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第10話 ふたり分の「ごきげん」

第10話 ふたり分の「ごきげん」


一年後の初夏、カーライル辺境伯領に小さな養生院が開かれた。白い壁の建物の前には、カモミール、ラベンダー、赤いゼラニウムが咲いている。開け放した窓からは、薬草の香りと、厨房で煮ている玉葱のスープの匂いが流れていた。


玄関に掲げられた看板には、「鈴蘭養生院」と書かれている。鈴蘭は亡き祖母が好きだった花であり、裏庭にも白い花が並んでいた。エレナは看板の端についた鳥の糞を濡れ布で拭きながら、受付に集まった人々の声を聞いていた。


「エレナ先生、親方から今日中に帳簿を仕上げろと言われたんです。でも昨夜もほとんど寝ていなくて」


相談に来たパン屋の女性は、白い前掛けへ小麦粉をつけていた。指先は赤く荒れ、何度も欠伸をかみ殺している。それでも休めば同僚に迷惑をかけると、朝から水しか飲んでいなかった。


「まず、こちらを召し上がってください」


エレナは小さな丸パンと、温めた山羊乳を卓上へ置いた。女性は遠慮して手を引っ込めたが、腹が正直な音を立てた。隣に座っていた老騎士が笑い、自分も同じことがあったと話した。


「でも、仕事が残っています」


「仕事が残っていることと、あなたが食事を抜くことは別の問題です。今日中にできないなら、期限を相談しましょう」


「断ったら、怠け者だと思われませんか」


「断ることと、仕事を捨てることは違います。できる量と必要な時間を伝えるのも、仕事の一つです」


エレナは祖母の「ごきげん帳」を開いた。使い込んだ革表紙には新しい傷が増え、何人もの手でめくられた頁の端が柔らかくなっている。そこには薬草料理だけでなく、休むこと、頼み事を断ること、自分の食事を後回しにしないことが記されていた。


養生院では、すべての患者へ同じ方法を押しつけなかった。朝が苦手な者もいれば、温かい乳を飲むと腹を壊す者もいる。エレナは医師や料理人と相談し、一人ずつ食事、睡眠、仕事の時間を記録していた。


「先生、昨日はちゃんと昼寝をしました」


以前、療養所で月の絵に印をつけていた騎士が、記録表を得意げに見せた。今では片腕の傷も治り、養生院の畑を手伝っている。ところが表を見ると、昼寝の欄へ大きな月が三つも描かれていた。


「三時間も眠ったのですか」


「四時間です。先生が眠れるときに眠れと仰ったので」


「夜にも七時間眠っていますね。あなたの場合は、少し起きて働いてください」


待合室に笑い声が広がった。騎士は不満そうに口をとがらせながら、薬草の苗を運びに庭へ出た。エレナも笑い、記録表へ「昼寝は一時間まで」と書き加えた。


夕方、最後の相談者を見送ると、エレナは厨房の椅子へ腰を下ろした。働き始めた頃は、全員が帰るまで自分だけ休めなかった。今は疲れを感じた時点で、残った片づけを明日の仕事として帳面へ書いている。


「先生、まだ洗い物が残っています」


若い助手が、流しに積まれた椀を指さした。窓辺には乾かしかけの布巾が並び、一枚だけ床へ落ちている。エレナはそれを拾ったが、椀には手を伸ばさなかった。


「明日の私に任せます。今日の私は、もう帰ります」


エレナは祖母の帳面を鞄へ入れ、養生院の鍵を閉めた。外にはヴィンセントが馬車を止めて待っている。以前より顔色がよくなり、濃紺の騎士服にも皺一つなかった。


「今日は遅かったな」


「最後の方のお話が長くなりました。ヴィンセント様は、いつから待っていたのですか」


「鐘が一度鳴る前からだ」


「それでは一時間以上です。先に帰ってくださればよかったのに」


「待ちたかったから待った。君に頼まれたわけではない」


ヴィンセントはそう言うと、御者台へ自分で乗った。二人は辺境伯邸ではなく、養生院の近くに建てた小さな家へ向かった。エレナが仕事の日に休むため借りている家だったが、ヴィンセントも休日にはそこで食事をするようになっていた。


一年の間に、ヴィンセントの不眠は改善していた。エレナが毎晩付き添ったからではない。彼自身が副団長へ仕事を任せ、食事の時刻を守り、眠れない翌日は訓練を減らすようになったからだった。


最初の頃、ヴィンセントは休むたびに執務室へ戻ろうとした。エレナは扉を塞がず、「戻るかどうかはご自分で決めてください」とだけ言った。彼は何度も廊下を往復し、やがて自分の意思で寝室へ戻れるようになった。


「明日は休暇ですか」


馬車の上でエレナが尋ねると、ヴィンセントは胸元から勤務表を取り出した。以前なら予定を暗記し、紙など不要だと言っていただろう。今は忘れても困らないよう、自分で書いた予定表を持ち歩いている。


「明日と明後日は休む。副団長にも、呼びに来るなと言ってある」


「国家存亡の危機でもですか」


「その場合は呼んでもよい。しかし、倉庫の鍵が見つからない程度なら、自分たちで探してもらう」


家へ着くと、庭の鈴蘭は花を終え、鮮やかな緑の葉を広げていた。軒下には洗った靴下が三足干されている。ヴィンセントが左右をそろえて干したため、風が吹いても行儀よく並んでいた。


翌朝、エレナが目を覚ますと、台所から焦げた匂いがした。寝間着の上に薄い生成り色の上着を羽織り、急いで扉を開ける。そこではヴィンセントが黒い煙を上げる平鍋と向き合っていた。


「何を作っていらっしゃるのですか」


「卵料理だ」


「卵だったもの、ではありませんか」


食卓には、片面が黒く焦げた卵が二皿並んでいた。隣には厚く切りすぎたパンと、皮をむかずに四つ割りにした林檎が置かれている。ヴィンセントは真剣な顔で、卵の端へ香草を載せた。


「見た目は悪いが、食べられるはずだ」


エレナは一口だけ食べた。焦げた部分が舌へ張りつき、噛むほど苦みが広がった。以前なら、相手を傷つけないために笑顔でおいしいと言っていただろう。


「苦いです」


「やはり、そうか」


ヴィンセントも一口食べ、すぐ水を飲んだ。エレナが笑うと、彼は焦げた卵を見つめたまま眉を寄せる。やがて自分でも笑い出し、二人で皿の中身を堆肥用の桶へ移した。


「作り直しましょう。根菜が残っています」


「私が切る。君は鍋を頼む」


「人参は小さめにしてください。以前のように、一本を三つに切るだけでは煮えません」


二人は台所へ並んだ。ヴィンセントが不揃いな人参を切り、エレナが鉄鍋で玉葱を炒める。じっくり煮ると焦げ臭さが消え、根菜とタイムの温かな香りが部屋へ広がった。


スープを食べ終える頃には、朝日が卓上まで届いていた。エレナは最後の一口を飲み、椀を重ねようとした。ヴィンセントが手を伸ばし、その椀を自分の前へ引き寄せた。


「洗い物は私がする。その前に、話がある」


ヴィンセントは上着のポケットから小さな木箱を出した。蓋を開けると、銀色の指輪が朝日を受けて光った。中央には大きな宝石ではなく、鈴蘭の模様が彫られている。


「君に私の人生を整えてほしいとは言わない。食べることも、眠ることも、仕事を断ることも、自分で引き受ける」


ヴィンセントは、指輪をエレナへ押しつけなかった。木箱ごと卓上へ置き、手を膝へ戻した。焦げた卵の匂いがわずかに残る台所で、まっすぐエレナの顔を見た。


「そのうえで、君と同じ食卓へ帰りたい。私と結婚してくれるだろうか」


エレナの胸が強く鳴った。以前なら、相手を待たせることが怖くて、言葉が終わる前に頷いていただろう。今は窓から入る朝日、湯気の残る鉄鍋、静かに答えを待つヴィンセントを順番に見た。


彼と暮らせば、意見が違う日もあるだろう。仕事を優先して、食事に遅れる日もあるかもしれない。けれどヴィンセントは、エレナが考える時間を奪わず、断る権利も残していた。


エレナは自分の胸へ手を当てた。誰かに求められているからではなく、自分が何を望んでいるかを確かめる。答えは、焦げた卵を一緒に捨てた朝の中にあった。


「はい。私も、あなたと帰る家を作りたいです」


ヴィンセントは息を吐き、ようやく表情を緩めた。指輪を取る前に、「今、指にはめてもよいか」と尋ねる。エレナが頷くと、彼は震える指で銀の輪を通した。


その日の午後、二人は祖母の「ごきげん帳」を開いた。新しい頁には、エレナが一行を書き、ヴィンセントがその続きを書いた。彼の文字は大きく、最後の一文字だけ枠からはみ出していた。


**自分をごきげんにすること。大切な人のごきげんを奪わないこと。そして、ときどき一緒に焦げた卵を食べること。**


エレナは書き終えた頁へ、鈴蘭の花を一輪挟んだ。台所には洗っていない椀が二つ残っていたが、急いで片づける必要はない。二人は庭へ椅子を運び、初夏の日差しの中で、少し遅い休暇を始めた。


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