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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第4章 夏を待つ五人と、還ってきたルナ

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第95話 ごめんなさい、【リオン】さま

昼の駅前で【リオン】さまに会えた休日が、こんな終わり方をするなんて——迎えの車を降り、天道家の玄関までの石畳を歩く。

 七月のぬるい夜風が前髪を揺らしたが、琴音の表情はぴくりとも動かなかった。

 すれ違う使用人に、完璧な微笑みとともに会釈を返す。

 背筋を伸ばし、つま先の向きまで意識して。

 この家で、気を抜いて崩れていい場所なんて、自室以外にないのだから。


 自室の重厚な木製のドアが、かすかな摩擦音を立てて閉ざされた。

 真鍮のノブから手を離し、サムターンを回して静かに鍵を下ろす。

 カチャリ、という冷たくて硬い金属音が、広い空間に落ちた。

 その小さな音は、完璧に張り詰めていた糸を断ち切る合図だった。

 ドアを背にしたまま、琴音はゆっくりと床へ座り込む。


 全身からすっと力が抜け、膝がフローリングについた。

 姿勢を正すための筋肉も、穏やかな微笑みを作るための表情筋も、すべてが限界だった。

 空調の効いた自室の空気は、外のうだるような熱気が嘘のようにひんやりとしている。

 けれど、琴音の身体の奥には、べっとりとした焦燥の熱がまとわりついて離れない。


「……なんなんですの、あれ……っ」


 震える唇から、誰の耳にも届かない呟きがこぼれ落ちた。

 片手で膝を抱え込み、もう片方の手で、上質な生地の白いワンピースの胸元を痛いほど強く握りしめる。

 布越しに伝わってくる自分の心臓の鼓動が、気持ち悪いほどに速くて、うるさかった。


 目を閉じると、数時間前の光景が鮮明に蘇ってくる。

 休日の駅前にあるファミリーレストラン。

 ガラス窓の向こう、肩を寄せ合って笑う五人の姿が見えた。

 誰かが何か言うたびに、テーブルの上が賑やかに揺れる。

 その中心で困ったように、けれどどこか嬉しそうに笑う【リオン】さまを見つけたときの、胸が跳ねるような感覚。


 思わず引き寄せられるように近づいてしまった。

 完璧な微笑みを作って、「お隣、よろしいですか」と声をかけた。


 ——その瞬間に、テーブルの温度が急激に下がったのを、琴音は肌で感じていた。

 それまで互いに笑い合っていた四人の少女たちが、一瞬にして見えない壁を作り上げたのだ。


 巻き髪の少女の、ワントーン低く冷めた声。

 黒髪を長く垂らした少女の、初めてこちらへ向けた顔の、温度のない淡々とした拒絶。

 細い両腕をいっぱいに広げて、隣の席を必死に塞いでみせた少女の身振り。

 そして、いちばん小柄な短い髪の少女の、明るい笑顔の裏に隠された容赦のない排除の意思。


 それは、見事なまでの連携だった。

 誰かが合図をしたわけでもないのに、四人は寸分の狂いもなく結託し、琴音という外敵を完全に阻んだ。

 あの四人が結び合っている強固な輪の中に、琴音が入る隙間など、針の穴ほども存在しなかったのだ。

 入り込むことすら許されない、完全な外側。


 惨めだった。

 あんなにもはっきりと、鮮やかに拒絶されるなんて。

 彼女たちが【リオン】さまを騙している偽物の泥棒猫なのは、間違いないはずなのに。

 彼女たちの絆なんて、嘘の上に成り立っている仮初めのものに過ぎないはずだった。


 それなのに。

 あの四人が【リオン】さまを守るために作り上げた防衛網は、どうしようもなく本物の手触りを持っていた。

 琴音だけが、その輪のずっと外側に、一人で立ち尽くしていたのだ。

 丁寧に頭を下げてその場を離れるとき、ワンピースの裾を掴む指先が白くなるほど力を込めていなければ、膝から崩れ落ちてしまいそうだった。


 店を出た後も、まっすぐに帰ることはできなかった。

 七月の炎天下。

 容赦なく照りつける陽射しの中、駅前のロータリーの端にある植え込みの陰で、琴音はずっと待っていた。


 やがて、彼が一人で改札へ向かって歩いてくるのが見えたとき、琴音の心臓は大きく跳ねた。

 けれど、言葉を交わした彼の態度は、どこまでも優しくて、そして、どこまでも遠かった。

 まだ帰らないのか、と気遣うようにかけられた声。

 嘘が下手ですね、とでも言いたげな、呆れたような瞳。


 ——ルナ、まだ戻りませんのね。


 別れ際、自分でも驚くほど自然に、その言葉が口からこぼれ落ちていた。

 完璧な台本にもなかった、無防備な独り言。

 それは、どうしようもない焦りと、そして彼に対する小さな罪悪感の表れだった。

 彼がどれほどルナの不在を寂しく思っているか、痛いほどに伝わってきたから。

 その原因を作っているのが、他の誰でもない、琴音自身だという事実が、重くのしかかっているから。


 ブーッ、ブーッ。

 静寂に包まれた部屋の空気を震わせるように、デスクの上に置かれたスマートフォンが短く震え始めた。

 バイブレーションの低い音が、フローリングに座り込んでいる琴音の耳に届く。

 ゆっくりと顔を上げると、デスクの上から、明るい光が漏れているのが見えた。

 琴音は、立ち上がろうとはしなかった。


 ただ、暗い部屋の片隅から、明滅する光をじっと見つめ続ける。

 優しいお父さまからの電話だ。

 電話に出れば、きっと「琴音、今日はどうだった?」と、いつものように低い穏やかな声で聞いてくれるに違いない。


 けれど、今の琴音には、その優しさが何よりも恐ろしく、そして痛かった。

 お父さまは何も責めない。

 だからこそ、嘘をついて取り繕うたびに、喉の奥が灼けるように痛む。


 これ以上、嘘を重ねることはできなかった。

 自分が犯している、あの操作という罪の重さに、ただ息が詰まる。

 これは間違いだ。

 決して許されることではない。


 震える手で膝を抱きしめたまま、琴音はスマートフォンの光が消えるのを、ただ見守った。

 何十秒という時間が、永遠のように感じられる。

 やがて、光がふっつりと途絶え、部屋は再び静寂と薄暗さの中に沈んだ。


「……ごめんなさい、お父さま……」


 かすれた呟きは、空調の音に吸い込まれて消えていった。


 重い身体を引きずるようにして立ち上がり、琴音はデスクの前まで歩いた。

 床に膝をつき、一番下の引き出しに手をかけて、ゆっくりと手前に引く。

 木の擦れる音が微かに鳴り、中から整然と片付けられた空間が現れた。

 その一番奥。

 琴音は震える指先で、そこに伏せて置かれている一枚の写真に触れた。


 表に返すことはしない。

 ただ、その裏側の白い紙面を、指の腹でそっとなぞる。

 少し反って角が丸くなっているのは、何度もこうして触れたからだ。

 見なくても、そこに写っているあの子の笑顔は、琴音の脳裏に焼き付いている。

 胸の奥底が、刃物でえぐられるように痛んだ。


 あの夜のこと。

 思い出しかけて、琴音は目を強くつぶり、記憶に蓋をした。

 今はだめだ。

 あれに触れたら、今夜はもう、立てなくなる。


 それでも、これだけは消えてくれない。

 肝心なときに、自分はいつも何もできない。

 その無力感が、琴音という人間の芯に、重い錘のように沈み続けている。


 だからこそ、琴音は惹かれたのだ。

 ゲームの中で、彼はいつも真っ先に前に出て、仲間を庇ってくれた。

 自分が傷つくことを恐れず、誰かのために盾になる。

 その背中を見るたびに、琴音の胸の奥で、小さく萎縮していた何かが温められるのを感じていた。

 彼は、動けた。


 琴音がどうしてもできなかったことを、彼はやってのけた。

 その姿は、あの夜ああ動けていればと願い続けた、叶わなかったもう一人の自分の鏡だった。


 彼のような人の世界の輪郭に、少しでも触れていたい。

 少しでも身近に感じていたい。

 それは、恋というよりも、もっと切実な、祈りのような感情だった。

 その想いが暴走し、琴音は取り返しのつかない嘘をついてしまった。


 引き出しをそっと閉め、琴音は立ち上がると、部屋の隅にある化粧台の前へと移動した。

 スツールに腰を下ろし、大きな三面鏡に向き合う。

 鏡の中に、一人の少女が映っていた。

 級友たちから羨望の眼差しを向けられる、乱れのないゆるふわのロングヘア。

 どこまでも清楚で、上品な白いワンピースの少女。


 琴音は、鏡の中の自分に向かって、ゆっくりと口角を上げた。

 右の口角から。

 次に左。

 目元の力を、ほんの少しだけ和らげる。

 今日、【リオン】さまの前で崩すまいと保ち続けた、完璧な角度。


「私が、あなたの本当のルナですよ、【リオン】さま……」


 甘く、優しい声を紡ぐ。

 あの日の夕暮れ、彼に初めて声をかけたときと同じように。

 けれど、次の瞬間。

 鏡の中の完璧な笑顔が、音を立てて崩れ落ちた。


「……っ、う……」


 大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。

 化粧台に両手をつき、琴音は声を殺して泣いた。

 華奢な肩が、しゃくりあげるように震えている。


 あんなものは、ただのハッタリだ。

 焦りから出た、苦し紛れの嘘に過ぎない。

 あの三姉妹が現れて、【リオン】さまの隣が埋まっていくのを見たとき、琴音はパニックになったのだ。

 このままでは、自分が永遠に彼と関わることができなくなる。

 だから、あんな極端な行動に出てしまった。


 バレたら終わりの、綱渡り。

 完璧な微笑みの下で、琴音の心臓は常に恐怖でバクバクと鳴り続けている。

 彼女たちが本物じゃないことはわかっているのに。

 それなのに、なぜ彼は、あんなにも悲しそうな顔をするのか。

 なぜ、彼女たちといるとき、あんなにも穏やかに笑うのか。


 駅前で見た、彼の表情が頭から離れなかった。

 あの痛切な寂しさを帯びた瞳を、これ以上見たくはなかった。

 彼を笑顔にしたくて、彼に救われたくて、ここまで来たはずなのに。

 やっていることは、彼から大切な場所を奪い、傷つけているだけではないか。


「こんなこと……続けても、意味なんて、ないですわ……」


 涙を手の甲で乱暴に拭い、琴音は顔を上げた。

 鏡の中の自分は、ひどく惨めで、小さく見えた。

 深呼吸をして、震えを無理やり押し殺す。


 今夜。

 今夜のうちに、元に戻そう。

 明日まで待てば、また、できない理由を探してしまうから。


 彼の悲しむ顔は、もう見たくない。

 たとえ、彼の隣にいるのが自分ではなくても。

 彼が笑ってくれるなら、今は、それでいい。


 琴音はスツールから立ち上がり、デスクへ戻ると、その上の端末に手を伸ばした。

 冷たい金属の感触が、指先に伝わる。

 画面の上に細い指を置き、琴音は小さく息を整えた。


「ごめんなさい、【リオン】さま……」


 小さな詫びの呟きとともに、操作をひとつ、実行する。

 乾いた音がひとつ鳴り、処理が静かに進んでいく。


 青白い画面の光が、ふっとデスクを照らし出す。

 その光は、あの子の写真が眠る一番下の引き出しを、かすかに、けれど確かに照らしていた。

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