第104話 水色のてるてる坊主と、残り十二分
七月半ばの日曜、五人で来たプールの、屋根つきのジャグジー。
更衣室へ走った二葉さんが戻るまで、俺は動かない壁の役を言いつけられていた。
一花さんが欲しがっている隙間は、指一本ぶん。
結局、その隙間を作ったのは俺の腹だった。
ジャグジーの縁でラッシュガードのファスナーが全開になった心花は、俺の胸にしがみついたまま、外れた引き手をはめ直す余地すら作らせなかったのだ。
「一花さん、ちょっと待ってくれ。俺がへこむ」
「は? へこむって何、今ここで落ちこむってこと?」
「腹をだ。腹をへこませれば、指一本くらいは入るだろ」
「センパイ、壁なのにへこめるんですか!?」
「壁は動かないけど、へこむくらいはする」
俺は大きく息を吸って、そのまま腹を背中のほうへ引っこめた。
あばらの下がきゅっと持ち上がる。
しがみついている心花と俺のあいだに、ようやく指一本ぶんの暗がりができた。
「今! 今だよ、一花お姉ちゃん!」
俺たちのまわりをおろおろと回っていた三桜さんが、足を止めて両手を握りしめた。
「篠崎ちゃん、目ぇつぶるから。……はい、つぶった。入れるよ」
「ほんとにつぶってますか!? 薄目じゃないですか!?」
「あたしの顔、篠崎ちゃんからは見えないでしょ!」
横から身を乗り出した一花さんの肩が、俺の脇腹にぺたりと貼りついた。
首の後ろで結んだ紐の端が俺の腕のすぐそばで揺れている。
その手が手探りで隙間へ滑りこんできた。
ところが入ってきたのは、金具をつまんだ指先ではなかった。
握りこんだ拳の、骨ばった関節のほうだった。
「……一花さん、そこ俺の腹」
「わかってるって! 手探りなんだから仕方ないじゃん。……てか誠、腹かたっ。へこませすぎて洗濯板みたいになってるんだけど」
「感想はいいから、早く金具を」
「探してるって。……あ、これ? この柔らかいの?」
「それ私のおなかです! ひゃっ、くすぐったい、あはは、だめです一花先輩、そこだめですって!」
心花が笑いながら身をよじった。
よじったぶんだけ、背中に回した腕でいっそう強くしがみついてくる。
せっかく作った隙間は笑い声と一緒にぺしゃんこになった。
「篠崎ちゃん、笑うと閉じる! 隙間が閉じちゃう!」
「笑わせてるのは一花先輩じゃないですか!」
腹の中の空気がそろそろ限界に近づいていた。
すると頭の横のほうで、三桜さんの小さな声が数を刻みはじめた。
「……いち。……に」
「三桜、それ何のカウント?」
「誠くんの息! 止めてるみたいだから、数えてあげようと思って。……さん」
一つ数えるごとに、ちゃんと一呼吸ぶんの間があった。
昼前に浅いプールで聞いた早口の「いちにさん」とは、まるで別物だ。
うっかり笑いそうになって、腹の空気が漏れかけた。
「……よん。……ご」
「あった! 引き手の穴、ここだ!」
かちり、と小さな手応えが腹の皮一枚越しに伝わってきた。
「入った……入ったよ篠崎ちゃん! あとは自分で上げて、早く!」
「はいっ! センパイ、まだへこんでてくださいね、あと少しですから!」
「……ろく。……なな」
ジジジ、と細かい歯の噛み合う音が、俺の胸の真ん中を下から上へ駆け上がっていく。
いちばん上でぱちんと止まった。
「……閉まりました」
「はち。……誠くん、もう吐いていいよ」
言われる前に吐いていた。
肺の底まで入れ替えるように息をつくと、心花がおそるおそる俺の胸から顔を離した。
喉もとまできっちり上がった引き手を、顎の下で両手にぎゅっと握りしめている。
もう二度と下ろさない、という握り方だった。
「た、助かりました……! 一花先輩は命の恩人です! センパイも、壁としての働きは満点でした!」
「壁の採点をされたのは初めてだ」
「あたしには? あたしにも点数ちょうだいよ」
「一花先輩は、くすぐったのでマイナス十点です」
「ひどっ! 恩人なのに!」
そこへぺたぺたと濡れた足音が近づいてきた。
振り向くと、大判のバスタオルを両腕に抱えた二葉さんが立っていた。
息がほんの少しだけ上がっている。
「……閉まったのね」
「今ちょうどな。二葉さん、早かったな。走ったのか」
「走っていないわ。早足よ。プールサイドは走ってはいけないもの」
「二葉、肩で息してんだけど」
「早足が速かっただけよ」
一花さんが半目になった。
「それを世間じゃダッシュって言うの」
「競歩よ。両足が同時に地面から離れていないわ」
二葉さんは表情ひとつ変えずに言うと、薄い水色のタオルを広げて、心花の頭からばさりとかぶせた。
ついでとばかりにその端をつかみ、心花ごと俺から一歩ぶん引きはがす。
「ファスナーが閉まったなら、壁はもういらないでしょう」
「わぷっ、二葉先輩、前が見えないです!」
「見えなくていいわ。……それより、一花」
「ん?」
「私が戻ってきたとき、あなたの手はマコトのお腹のところにあったわ」
「ファスナー探してたの! 見てたならわかるでしょ!」
二葉さんの視線が俺の腹の上をすうっと横切った。
「マコトのお腹に、ファスナーはついていないわ」
「知ってるし! 途中! 途中でちょっと寄り道しただけ!」
一花さんはみるみる赤くなって、まだ腹の高さに残っていた手を慌てて背中に隠した。
両手を後ろ手に組んだまま、明後日のほうを向いてわざとらしく視線を泳がせている。
寄り道された跡は俺の腹のほうにしっかり残っている。
水色のタオルの中からもぞもぞと心花の顔が出てきた。
頭からすっぽりかぶったタオルの両端を、顎の下でぎゅっと握り合わせている。
どこかで見た格好だった。
「……心花ちゃん、てるてる坊主みたい」
三桜さんがなぜかうれしそうに胸の前で手を合わせた。
「お揃いだね!」
「三桜先輩とお揃いなのはうれしいですけど、理由がぜんぜん違います! 私のは緊急避難です!」
「白いのと水色ので、てるてる坊主が二個。明日は大晴れ確定じゃん」
「晴れすぎて、明日みんなで日焼けしちゃいますね!」
「明日は学校よ。教室の中で焼ける人はいないわ」
「窓際の席だと焼けるよ?」
三桜さんにまっすぐ返されて、二葉さんは小さく口を閉じた。
窓際の日焼けについて、それ以上の反論はないらしい。
「二葉、窓際に論破されてんじゃん」
「論破ではないわ。席替えの重要性を再認識しただけよ」
その二葉さんが売店の屋根の上の時計を見上げた。
「……篠崎さん。あなたの二十分のことだけれど」
「はい?」
「私が更衣室へ行って戻るまで、八分かかったわ。そのあいだ、ずっとマコトにくっついていたわね」
「くっついてたんじゃなくて、隠れてたんです!」
「理由は問わないわ。くっついていた八分は、くっついていた八分よ。残りは十二分」
「ええーっ!? あれは使ったうちに入らないです! だって私、ぜんぜん楽しむ余裕なかったんですもん! ずっと、世界が終わるか終わらないかの瀬戸際だったんですよ!」
心花がタオルの中でじたばたと足踏みをした。
「世界は終わらなかったわ。時間だけが進んだの」
「篠崎ちゃん、八分も誠に抱きついといてノーカンは、さすがに通らないって」
二方向から言われて、心花はしばらくタオルの中で唸っていた。
それから、何かを思いついたように顔を上げる。
「……わかりました。じゃあ、残りの十二分は取っておきます」
「取っておくって、どこにだ」
「私の中にです! 今使っても、たぶん顔が赤すぎて、センパイの顔をまともに見られないので。いちばんいいところで、どーんと使います。利子はつけません、心が広いので!」
「それ、あたしへの当てつけでしょ」
「一花先輩の利子は高すぎて、真似できないだけです」
一花さんが言い返そうと口を開きかけて、そのまま視線をジャグジーの縁で止めた。
「……あたしのかき氷」
縁のタイルに置き去りにされていた二つのカップは、もうすっかり色つきの水になっていた。
赤いのと、青いの。
湯気にあぶられて、氷の山は影も形もない。
「……いちごの湖になってる」
三桜さんが赤いほうのカップをのぞきこんで、しょんぼりと言った。
その隣で、一花さんの肩もがっくりと落ちた。
「ブルーハワイなんて、ただの青い水じゃん……十五分も並んだのに」
「飲めば同じよ」
「同じじゃないし! かき氷は、しゃりしゃりしてるのが本体なの!」
一花さんは青い水のカップを持ち上げて、恨めしそうに揺らした。
「……リベンジする。あとでぜったい買い直すから」
屋根の端からのぞく空はまだ昼間の青さのままだった。
◇
それからの二時間あまりは、拍子抜けするほどのんびりと過ぎた。
一花さんと二葉さんは流れるプールで二回勝負をして、二回とも負けた一花さんが「今のは流れのせい」と言い張った。
水色のてるてる坊主になった心花は、パラソルの下で十二分を大事に抱えたまま、とうとう最後までタオルを脱がなかった。
三桜さんは相変わらず、水際から一歩下がった場所で手を振っていた。
そして俺は、パラソルの影がじりじりと動いていくのを、すっかり計算に入れ忘れていた。
「マコト。腕を見せなさい」
十七時を少し回ったころ、パラソルの下で水を飲んでいた俺の右手首を、二葉さんがつかんだ。
返事をするより先に、くるりと裏返された腕が二葉さんの目の高さまで持ち上げられる。
「……やっぱり」
自分でも見て、少し驚いた。
肩から肘の先まで、右腕だけが茹でたように赤い。
左腕と並べてみると、別の誰かの腕を一本借りてきたみたいだった。
「うわ、誠、右だけ焼けすぎでしょ。片面焼きじゃん」
「裏返さないとですね! 左もちゃんと焼かないと、バランス悪いですよ!」
「裏返して左まで焼いたら、両面焼きになるだけよ。治るわけではないわ」
「両面焼きの誠くん……」
三桜さんが何を想像したのか、タオルの中でちょっと笑った。
「……三桜さん、何を想像したんだ」
「網の上に乗ってる誠くん」
「人を魚みたいに焼くな」
香ばしい匂いまで漂ってきそうな顔をされて、思わず腕を引っこめようとした。
二葉さんの手が、手首を放してくれなかった。
「……日焼け止めを棄権した代償ね」
「だから塗ったげるって言ったのに。隅々まで、じっくり」
「その隅々が問題だったんだろ」
「だから言ったじゃないですか! 朝の色から、ちゃんと見てたんですからね!」
水色のタオルの合わせ目から、心花の人さし指がにゅっと突き出てきた。
止める間もなく、その指先が二の腕をつん、と押す。
「いっ……」
「わ、見てください! 押したところだけ白くなりました! ……あ、戻った。じわーって、赤に戻っていきます。おもしろーい」
「人の腕で遊ぶな」
「遊んでないです、観察です! 朝の色とちゃんと比べないと」
もう一度、つん。
小さな白い丸が浮かんでは、ゆっくりと赤の中へ沈んでいく。
心花はそのたびに、新しいおもちゃを見つけた子どもみたいに目を輝かせた。
「あ、あたしも押したい。長押ししたらどうなんの?」
「家電のリセットボタンみたいに言うな」
「篠崎さん。痛いところを押すのはやめなさい」
二葉さんが心花の指を軽く払いのけた。
払いのけたあとも、俺の手首は放さない。
「冷やしておかないと、今夜は眠れないわよ。シーツが擦れるだけで目が覚めるわ」
「そこまでか」
「そこまでよ。……ちょうどいいわ。帰りの飲み物と一緒に、冷やす用のも買ってくるわ」
二葉さんはようやく俺の手首を放すと、パラソルの柱に引っかけてあった小銭入れを手に取った。
「あ、そうじゃん。二葉、飲み物の係! スライダー負けたんだもんね」
「覚えているわ。売店は十七時半で閉まるから、今のうちに行くの」
「じゃああたしも行く。かき氷のリベンジしなきゃだし」
「私も行きます! 飲み物は自分の目で見て選ぶ派なんです。冷蔵ケースの前で三分は悩みます!」
タオルの合わせ目から、心花がぴんと片手を挙げた。
「三分も悩まないで。後ろに並んでいる人の迷惑よ」
「じゃあ二分五十秒で!」
「十秒しか縮んでないじゃん」
一花さんに突っこまれても、心花は胸を張ったままだった。
十秒の譲歩に本人はかなりの手応えを感じているらしい。
「マコトはその腕を水に浸けていなさい。冷たいところよ」
「水ならどこでもいいのか」
「日陰の水にしなさい。日向の水はぬるいもの」
「三桜も来る? かき氷、今度は溶ける前に食べよ」
「わ、私は……」
三桜さんの目がちらりと俺の右腕を見た。
それから売店の屋根の向こうへ、ほんの一瞬だけ流れる。
「……私は、誠くんの見張りする!」
「見張り?」
「誠くん、また一人でどっか行っちゃうかもしれないでしょ? だから、私がちゃんと見てる。一秒も目を離さない!」
一花さんがぷっと吹き出した。
「三桜が見張りって。いちばん簡単に逃げられそうな人選なんだけど」
「逃げられないもん! ……たぶん」
「三桜先輩、もしセンパイが逃げたら、大きい声で呼んでくださいね。売店まで聞こえるくらいの声で!」
「うん! 思いっきり呼ぶね!」
心花がタオルの合わせ目から、ぐっと拳を突き出してみせた。
「おなかから声を出すのがコツですからね!」
「篠崎ちゃんのメガホン声、三桜に求めないであげて」
二葉さんが小さく頷いた。
「……いいわ。三桜、頼んだわよ」
見張りの中身に俺だけはうっすら察しがついているぶん、あっさり任されると胸の奥が小さく軋む。
「それと、誠」
歩きだしかけた一花さんがくるりと振り返った。
顎でしゃくった先にはスライダーの塔がある。
昼間は階段をぐるりと取り巻いていた行列が、今はその半分ほどに縮んでいた。
「戻ってきたら、スライダーね。夕方まで待ったかいあったっしょ。この時間なら、ほとんど並ばずに滑れるんだから」
「わざと夕方まで取っておいたのか」
「当たり前じゃん。一番いい一本は、一番いい時間に滑るの。……一本目、あたしの後ろだからね」
一花さんは人さし指を一本だけ立ててみせると、二葉さんと心花の背中を押すようにして売店のほうへ歩いていった。
水色のてるてる坊主が名残惜しそうに一度だけ振り返る。




