第97話 戻った灯りと、いつも通りの放課後
放課後の教室は、開け放たれた窓から七月の生ぬるい風が吹き込み、カーテンをゆっくりと揺らしていた。
黒板の端に書かれた日直の名前や、遠くのグラウンドから響いてくる運動部の掛け声。
いつもと変わらない月曜日の放課後の風景が、今日だけはどうしようもなく色鮮やかに見えた。
鞄に教科書を詰め込みながら、俺はふと口元が緩みそうになるのを必死に堪えていた。
昨日の夜。
半月ぶりに『エデン・オンライン』にログインしてきた【ルナ】。
この数週間、俺の週末はずっと空虚だった。
ただ、フレンドリストの灰色の文字を確かめるだけの夜。
だが昨夜、その小さなランプが緑色に点灯した瞬間、俺の世界は完全に書き換えられた。
彼女が戻ってきたという事実だけで、退屈な月曜日の授業すら、どこか浮き足立った気分で乗り切ることができたのだ。
今日の夜になれば、またルナと一緒にデイリークエストに行ける。
そんな当たり前の約束が、今は途方もなく愛おしい。
「——マコト。今日は随分と、気が緩んでいるわね」
不意に、左隣から涼やかな声が降ってきた。
ハッと顔を向けると、俺の左隣に座る二葉さんが、鞄のジッパーを閉めながらこちらをじっと観察していた。
きっちりと着こなした制服。
背筋の伸びた姿勢。
ノートの角を揃えて鞄へしまう指先まで、いつも通り隙がない。
「そうか? 普通だと思うけど」
「隠しても無駄よ。さっきから、口角が三ミリほど上がっているし、鼻歌でも歌い出しそうな手つきで教科書を詰めているわ。……週末に、何かいいことでもあった?」
探るような二葉さんの視線。
相変わらず、鋭すぎる。
ルナが戻ってきて浮かれているなんて、恥ずかしくて彼女たちには言えるはずもない。
「週末に、よく寝たからかな」
「それだけ? 随分と安上がりな幸せね」
「睡眠は大事だろ。おかげで頭もすっきりしてるし」
「そう。なら、夏休み前に出される課題の一覧も完璧に頭に入っているのかしら?」
「……それは、まあ、これから頑張る予定ということで」
誤魔化すように笑うと、背後から不意に視界が塞がれた。
「だーれだっ!」
「うおっ」
「ふっふーん。さて、あたしは誰でしょうか! 三秒以内に答えないとくすぐりの刑ね。いーち、にー……」
甘い柑橘系の香水。
顔を確かめるまでもなく、正体はすぐに分かった。
背中に、無視できない重みと柔らかさが押し付けられる。
「ちょっと……背中に当たってるから」
「えー? 何がぁ?」
わざとらしく間延びした声で言いながら、一花さんはさらに身を乗り出してきた。
耳元にかかる吐息が熱い。
制服越しに押し付けられた主張が、俺の背中でさらに形を変え、温かい体温が直接伝わってくる。
これは、まずい。
「ほら誠、早く当てないと時間切れだよ? さんっ!」
「降参。だから離れて、一花さん」
「えー、つまんないの。もっと慌てふためく誠が見たかったのに」
「こら、一花。公共の場で発情しない。マコトが困っているでしょう」
二葉さんが冷ややかな声で刺す。
「は、発情って人聞き悪いな! あたしなりのスキンシップだし! 誠はあたしが甘やかしてあげるの!」
「へえ。甘やかすのが目的なら、わざわざ胸を押し付ける必要はないはずだけど? 下心がダダ漏れよ」
「うっ……」
図星を突かれたのか、一花さんが少しだけ顔を赤くして身を離す。
その隙を縫うように、今度は少し前の離れた席から、トタトタと足音が近づいてきた。
「誠くん! 一緒に帰ろっ!」
三桜さんが、俺の右腕にぎゅっとしがみついてくる。
少し短めのボブカットが揺れ、ベビーパウダーのような甘い匂いが広がった。
小動物のように華奢な体温が腕越しに伝わってくる。
見上げてきた拍子に、ふわ、と小さなあくびがこぼれた。
目元をこすって、えへへ、と照れ笑いをひとつ。
「いいけど、走らなくても逃げないよ」
「だって、早く行かないと一花お姉ちゃんたちに取られちゃうもん!」
「あ、ずるい三桜! あたしも!」
一花さんが左腕に抱きつこうとした瞬間、二葉さんが無言で俺の左腕を自分の方へ引き寄せた。
「えっ、二葉さん?」
「……ただの安全確保よ。一花に絡まれるより、合理的でしょ」
「ちょっと二葉、抜け駆け禁止! あたしの場所空けてよ!」
「断るわ。あなたはさっき十分にスキンシップを満喫したはずよ」
そう言ってそっぽを向く二葉さんだが、制服に隠された予想以上のふくらみが、俺の腕にむにゅりと押し付けられている。
本人は平然と建前を並べているが、その破壊力は三人の中で一番高い。
逃げ場がない。
「とりあえず、このままだと歩けないから……二人とも、少し緩めてくれないかな?」
「えー、やだ」
「私も、安全が確認されるまではこのままで」
両腕を封じられたまま、俺は諦めて息を吐いた。
その息に気づいたのか、右腕にしがみついた三桜さんが顔を上げた。
「あのね、誠くん。今日、お昼休みに購買へ行くとき、ちょっとだけステップ踏んでたでしょ?」
「ス、ステップ!? 三桜さんまで見てたのかよ」
「うんっ。すっごく楽しそうだったから、声かけられなかったの。……そういう誠くんを見てると、私までうれしくなっちゃう」
自分では気づかないうちに、そこまで浮かれていたらしい。
急に恥ずかしくなって視線を落とすと、左側から声が飛んできた。
「あー、それあたしも思った! 授業中だって、窓の外見ながらフフッて笑ってたし。……もしかして、あたしのこと考えてた?」
「んなわけないだろ。ていうか一花さん、授業中に俺のこと観察しすぎじゃないか?」
「べ、別に? たまたま視界に入っただけだし」
「一花。あなたの席から、マコトの席は視界に入らないわ。振り返らない限りは」
「……二葉、それ言わなくてよくない?」
唇を尖らせた一花さんが、二葉さんの肩越しにぐいと割り込んでくる。
それを片手で押し返しながら、二葉さんの視線が俺へ戻ってくる。
「だから最初に言ったでしょう。隠しても無駄よ、と」
相変わらずの過剰な距離感に圧倒されながら、俺たちは連れ立って教室を出た。
◇
校舎を出て、購買部の裏手を通って正門へ向かう途中。
三桜さんが不意に「あっ」と声を上げて、小走りで駆け出した。
「にゃんこ、いたよぉ!」
日陰のブロック塀の上で、一匹の茶トラの野良猫が丸くなっていた。
この学校に住み着いている、いつもの猫だ。
三桜さんが屈み込んで手を差し出すと、茶トラは警戒する素振りも見せずに塀から降りてきて、彼女の膝にすりすりと頭をこすりつけ始めた。
「よしよし、今日も可愛いねぇ」
「三桜、本当に動物に好かれるわよね。この間も、公園のハトが肩に乗っていたし」
「ふふっ、にゃんこ、のど鳴らしてるよ。誠くんも撫でてみる?」
嬉しそうに猫を撫でる三桜さん。
屈んだ姿勢のせいで、夏服のスカートが少し持ち上がり、膝裏の白い肌が露わになっている。
無防備すぎるその姿に、俺はまいったなと心の中で呟いた。
代わりに、茶トラの頭を撫でようと手を伸ばしてみる。
先ほどまでのゴロゴロという喉の音はピタリと止み、茶トラはぷいっと冷たく明後日の方向を向いた。
「……おい」
「あははは! 誠、見事な避けられっぷり! 完全に『触るな』って顔されてるじゃん!」
「うるさい。猫ってこんなもんだろ。気まぐれなんだよ」
「三桜にはあんなに懐いてるのにね。マコトは動物に嫌われるオーラでも出ているんじゃない?」
一花さんが腹を抱えて笑い、二葉さんまで面白がるように目を細めている。
「オーラってなんだよ、オーラって。……まあ、ここまで露骨に避けられると、地味に傷つくけどな」
「あら、珍しく素直ね。でも、この子は人を見る目があるみたいだから、マコトの下心を見透かしたのよ」
「どんな下心だよ。ただ撫でようとしただけだろ」
俺はため息をついて、空振りに終わった手を引っ込めた。
「別にいいよ。……野良猫は、これくらいの距離で見てるのがちょうどいいんだ」
強がりを言うと、二葉さんが俺の隣に並び、そっと肩が触れる距離に立った。
制服越しに、彼女の少しひんやりとした体温が伝わってくる。
二葉さんは猫から視線を外し、俺の顔をまっすぐに見上げてきた。
「そういえば、マコト。今日のお昼、購買のパンだけだったわね」
「ん? ああ、今朝は寝坊してさ。母さんも早出で弁当がなかったから、購買に駆け込むしかなかったんだ」
二葉さんの声が、わずかに低くなった。
「寝坊。……よく寝たから機嫌がいいのではなかったの?」
「……よく寝すぎて、起きられなかったんだよ」
「苦しい言い訳ね」
二の句が継げない俺へ、二葉さんは容赦なく畳みかけてくる。
「どちらにしても不健康よ。育ち盛りの男子が、菓子パン二つで足りるはずがないわ」
「仕方ないだろ。昨夜はちょっと……色々あって、寝るのが遅くなったんだ」
「色々って何よ。まさか、夜更かししてゲームばかりしていたんじゃないでしょうね」
「……い、いや、たまには息抜きも必要だろ?」
図星を突かれて、思わず視線が泳いだ。
二葉さんは小さくため息をつき、呆れたように首を振ってから、ふと思いついたような口調で続けた。
「……気が向いたらだけど、そのうち私が、マコトの分もついでに作ってきてあげようかしら」
「え、いいのか? 朝から手間が増えるだろ」
「勘違いしないで。あくまで気まぐれよ。菓子パンばかり齧られると、こちらの目にも毒だから」
二葉さんはそう言って、見えない角度でスカートの裾をわずかにきゅっと握りしめた。
「……じゃあ、楽しみにしとくよ」
「ええ、期待していいわよ。卵焼きも出汁を多めにして焼いてあげる」
二葉さんの口元が、わずかに嬉しそうにほころぶ。
それを見ていた一花さんが、むすっとした顔で俺の背中に張り付いてきた。
「ずるい! 二葉ばっかりポイント稼いで! 誠、あたしのお弁当も食べたいっしょ?」
「一花さんの弁当って、前に塩と砂糖間違えてなかったか?」
「あれは事故! 次はちゃんと味見するから!」
「味見だけで解決するレベルじゃないだろ……。そもそも、この前のおにぎり、中身がチーズやポテトサラダだったのはなんの罠だったんだよ」
「ロシアンルーレット的なお茶目心だよ! 当たりのつもりだったし!」
「全部当たりならロシアンルーレットにならないだろ……」
呆れる俺の隣で、猫を撫で終えた三桜さんがぽつりと呟く。
「……一花お姉ちゃん、お料理はあんまり得意じゃないもんね。焦げた炒り卵、私、まだ覚えてるよ」
「三桜、身内を刺さないでよ! あれは火加減をちょっと間違えただけで……!」
無邪気な一言の威力に、一花さんが慌てて抗議する。
賑やかな声が、夏の夕暮れの空に響いていった。
◇
帰り道、駅前の商店街にあるクレープ屋に立ち寄った。
甘いものが食べたいという三桜さんのリクエストで、全員で寄り道をすることになったのだ。
一花さんがストロベリー、二葉さんがブルーベリー、三桜さんがチョコバナナのクレープを手にしている。
俺も勧められて、シンプルなシュガークレープを買わされていた。
「ん〜、美味しい!」
三桜さんがクレープを頬張り、幸せそうに目を細める。
クリームが口の端に少しだけついているのが、いかにも彼女らしい。
「三桜さん、口の横にクリームついてるぞ」
「えっ、ほんと? どこ?」
「右の……いや、こっちから見て左か」
「うーん……取れた?」
拭う場所が、どんどん見当違いにずれていく。
「いや、まだ伸びてるだけだ。ほら、ティッシュ」
「ありがとう、誠くん。美味しいと、つい焦っちゃうの」
「ねえ誠、あたしのも一口食べる? すっごく甘いよ」
一花さんが自分の食べかけのクレープを、俺の口元に突き出してきた。
彼女の指先が、俺の唇に触れそうな距離だ。
わざとなのか、彼女は小悪魔のような笑みを浮かべて挑発してくる。
「いや、俺は自分のがあるからいいよ」
「えー、遠慮しないでってば。はい、あーん。いちごたっぷりだから、絶対美味しいよ?」
「だから、俺はいらないってば。それに、道端でアーンとか恥ずかしいだろ」
「誰も見てないってば! ほら、早く口開けないとクリームこぼれちゃうよ?」
「一花。間接キスを狙うようなはしたない真似はやめなさい。マコトが困っているでしょう」
ぐいぐいと迫ってくる一花さんを、隣から二葉さんが冷たい声で牽制する。
だが、一花さんはひるまない。
「なによ、二葉だって誠と間接キスしたいくせに。本当は自分があーんしたいんじゃないの?」
「私は……別に。そもそも、食べ物をシェアするのは衛生的に推奨できないわ」
「またまたー。じゃあ、誠が『二葉のクレープ食べたい』って言ったらどうするの?」
「そ、それは……マコトがどうしてもと言うなら、その、一口くらいなら……」
「あれ? 二葉ちゃん、顔が赤いよぉ?」
三桜さんの無邪気な指摘に、二葉さんがわずかに狼狽して顔を背けた。
耳の先まで赤く染まっているのが、夕日を浴びてはっきりとわかる。
「あ、暑いからよ! 早く食べないと、クレープのクリームが溶けるわ」
「あはは、二葉照れてるー」
そのやり取りを見ていた三桜さんが、ひょこりと俺の顔を覗き込んでくる。
「私も誠くんにあーんしてあげよっか?」
「三桜さんまで便乗しなくていいから。ちゃんと自分で食べるよ」
「えー、残念。じゃあ、誠くんのシュガークレープ、一口ちょーだい!」
「……結局、そっちが目的か」
「えへへ、だめ?」
小首を傾げた上目遣いに、断り切る気力が削がれていく。
「……しょうがないな。ほら、一口だけだぞ」
「わーい! ぱくっ……ん、サクサクしてて美味しい!」
「ちょっと、三桜だけずるい! あたしにも一口ちょうだい!」
「一花は自分のいちごがあるでしょう。マコト、私のブルーベリーも半分食べる?」
「だから、なんで俺のクレープが奪い合いになってるんだよ……」
呆れる俺をよそに、三人は誰のクレープを味見するかで、また賑やかな言い合いを始めている。
俺は楽しそうな彼女たちを見つめながら、自分のクレープを一口かじった。
ほんのりとしたシュガーの甘さが、口の中に広がる。
三人それぞれの個性。
騒がしくて、面倒で、けれどどうしようもなく温かい時間。
こうして彼女たちと一緒にいる現実は、かけがえのない大切な日常だ。
以前は一人で歩いていたこの道も、今はいつも賑やかな声で溢れている。
そして。
今日の夜は、ゲームにログインすれば【ルナ】がいる。
一緒にデイリークエストをこなして、他愛のないチャットで笑い合う、もう一つの大切な日常。
現実の三姉妹と、画面の向こうの彼女。
両方が揃ったこの日常が、たまらなく愛おしい。
夕日に染まる通学路を歩きながら、俺はこれから訪れる夜の時間にそっと思いを馳せた。
PCのモニターの向こうで、今夜の約束が待っている。
空はまだ明るく、夜が来るのが待ち遠しかった。




