた指で裂けた裾を握り、自分の足で立ち上がった。片方の靴は花壇に埋まっていたが、拾わなかった。
「ええ。必要なのは、ジュリアン様です」
エレナは階段の上に立つ彼を見た。相手の眉や口元を確かめず、まっすぐ顔を見たのは初めてだった。ジュリアンは命令を待つ使用人を見るように、片手を振った。
「だったら、さっさと拾え」
「いいえ。婚約者でもない私には、関係のない資料です」
広間から再び笑い声が聞こえたが、今度は自分へ向けられたものか確かめなかった。エレナは片足だけ靴を履き、冷たい石畳を歩き始めた。濡れた土が靴下へ染み込み、足の裏へ小石が当たった。
王宮の門を出ると、屋台から焼き栗の匂いが漂ってきた。エレナは財布を開き、夕食代として残していた銅貨で小さな袋を一つ買った。紙袋を両手で包むと、冷え切った指へ栗の温かさが移った。
最初の一粒は、少し焦げていた。それでも、ジュリアンの好みを考えずに自分で選んだ食べ物は、驚くほど甘かった。エレナは焼き栗をもう一粒口へ入れ、振り返らずに夜の道を歩いた。




