第103話 滝の裏の延滞料と、動かない壁
パラソルの下の昼食は、いつの間にか、午後の俺を誰が借りるかの会議になっていた。
じゃんけんで決まった順番は、一花さん、二葉さん、心花。
持ち時間はひとり二十分で、延長はなし。
三桜さんだけは、ポテトをいっぱいもらったからいいのだと言い張って、最初から順番に加わらなかった。
流れるプールの入り口で、一花さんは貸し出しの浮き輪をひとつ抱えて待っていた。
大人が二人でつかまれそうな、透明なビニールの大きな輪だ。
「はい、本物の浮き輪。今日の誠は、もう人間に戻ってよし」
「午前中は人間じゃなかったのか、俺」
「午前中はあたしのレンタル品だったじゃん。返却はしないって言ったでしょ?」
一花さんは浮き輪を水面へ放ると、縁に腰かけてするりと水へ滑りこんだ。
俺も後に続いて、輪の反対側に手をかける。
一花さんは輪の縁に両肘をのせ、その上に顎までのせて、にっと笑った。
「向かい合わせ。こっちのほうが、誠の顔が見えて楽しいじゃん」
流れに押されて、浮き輪はゆっくりと回りながら進んでいく。
透明なビニール越しに、水の中で揺れる一花さんの脚がぼんやりと見えた。
輪が回るたびに、水面の下で一花さんの膝が俺の膝にこつんと当たる。
一度なら事故だ。
三度目ともなると、事故と呼ぶには狙いがよすぎた。
「……当ててるだろ。さっきから同じところに三回目だ」
「流れのせいだって。流れるプールなんだから、流れには逆らえないの。誠も覚えときな」
「その流れ、ずいぶん正確だな」
「流れもあたしの味方ってことじゃない?」
言いながら、一花さんの膝はまた寸分たがわず同じ場所へ戻ってきた。
今度は離れずに、そのまま俺の腿の外側へするりと沿う。
水の冷たさの中でそこだけ体温が一枚ぶん上乗せされた。
流れの先に岩を模した屋根つきの区間が口を開けていた。
入り口には細い滝が幕のように落ちていて、くぐる人たちが悲鳴まじりに笑っている。
「わ、滝。誠、頭下げて」
一花さんがふいに、輪をつかんでいた俺の手をぺしっとはたき落とした。
浮き輪だけが先に滝の幕へ吸いこまれていく。
潜って回りこんできた一花さんの腕が、水の中で俺の腰に回った。
頭から冷たい水を浴びた次の瞬間、俺たちは薄暗いトンネルの中にいた。
外の歓声が水の幕一枚ぶん遠くなる。
天井に跳ね返る水音だけがごうごうと耳を塞いでくる。
壁の吹き出し口から押し出された水流が、一花さんの背中をどんと押した。
ぶつかるように正面から体が重なる。
腰に回った腕はほどけるどころか、むしろきつくなった。
「おい、一花さん」
「流れ。……流れだから」
さっきと同じ言い訳なのに、声の高さがまるで違った。
一花さんは俺の胸に額を押し当てたまま、顔を上げようとしない。
濡れた髪が胸もとに貼りつき、そのずっと下、みぞおちのあたりで、三角の布越しのやわらかな丸みが押されて形を変えている。
冷えきっていたはずの体が、触れているところから順番に熱を取り戻していく。
心臓がうるさい。
この距離だと、たぶん一花さんにも筒抜けだ。
「……てっぺんからさ、探したんだよ」
水音に紛れそうなほど、小さな声だった。
「スライダーの上って、プールがぜんぶ見渡せるの。パラソルのとこも、日陰のベンチも。……でも、いなかった」
心臓がさっきとは別の意味で跳ねた。
あの浅いプールは塔からだと、ちょうど売店の屋根の陰になる。
——見えなかったはずだ。
とっさにそう確かめている自分が少しだけ嫌だった。
「……売店の裏のほうにいたんだ。あっちのほうが、風が通って涼しくて」
「うん。それは、どこでもいいの」
一花さんは小さく首を振った。
押し当てられた額が胸の上で左右に揺れる。
「……下に着くたびにね、パラソルのほう見てた。三本とも。来ないってわかってるのに、なんか見ちゃうの」
語尾の跳ねるような軽さがどこかへ消えていた。
腰に回った指先が背中の皮膚をかすかにつまんでいる。
拗ねた子どもが服の裾を握って離さないときの手つきに似ていた。
「……ちょっとだけ、つまんなかった」
「……次は、ちゃんと行くよ。今度は最初から、一花さんの後ろに並ぶ」
「ほんと?」
「スライダー、俺まだ一本も滑ってないしな。一本目は一花さんの後ろだ」
腕の中で一花さんの肩がぴくりと動いた。
しばらく水音だけが続く。
「……ずるいなあ、誠は。そういうの、すぐ言う」
ようやく上がった顔は、薄暗がりの中でもわかるほど目もとが赤かった。
それが滝の水のせいなのかどうか、確かめる前にトンネルの出口の光が近づいてきた。
明るい水面へ押し出された途端、一花さんは俺の腰からぱっと腕をほどいた。
少し先をのんきに漂っていた浮き輪へ二かきで追いついて、くるりとこちらへ振り返る。
そこにはもういつもの顔が戻っていた。
「はい、延滞料、ちゃんといただきましたー。利子込みで」
「利子のほうが多くなかったか。トイチどころの騒ぎじゃないぞ」
「あたしの貸し付け、金利高めなの。……不服なら、もう一回滝の下行く?」
「……謹んでお支払いします」
出口の階段で二葉さんが腕を組んで待っていた。
「一花。二十分よ」
「えー、まだ一周と九割くらいじゃん」
「残りの一割は切り捨てるわ」
一花さんは「けちー」と唇を尖らせながら、浮き輪ごと水から上がっていった。
すれ違いざま、俺にだけ聞こえる声で「一本目、忘れないでよ」と言い残して。
◇
二葉さんに連れていかれたのは、敷地の隅の屋根の下にある、丸い温水のジャグジーだった。
縁に沿って腰かけられる段がぐるりとめぐり、底のあちこちから絶え間なく泡が噴き上がっている。
さっきまで家族連れで賑わっていたらしいが、ちょうど入れ替わりの頃合いなのか、湯に浸かっているのは俺たちだけだった。
一花さんは三桜さんを連れてかき氷の列へ並びに行き、心花は「私はパラソルで待ってます!」と手を振って見送ってくれた。
「冷えたでしょう。流れるプールに二十分も浸かっていたのだから」
「言われてみれば、指先がちょっと白いかもな」
「体温が落ちたまま午後を過ごすと、余計な体力を使うわ。温めるなら今よ」
二葉さんは段に腰を下ろすと、当然のように自分のすぐ隣を指で示した。
腰を下ろしてみると、肩と肩のあいだに指一本ぶんの隙間も残らない。
ぬるめの湯が胸のあたりまで上がってきて、冷えた指先がじんわりとほどけていく。
水面は泡で白く濁っていて、肩から下はほとんど何も見えなかった。
見えないぶん、触れているところの感触だけがやけにはっきりしている。
濃紺の生地に包まれた肩は思っていたより丸くてやわらかい。
泡が弾けるたびにその肩が小さく揺れて、俺の腕に寄りかかってはまた離れた。
しばらく泡の音だけが続いたあとで、二葉さんがぽつりと口を開いた。
「一花が言っていたでしょう。私が順番を三回譲ったという話」
「小さい子が滑りたそうにしてたんだろ。二葉さん、案外そういうとこあるよな」
「子どもは関係ないわ」
泡に紛れて、水面の下で何かが俺の右手に触れた。
手の甲に細い指が一本ずつ重なってくる。
握るのでも、絡めるのでもない。
上からそっと覆うように置かれただけだ。
泡に揉まれて揺れるたび、その指先が手の甲の骨の上をかすかに撫でていく。
「……泡が強いから、手の置き場所がわからなくなっただけよ」
「わからなくなった割には、ずいぶん正確に乗ってるけどな」
「黙って」
ぴしゃりと言われて、黙った。
黙ったまま手は動かさなかった。
重なった指が確かめるように、ほんの少しだけ手の甲を押してくる。
「列の一番後ろにいれば、あなたが来たとき、すぐ隣に並べるでしょう」
二葉さんは前を向いたまま、泡の弾ける水面の向こうを見ていた。
「後ろの人を先に行かせれば、私はまた一番後ろに戻れる。三回譲って、三回とも階段の下を見たわ。四回目は、一花に腕を引かれて行けなかったけれど」
「……悪かった」
「謝ってほしくて言ったのではないわ」
「じゃあ、どうして?」
「事実と違う話のまま、広まるのが嫌だっただけよ」
手の甲の上で細い指先がかすかに震えた。
横顔は前を向いたまま、表情ひとつ変わらない。
変わらないのに、泡の下の指だけが正直だった。
「……お昼に、待つのは得意だと言ったわね。あれは訂正するわ」
「どう訂正するんだ?」
「得意なのは、待つことではないの。場所を取っておくことよ。……取っておいた場所が空いたままなのは、計算外だったわ」
湯の温度とは関係のない熱が首のあたりまでせり上がってきた。
何か返さなければと思うのに、言葉がひとつも出てこない。
俺にできたのは、重ねられた手を引っこめずにいることだけだった。
二葉さんがほんの少しだけこちらへ体重を移した。
肩が、腕が、それから脇腹のあたりが、泡の中でゆっくりと俺の側面に沿ってくる。
制服ではいつもきっちり隠されている起伏が、濃紺の生地ごと俺の二の腕に押されて、やわらかく逃げた。
逃げた先でまたぴたりと戻ってくる。
「……二葉さん。近い」
「泡で体が浮くの。浮かないように、押さえているだけよ」
「押さえてるのは俺の腕だろ」
「ええ。だから、浮かないでしょう」
言い切られてしまった。
理屈がぐるりと一周して、結論だけが湯の中にどっしりと腰を据えている。
「二葉せんぱーい! 二十分です! ぴったり二十分ですよー!」
ジャグジーの入り口から底抜けに明るい声が響いた。
振り向くと、入口の手すりのそばで心花がぶんぶんと手を振っている。
パラソルで待っているはずの心花が、いつからそこにいたのか。
聞かないほうがよさそうだった。
「……正確ね、篠崎さん」
「センパイのことなので! 売店の上の時計、ずーっと見てましたから!」
二葉さんは小さく息をついた。
泡の下で重なっていた指が最後にもう一度だけ手の甲をきゅっと押して、それから静かに離れていった。
「さ、センパイ、私の番です! 早く早く!」
心花は手すりにお腹を預けて身を乗り出し、湯の中の俺へ両手を差し出した。
引っぱり上げてくれるつもりらしい。
体格差を考えれば、どう見ても逆のほうが楽だ。
「自分で上がれるって」
「だめです、私が迎えに来たんですから! 朝、言ったじゃないですか。どこにいても、ちゃんと見つけるって」
そういえば、そんなことを言っていた。
断る理由も見つからないまま、差し出された手を取る。
心花は手すりにもたれたまま踏ん張り、うんしょ、と大げさな掛け声をかけて俺を湯から縁のタイルの上へ引き上げた。
——心花が体を起こした、その瞬間だった。
ジッ、と短く乾いた音がした。
手すりの継ぎ目に引っかかっていたファスナーの引き手が体を起こした勢いのまま、喉もとからお腹の下まで一気に駆け下りる。
かつん、と小さな金具がタイルに落ちて跳ねた。
黒い生地が左右にぱっくりと割れて、その奥の目の覚めるようなオレンジ色が、目の端をかすめた。
「…………え」
心花の笑顔がそのままの形で止まった。
目だけが自分の胸もとを見下ろしたまま動かない。
ほんの一拍。
俺の目がそこへ下りるより早く、心花が俺の胸に飛びこんできた。
ぶつかるような勢いだった。
小さな体が正面からぴたりと貼りつき、細い腕が背中へ回って、ぎゅっと締まる。
さっきまで厚手の黒い生地が隔てていたものが、今は薄い布一枚きりで、俺の素肌に押しつけられていた。
湯上がりの胸板の下のほうで、張りのある重みがやわらかくつぶれ、心花の速い鼓動がそのまま伝わってくる。
これはまずい。
「セ、センパイ、動かないでください! 壁です、今のセンパイは壁なんです!」
「壁って、おい——」
「見ないでくださいって言いたいんですけど、この距離だともう見えないですよね!? 見えてないですよね!? あっ、でも、見えてないってことは、その、くっついてるってことで……ああもう、どっちがましなのかわかんないです!」
早口が俺の鎖骨のあたりでくぐもって弾ける。
見てない、と言いかけて、それも妙な言い訳に聞こえそうでやめた。
「……センパイ、今ちょっとだけ、よからぬこと考えてません?」
「考える余裕がない」
「……篠崎さん。何をしているの」
横から温度の低い声がした。
湯から上がりかけた二葉さんが段の途中で静止している。
その目が俺に貼りついた心花の背中を見て、それからタイルの上に転がっている小さな金具を見た。
「……ファスナーね」
「二葉先輩、察しが早くて助かります! 壊れました! 引き手ごと、どこかに飛んでいっちゃいました!」
「ちょっ、何、何事!?」
売店のほうから、一花さんがかき氷のカップを両手に持ったまま駆けてくる。
その後ろを、タオルの裾を揺らして三桜さんがよちよちと追いかけてきた。
「篠崎ちゃん、どしたの!? ……うわ、全開じゃん」
「全開って言わないでください! 半開です! 気持ち的には!」
「気持ちで閉まるなら、誰も苦労しないって」
「それに、前はセンパイで隠れてますから! 実質セーフです!」
「誠を盾にしないの」
「こ、心花ちゃん、大丈夫!? タオル、私のタオル貸すね!」
三桜さんがとっさに胸もとの留め具へ手をかけた。
「三桜はだめでしょ。日焼け止め乾かし中なんだから。そのタオル剥がしたら、塗ったのごっそり持ってかれるじゃん」
一花さんが真顔で首を振る。
「あ……」
三桜さんの指が留め具の上でぴたりと止まった。
困りきった目が助けを求めるように俺を探す。
自分の嘘に本日二度目の通せんぼをされていた。
俺は心花を抱えたまま、ほんのわずかに首を横に振った。
——いい、それは外さなくていい。
「マコト、タオルは?」
「更衣室のロッカーだ。持ってきてない」
「私のを取ってくるわ。動かないで」
二葉さんは湯から上がると、濡れた足のまま更衣室のほうへ早足で向かっていった。
すれ違いざま、俺の肩に一瞬だけ指先を置いていく。
「今のあなたは壁よ。壁は動かないものだわ」
「あ、引き手、ここに落ちてる」
一花さんがかき氷をジャグジーの縁のタイルに置いて、足もとの金具を拾い上げた。
「これ、はめ直せばいけるんじゃない? 篠崎ちゃん、ちょっとだけ誠から離れて。下のとこ、手が入んない」
「離れたら見えちゃうじゃないですか!」
「誠と篠崎ちゃんのあいだ、あたしの指が入る隙間すらないんだけど!?」
「ないです! ぜったいに作りません!」
一花さんの指が俺の腹と心花のお腹のあいだになんとかねじこまれようとしては、押し返される。
そのたびに心花がいっそう強くしがみつき、しがみつかれるたびに、薄い布越しの重みが俺の胸の下で形を変える。
三桜さんはタオルの合わせ目を握りしめたまま、両腕を広げて壁になることもできずに、俺たちのまわりをおろおろと回っていた。
縁のタイルの上では、置き去りにされたかき氷が湯気の中でみるみる溶けていく。
「真空パックみたいにくっつくのやめなって! これじゃ金具が通んないでしょ!」
「隙間を作ったら世界が終わるんです! 一花先輩、目をつぶって手探りでやってください!」
「無茶振りすぎでしょ!?」
「……センパイ、心臓すごい音してますよ」
「壁にだって心臓くらいある」
「えへへ、知ってます。……さっきから、ずっと聞いてますから」
一花さんの「篠崎ちゃん、お願いだから一ミリだけ!」と、心花の「一ミリもだめです!」が、俺の顎の下を行き交う。
屋根の端からのぞく空はまだ昼間の青さをたっぷりと残していた。
騒ぎの収まる気配はまだどこにもない。




