第98話 立花の本気と、動けなかった俺
七月も中旬に入り、容赦ない日差しが窓の外を白く焦がしていた。
エアコンの冷風が届きにくい窓際の席で、俺は額に浮いた汗を手の甲で拭った。
数日前の日曜の夜。
ルナが二週間ぶりに復帰したあの夜の浮き足立った余韻は、心地よい安心感へと変わっていた。
毎晩ログインすれば、いつも通りの緑色のランプが灯っている。
それが確かめられるようになっただけで、この数日、俺の足取りはずっと軽かった。
現実の三姉妹と、画面の向こうのルナ。
両方が揃った日常は、こんなにも安定していて、こんなにも平穏なのだと今更ながらに実感する。
そう、回っているはずだった。
昼休みの教室。
俺と、左隣に座る二葉さんの席へ、一花さんと三桜さんが机を寄せる。
そうしていつものように、四人で昼食をとっていたときのことだ。
その平和な輪のすぐ外側から、大きな声が降ってくる。
「綾瀬さん! 今日のお弁当、すっげえ美味そうだな! それ、自分で作ったの?」
声の主は、三桜さんの隣の席の立花陽斗だった。
彼は近くにあった椅子を逆向きに跨ぎ、三桜さんの手元をきらきらとした目で見つめている。
少し明るめの茶髪に、ゆるく崩したネクタイ。
いかにもクラスの中心にいる陽キャといった風貌の彼は、なぜか最近、三桜さんにばかり構うようになっていた。
「えっ? あ、えっと……うん、今日は、私が作ってきたの」
「へえ! 綾瀬さん、料理できるんだ! 俺なんか料理まったくできねえからさ、手作りの弁当って本当にすげえと思うわ」
三桜さんは少し肩を竦め、困ったように眉を下げて曖昧に笑う。
今日の弁当は、三桜さんが朝から張り切って作ってきたものだった。
メインの生姜焼きは、二葉さん直伝の味付けらしい。
……そして、俺の分にはわざわざ、大好物のしょっぱい卵焼きまで一切れ多く詰めてくれている。
そんな三桜さんの弁当を褒められて、なぜか氷点下の反応をしているのが、隣の二葉さんだった。
「立花くん。常識的に考えて、食事中に他人の弁当を大声で覗き込むのはマナー違反よ」
「あ、ごめん! でもほんと美味そうだったからさ。綾瀬さん、その卵焼き、俺の唐揚げと一口交換しない?」
「えぇっ!?」
「あはは、タチバナくんウケる。三桜の卵焼き狙い? でもそれ、誠の好物だから三桜が甘めじゃなくて、しょっぱく作ってきたやつだよ?」
向かいの席から、一花さんが面白そうに口を挟んだ。
おい、なんで俺の好物に合わせてるってばらすんだ。
「ちょっと、一花お姉ちゃん、余計なこと言わないで!」
「本当のことじゃん。ねー、誠?」
「俺に振るなよ」
「へえ! 相沢の好物なんだ! じゃあ俺もますます食ってみてえな。ダメ?」
立花の辞書には『遠慮』という文字がないらしい。
悪気のない、純度百パーセントの直球。
その無遠慮な距離感に、三桜さんはパニックを起こしたように目を白黒させている。
気づけば、俺は箸を止めて二人を見ていた。
弁当はまだ半分残っているのに、口をつける気になれなかった。
持ったままの指先に、余計な力が入っている。
「う、ううん……立花くん、唐揚げ好きみたいだし、いっぱい食べた方がいいよ。私の分は、気にしないで……っ」
「ほんと? ……綾瀬さん、優しいんだな。じゃあお言葉に甘えて……って、あれ? いいの、ほんとに?」
三桜さんは気圧されたまま、こくこくと小刻みに頷いた。
「ちょっと三桜、あんたそれでいいの!?」
「あー、悪い。やっぱり一方的にもらうってのはできねえわ。だから交換な。俺の唐揚げの方、綾瀬さんが食ってくれ。ほら、好きなの取って」
「あ……えっと、私は、ほんとに、大丈夫だから……」
差し出されたおかずを前に、彼女の箸は止まったまま動かない。
平穏ではない。
少なくとも、三桜さんにとっては。
三桜さんの手元をしばらく見ていた立花が、ふっと自分の昼飯を引っ込めた。
「……いや、やめとく。無理にとは言わねえよ。綾瀬さんが食いたくなった時でいいから」
引いた、と思ったのも束の間だった。
「じゃあさ、代わりに——」
「立花くん」
二葉さんが箸を置き、静かに口を開いた。
きっちりと第一ボタンまで留めた夏服。
着痩せしたシルエットからは想像もつかないほどの威圧感を放ち、二葉さんは立花を冷たく見据えた。
「あなたの卵焼きに対する情熱は理解したけれど、三桜のパーソナルスペースを侵食しているわよ。少し離れなさい」
「あ、ごめん次女さん! つい気になっちゃってさ。……そっか、次女さん厳しいな。綾瀬さん、また今度な」
「後でも来なくていいわよ」
理詰めで壁を作る二葉さんに、立花はカラカラと笑って自分の席に戻っていく。
三桜さんは細く長い息を吐いて、ようやく椅子の背に体を預けた。
「よかったね、三桜。二葉が守ってくれて」
「う、うん……びっくりしたぁ……」
向かいの席では、一花さんが頬杖をついたまま、まだ立花のほうを眺めていた。
「タチバナくん、ほんっと分かりやすいよねー。ストレートでバカっぽくてさ。あたし、面白いおもちゃ見つけちゃったかも」
「一花。人をおもちゃと呼ぶのはやめなさい」
「えー、あたしは褒めてるんだけど」
褒め言葉に聞こえないのは、たぶん俺だけじゃない。
三桜さんは、まだ卵焼きに手をつけられずにいた。
◇
放課後。
終礼が終わり、帰りの支度を始める教室の喧噪。
今日一日を締めくくるその時間帯に、立花は行動に出た。
「綾瀬さん! ちょっといいかな?」
教室の前のほうで、よく響く声が上がった。
鞄を肩にかけた立花が、三桜さんの机の前に立っていた。
周囲の生徒たちが、何事かと視線を向ける。
「えっ、立花くん……帰る準備、まだ終わってなくて……」
「手伝おうか? ていうか、俺が鞄持つよ」
「だ、大丈夫だよ! 自分で持てるから……!」
「そっか、悪い。じゃあ、支度終わるまで待ってる。……その前に、ちゃんと伝えておきたいことがあってさ」
立花はまっすぐに三桜さんを見据えた。
「俺さ、綾瀬さんの笑った顔、いいなと思っててさ」
「……えっ」
「うまく言えねえけど、俺、本気なんだ。……綾瀬さん、今度、二人だけで、出かけよう」
いつもより一段低い、本気の声。
ただのクラスメイトへの誘いではないことは、誰の目にも明らかだった。
悪気のない押しの強さが、ついに明確な好意という形を持って突きつけられた瞬間。
教室の空気が、ピンと張り詰めた。
「え……あ、あの……えっと……」
困り果てた三桜さんの視線が、教室中の生徒たちを一巡する。
「みんな、見てるよぉ……?」
「みんなの前で、悪い。……でも、俺は綾瀬さんと行きたいんだ」
「でも、その……私、誠くん以外の男の人と、二人だけで出かけたこと、ないから……」
「だったら、俺が相沢以外の最初になりたいんだよ。頼む、一回だけでいいから!」
三桜さんは目を見開き、咄嗟に言葉を失っていた。
断れない彼女にとって、大勢の前で向けられた本気の誘いは、最も対処の難しい攻撃だ。
「立花くん」
二葉さんが立ち上がり、静かに声をかけた。
「これ以上、三桜を困らせるのは感心しないわ。帰り支度の邪魔よ」
だが、立花は振り返らなかった。
「次女さん、ごめん。でも俺、今は綾瀬さんの答えが聞きたい」
その横顔には、昼休みの軽薄さは微塵もなかった。
彼は彼なりに、真剣なのだ。
三桜さんは唇を震わせ、小動物のように怯えたまま、視線を泳がせた。
そして。
彼女の目が、ふらりと教室の後方へ向かい——俺の顔を捉えた。
助けて、と。
すがるような、湿った視線。
声にならないSOSが、距離を超えて俺の胸を貫くような錯覚。
俺が何かを言えば、この状況は変わるのかもしれない。
でも、何を?
俺は、三桜さんの何だというんだ。
俺は。
その視線の重さに、自分の立ち位置の曖昧さに耐えきれず。
思わず、三桜さんから目を逸らしてしまった。
「……そっか」
立花の声が、一段落ちた。
三桜さんの答えが出ないこと、教室中の視線が集まっていること。
それらを全部飲み込んだ上での、諦めではない声だった。
「悪い。今すぐ返事しろってのは、ワガママすぎたな。……綾瀬さん、ちゃんと考えてくれるだけでいい。今日はもう、その、忘れてくれてもいいから」
立花はそう言って、少し照れくさそうに頭を掻いた。
鞄を肩にかけ直し、あっさりと踵を返す。
教室を出ていく背中は、告白した男の未練とは違う、真っ直ぐな軽さを持っていた。
「……立花くん」
三桜さんが、消え入りそうな声で呟く。
絞り出されたのが、ありがとう、なのか、ごめんなさい、なのか、聞き取れないほどの声だった。
「三桜。立花くんのことは、しばらく放っておきなさい」
二葉さんが三桜さんの席まで歩み寄り、その背中にそっと手を添える。
いつもの冷ややかさとは違う、姉としての温度で。
「今、答えを出す必要はないわ。……先に、帰りましょう」
「……うん」
三桜さんは力なく頷き、二葉さんに促されるように鞄を抱え直した。
二人が並んで、教室の前扉から廊下へと消えていく。
その背中を見送っているうちに、周囲のクラスメートたちも、気まずさをやり過ごすように帰り支度に戻っていった。
嵐が去った教室に、いつもの喧噪が少しずつ戻ってくる。
俺は、まだ動けなかった。
助けを求めるように揺れていた三桜さんの湿った視線が、瞼の裏に焼き付いて剥がれない。
あの目から、俺は逃げた。
立花のように真っ直ぐでもなく、二葉さんのように守れもせず、ただ立ち尽くしていた。
胸の奥、鳩尾のあたりで、名前のつけようがない黒い靄のようなものが渦を巻いていた。
これは何だ。
誰かが彼女の隣に立つことへの戸惑いなのか。
それとも、もっと泥臭い感情の一滴なのか。
「——誠、意外と臆病だね」
肘のあたりを、こつん、と軽く小突かれた。
いつの間にか隣に立っていた一花さんが、こちらを覗き込むように顔を寄せてくる。
口元は笑っているのに、目はまったく笑っていなかった。
まるで、俺の胸の奥のモヤモヤをとっくに見透かした上で、そこに指先を差し込んでくるみたいに。
「臆病って……なんだよ」
「だってさ。三桜、SOS出してたっしょ? なのに、動かなかった」
「動かなかったわけじゃ……」
「ふーん? じゃあ、助けに行けばよかったじゃん」
軽い口調のはずなのに、言葉は容赦なく胸の柔らかいところを抉ってきた。
「それは……俺の役目じゃ、ないだろ」
「じゃあ、誰の役目? 二葉? ……それとも、あたし?」
答えられなかった。
どちらの名前も、口に出せなかった。
「それとも、自分だけの三桜を取られそうで焦ってる?」
「なっ……そんなんじゃない」
反射的に返した声が、自分でも驚くほど硬かった。
一花さんはふっと満足そうに息を吐き、悪戯っぽく目を細める。
「そういうとこだよ、誠」
一花さんの指先が、ふいに俺のネクタイの結び目に触れた。
冗談のような、けれど本気のような、絶妙な力加減で。
「もっとグイグイ来てもいいんだよ? あたしは歓迎するけど」
声のトーンがひとつだけ、落ちた気がした。
軽さの奥に、いつもより一滴だけ濃い甘さが混じっている。
「……何、言ってんだよ」
「あはは、冗談だって。……誠らしいなって思っただけ」
その笑みの意味を問い詰めることすら、今の俺にはできなかった。
鞄を肩にかけ直す一花さんに促されるまま、俺も席を立つ。
「ほら、帰ろ。二葉たちに置いてかれちゃう」
「……ああ」
鞄を肩にかけ、俺は一花さんの後を追う。
夕方の光が差し込む廊下は、いつもと変わらない色をしていた。
なのに、胸の奥で渦を巻いていた黒い靄だけが、まだ、消えてくれなかった。




