第99話 一人にしては、広すぎる
放課後の教室、クラス中が見ている前で立花に二人で出かけようと誘われた三桜さんが、答えに詰まってすがるような目を向けてきた——その視線から俺が逃げてしまってから、数時間。
夕飯も風呂も済ませて自室の机に向かってなお、昼間の気まずさは胸の奥に薄くへばりついたままだった。
俺は小さく息を吐き出す。
窓の外からは、夜になっても鳴き止まない蝉の声が微かに聞こえてくる。
エアコンの冷風が肌を撫でているというのに、俺の頭の中はひどく熱を持ったままだった。
立花が三桜さんに向けた、あの真っ直ぐで嘘のない言葉。
あのとき、俺は何を言えばよかったのだろうか。
ただのクラスメイトとして間に入る権利なんてなかったし、かといって、怯える彼女を見過ごしていいはずもなかった。
嫌だと言えない彼女にとって、逃げ場のない場所で差し出された本気ほど、受け止めるのが苦しいものはなかったはずだ。
それなのに、俺はただの傍観者として、安全な場所に立ち尽くしていた。
隣で一花さんが笑い交じりにこぼした「誠らしいな」という一言が、耳の奥で何度もリフレインしている。
自分がどう振る舞うべきだったのか、いまだに正解が見えてこない。
首を振って、マウスを握り直す。
現実の複雑な人間関係から逃避するように、俺は画面上のショートカットアイコンをダブルクリックした。
見慣れた『エデン・オンライン』のタイトルロゴが浮かび上がる。
ログイン処理を終え、はやる気持ちを抑えながらフレンドリストを開いた。
そこには、俺が探していた名前が、鮮やかな緑色で点灯している。
『【ルナ】 オンライン』
その文字を見た瞬間、心にまとわりついていた昼間のノイズが、すうっと潮が引くように消えていくのを感じた。
待ち合わせ場所である、拠点街の噴水広場。
石畳の上に降り立つと、そこにはすでに彼女のアバターが待っていた。
月光を溶かしたような銀色の髪に、ゆったりとした白いローブ。
俺のネトゲ嫁である、魔導神官の【ルナ】だ。
『リオン、こんばんは』
画面の下部、チャットウィンドウに彼女からのメッセージが表示される。
『ああ、こんばんは。待たせたか?』
『ううん、今来たとこ。今日も会えて嬉しい』
『俺もだ。週末に復帰してくれてから、やっぱり安心する』
キーボードを叩きながら、俺の口元は自然と緩んでいた。
日曜の夜に彼女が二週間の空白から復帰してからの、ささやかだけれど確かな約束。
毎日のデイリークエストは、一緒にやるという取り決めだ。
『えへへ、リオンにそう言ってもらえると、戻ってこられて本当によかったって思う』
『でも、無理してないか? 夕飯はちゃんと食べたか?』
『うん、さっき食べたよ。実は少し眠かったんだけど……リオンの名前見たら、すっかり目覚めちゃった』
『ならよかった。疲れてるならすぐ落ちてもいいからな』
『大丈夫。リオンと遊ぶ時間が、今の私の一番のエネルギー源だから』
そんな軽口の一つ一つに、指先が勝手に温まっていく。
『今日はどうする? リストは更新されてるはずだけど』
『そうだなぁ……地下水脈の討伐からにしよっか。あそこの敵、リオンと一緒なら楽だし』
『地下水脈か。最近行ってなかったな』
久しぶりの場所に、俺は軽く頷くエモートを返した。
『うん。でも、あそこの素材が高く売れるから、少し稼いでおきたいの』
『ルナは相変わらずちゃっかりしてるな』
『家庭的って言ってよ!』
『はいはい、家庭的。将来いい奥さんになれるんじゃないか?』
『もう、からかわないで! ……でも、リオンにそう言ってもらえるなら、頑張って稼ぐ価値はあるかも』
照れ隠しに紛れ込ませてくる本音の直球に、俺の口元も自然とほころんだ。
『俺のために稼ぐのかよ。なら、今日は全力でサポートするからな』
『頼もしいな。じゃあ、出発しよっか!』
画面の向こうから送られてくる文字の羅列。
ただそれだけなのに、そこに込められた感情の起伏が手にとるようにわかる。
俺は重騎士【リオン】を操作し、ルナと共に広場を駆け出した。
いつもと変わらない、穏やかな時間。
だが、俺は今日、少しだけ注意深く彼女の文字を見ていた。
二週間の空白を経て戻ってきた彼女は、確かに俺の知るルナだ。
けれど、あの空白の期間があったからこそ、俺の中の観察の目が、静かに、確実に稼働し始めていた。
◇
デイリークエストの舞台となる地下水脈は、青白い発光苔に照らされた薄暗い迷宮だ。
水滴が落ちる環境音が響き、足元には浅い水たまりが続いている。
俺たちは狭い通路を抜け、少し開けた空洞に出た。
『リオン、ストップ』
ルナの短いチャットと同時に、彼女のアバターがぴたりと足を止めた。
俺も慌ててキャラクターの操作を止める。
『ん? どうした?』
『右の壁沿い、三つ目の窪み。あそこに隠しトラップあるから、左から回ろ』
『トラップ? あそこは何もない通路だろ?』
『今のバージョンだと表示だけ消えてるんだけど、昔の仕様の名残で判定は残ってるの。……それに、リオンが昔あそこで見事に引っかかって、大慌てしてたの覚えてるし』
淡々と告げられた指摘に、俺は思わず口元を歪めた。
『……嘘だろ。いつの話だそれ?』
『もう一年以上前だよ。リオンの悲鳴のスタンプがチャット欄に三連打されて、すっごく面白かったんだから』
『……ひどいな、人がパニックになってるのを笑ってたのか』
『だって、いつも前を歩いてかっこいいリオンが、あんな罠に引っかかるなんて思わなくて。なんだか可愛かったんだもん』
からかうような彼女の言葉に、俺の顔が少しだけ熱を持つのを感じた。
『可愛いって言うなよな。……まあ、あの時は本当に焦って、全滅するかと思ったけど』
『ふふっ。でも、あれからリオン、すごく慎重になったよね』
『そりゃあ、一度痛い目を見ればな。……でも、よく覚えてたな。助かった』
『伊達に長く遊んでないからね。リオンを危険な目に遭わせたくないし』
公式サイトの掲示板をどれだけ漁っても出てこないような、何年も前のマイナーなパッチ情報の記憶と、一年以上前の他愛のない雑談の記憶。
彼女はそれを、まるでつい昨日のことのように、いや、頭の中の書架から一冊を取り出して開いてみせるように、あっさりと引き出してみせた。
彼女の指示通りに左側を大きく迂回し、奥へと進む。
やがて、クエストの討伐対象である水棲の魔物の群れが姿を現した。
数は六体。
ぬらりとした体を揺らしてこちらへ向かってくる。
少し厄介な数だ。
『リオン、敵を一気に集めて! 回復も攻撃も、私が全部合わせるから!』
『了解。【ウォークライ】』
挑発スキルを発動し、敵のヘイトを一点に集める。
鈍い金属音と共に、大盾に魔物たちの攻撃が一斉に降り注いだ。
ダメージ判定のエフェクトが弾け、HPバーが大きく削れた、その瞬間だった。
『……そこっ』
ルナの杖が光り、俺の頭上に特大の回復魔法が降り注ぐ。
ダメージを受けたフレームとほぼ同時。
完全に攻撃のタイミングを予測し、詠唱のディレイを逆算した完璧なヒール。
魔導神官のネックである、回復から攻撃へ転じる際の重い硬直時間。
ルナはそれを限界まで削り落とし、流れるように次弾の詠唱を完了させてみせた。
『吹き飛べぇ!』
群れをまとめて薙ぎ払う範囲魔法が炸裂する。
しかもその詠唱と詠唱の合間には、俺の防御力を底上げするバフまでが、一切の無駄なく挟み込まれていた。
複数の判断を同時にさばく、機械のように精密で、恐ろしいほどの反応速度。
俺は大盾で敵の残党を弾き飛ばしながら、彼女の洗練されたプレイに息を呑んだ。
『よし、討伐完了!』
『ルナ、今の動き……すごいな。完璧だった』
『そうかな? リオンが前で全部防いでくれるから、私は好きに魔法を撃つだけだし』
『それにしても、ヒールと攻撃の切り替えが速すぎる。詠唱のディレイを感じなかったぞ』
『ふふ、今日はちょっと調子がいいかも』
その慎ましい返しの奥に、静かな自信のようなものが滲んでいる気がした。
『それだけじゃない。バフのタイミングだって絶妙だった。まるで俺の動く先が全部見えてるみたいだったな』
『えへへ……長く一緒に組んでるんだから、リオンの癖くらいわかるよ。それに……』
『それに?』
『今日は絶対、私がリオンを守りたかったから』
『守るって……俺はタンクだぞ。最前線でルナを守るのが俺の役目だろ』
『ううん。たまには、私がリオンを守るの。……なんてね』
戦闘を終えたルナのアバターが、俺の隣でぴょんぴょんと跳ねる。
そして、チャット欄に表示された次の一文。
『でも、ちょっと頑張りすぎちゃったかも。……ねえ、リオン』
『どうした?』
『リオンの背中見てたら、なんだかすごく、安心しちゃって……その、もう少しだけ、一緒にいてもいい?』
『デイリーは終わったけど、まだ時間はあるぞ』
『うん。戦わなくていいから、少しだけ、リオンの隣に座ってたいな』
ルナのアバターが跳ねるのをやめて、俺のキャラクターのすぐ隣に腰を下ろした。
画面越しの文字。
それなのに、甘えるような吐息と、柔らかな体温が直接伝わってくるかのような、極端に湿度の高い言葉。
アバター同士の肩が触れ合う距離。
さっきまでの精密機械めいたプレイとは打って変わった、無防備で柔らかい響き。
俺はマウスから手を離し、暗い自室の天井を仰ぎ見た。
◇
一人分の情報密度。
それが、どうにもおかしい。
一年以上前のスタンプの連打まで覚えている、広大な記憶領域と、そこに宿る愛着。
複数の状況を同時に処理し、最適解を叩き出す、人間離れした判断の速さ。
そして、それらとは完全にベクトルが異なる、甘く無防備な、感情の温度の幅。
これだけのものを、たった一人の人間が、同じ瞬間に持ち合わせているのだろうか。
一人にしては、広すぎる。
一人の人間のキャパシティを、軽々と超えている気がするのだ。
三人で一台のモニターを背後から覗き込んで、代わる代わる動かしているのか。
いや、それは無理だ。
以前、綾瀬家にお邪魔したとき、彼女たちの自室にあったのは各自の普通のノートパソコンやタブレットだけだった。
三人で肩を並べて大掛かりなゲームを遊べるようなデスクトップ環境が、家のどこにあるわけでもなかった。
なら、本当のルナは一人だけで、他の誰かはその子から日々の出来事を聞かされているだけなのか。
それも腑に落ちない。
毎晩これだけの密度のやり取りをして、リアルタイムで反応を返してくる彼女の存在感は、伝聞や代理体験で補えるレベルのものではない。
考えても、答えは出ない。
近づこうとすればするほど、画面の向こうにいる彼女の輪郭は、掴みどころのない霧のようにぼやけていく。
『リオン? どうしたの?』
沈黙した俺を気遣うように、ルナからメッセージが届く。
『……いや。こっちこそ、もう少し一緒にいたいって思ってたところだ』
『ほんと? やった、嬉しいな』
『ああ。それに、ここのBGM、結構落ち着くしな』
『うん。水の音もきれい。……なんだか、ずっとこうしていたい気分』
静かな水の反響と、隣で座り込んだままの彼女のアバター。
それだけで、ここが世界の隅の秘密の場所に思えてくる。
『明日も早いんだろ? 無理はするなよ』
『平気。リオンが隣にいてくれるなら、時間なんて忘れちゃうから』
『……そういうこと言われると、こっちが困るんだけどな』
『あ、照れてる。リオン、耳が赤くなってるんじゃない?』
『アバターだから見えないだろ、そんなの』
『ふふっ、見えなくてもわかるもん』
俺の返信に、ルナのアバターが嬉しそうに杖を振る。
その無邪気な動きを見ていると、難しい思考がどうでもよくなってくるのを感じた。
画面の向こうにいるのが誰であれ、どんな事情が隠されていようと。
今、俺に向けられているこの温度は、間違いなく本物だ。
昼間の気まずさを忘れさせてくれる、この心地よいやり取り。
この時間だけは、手放したくない。
俺は画面へ視線を戻し、彼女とのささやかな夜の続きを打ち込んだ。
自室の静けさの中、キーを叩く微かな音だけが、優しく響いていた。




