第100話 浮き輪の取り合いと、水際の半歩
女子の着替えが長いことくらいは、知識として知っていた。
知ってはいたが、男子更衣室を出てから十五分もプールサイドの柱にもたれていると、さすがに日差しの重さが身に染みてくる。
七月半ばの日曜で、時刻はまだ十時を回ったばかりなのに、白いタイルの照り返しはすっかり真夏の顔をしていた。
流れるプールのほうからは、子どもの歓声と監視員の笛が交互に響いてくる。
五人でプールに行こうと言い出したのは、少なくとも俺ではない。
気づけば日にちも集合時間も決まっていて、俺は最初から頭数に入っていた。
木曜の放課後のことは、まだ胸の隅に小さな棘のように残っている。
あれから金曜も同じ教室で一日を過ごしたが、三桜さんは拍子抜けするほどいつも通りで、そのいつも通りがかえって俺を落ち着かなくさせた。
「センパーイ!」
更衣室の出口から黒い影が一直線に飛び出してきた。
心花だった。
上は首もとまで覆う黒のラッシュガード、下は灰色のショートパンツ。
水着というより今から砂浜で球技でも始めそうな格好で、心花は濡れたタイルの上を器用に跳ねてくる。
「走るな、滑るぞ」
「平気ですよ! 私、足の裏の踏ん張りには自信あるんです。センパイに一番に見せたくて、着替えも最速で終わらせてきちゃいました!」
心花は俺の前でぴょんと止まると、両手を頭の上に突き上げて大きく伸びをした。
ゆったりした黒い生地が胸もとで張りつめ、だぼっとした着こなしに隠れていた起伏が、その一瞬だけくっきりと浮かび上がる。
腕を下ろせば、布はまた何事もなかったように緩んだ。
「せっかくのプールなのに、ずいぶん着込んでるんだな」
「ふふん、センパイはわかってないですねえ。こういうのは、全部見えないほうがドキドキするんですよ?」
「篠崎ちゃん、それ隠してる側が言うと、ただの負け惜しみにしか聞こえないって」
心花の背後で笑い声がして、一花さんがひらりと姿を現した。
腰に片手を当てて立つ一花さんは、ターコイズブルーのホルターネックのビキニだった。
首の後ろで結んだ紐から三角の布が胸もとへ下りていき、そのあいだに、くっきりと影の溜まった谷間がのぞいている。
鮮やかな青のせいで肌の白さがいっそう眩しい。
「負け惜しみじゃないですもん! 私のは、ちゃんとした作戦なんです!」
「作戦ねえ。布の面積で競うなら、篠崎ちゃんの圧勝だけど?」
「布の面積の話じゃないですっ!」
「はいはい。で、どう、誠。今年の新作。あたしの夏、いちばん最初に見せたげる」
一花さんは見せつけるように、その場でくるりと一回転した。
背中にはほとんど布がなく、肩甲骨のあいだを細い紐が一本横切っているだけだ。
「……似合ってると思う」
「声ちっちゃ。もっと魂こめて言いなよ」
「こめたらこめたで、からかうだろ」
「当然じゃん」
一花さんはけらけら笑うと、今度はくるりと背を向けて、俺のすぐ目の前に立った。
うなじの下で蝶結びにした紐の端が、ちょうど俺の胸の高さで揺れている。
「ね、首の結び目、ちょっとゆるい気がすんの。誠、見てくんない?」
「自分で触ってみればわかるだろ」
「触ってもわかんないから頼んでるんじゃん。ほら、もっと近くで」
一花さんがそのまま後ろへ体重を預けてきて、汗ばんだ背中が俺の胸にぺたりと貼りついた。
水着だと、素肌どうしが触れる面積が笑えないほど広い。
逃げようにも、俺の背後は柱だ。
そのとき、一花さんのうなじと俺の顎のあいだに、白い指がすっと割り込んできた。
「動かないで」
二葉さんだった。
彼女は一花さんの首の後ろの結び目に指をかけて手際よく締め直すと、仕上げにきゅっと容赦なく引き絞った。
「ぐえっ……ちょ、二葉、締めすぎ! 首まで絞まってるって!」
「ゆるいと言ったのはあなたでしょう。これでもう、誰かに確かめてもらう必要はないわ」
「ナイスブロックです、二葉先輩!」
「ブロックではないわ。結び直しただけよ」
淡々と言い放つ二葉さんは濃紺のワンピースの水着を着ていた。
飾り気のない、競泳用に近いすっきりとした形だ。
——なのに、普段の制服がどれだけ丁寧に覆い隠していたのかを、その一枚は少しも隠せていなかった。
まっすぐなはずの紺の生地は胸もとで大きく弧を描き、そこから細い腰へ向かって、急な坂のように一気に絞られていく。
「……二葉、まさかそれ、泳ぎやすさで選んだとか言わないよね?」
首をさすりながら、一花さんがじとりと妹を見た。
「言うわ。ワンピースは水の抵抗が少ないの。泳ぐなら、これが一番よ」
「抵抗が少ない体型の人が言うなら、説得力あるんだけどねー」
一花さんの視線が遠慮なく二葉さんの胸もとへ落ちる。
「競泳の選手で、そんな曲がり方してる人いないって」
二葉さんは眉ひとつ動かさなかった。
動かさなかったが、まだ乾いている髪のあいだからのぞく耳の先だけが、みるみる赤くなっていく。
「……見る場所が下品なのよ、一花は」
「誠も見てたよね?」
「なんでそこで俺に飛び火するんだ。見てないって」
「……そう。見ていないの」
二葉さんの声がほんのわずかに低くなった。
見たら見たで叱られて、見なかったら見なかったでこれだ。
どっちに転んでも、俺の立場はプールの底に沈むらしい。
「お、お待たせぇ……」
最後に更衣室から出てきたのは三桜さんだった。
——というより、大判のラップタオルだった。
白いタオルが胸の上から膝の上までをぐるりと包み込み、上からは小さな頭とむき出しの肩、下からは膝から下の細い脚だけがのぞいている。
肩にかかる細い紐だけが、タオルの下に水着を着ていることを辛うじて主張していた。
歩くたびに裾が揺れて、白い筒がよちよちとこちらへ近づいてくる。
「三桜先輩、てるてる坊主みたいで可愛いです! これで今日は一日中晴れですね!」
「晴れるのはうれしいけど……てるてる坊主はやだよぉ……」
「三桜、それ水着見せる気ある?」
「あ、あるよ! あるけど、日焼けしちゃうから……私、すぐ赤くなっちゃうの」
三桜さんはタオルの合わせ目を両手で握りしめたまま、俺の前までちょこちょこと歩いてきた。
きょろきょろと周りをうかがってから、意を決したように、合わせ目をほんの少しだけ開いてみせる。
「……ちゃんと可愛いの選んだんだよ。誠くんにだけ、先にちょっとだけ」
言い終わるより早く、合わせ目はぱっと閉じられた。
白地に散った、淡いピンクの小花模様。
見えたのは本当に指二本ぶんだけだった。
タオルの端をぎゅっと握り直した三桜さんは、耳まで真っ赤に染めながら、上目遣いで「……どうかな?」と俺の顔色をうかがってきた。
「ちょっ、三桜! 今の何、抜け駆けじゃん!」
「……三桜。順番というものがあるでしょう」
「あーっ! それ、私がさっき言ってたやつです! 見えないほうがドキドキするって、三桜先輩に完璧に実践されちゃいました!」
「え? え? 私、何かした?」
本人にはまったく自覚がないらしい。
「で、誠。正直に言いなよ。誰の水着が一番?」
柱から背中を離したところへ、一花さんが俺の右腕に自分の腕をするりと絡めてきた。
すかさず左腕には心花がしがみつき、背中には二葉さんの手のひらがひたりと添えられる。
正面では、白いてるてる坊主……もとい三桜さんが、期待に満ちた目で俺を見上げていた。
前後左右を完全に塞がれた。
右の二の腕には、三角の布越しに、押し返してくるような張りのある丸みが当たっている。
左腕には、厚手の黒い生地越しに、小柄な体からは想像もつかない重みがずっしりと寄りかかってくる。
背中に触れているのはたぶん二葉さんの手のひらだけだ。
それだけのはずなのに、そこだけ妙に熱い。
「……全員、似合ってるよ」
「出た、一番ずるい答え」
「審査を放棄したわね。マコト、審査員失格よ」
「じゃあ点数でお願いします! 十点満点で、私は十点ですよね、センパイ?」
「自分で採点するなって」
すると正面の三桜さんがタオルの裾をつまんで、しゅんと眉を下げた。
「私、タオルのぶん、減点されちゃう……?」
「減点なんてしないよ」
「ほんと!? じゃあ私も十点?」
「いつの間に点数をつける流れになったんだ」
「……マコトは、三桜にだけ採点が甘いのね」
背中の手のひらにじわりと力がこもった。
「甘っ、甘すぎ。三桜が十点なら、あたしには百点ちょーだい!」
「センパイ、私のはラッシュガードの伸びしろ込みで百二十点ですよね!?」
「採点の基準が壊れすぎだ」
右からは一花さんがぐいと腕を引き、左からは心花がさらに体重をかけてくる。
逃げ場のない包囲網が一歩ずつ狭まってくる。
「もー、決めらんないなら水の中で決めてもらうしかないじゃん。行こ、流れるプール!」
両腕と背中を押さえられたまま、俺は流れるプールへと連行されていった。
後ろからは白いタオルがよちよちとついてくる。
途中、浮き輪を抱えた大学生くらいの男の一団が、大声で笑いながら横を通り過ぎていった。
その一瞬だけ心花の笑顔が一拍遅れた。
俺の左腕に絡んだ手にわずかに力がこもる。
空いたほうの手でラッシュガードの裾を引き下げると、心花はもう何事もなかったように、飛び込むか階段から入るかで一花さんと揉め始めていた。
◇
流れるプールは敷地の外周に沿って大きな輪を描いていた。
一花さんは縁に腰かけるなり、ためらいもせずに水へ滑り込む。
二葉さんはきちんと階段から下りて肩まで沈むと、すっと一度だけ水に潜った。
次に顔を出したときには、もうずいぶん先にいた。
「ちょ、二葉ずるい! いきなり潜水とか!」
「流れに乗っただけよ。逆らわなければ、水が勝手に運んでくれるわ」
水面から出た二葉さんの肩を、濃紺の生地に沿って水が滑り落ちていく。
一花さんも負けじと水を蹴り、しなやかな背中を波打たせて、姉妹の距離をあっという間に詰めた。
——二人とも泳ぎが上手いんだな。
水の中の二人は陸の上よりもずっと自由に見えた。
心花は縁から勢いよく飛び込もうとして、監視台から鋭い笛を浴びた。
「すみませーん! ちゃんと階段から入りまーす!」
監視員にぺこぺこと頭を下げてから、心花は階段を一段飛ばしで下りていく。
俺も水に入り、ふと振り返った。
三桜さんだけがプールサイドに立ったままだった。
「三桜さん? 入らないのか」
「あっ、うん! 私、日焼け止めがまだ乾いてないの。塗ってすぐ水に入ると、流れちゃうでしょ? だから、ここで手振ってるね!」
三桜さんはタオルの中から片手だけを出して、ぶんぶんと振ってみせた。
水際からきっちり一歩下がった場所で。
「誠、浮き輪借りなかったの?」
流れの途中で縁につかまって待っていた一花さんが、追いついた俺の肩に手を置いた。
「足がつくのに、いらないだろ」
「えー、もったいない。……あ、じゃあさ」
何かを思いついた顔だった。
ろくでもないことを思いついた顔、とも言う。
「あたしが誠の浮き輪になったげる」
返事をする間もなく、一花さんは俺の背中に回り込み、両腕を首に巻きつけてきた。
水に浮いた体がそのまま背中に覆いかぶさってくる。
薄い三角の布越しに、ふたつの丸みが俺の背中でやわらかくたわんだ。
腰のあたりには、水を蹴るすらりとした脚が、まとわりつくように何度も触れてくる。
「ほら、浮くでしょ? これで誠はもう溺れないから安心して」
「浮いてるのは一花さんで、沈みそうなのは俺のほうなんだけど」
すいと横から泳ぎ寄ってきた二葉さんが、俺たちを冷ややかに見比べた。
「一花、逆よ。掴まっているのはあなたで、浮き輪はマコトのほう」
「じゃ、誠があたしの浮き輪ってことで。今日一日レンタルね。返却はしないけど」
「レンタル品は返すものよ」
「延滞料なら払うし」
「規約違反よ。不当占有なら、私が強制執行で回収するわ」
「回収って何!? 差し押さえみたいな言い方やめてよ!」
姉妹の言い合いが、俺の頭越しに水面を行き来する。
「ちょっと待ってください!」
水しぶきを上げて、心花が反対側から割り込んできた。
「センパイ浮き輪、予約制にしましょう! はい、次は私です! もう決めましたから!」
「その次は私よ」
「いつから俺は貸し出し品になったんだ」
「人気商品じゃん、誠。よかったね」
言い返す言葉を探していると、水面の下で、ひんやりとした指が俺の右の手首をつかんだ。
脈を確かめるみたいに、細い指が一本ずつ巻きついてくる。
「……順番を待つとは言っていないわ」
「今、その次は私って言いましたよね!? 二葉先輩、それ横入りです!」
「流れのある場所では、はぐれないよう何かに掴まるのが合理的よ。掴まった先が、たまたまマコトだっただけ」
淡々とした口ぶりとは裏腹に、手首の指は少しも緩まない。
たまたま掴んだだけの相手の脈を、こんなに律儀に測り続けるやつはいない。
背中には一花さん、右手には二葉さん。
そして正面からは心花が水を掻き分けて迫ってきていた。
「わっ、わっ、流れが速くて止まれませーん!」
どう見ても自分で水を蹴って加速していた心花が、俺の胸にまっすぐ突っ込んできた。
小さな体がぶつかる衝撃と一緒に、黒い生地越しのたっぷりとした量感が、みぞおちのあたりで弾む。
「今のは不可抗力ですからね、センパイ!」
「さっきから足で思いきり水を蹴ってただろ」
「えへへ、バレてました?」
前には心花、後ろには一花さん、右手は二葉さんに捕まっている。
流れに運ばれながら、俺はただの浮き輪として、三人ぶんの体温に挟まれて漂うしかなかった。
そのまま施設をぐるりと一周して、スタート地点の近くまで戻ってくる。
プールサイドでは三桜さんが、タオルから出した手を大きく振っていた。
「誠くーん! お姉ちゃんたちー! 心花ちゃーん! おかえりー!」
「三桜も早くおいでよー!」
「日焼け止めが乾いたらねー!」
外周のフェンスの向こうでは、麦わら帽子にサングラスの誰かが入場口の前を行ったり来たりしていたが、二周目に差しかかるころには、もうその姿は見えなくなっていた。
二周目も、三周目も、三桜さんは同じ場所で手を振っていた。
相変わらず水際から一歩下がった、まったく同じ立ち位置で。
いや、正確には少し違った。
すぐそばで子どもが勢いよく飛び込んで、水しぶきが跳ねたとき。
彼女はとっさにもう半歩だけ後ろへ下がっていた。




