第101話 三桜の秘密と、海までの小指
五人で来た日曜のプールで、流れるプールを三周するあいだ、俺はすっかり三人の貸し出し品だった。
背中には一花さん、右の手首には二葉さん、正面には予約制を言い出した心花。
そのあいだ三桜さんだけは、日焼け止めが乾かないと言って、水際から一歩下がった場所で手を振りつづけていた。
「よし、次スライダー行こ! 一番高いやつ!」
流れるプールから上がるなり、一花さんが施設の奥にそびえる塔を指さした。
青と黄色の管がとぐろを巻くように絡み合い、てっぺんからは時おり、悲鳴まじりの歓声が降ってくる。
「二葉、どっちが先に下まで着くか勝負ね」
「受けて立つわ。負けたほうが、帰りの飲み物を持つこと」
「持つって何、奢りじゃなくて運ぶだけ?」
「あなたに奢られると、あとで利子をつけて請求されるもの」
姉二人のあいだで、見えない火花がぱちりと散った。
「スライダーって競争できるんですか? あ、でも私、ああいうの得意ですよ! 絶叫系は一番前に乗るタイプなので!」
「三桜も行くよね?」
一花さんに振り返られて、三桜さんの肩がびくりと跳ねた。
「わ、私はいいかな! ここで荷物見てるね!」
「荷物ならロッカーに入れたでしょう」
「そ、そうだった……えっと、じゃあ日焼け止めが……」
「それ、さっきも言ってなかった?」
「い、言ったけど! 私の日焼け止め、すっごく乾きにくいやつなの! あの、塗るのに一時間で、乾くのにも一時間かかるの!」
どんな日焼け止めだ。
言い訳を重ねるほどに三桜さんの声は上ずり、タオルの合わせ目を握る指が白くなっていく。
「それもう日焼け止めじゃなくてペンキの乾燥時間じゃん」
「ペ、ペンキじゃないよぉ! お肌にとっても優しいやつなの!」
「三桜先輩、もしかしてスライダー怖いんですか? 大丈夫ですよ、私が後ろからぎゅってしてあげますから! ……あ、あれって一人ずつでしたっけ?」
心花の無邪気な申し出に、三桜さんはますます言葉を詰まらせる。
そして、その目がふっと俺を探した。
答えに詰まって、すがるように向けられた瞳。
木曜の放課後に見たのと同じ目だった。
あのとき、俺はその目から逃げた。
「——俺も、ちょっと休憩する」
気づけば口のほうが先に動いていた。
「流れるプールで揉みくちゃにされて、ちょっと人に酔った。それにあの列だと、上まで三十分はかかるだろ。日陰で休んでから、あとで追いかける」
「えー、誠も来ないの?」
「あとで行くって」
「絶対だよ? 来なかったら、浮き輪のレンタル延長するからね」
「センパイ、すぐ来てくださいね! 来なかったら私、迎えに戻ってきますから。どこにいても、ちゃんと見つけますからね!」
心花はにっこりと笑ったまま、念を押すように俺の目を覗き込んだ。
冗談めかした口ぶりなのに、その笑顔はどこまでも本気に見える。
「はいはい、篠崎ちゃんはこっち。勝負勝負!」
一花さんに背中を押されて、心花が名残惜しそうに振り返りながら塔のほうへ連れていかれる。
二葉さんはそのあとを静かについていきかけて、一度だけ足を止めた。
その視線が俺の顔をなぞり、それから隣にいる三桜さんのタオルの上で、ほんの一瞬だけ留まる。
「……マコト。あとで必ず来なさい」
それだけ言うと、二葉さんは今度こそ背を向けた。
にぎやかな三人の声がスライダーの塔のほうへ遠ざかっていく。
プールサイドには俺と、タオルにくるまった三桜さんだけが残された。
「……ありがと、誠くん」
「何のことだ」
「なんでもない、けど。……ありがと」
三桜さんは流れるプールの縁にそっと腰を下ろした。
俺も隣に座って、水の中に足を下ろす。
三桜さんの足は縁の上できちんと揃えられたままだった。
跳ねた飛沫が一滴だけ彼女の爪先に落ちる。
細い足首がぴくりと縮こまって、水からさらに遠ざかった。
「三桜さん。日焼け止め、もう乾いたんじゃないか」
「えっ。う、ううん、まだしっとりしてるよ? ほら、触ってみる?」
タオルの中から腕を差し出しかけて、三桜さんははっと動きを止めた。
触られたら乾いているのがばれる、と出してから気づいたらしい。
腕はそろそろとタオルの中へ帰っていった。
そのまま大判タオルを顎の下までぎゅっと引き上げると、三桜さんは上目で俺を見上げて、小刻みに首を横に振った。
「……今のはなしで」
「……なあ。もしかして、水が苦手なのか」
なるべく軽く聞こえるように言ったつもりだった。
それでも三桜さんはタオルの合わせ目を握ったまま、しばらく自分の膝のあたりを見つめていた。
「……わかっちゃった?」
「三周しても、ずっと同じ場所で手を振ってたからな。子どもが飛び込んだときなんて、半歩下がってたし」
「……そんなとこまで、見てたんだ」
三桜さんは小さく息を吸い込むと、観念したように肩を落とした。
「私ね……泳げないの」
「どのくらい?」
「まったく。浮くのも、顔を水につけるのも、ぜんぶだめ」
言ってしまってから、三桜さんはタオルごと膝を抱え込んだ。
「お姉ちゃんたち、二人ともすっごく泳げるでしょ。さっきも見たよね? 二葉ちゃんなんて潜ったと思ったらもうあんなに先にいて、一花お姉ちゃんも、水に入るとお魚みたいにすいすいで」
「ああ。二人とも上手かった」
「だから、言えなかったの。言ったら絶対心配されちゃう。一花お姉ちゃんは浮き輪いっぱい借りてきちゃうし、二葉ちゃんは、泳げるようになるまでずっと隣から離れなくなっちゃう」
その光景は俺にも簡単に想像がついた。
姉二人に両側からがっちり固められて、浮き輪を三つも四つもはめられた三桜さんの姿が浮かぶ。
「心花ちゃんにも、言ってないの。心花ちゃん優しいから、きっと今日一日ずっと私に付き合ってくれちゃう。せっかくみんなで来たのに、そんなのやだよ」
「……でも、俺にはばれたな」
「誠くんには……ばれてもいいかなって、ちょっとだけ思ってた」
三桜さんはタオルの端をいじりながら、照れくさそうに笑った。
それから少しだけ声を落とす。
「夏休みの行きたいところ、海も入ってたでしょ。みんなが沖のほうで遊んでるのに、私だけ浜辺で浮き輪抱えてお留守番なの、恥ずかしいなって」
言葉を切って、三桜さんは足もとの水面を見下ろした。
水面のきらめきが、白いタオルの裾に映って揺れている。
「それにね。……誠くんと、一緒に泳ぎたいなって」
まっすぐな声だった。
俺はプールの奥へ目をやる。
流れるプールの内側、パラソルの並ぶ一角の向こうに、腰ほどの深さしかない浅いプールがあった。
スライダーの塔からは、ちょうど売店の屋根の陰になる位置だ。
「……練習してみるか」
「え?」
「あっちの浅いほうなら足もつくし、人も少ない。一花さんたちが滑ってるあいだくらいなら、ばれないだろ」
「……いいの? 誠くん、スライダー行くって言ってたのに」
「あの列なら、あとで行っても変わらないよ」
三桜さんはしばらく俺の顔を見つめてから、タオルの合わせ目を握り直した。
「かっこ悪いとこ、いっぱい見せちゃうよ?」
「いいよ」
「……誠くんにしか、見せられないやつだよ?」
大事にしまっておいた宝物の隠し場所を、そっと耳打ちするような声だった。
◇
浅いプールは思ったとおり人がまばらだった。
小さな子ども連れの家族が端のほうで水をかけ合っているくらいで、真ん中あたりはほとんど貸し切りに近い。
底に敷かれた水色のタイルの上で、陽射しが細かな網目になって揺れていた。
「よし。じゃあまず、タオルを……」
「あっ、待って!」
三桜さんは合わせ目を押さえたまま、ふるふると首を振った。
「誠くん、あっち向いてて」
「下は水着だろ」
「そうだけど! 取る瞬間って、なんか恥ずかしいの。カーテン開ける前の、あの感じなの!」
よくわからない理屈だったが、言われたとおりに背を向ける。
背後で留め具の外れる小さな音がして、タオルのこすれる衣擦れが続いた。
「……い、いいよ」
振り返ると、三桜さんはほどいたタオルを胸の前で抱きしめて立っていた。
抱えたタオルで前が全部隠れているから、結局何も見えていない。
「三桜さん」
「わ、わかってる! 今、置くから……っ」
三桜さんはぎゅっと目をつむると、えいっとタオルをプールの縁に置いた。
白地に淡いピンクの小花がいくつも散った、ふんわりとしたビキニだった。
腰の両脇では小さなリボンが結ばれていて、細い肩紐と揃いの淡いピンクが、白い肌の上でほのかに浮いている。
タオルの下から現れた腰は、思わず心配になるほど細い。
そのくせ、くびれの上の胸もとはふっくらとした丸みを帯びていて、指で押せばそのまま沈んでいきそうだった。
「……お姉ちゃんたちのより、子どもっぽい?」
「いや。三桜さんらしくて、可愛いと思う」
「…………っ」
三桜さんは両手で頬を挟んで、その場で小さく足踏みをした。
指のあいだからのぞく頬が、見る間に赤くなっていく。
縁の階段を一段下りると、三桜さんの足首を水がちゃぷんと包んだ。
「ひゃっ……つめたい……」
「すぐ慣れるよ」
「慣れる前に、心臓止まっちゃいそう……」
二段目、三段目。
水位が膝を越え、太ももを越え、腰のあたりまで上がってきたところで、三桜さんの動きがぴしりと固まった。
「ま、誠くん、深い。ここ深いよぉ……!」
「腰までしかないぞ」
「腰までもあるの!」
言うが早いか、三桜さんは俺の腕に両手で飛びついてきた。
細い腕が二の腕に巻きつき、濡れた肌が脇腹へ吸いつくように重なる。
水の浮力で頼りなく揺れる体は、思っていたよりずっと軽かった。
その軽さのほとんど全部を俺の腕に預けて、三桜さんは小刻みに震えている。
腕の内側に伝わってくるのは、怖がっている小動物みたいな、早くて小さな鼓動だった。
「三桜さん、そんなに掴まらなくても沈まないって」
「沈まないのはわかってるの! わかってるけど、体がわかってくれないの!」
「じゃあ、体のほうにわからせよう。まずは歩くところからだ」
向かい合って、三桜さんの両手を取る。
俺が後ろ向きにゆっくり下がり、三桜さんがそれについて水の中を歩く。
一歩ごとに水の抵抗で体がよろけて、そのたびに握った指へ力がこもった。
「下は見なくていい。俺の顔だけ見てろ」
「誠くんの顔ずっと見てるの、それはそれで緊張するんだけど……」
「じゃあ鼻のあたりでいい」
「鼻見ながら歩くの、なんか変だよ……ふふっ」
小さく吹き出したはずみで、三桜さんの肩から少しだけ力が抜けた。
浅いプールを二往復するころには、俺の手を握る指もずいぶんほどけていた。
「次はバタ足だ。縁につかまって、体を伸ばしてみよう」
「伸ばすって、浮くってこと? 無理無理、浮いたら沈んじゃう!」
「浮いたら沈まないだろ」
「あ、そっか……え、あれ? どっちだっけ?」
「俺がお腹のところを支えてるから。足だけ動かしてればいい」
三桜さんはプールの縁を両手でつかみ、おそるおそる体を前へ倒した。
俺は横に立ち、水の中で彼女のお腹の下に手を差し入れる。
掌に触れたお腹は、力の加減に迷うほど薄くて頼りなかった。
もう片方の手を腰に添えると、骨ばったところのない滑らかなくびれが、掌の形に沿うようにすっぽりと収まる。
「ひゃ……誠くんの手、あったかい……」
「冷たいよりいいだろ。ほら、足」
「う、うん。……えいっ!」
次の瞬間、俺の顔面に水の壁が襲いかかった。
「ぶはっ……三桜さん、強い強い」
「ご、ごめん! でも足が勝手に!」
膝ががくがくと曲がって、まるで水の中で自転車を漕いでいるみたいなバタ足だった。
派手に上がるのは水しぶきばかりで、体はちっとも水面に乗ろうとしない。
「膝じゃなくて、足の付け根から動かすんだ。脚全体を、むちみたいにしならせる感じで」
「むち……むちってどうやるの……? 叩くやつ?」
今度は膝がぴんと伸びきって、二本の棒が交互に水面を叩き始めた。
高く跳ね上がった水しぶきが頭の上から三桜さん自身にも降りそそぎ、「ひゃぅっ!?」と情けない悲鳴が上がる。
脚が固くなったぶん腰が沈み、俺の掌にかかる重さがぐっと増す。
「伸ばしすぎだ。もうちょっと力抜いて」
「こわいこわい、そんなことしたら沈んじゃう!」
「沈まないように俺が持ってるんだって」
そこから先は同じことの繰り返しだった。
曲げすぎては直し、伸ばしすぎては直し、一回ごとに三桜さんは「今のは?」と振り向いて俺の顔をうかがう。
首を振れば「うぅ……」としおれ、頷けば「やった!」と瞳を輝かせる。
十回を過ぎたあたりで、ようやく水しぶきが細かく揃い始めた。
「今の、今のよかったよね!? ちょっとだけ前に進んだ気がした!」
「縁から手を離してないから、一ミリも進んでないけどな」
「気持ちは進んだの!」
ぷうっと頬を膨らませる三桜さんの肩は、最初よりずっと水に馴染んでいた。
「……じゃあ、次は顔をつけてみるか」
その一言で三桜さんの背中が板のようにこわばった。
「か、顔って……水の中に?」
「息を止めて、ちょっとだけつける。それだけだ」
「それだけって言うけど、それが一番むずかしいんだよ……」
三桜さんは縁につかまって体を起こすと、大きく息を吸い込んだ。
頬をぷくりと膨らませて、ゆっくりと顔を下ろしていく。
顎の先が水に触れる。
唇が触れる。
鼻の頭が水面にちょんと触れた。
途端に、三桜さんは弾かれたように顔を上げていた。
「ぷはっ! む、無理! 鼻に入る! 今、鼻に入った気がする!」
「まだ鼻の先がちょっと触っただけだぞ」
「先っぽでも入るの!」
「じゃあ、三つ数えるあいだだけ。数え終わったらすぐ上げていい」
「三つ……うん、三つなら……」
もう一度、深く息を吸う。
今度は目もかたくつむって、三桜さんの顔が水面へ近づいていく。
「いちにさんっ!」
顔が沈みきるより先に、三桜さんの口から三つ分の数字が一息に飛び出した。
水面に鼻先が触れたか触れないかのところで、顔はもう上がっている。
「……今のは数えたって言わないだろ」
「数えたの! ちゃんと三つ言ったよ!」
「三つを一息で言っただけだ」
三桜さんは縁に額をこつんと押し当てて、小さく唸った。
濡れた髪の先から雫がこぼれて、水面に細かな輪をいくつも描いていく。
「……ほんとはね、ちょっと怖いの」
縁に額をつけたまま、くぐもった声がこぼれた。
「顔つけたら、なんにも聞こえなくなって、なんにも見えなくなって……誠くんがどこにいるのかも、わかんなくなっちゃいそうで」
俺は少し考えてから、三桜さんの肩を指先で軽くつついた。
「じゃあ、手をつないだままやろう」
こちらへ向き直った三桜さんの両手を、水の中で取る。
指と指を、一本ずつ絡めた。
「顔をつけてるあいだも、ずっと握ってる。どこにいるかわからなくなったら、握り返せばいい。そしたら俺も握り返す」
「……ずっと?」
「三つ数え終わるまで、ずっとだ」
三桜さんはつないだ手と俺の顔を交互に見てから、こくりと頷いた。
絡めた指に小さく力がこもる。
「……離さないでね」
答える代わりに、絡めた指に少しだけ力を返す。
三桜さんがすうっと息を吸い込んだ。
膨らんだ頬。
固くつむったまぶた。
水面がゆっくりと、彼女の顎を、唇を、鼻先を、そして閉じたまぶたを呑み込んでいく。
ぽこ、と小さな泡がひとつ浮かんで、水面で弾けた。
水の中でつないだ手がきつく握られる。
俺も同じ強さで握り返した。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
ざばっと水を跳ね上げて、三桜さんが顔を上げた。
前髪がおでこにべったりとくっつき、睫毛の先から雫がいくつも滑り落ちていく。
肩で息をしながら、三桜さんは信じられないものを見るような目で俺を見た。
「……つけた」
「ああ」
「今、つけたよね!? 顔、ぜんぶ水の中だったよね!?」
「まぶたまで全部沈んでた。三つ、ちゃんと数えたぞ」
「つけた……私、ほんとにつけたぁ……!」
次の瞬間、三桜さんが水を蹴って俺の胸に飛び込んできた。
つないでいた手がほどけて、細い両腕がそのまま首に回る。
濡れた素肌が胸板にぴったりと重なり、薄い水着越しの丸みが、遠慮のない勢いで押しつけられた。
プールの水の冷たさと、その奥から滲んでくる肌の熱が、ちぐはぐに混ざり合う。
「やったよ、誠くん……! 顔、つけられた……!」
耳もとで弾む声が、そのまま胸の奥まで響いてくる。
俺の両手は行き場をなくして水の上でさまよっていた。
やがて三桜さんの動きがぴたりと止まった。
首に回っていた腕から、そろそろと力が抜けていく。
「……あ」
顔を上げた三桜さんと、鼻先が触れそうな距離で目が合った。
水面から照り返す光が、みるみる赤くなっていく頬の上で揺れている。
「ご、ごめんね!? つい、うれしくて、その、水着なの忘れてて……!」
「それは忘れちゃだめなやつだろ」
「頭から飛んでっちゃったの!」
三桜さんはプールの底に足をつけ直すと、半歩だけ俺から離れて、水の中で自分の指をもじもじと絡め合わせた。
けれど、それ以上は離れようとしなかった。
「……ねえ、誠くん」
「どうした」
「私、すっごくかっこ悪かったよね。鼻に入るって騒いだり、いちにさんってずるしたり」
「鼻に入ったって騒いでたのは、ちょっと面白かったけどな」
「やっぱり笑ってたんだ!」
三桜さんはぷくりと頬を膨らませて、それから、すぐにしぼませた。
「……でもね。なんか、うれしかったの」
「何がだ」
「いつもはね、私が誰かに何かしてあげるほうが、ほっとするの。でも今日は、誠くんにしてもらってばっかりで……」
「嫌だったか」
「ううん。……ずるいくらい、あったかかった」
三桜さんは水の中で揺れる自分の指先を見つめたまま、小さく笑った。
何かを差し出すときのいつもの笑顔とは少し違う、受け取ったものを両手で大事に抱えているような顔だった。
スライダーの塔のほうから、ひときわ大きな歓声が上がった。
あの中のどこかで一花さんたちが順番を待っているんだろう。
「……ねえ、このこと、お姉ちゃんたちには内緒にしてね。心花ちゃんにも」
「言わないよ」
「それでね」
三桜さんは水の中で右手を俺のほうへ寄せると、小指だけをちょこんと立ててみせた。
「海までに絶対泳げるようになるから。……今日はここまで。続きは、またね」
差し出された小指に、俺も右手の小指を絡めた。
細くて、水で冷えているくせに、絡めた根もとだけがじんわりと温かい。
「約束だぞ」
「うん。約束」
指切りの歌を口ずさむでもなく、三桜さんは絡めた小指を、小さく二回だけ揺らした。
小さくこぼれた笑い声が、水面の光と一緒に揺れる。
見上げてくるその目は、もうすがるような色をしていなかった。
スライダーの歓声も、子どもたちのはしゃぐ声も、今はずいぶん遠くに聞こえる。
腰までの水の中で結んだ、誰にも言えない約束がひとつ。
夏休みの海が、俺と三桜さんだけの締め切りになった。




