第95話 ごめんなさい、【リオン】さま
昼の駅前で【リオン】さまに会えた休日が、こんな終わり方をするなんて——迎えの車を降り、天道家の玄関までの石畳を歩く。
七月のぬるい夜風が前髪を揺らしたが、琴音の表情はぴくりとも動かなかった。
すれ違う使用人に、完璧な微笑みとともに会釈を返す。
背筋を伸ばし、つま先の向きまで意識して。
この家で、気を抜いて崩れていい場所なんて、自室以外にないのだから。
自室の重厚な木製のドアが、かすかな摩擦音を立てて閉ざされた。
真鍮のノブから手を離し、サムターンを回して静かに鍵を下ろす。
カチャリ、という冷たくて硬い金属音が、広い空間に落ちた。
その小さな音は、完璧に張り詰めていた糸を断ち切る合図だった。
ドアを背にしたまま、琴音はゆっくりと床へ座り込む。
全身からすっと力が抜け、膝がフローリングについた。
姿勢を正すための筋肉も、穏やかな微笑みを作るための表情筋も、すべてが限界だった。
空調の効いた自室の空気は、外のうだるような熱気が嘘のようにひんやりとしている。
けれど、琴音の身体の奥には、べっとりとした焦燥の熱がまとわりついて離れない。
「……なんなんですの、あれ……っ」
震える唇から、誰の耳にも届かない呟きがこぼれ落ちた。
片手で膝を抱え込み、もう片方の手で、上質な生地の白いワンピースの胸元を痛いほど強く握りしめる。
布越しに伝わってくる自分の心臓の鼓動が、気持ち悪いほどに速くて、うるさかった。
目を閉じると、数時間前の光景が鮮明に蘇ってくる。
休日の駅前にあるファミリーレストラン。
ガラス窓の向こう、肩を寄せ合って笑う五人の姿が見えた。
誰かが何か言うたびに、テーブルの上が賑やかに揺れる。
その中心で困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑う【リオン】さまを見つけたときの、胸が跳ねるような感覚。
思わず引き寄せられるように近づいてしまった。
完璧な微笑みを作って、「お隣、よろしいですか」と声をかけた。
——その瞬間に、テーブルの温度が急激に下がったのを、琴音は肌で感じていた。
それまで互いに笑い合っていた四人の少女たちが、一瞬にして見えない壁を作り上げたのだ。
巻き髪の少女の、ワントーン低く冷めた声。
黒髪を長く垂らした少女の、初めてこちらへ向けた顔の、温度のない淡々とした拒絶。
細い両腕をいっぱいに広げて、隣の席を必死に塞いでみせた少女の身振り。
そして、いちばん小柄な短い髪の少女の、明るい笑顔の裏に隠された容赦のない排除の意思。
それは、見事なまでの連携だった。
誰かが合図をしたわけでもないのに、四人は寸分の狂いもなく結託し、琴音という外敵を完全に阻んだ。
あの四人が結び合っている強固な輪の中に、琴音が入る隙間など、針の穴ほども存在しなかったのだ。
入り込むことすら許されない、完全な外側。
惨めだった。
あんなにもはっきりと、鮮やかに拒絶されるなんて。
彼女たちが【リオン】さまを騙している偽物の泥棒猫なのは、間違いないはずなのに。
彼女たちの絆なんて、嘘の上に成り立っている仮初めのものに過ぎないはずだった。
それなのに。
あの四人が【リオン】さまを守るために作り上げた防衛網は、どうしようもなく本物の手触りを持っていた。
琴音だけが、その輪のずっと外側に、一人で立ち尽くしていたのだ。
丁寧に頭を下げてその場を離れるとき、ワンピースの裾を掴む指先が白くなるほど力を込めていなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。
店を出た後も、まっすぐに帰ることはできなかった。
七月の炎天下。
容赦なく照りつける陽射しの中、駅前のロータリーの端にある植え込みの陰で、琴音はずっと待っていた。
やがて、彼が一人で改札へ向かって歩いてくるのが見えたとき、琴音の心臓は大きく跳ねた。
けれど、言葉を交わした彼の態度は、どこまでも優しくて、そして、どこまでも遠かった。
まだ帰らないのか、と気遣うようにかけられた声。
嘘が下手ですね、とでも言いたげな、呆れたような瞳。
——ルナ、まだ戻りませんのね。
別れ際、自分でも驚くほど自然に、その言葉が口からこぼれ落ちていた。
完璧な台本にもなかった、無防備な独り言。
それは、どうしようもない焦りと、そして彼に対する小さな罪悪感の表れだった。
彼がどれほどルナの不在を寂しく思っているか、痛いほどに伝わってきたから。
その原因を作っているのが、他の誰でもない、琴音自身だという事実が、重くのしかかっているから。
ブーッ、ブーッ。
静寂に包まれた部屋の空気を震わせるように、デスクの上に置かれたスマートフォンが短く震え始めた。
バイブレーションの低い音が、フローリングに座り込んでいる琴音の耳に届く。
ゆっくりと顔を上げると、デスクの上から、明るい光が漏れているのが見えた。
琴音は、立ち上がろうとはしなかった。
ただ、暗い部屋の片隅から、明滅する光をじっと見つめ続ける。
優しいお父さまからの電話だ。
電話に出れば、きっと「琴音、今日はどうだった?」と、いつものように低い穏やかな声で聞いてくれるに違いない。
けれど、今の琴音には、その優しさが何よりも恐ろしく、そして痛かった。
お父さまは何も責めない。
だからこそ、嘘をついて取り繕うたびに、喉の奥が灼けるように痛む。
これ以上、嘘を重ねることはできなかった。
自分が犯している、あの操作という罪の重さに、ただ息が詰まる。
これは間違いだ。
決して許されることではない。
震える手で膝を抱きしめたまま、琴音はスマートフォンの光が消えるのを、ただ見守った。
何十秒という時間が、永遠のように感じられる。
やがて、光がふっつりと途絶え、部屋は再び静寂と薄暗さの中に沈んだ。
「……ごめんなさい、お父さま……」
かすれた呟きは、空調の音に吸い込まれて消えていった。
重い身体を引きずるようにして立ち上がり、琴音はデスクの前まで歩いた。
床に膝をつき、一番下の引き出しに手をかけて、ゆっくりと手前に引く。
木の擦れる音が微かに鳴り、中から整然と片付けられた空間が現れた。
その一番奥。
琴音は震える指先で、そこに伏せて置かれている一枚の写真に触れた。
表に返すことはしない。
ただ、その裏側の白い紙面を、指の腹でそっとなぞる。
少し反って角が丸くなっているのは、何度もこうして触れたからだ。
見なくても、そこに写っているあの子の笑顔は、琴音の脳裏に焼き付いている。
胸の奥底が、刃物でえぐられるように痛んだ。
あの夜のこと。
思い出しかけて、琴音は目を強くつぶり、記憶に蓋をした。
今はだめだ。
あれに触れたら、今夜はもう、立てなくなる。
それでも、これだけは消えてくれない。
肝心なときに、自分はいつも何もできない。
その無力感が、琴音という人間の芯に、重い錘のように沈み続けている。
だからこそ、琴音は惹かれたのだ。
ゲームの中で、彼はいつも真っ先に前に出て、仲間を庇ってくれた。
自分が傷つくことを恐れず、誰かのために盾になる。
その背中を見るたびに、琴音の胸の奥で、小さく萎縮していた何かが温められるのを感じていた。
彼は、動けた。
琴音がどうしてもできなかったことを、彼はやってのけた。
その姿は、あの夜ああ動けていればと願い続けた、叶わなかったもう一人の自分の鏡だった。
彼のような人の世界の輪郭に、少しでも触れていたい。
少しでも身近に感じていたい。
それは、恋というよりも、もっと切実な、祈りのような感情だった。
その想いが暴走し、琴音は取り返しのつかない嘘をついてしまった。
引き出しをそっと閉め、琴音は立ち上がると、部屋の隅にある化粧台の前へと移動した。
スツールに腰を下ろし、大きな三面鏡に向き合う。
鏡の中に、一人の少女が映っていた。
級友たちから羨望の眼差しを向けられる、乱れのないゆるふわのロングヘア。
どこまでも清楚で、上品な白いワンピースの少女。
琴音は、鏡の中の自分に向かって、ゆっくりと口角を上げた。
右の口角から。
次に左。
目元の力を、ほんの少しだけ和らげる。
今日、【リオン】さまの前で崩すまいと保ち続けた、完璧な角度。
「私が、あなたの本当のルナですよ、【リオン】さま……」
甘く、優しい声を紡ぐ。
あの日の夕暮れ、彼に初めて声をかけたときと同じように。
けれど、次の瞬間。
鏡の中の完璧な笑顔が、音を立てて崩れ落ちた。
「……っ、う……」
大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
化粧台に両手をつき、琴音は声を殺して泣いた。
華奢な肩が、しゃくりあげるように震えている。
あんなものは、ただのハッタリだ。
焦りから出た、苦し紛れの嘘に過ぎない。
あの三姉妹が現れて、【リオン】さまの隣が埋まっていくのを見たとき、琴音はパニックになったのだ。
このままでは、自分が永遠に彼と関わることができなくなる。
だから、あんな極端な行動に出てしまった。
バレたら終わりの、綱渡り。
完璧な微笑みの下で、琴音の心臓は常に恐怖でバクバクと鳴り続けている。
彼女たちが本物じゃないことはわかっているのに。
それなのに、なぜ彼は、あんなにも悲しそうな顔をするのか。
なぜ、彼女たちといるとき、あんなにも穏やかに笑うのか。
駅前で見た、彼の表情が頭から離れなかった。
あの痛切な寂しさを帯びた瞳を、これ以上見たくはなかった。
彼を笑顔にしたくて、彼に救われたくて、ここまで来たはずなのに。
やっていることは、彼から大切な場所を奪い、傷つけているだけではないか。
「こんなこと……続けても、意味なんて、ないですわ……」
涙を手の甲で乱暴に拭い、琴音は顔を上げた。
鏡の中の自分は、ひどく惨めで、小さく見えた。
深呼吸をして、震えを無理やり押し殺す。
今夜。
今夜のうちに、元に戻そう。
明日まで待てば、また、できない理由を探してしまうから。
彼の悲しむ顔は、もう見たくない。
たとえ、彼の隣にいるのが自分ではなくても。
彼が笑ってくれるなら、今は、それでいい。
琴音はスツールから立ち上がり、デスクへ戻ると、その上の端末に手を伸ばした。
冷たい金属の感触が、指先に伝わる。
画面の上に細い指を置き、琴音は小さく息を整えた。
「ごめんなさい、【リオン】さま……」
小さな詫びの呟きとともに、操作をひとつ、実行する。
乾いた音がひとつ鳴り、処理が静かに進んでいく。
青白い画面の光が、ふっとデスクを照らし出す。
その光は、あの子の写真が眠る一番下の引き出しを、かすかに、けれど確かに照らしていた。




