第96話 おかえり、ルナ
昨日の昼、駅前のファミレスで夏休みの行き先を何ひとつ決められないまま解散して、迎えた日曜の夜。
夕飯と風呂を済ませて、自室のデスクに向かう。
二葉さんに作ってもらった対策ノートの付箋を少しだけ消化して、俺はパソコンの電源を入れた。
ファンが微かな駆動音を立て、液晶画面が徐々に明るさを増していく。
見慣れたデスクトップが表示されたのを確認し、俺はマウスに手を伸ばして『エデン・オンライン』のアイコンをダブルクリックした。
この数週間、すっかり習慣になってしまった動作だった。
休日の終わりに、ただ灰色のままのフレンドリストを確認するためだけにログインする。
特別な予感も、胸騒ぎもない。
今日もきっと、彼女の名前の横にあるランプは消えたままだろう。
そんな諦めに似た感情と一緒に、パスワードを打ち込む。
画面が暗転し、数秒のロード時間の後、軽快なBGMと共に拠点街の風景が広がった。
大通りの喧騒は相変わらずで、行き交うプレイヤーたちの足音が絶え間なく響き、露店でアイテムを売り買いするチャットの吹き出しが画面を埋め尽くしている。
俺は重騎士のアバターである【リオン】を少しだけ動かし、周囲の風景を見渡した。
ルナがいなくなってから、この色鮮やかなファンタジーの世界は、どこか色褪せて見えていた。
魔導神官の白いローブが隣にいないだけで、こんなにも広くて寂しい場所だったのかと思い知らされる日々。
もちろん、クロウやノエルたちと一緒にクエストに行くこともあった。
けれど、いつもの場所に彼女がいないという事実は、俺の心に小さな穴を開け続けていた。
視界の隅にあるメニューを開き、フレンドリストのタブを呼び出す。
一番上にある名前。
ずっとオフラインのまま、暗く沈んでいたその文字が。
今日は、明るい緑色に点灯していた。
「……えっ」
思わず声が漏れた。
マウスを握る手が止まり、画面を凝視する。
【ルナ】 オンライン。
あの日から灰色に沈んだままだった場所に、たしかにそう表示されている。
現在位置は、拠点街の裏路地。
幻覚じゃない。
心臓がドクンと大きく跳ねた。
画面の中の緑色のランプが、ひどく眩しく見える。
俺は無意識のうちにキーボードを叩き、【リオン】を走らせていた。
大通りを抜け、人混みを縫うようにして裏路地へと向かう。
石畳を蹴る重い金属音が、やけに間延びして聞こえた。
もっと速く、もっと真っ直ぐに彼女の元へ行きたいのに、アバターの移動速度がもどかしい。
細い路地を抜け、行き止まりにある古い酒場の裏手へと回り込む。
そこは、俺とルナがずっと昔に、二人だけの秘密の場所と決めた屋根の上だった。
犬より猫が飼いたいなんて、俺が現実で誰にも言ったことのない些細な願望をこぼした場所。
見上げると、瓦屋根の縁に腰掛けている見慣れたシルエットがあった。
魔導神官の白いローブ。
銀色の髪。
俺の接近に気づいたのか、彼女はふわりと立ち上がって屋根から飛び降りてきた。
【リオン】の目の前に、重力を感じさせない軽やかな動きですとんと着地する。
同時に、視界の左下でチャット欄が光り、通知音が鳴った。
『リオン!』
ポン、ポン、ポンと、短い間隔で吹き出しが連なる。
『ただいま!』
『ずっと会いたかった!』
画面越しの文字なのに、ルナが泣きそうになりながら笑っている顔が、はっきりと浮かんだ。
胸の奥でつかえていた重い塊が、一気に溶けていくのがわかる。
『おかえり。ずっと待ってた』
キーボードを叩く指が、少しだけ震えていた。
安堵と、言葉にならない嬉しさがこみ上げてくる。
ただのゲームのフレンド。
画面越しの関係。
それでも、この半月ほど、彼女がいないエデンの世界は、俺にとってどうしようもなく空虚だったのだ。
『ごめんね、心配かけて。私もずっとインできなくて、すごく焦っちゃって』
『クロウなんて毎晩、ルナさんまだ戻らないんスかって騒いでたぞ。ノエルも口にはしないけど、ずっと気にしてた』
『うわぁ、申し訳ない……。ギルドの掲示板、あとで謝りの書き込みしとかなきゃ。私、追放されてない!?』
『されてないって。みんな、ルナの席は空けて待ってるから』
『……そっか。みんな、優しいな』
ルナのアバターが、申し訳なさそうにうつむくエモートを取る。
俺は画面越しの彼女に、できるだけ穏やかな言葉を選んで打ち込んだ。
『運営の制限とか、エラーだったのか?』
『それが、よくわからなくて。なんか急に、ポロッと入れるようになったの』
『ポロッと、って。お前な……。でもまあ、アカウントが消えてなくて安心した。もう戻ってこられないんじゃないかと、正直思ってたからな』
『引退なんてしないよ! リオンを置いて勝手にいなくなるわけないよ』
『……そうか。まあ、戻ってこられたなら、よかった』
よかった。
本当に、よかった。
そう思いながらも、俺の心の中に小さな棘が引っかかった。
約二週間もの間、一切ログインできなかったアカウントが、突然何の前触れもなく復帰する。
なぜ急に戻った?
誰が止めて、誰が解いたんだ?
ルナ自身も理由がわかっていない以上、ここで考えても答えは出ない。
もしかすると、本当にただのシステムエラーだったのかもしれない。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
俺は小さく首を振り、意識を目の前の画面に戻した。
今はただ、彼女が戻ってきたことを喜ぶべきだ。
『とりあえず、上に登るか。ここは目立つ』
『うん!』
俺がジャンプして酒場の裏手にある木箱に乗り、そこから庇へと飛び移る。
ルナもそれに続いて、身軽な動きで屋根の上へと登ってきた。
瓦屋根の緩やかな傾斜に並んで腰を下ろす。
眼下には、拠点街の柔らかなランプの光が点々と広がっていた。
『ここからの景色、久しぶりだね』
『ああ。ルナがいなくなってからは、俺もここには来てなかったからな』
『そうなの?』
『……なんか、一人で来てもしょうがない気がして』
素直に打ち明けると、ルナのアバターが嬉しそうに身をよじった。
『えへへ。リオン、寂しかった?』
『少しな。パーティの回復役がいなくて、不便だったし』
『もう。そこは、ルナがいなくて寂しかったって言うところだよ?』
『だから、そう言ってるだろ』
『全然言ってない! 不便と寂しいは違うもん!』
画面の中で、ルナのアバターがぷくっと頬を膨らませるエモートを繰り返している。
俺は観念して、キーボードに指を戻した。
『はいはい。俺もルナがいなくて寂しかったですよ』
『……棒読み感がすごいけど、今は許してあげる』
『上から目線だな』
『だって、リオンが私のこと待っててくれたのが嬉しかったから。ちょっとだけ余裕なの』
画面越しに、からかうような、甘えるような空気が伝わってくる。
この感覚だ。
この柔らかくて、温かい温度こそが、ルナという存在そのものだった。
どれだけ時間が空いても、こうして言葉を交わすだけで、あの頃の空気に一瞬で戻ることができる。
『ねえ、リオン』
『ん?』
『ずっと気になってたんだけど……あの素材、まだ持ってる?』
ふと話題が変わり、ルナがもじもじしているのが伝わってくるような間があった。
あの素材。
それは、ルナがログインできなくなる直前に、二人で苦労して集めたレアアイテムのことだ。
『次ログインした時、一緒に鍛冶屋に行こうね』という約束ごと、宙吊りになっていた。
『ああ。一緒に鍛冶屋に行こうって約束してたやつだろ』
『よかった! ずっとインできなかったから、リオンが一人で使っちゃってたらどうしようって、実はちょっとだけ心配だったの』
『するわけないだろ。約束は約束だ』
俺がインベントリを開き、素材アイテムのアイコンを一つずつトレードウィンドウの端に並べて見せると、ルナのアバターがぴょんぴょんと飛び跳ねるエモートを取った。
『えへへ。ありがとう、リオン。じゃあ早速、鍛冶屋に行こっ!』
『今からか?』
『うん! さっきログインした時にお知らせ見たの。八月に海賊島の大きいイベントやるんでしょ? それまでに、ちゃんと武器強くしておきたいし!』
俺たちは屋根を降り、鍛冶エリアへ向かった。
夜のゲーム時間帯にしては人が少なく、鍛冶屋のNPCの前に他のプレイヤーはいなかった。
強化ウィンドウに素材を並べていく。
ルナは迷いなく強化の組み合わせを指示してきた。
『リオンは盾だけど、攻撃が低いとヘイトが維持できないでしょ? だから攻撃寄りの構成にして、でも耐久も最低限は確保して——ほら、このバランス。どう?』
『……お前、相変わらずだな』
『え、何か変なこと言った?』
ルナが本気で不思議がっているらしい間があった。
自覚がないところが、いっそ清々しい。
『いや。二週間ぶりのログインで、よくそこまで俺のステータス把握してるなって』
『ふふん。私のリオン研究ノートを甘く見ないでよね』
『何だその怖いノート。ストーカーか?』
『違うよ! 専属ヒーラーとしてのプロ意識って呼んでよ。リオンの弱点は私が一番よくわかってるんだから』
自信満々の文字列が、ぽんぽんと画面に並ぶ。
二週間のブランクなんて、どこにも見当たらなかった。
『俺より俺に詳しいの、どうかと思うぞ』
『当たり前じゃん。リオンのパーティメンバーなんだから。リオンが倒れたら私も倒れるんだよ?』
なんでもないように打たれたその一行が、妙に心地よく響いた。
強化が完了し、武器のステータスが跳ね上がる。
『おおー! すごい! リオンかっこいい!』
『武器が強くなっただけだろ』
『武器が強い=リオンが強い=かっこいい。はい論破』
『どこが論破なんだよ。大体、強くなったのはお前の指示のおかげだろ』
『いいの! 私の中でリオンは最強の盾なんだから。これからも私を守ってね?』
『……善処する』
めちゃくちゃな理屈と真っ直ぐな信頼に、思わず声を出して笑ってしまった。
部屋に自分の笑い声が響いて、少しだけ気恥ずかしくなる。
強化を終えた俺たちは、連れ立って噴水広場へと向かった。
他愛のない、いつものやり取り。
けれど、俺は以前よりもずっと注意深く、ルナの打つ文字を見つめている自分に気づいた。
変換の癖。
相槌を打つタイミング。
文章の長さと、言葉の選び方。
その一つ一つの向こうにいる、文字だけの付き合いのはずの誰か。
二週間前までの俺は、こんな目でルナを見たことはなかった。
誰が止めて、誰が解いたのか。
答えの出ない問いが、胸の底で小さな重りになって沈んでいる。
ルナの周りで、俺の知らない何かが確かに動いた。
その事実だけが、喜びの隣で静かに輪郭を保っていた。
『リオン? どうかした?』
俺の返事が遅れたことに気づいたのか、ルナが首を傾げるエモートを見せた。
その可愛らしい仕草の裏側に、誰の顔があるのだろう。
『いや、なんでもない。ただ、ルナが戻ってきてくれて、本当によかったって思ってただけだ』
『もう。リオンったら、大げさなんだから』
照れ隠しのように、ルナのアバターが顔の横でパタパタと手を振る。
その無邪気な動きが、どうしようもなく愛おしい。
『でも……私も、リオンに会えて嬉しいよ』
『俺もだ。これでやっと、いつものパーティに戻れる』
『うん。また一緒に、いろんなところに行こうね。まずは明日のデイリークエストから!』
『わかった。遅刻するなよ』
『しないもん! ちゃんと時間通りに来るから、待っててね』
『ああ。ちゃんと待ってる』
その文字を見た瞬間、胸の奥がキュッと締め付けられた。
嬉しい。
彼女が帰ってきたのは、文句なしに嬉しい。
今まで通り、彼女の笑顔に救われる日々が戻ってくる。
けれど、この嬉しさの裏側に張り付いた小さな違和感は、もう二度と消えない気がした。
喜びと不審は、同じ胸の中に同居できるらしい。
そんなことを、俺は今夜、初めて知った。
『それじゃあ、今日は遅いし、もう落ちるね』
『ああ、おやすみ。また明日。……おかえり』
『うん。ただいま、リオン!』
ルナのアバターが光の粒子となって消えていくのを見届けながら、俺は小さく息を吐き出した。
静かになった画面の中の噴水広場。
俺の中で何かが、少しだけ確実な形を持って変わり始めていた。
それが何なのかは、まだ言葉にならない。
ただ、明日からのログインは、もう灰色を確かめるためのものじゃない。
あの緑色の灯りがちゃんとそこにあるのを、確かめるためのものになったのだ。




