第102話 水着の五人と、水面下の内緒
七月半ばの日曜、五人で来たプールは、昼が近づくにつれて歓声を増やしていた。
その賑わいから少し外れたところで、俺と三桜さんはまだ腰まで水に浸かっていた。
小指をほどいてからも、三桜さんはしばらく自分の右手を水面の上にかざしていた。
さっきまで絡まっていた指の根もとを、確かめるように親指でなぞっている。
底のタイルで揺れる光の網が、その小さな手のひらにも映りこんでいた。
姉たちと心花がスライダーの列に並んでいるあいだ、人の少ない浅いプールの隅で水に顔をつける練習をしていたことは、俺と三桜さんだけの秘密だ。
「……そろそろ戻らないとまずいな。向こうも、何本か滑り終わってるころだ」
「あっ、そうだった! お姉ちゃんたち、もう下りてきちゃってるかも」
三桜さんは水を掻き分けて縁へ戻ると、置いてあったタオルを拾い上げた。
胸の上でぐるりと一周させ、端の留め具をぱちんと止める。
さっきまで水の中ではしゃいでいた女の子が、またたく間に白いてるてる坊主へ戻っていった。
ただ、そのてるてる坊主には一か所だけ、ごまかしようのない綻びがあった。
「三桜さん、前髪」
「え?」
「びしょびしょだぞ。顔をまるごと沈めたんだから、当たり前だけどな」
おでこに貼りついた前髪の先から、まだ雫がぽたぽたと落ちている。
日焼け止めが乾くのを待っていたはずの人の頭にしては、どう見ても濡れすぎだった。
三桜さんは両手で前髪を押さえ、この世の終わりみたいな顔になった。
「ど、どうしよう……これじゃ一目でばれちゃうよぉ」
「タオルの端で拭けばいいだろ」
「そ、そっか、タオルで……」
三桜さんは首をすくめ、巻いたタオルの上の縁をつまんで、髪のところまで引っぱり上げようとした。
届かない。
背中を丸め、顎を引いて、もうひと息ぐいと引く。
その拍子に胸もとの合わせ目がふっと緩み、白い布が胸の上からするりと滑り落ちかけた。
「待った待った、ほどけてる」
とっさに手を伸ばして、落ちかけたタオルの縁を押さえた。
押さえた指の背が濡れた肌をかすめる。
鎖骨の窪みに溜まっていた水の粒がひとつ俺の指へ移ってきた。
三桜さんはきょとんとしたまま、自分の胸もとで止まっている俺の手を見下ろした。
それから耳の先のほうから首筋まで、ゆっくりと淡い桜色に染まっていった。
「……あ、ありがと……?」
「お礼が疑問形なのはなんでだ」
「だ、だって、誠くんの手がそこにあるときって、なんて言えばいいのかわかんないんだもん!」
そんなことを聞かれても、俺にもわからない。
留め具をはめ直すのは本人にまかせて、俺はそっと手を引っこめた。
結局、前髪は三桜さんが指で何度も梳いて横へ流し、どうにか形だけ整えることになった。
整っているかどうかはだいぶ怪しい。
売店の屋根の陰を抜けて一般エリアへ戻るあいだ、三桜さんはタオルの裾を揺らしながら、小声で段取りを確かめてきた。
「誠くんは日陰で休んでた」
「ああ、日陰で休んでた。それで通す」
「私は日焼け止めが乾くのを待ってた」
「その言い訳、今日だけでもう三回は聞いたぞ」
「じゃあ、この前髪は?」
「……汗、とか」
言った本人がいちばん信じていなかった。
「汗でこんなにびしょびしょになる人、いる? 私、そんなに汗っかきじゃないよ?」
「なら、子どもに水鉄砲で撃たれたことにするか」
「うーん、それもちょっと……あ、待って、今考えてるから……」
嘘をつき慣れていない二人が、並んで歩きながら口裏を合わせようとしているのだ。
話がまとまるはずもなかった。
三桜さんがまだ指を折って考えているうちに、行く手から聞き慣れた声が飛んできた。
「センパーイ!」
スライダーの塔の足もとで、黒いラッシュガードが両腕を頭の上で大きく振り回していた。
見つけた、の合図らしい。
心花は人の隙間をすり抜けて駆けてくると、手旗信号の腕を下ろしきらないまま俺の前に滑りこんだ。
短い髪の先から跳ねた雫が俺の胸にいくつか散る。
「やっと見つけました! すぐ来てくださいって言ったのに、ぜんぜん来ないんですもん!」
「悪い。日陰で休んでたら、思ったより長くなった」
「私、迎えに戻ろうとしたんですよ? 何回も! なのに一花先輩が、今抜けたら最後尾からやり直しだよって、ラッシュガードの後ろをむんずって掴んで離してくれなくて」
心花は首もとに指をかけ、ぐいと引っぱってみせた。
その拍子にジジ、と小さな音がして、喉もとまで上げてあったファスナーの引き手が一段ずり下がる。
心花は慌ててそれをつまみ上げた。
「わ、まただ。……これ、去年から噛み合わせがちょっと甘くなってるんですよ。一花先輩に引っぱられたせいで、余計にご機嫌ななめになっちゃいました」
「人のせいにしないの、篠崎ちゃん。それ、朝から上げたり下ろしたりしすぎ。……ていうかそのファスナー、誠の前でだけ仕事サボってない?」
後ろから追いついてきた一花さんが、濡れた髪を片手でかき上げながら笑った。
ターコイズの布の上で水滴がいくつも光っている。
何本も滑ってきたらしく、頬がまだほんのりと上気していた。
「サボってません! ちょっと休憩してるだけです!」
「で、誠。ずいぶんごゆっくりだったじゃん。あたしたち、三本も滑っちゃったよ」
「あの列で三本も行けたのか」
「一本目で三十分並んだけどね。……ま、すっぽかしの件は、あとできっちり取り立てるから」
一花さんは人さし指で、宙にくるりと輪を描いてみせた。
浮き輪の輪だ。
朝に言っていた延長の話を、どうやら本気で覚えているらしい。
最後に二葉さんがゆっくりと歩いてきた。
濃紺の水着の肩をまだ細く水が伝っている。
俺の正面で足を止めた二葉さんは、何も言わずに俺の顔を見た。
「……来なかったわね」
「悪かった。日陰が思ったより居心地よくて、つい」
「必ず来なさいと言ったはずよ」
怒っている声ではなかった。
怒っていないのに、言い訳をする気だけがみるみるしぼんでいく。
「誠、聞いてよ。二葉ってば勝負の途中で、後ろの家族連れに三回も順番譲ったんだよ? おかげであたしの圧勝。帰りの飲み物運びは二葉の係ね」
「二葉さんが勝負で手を抜くなんて、珍しいな」
「……小さい子が早く滑りたそうにしていたの」
「えっ、二葉先輩って子ども好きなんですか? 意外です! あ、意外って言ったら失礼かな、でもクールな人が実は小さい子に甘いのって、すっごくいいと思います!」
「……そういうことにしておいて」
二葉さんは短く言って、ふいと視線を外した。
その目が向かったのは、なぜかスライダーの塔の階段の上り口だった。
視線の行方を追うより早く、三桜さんの頭に目を留めた一花さんの声が横から跳ねた。
「ていうか三桜、髪濡れてない?」
タオルごと三桜さんの肩がびくりと跳ねた。
「こ、これは汗!」
「向こうで子どもに水鉄砲で撃たれたんだ」
二人の声がきれいに重なった。
俺と三桜さんは同時に口を閉じ、同時にお互いの顔を見た。
さっき口裏を合わせ損ねたつけが、最悪の形で回ってきた。
「……どっち?」
一花さんが首をかしげる。
二葉さんの切れ長の目がすうっと細くなった。
「あ、汗をかいてたところに、水鉄砲が飛んできたの! 両方なの!」
「合わせ技ってこと?」
「そう、合わせ技! ね、誠くん!」
「……ああ。見事な合わせ技だった」
我ながら底に穴の開いた助け舟だった。
「汗と水鉄砲の二種目とか、新競技じゃん」
「三桜先輩、汗っかきなんですね! 私もなんです! 体育のあととか首の後ろがびっしょりになっちゃって、タオル二枚使うんですよ」
心花が屈託なく頷き、話はあっさりと心花の汗の量のほうへ流れていった。
一花さんも「篠崎ちゃん、代謝よさそうだもんね」と笑って、それきり三桜さんの前髪には興味をなくしたらしい。
二葉さんだけが、三桜さんのタオルの裾から滴る水を、黙って目で追っていた。
それきり何も言わなかった。
何も言われないのがいちばん落ち着かない。
タオルの陰で、三桜さんが俺にだけ見える角度に小さく両手を合わせた。
ごめんねの形だった。
気にするなと目だけで返しておく。
「とりあえずお昼にしよ。お腹すいた。誠からの取り立ては、食べながらってことで」
「取り立てるのは確定なんだな」
「確定。利子もつけとくね」
◇
売店の前のパラソル席は、昼どきだけあってほとんど埋まっていた。
どうにか一つ空いた丸テーブルに五人で陣取り、焼きそばとフランクフルトと、山盛りのフライドポテトを真ん中に並べる。
パラソルの影は五人を収めるには少しだけ狭い。
最後に座った俺の席は、右半分が影から日向へはみ出していた。
「センパイ、右の肩、もう赤くなりかけてますよ」
ポテトを一本くわえたまま、心花が俺の肩を指さした。
「日焼け止め、塗ってないでしょう。朝からちょっとずつ色が変わってくの、ちゃんと見てたんですからね」
「そんなとこまで見てたのか」
「はい! センパイの肩なら、朝の色から覚えてます!」
悪気のかけらもない、満点の笑顔だった。
朝の色から覚えている肩、というのもおかしな言い方だ。
おかしいのに、言われた俺のほうがどこか嬉しくなっているのが、いちばんおかしかった。
「篠崎ちゃん、それ褒め言葉のつもりなんだろうけど、一歩間違えたらストーカーの供述だよ?」
「日焼けの色の移り変わりを覚えている後輩なんて、前代未聞ね」
「愛ですよ! 後輩の純粋な愛です!」
「男子って、そういうの塗らないの?」
焼きそばを器用に箸で巻き取りながら、一花さんが聞いてくる。
「塗らなくても死にはしないだろ」
「死にはしないけれど、皮はむけるわよ。三日後にまだらに」
二葉さんが紙ナプキンで口もとを押さえたまま、淡々と付け足した。
まだら、という具体的な脅しが妙に効く。
「じゃあ私、スプレーのやつ持ってきてます! シューってやれば三秒ですよ、三秒! ロッカーからすぐ取ってきますね!」
「スプレーはムラになるって。ここはあたしが手で塗ったげる」
隣に座った一花さんの指先が俺の背中にとん、と降りてきた。
背骨の上をひとつずつ数えるように下りていく。
くすぐったさと、それだけでは済まない何かが、背筋を一緒に駆け下りた。
「このへんとか、自分じゃ届かないっしょ? 隅々まで、じっくり、ていねいにね」
「……ていねいの使い方がおかしい」
「手で塗るなら、私がやるわ」
二葉さんがかたりと箸を置いた。
「首の後ろと耳の裏は、いちばん塗り残しが出やすい場所なの。一花に任せたら、背中だけ塗って終わるでしょう」
「背中だけで何が悪いのさ」
「目的が日焼け止めではないからよ」
一花さんの指が背骨の途中でぴたりと止まった。
「べ、別に、ほかの目的とかないし……!」
「あ、じゃあ、私の使う?」
三桜さんがタオルの中から、おずおずと片手を挙げた。
「三桜のはだめ。乾くのに一時間かかるやつでしょ。誠が午後まるごと乾燥待ちになっちゃうじゃん」
「あ……う、うん、そうだった。私のは、その、すっごく慎重なやつだから……」
自分でついた嘘に自分で足をすくわれている。
三桜さんはそろそろと手を引っこめると、タオルの合わせ目を顎の下まで引き上げて、亀みたいに首をすくめた。
「……いいよ。誰のも塗らない。どうせこのあと、また水に入るし」
「あ、逃げた」
一花さんが即座に俺を指さし、二葉さんが静かに追い打ちをかける。
「水着の審査に続いて、日焼け止めも棄権ね」
「じゃあせめて、影のほうに寄ってくださいよぉ。センパイの右側だけ、こんがりしちゃいますよ」
「寄れる影がもう残ってないんだよ」
パラソルの影はすでに四人ぶんで満員だった。
はみ出した右腕を真上からの日差しがじりじりと炙っていく。
まあ、少し赤くなるくらいだろう。
「さてと。じゃ、本題ね」
一花さんがフランクフルトの串をくるりと回して、テーブルの真ん中へ向けた。
「午後の誠の順番。朝のレンタルの延長分があるんだから、一番はあたしで決まりでしょ」
「待ってください! 予約の一番は私です! 朝、流れるプールで、次は私ですってちゃんと手を挙げて言いました!」
「その次は私、とも言ったわね。順番なら、もう決まっているはずよ」
「俺は整理券か何かなのか」
誰も答えてくれなかった。
整理券の意見はどうやら受けつけていないらしい。
「じゃあ、じゃんけんで決めましょう! 恨みっこなしの一発勝負です!」
心花が勢いよく拳を突き出した。
三人の手がテーブルの上に集まる。
「最初はグー、じゃんけん——」
開いた手はパーが二つと、グーが一つ。
グーは最初に構えた形のまま、微動だにしていなかった。
「なんでずっとグーなんだ」
「最初はグーって言ったら、そのままグーで押し通すのが私の必勝法なんです! 相手の裏をかいて、あえて変えないんですよ!」
「裏をかく前に読まれてるじゃん」
「必勝法を名乗るなら、せめて一度くらいは勝ってからにしなさい」
「きょ、今日はたまたまです! いつもはもうちょっと勝ってますもん!」
心花は拳を握ったまま、ぷうっと頬をふくらませた。
「じゃんけんに、たまたまもいつももないでしょ」
「あります! 指の開きやすさって、日によって違うんです!」
「開かない日なら、じゃんけんを挑まないことね」
抗議の声もむなしく、心花はひとり脱落した。
二度目の掛け声で一花さんがチョキを出し、二葉さんがパーを出す。
「はい、あたしの勝ち。午後の一番、いただきっ」
「……三回勝負よ」
「今決めたでしょ、それ」
「回数を先に決めていなかったのだから、今決めても反則ではないわ」
理屈としてはぎりぎり通っている気がしなくもない。
一花さんは肩をすくめて、もう一度拳を出した。
チョキとパー。
「……次で最後よ」
チョキとパー。
「……今度こそ最後よ」
チョキとパー。
差し出される手は毎回、定規で測ったみたいに指先までぴんと伸びた、完璧なパーだった。
二葉さんの言う最後は在庫がたっぷりあるらしい。
「二葉先輩、三回勝負なのにもう四回目です!」
「ていうか二葉、さっきからパーしか出してないの気づいてる?」
「……気づいているわ。次から変えるつもりだったの」
二葉さんは何事もなかったように手を引っこめ、背筋を伸ばして紙コップのお茶を一口飲んだ。
耳の先だけがパラソルの影の中でもわかるほど赤い。
「……いいわ。二番目で手を打つ。待つのは得意だもの」
「じゃあ私が三番目ですね! ……あれ? でもそれって、いちばん長くないですか? 一花先輩と二葉先輩が終わったら、あとはもう閉園まで誰も待ってないってことですもんね!」
「篠崎ちゃん、そういう計算だけ速いよね」
「ふふん、センパイのことになると、頭の回転が倍になるんです」
「持ち時間は一人二十分。延長はなしよ」
二葉さんがすかさず釘を刺し、心花の閉園までの夢はあっけなく砕け散った。
「で、三桜は? じゃんけん入らなくてよかったの?」
一花さんに聞かれて、三桜さんはタオルの合わせ目を押さえたまま、ぶんぶんと首を振った。
「わ、私はいいの! 私はもう、さっきいっぱいもらったから」
「もらったって、何を?」
「ぽ、ポテト! 誠くんのポテト、いっぱいもらったの!」
ポテトは真ん中の皿から全員で好き勝手につまんでいる。
誰のものでもない。
「ポテトは共有財産じゃん」
「で、でもね、誠くんが私のほうに寄せてくれたの! だから半分は誠くんのポテトなの!」
「それ、あたしが皿回しただけなんだけど……」
「一花、そこは黙っていなさい」
「三桜先輩、欲がないんですねえ。私なら三番目でも四番目でも、ぜったい並びますよ」
三桜さんは笑ってごまかすと、タオルの合わせ目を口もとまで引き上げた。
布の上からのぞいた目だけがちらりと俺のほうを向く。
内緒、と言っているような目だった。
俺はポテトを一本つまんで、それ以上は何も言わずに口へ放りこんだ。
日除けの植え込みの向こうで、つばの広い麦わら帽子がひとつ、ひょいと引っこんだ。
どこかの子どもがかくれんぼでもしているのだろう。




