第105話 できた、と三桜が呟いた
十七時を回ったころ、日焼けした右腕を日陰の水で冷やしておくよう、二葉さんに言いつけられた。
売店が閉まる前にと、二葉さんと一花さんと心花は飲み物とかき氷を買いに行き、パラソルには俺と三桜さんだけが残った。
三桜さんの役目は、俺の見張りだそうだ。
三人の背中が売店前の人だかりに紛れて見えなくなると、三桜さんが俺のほうへ向き直った。
タオルの合わせ目を両手できゅっと握り直す。
「……誠くん。腕、冷やすんだよね」
「そう言いつけられたからな」
「冷たいとこ。日陰の」
「二葉さんはそう言ってたな」
「あっちの浅いの、今の時間なら、ちょうど売店の裏の影に入ってるよ」
三桜さんの目はまっすぐ俺を見ていた。
見張り役の顔ではなかった。
「続きはまたねって言ったでしょ。……またが、思ってたより早く来ちゃった」
俺は一度だけ売店のほうを振り返った。
閉まる前の売店には、帰りの飲み物を買う人が長い列を作っている。
列はみんな表の窓口を向いていて、建物の裏手を気にする人などいない。
「……見張りはどうするんだ」
「するよ? 誠くんのすぐ隣で、一秒も離れないで見張る」
それなら確かに、嘘はひとつも混じっていない。
浅いプールは昼前よりもさらに人が減っていた。
端のほうで家族連れが一組、浮き輪の空気を抜いて帰り支度をしているくらいだ。
傾いた日差しは売店の建物にさえぎられて、水面の半分以上がすっぽりと影に沈んでいる。
影の中の水は昼に見たときよりずっと青かった。
縁に立った三桜さんは、俺が何か言うより先に、胸の上の留め具へ指をかけた。
ぱちん、と外れる音がする。
ほどけたタオルを、三桜さんは自分の手で縁のタイルに置いた。
白地の小花が傾いた光の中でもう一度咲いた。
一日じゅうタオルの下に隠れていた背中やおなかは、夕方の光を浴びても驚くほど白い。
日向に出しっぱなしだった俺の腕と並べたら、きっと絵の具の見本帳になる。
「……あ」
タオルから手を離したところで、三桜さんがぴたりと固まった。
「どうした」
「あっち向いててもらうの、忘れてた……」
「もう置いてるぞ」
「……だよね。置いちゃったよね」
三桜さんは足もとのタオルと俺の顔を、二回ずつ見比べた。
それから両手で自分の頬をぱちんと挟む。
「じゃあ、いいや! 今日、二回目だし!」
「二回目なら平気なのか」
「平気じゃないけど、平気ってことにするの!」
耳まで赤くしたまま、三桜さんは階段を一段ずつ下りていった。
腰まで沈んだところで、ほうっと肩の力を抜く。
昼前には同じ深さで、俺の腕にしがみついて震えていたのに。
俺も後に続いた。
影の水が焼けた右腕を包んだ瞬間、思わず声が漏れそうになる。
冷たいというより、腕の形をした熱がいっぺんに水へ溶け出していく感じだった。
「誠くん、腕、どう?」
「生き返った。二葉さんの言うことは聞いとくもんだな」
「じゃあ、私も冷やすの手伝う」
三桜さんは両手で水をすくうと、水面から出ている俺の肩にそっと流しかけた。
細い指のすき間からこぼれた水が、赤くなった二の腕を伝って落ちていく。
もう一度すくって、また流す。
ひどく真剣な顔で、何度も。
「……三桜さん。特訓しに来たんだよな」
「するよ! これは準備運動なの。誠くんの腕の」
「俺の腕を準備させてどうするんだ」
「冷えたら、支えてもらうとき痛くないでしょ?」
理屈が通っていた。
しかも、ちゃんと俺の腕のための理屈だった。
「よし。じゃあ、昼前の復習からだ。顔をつける」
「……うん」
三桜さんは縁につかまって、大きく息を吸いこんだ。
それから何かを思い出したように片手を離して、自分の鼻をきゅっとつまむ。
「それだと片手しか使えないだろ」
「鼻に入るのがいちばんやなんだもん」
「このあと両手を前に伸ばすんだぞ。鼻は、手を使わずに守れるようにならないと」
「鼻って、手を使わないで守れるの?」
「鼻から少しずつ息を出してればいい。出してるあいだは、水は入ってこない」
三桜さんは鼻をつまんだまま、目をまるくした。
「……誠くん、もしかして天才?」
「泳げる人なら、たいてい最初に教わるやつだ」
「人類の知恵ってすごいね……」
「そこまで大げさな話じゃない」
三桜さんは鼻から手を離して、もう一度息を吸った。
今度は縁につかまったまま、自分から顔を沈めていく。
ためらったのは顎の先が水に触れた一瞬だけだった。
水面の下からこぽこぽと細い泡の列が立ちのぼってくる。
言われたとおり、鼻から少しずつ。
俺は胸の中で数えた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
昼前は、このあたりで顔を上げていた。
よっつ。
いつつ。
ざぶ、と水を割って三桜さんが顔を上げた。
「……五つ! 今の、ちゃんと五つあったよね!?」
「あった。泡もちゃんと出てた」
「泡、見てたの!? やだ、恥ずかしい……あれ、鼻から出てたやつだよね」
「恥ずかしがるところが違うだろ」
「違わないよ! 鼻の泡を見られるのって、なんか寝顔を見られるのと同じくらいの感じなの!」
どういう感じなのか、俺にはさっぱりわからない。
わからないが、三桜さんの中では大事な線引きらしかった。
「次は浮くぞ」
「う、浮くって……私が?」
「顔をつけたまま両手を前に伸ばして、体を水に預ける。足は底から離す。息を吸ってれば、人間は浮くようにできてる」
「私も人間?」
「たぶんな」
「たぶんなの!? そこは言い切ってよぉ!」
三桜さんの抗議を受け流して、俺は向かい合わせに立った。
差し出された両手を取る。
昼前に指を絡めた手が、今は肩の高さでまっすぐ俺のほうへ伸びていた。
「最初は手を持ってる。俺が後ろに下がるから、三桜さんは伸びてるだけでいい。吸って、顔をつけて、足を離す」
「す、吸って、つけて、離す……」
三桜さんが息を止めて顔を沈めた。
俺が後ろへ下がると、つないだ手に引かれて、小さな体がゆっくりと前へ倒れてくる。
一瞬だけ背中が水面と平らに並んだ。
——と思った途端、三桜さんの頭がぐいっと持ち上がった。
頭が上がれば、足が下がる。
シーソーの反対側みたいに下半身がずぶずぶと沈んで、小さな体は水の中で二つに折れた。
「ぷはっ、しず、沈む、沈むよぉ!」
つないでいた手がほどけた。
ばしゃばしゃと水を掻いた三桜さんの手が、とっさにいちばん近くにあったものをつかむ。
俺の海パンの、腰の紐だった。
「待て待て、三桜さん、そこは紐だ! ほどける!」
「ほどけない! ほどけないように、ぎゅってつかんでるの!」
「つかんでるからほどけそうなんだって!」
足が底に届いたのは結び目が半分ゆるんだあたりだった。
三桜さんは紐を握りしめたまま、俺の腹のすぐ前で肩を上下させている。
自分が何を握っているのかに気づくまで、たっぷり三秒かかった。
「…………っ!」
ぱっと手が離れた。
離した手の行き場がなくて、三桜さんはそれを水の中でぶんぶん振り回した。
「ご、ごめんね!? つかめるの、それしかなかったの!」
「いいって。結び直せば済む」
俺が紐を結び直すあいだ、三桜さんは真っ赤な顔を鼻の下まで水に沈めて、ぶくぶくと泡を吹いていた。
顔をつけるのはもうすっかり平気になったらしい。
「……頭を上げたから沈んだんだ。頭が上がると、足が下がる」
「だって、上げないと誠くんがいるかわかんないんだもん」
水面から口だけ出して、三桜さんがもごもごと言った。
「手、持ってたろ」
「持ってたけど……引っぱられてるうちに、私どこまで行っちゃうんだろって、急に」
「じゃあ今度は下から支える。俺は横にいる。引っぱらないし、どこにも行かない」
「下からって、どこを?」
「腹と脚のところ。三桜さんが浮くまで、手で持ち上げてる」
三桜さんのまぶたがぱちぱちと二回またたいた。
「……お、お願いします」
三桜さんがもう一度息を吸って、顔を沈めた。
横に立った俺は、前へ倒れてくる体の下へ両手を差し入れる。
右手はみぞおちのすぐ下に。
左手は太ももの前に。
濡れた肌は指が滑りそうなほどなめらかだった。
お腹は昼前に触れたときと同じで、手のひらに収まりすぎるくらい薄い。
そのくせ太ももの前側はやわらかくて、支えた指がわずかに沈みこむ。
腰の横で結ばれたリボンの端が水の中でゆらゆらと揺れて、俺の手首を何度もくすぐった。
ただ、浮いているとはとても言えなかった。
手のひらに乗った体が板みたいにかちかちなのだ。
伸ばした脚はつま先までぴんと突っぱって、背中は弓なりに反っている。
支えている俺のほうが重さで腕ごと持っていかれそうだった。
三桜さんが顔を上げた。
「ぷはっ……ど、どう? 浮いてた?」
「俺が持ち上げてた」
「浮いてなかったんだ……」
三桜さんの肩が水面ぎりぎりまでしょんぼりと沈んだ。
「体じゅうに力が入りすぎなんだ。もっと抜いて。水の上に寝そべるみたいに」
「寝そべる……誠くんの手の上で寝るってこと!?」
「水の上でだ」
「でも、下にあるの誠くんの手だよ!?」
そこにこだわられると、俺のほうまで急に手のひらの感触を意識してしまう。
「……や、やってみる。寝る。誠くんの手の上で、寝る」
「言い方」
三回目。
四回目。
三桜さんは顔を上げるたびに「今のは?」と俺を見て、そのたびに少しずつ、手のひらにかかる重さが軽くなっていった。
突っぱっていたつま先がほどけ、反っていた背中がゆるやかに平らになる。
水面に小さな体がまっすぐな一本の線を描きはじめた。
五回目で俺はそっと手を下げてみた。
手のひらとお腹のあいだに水が一枚すべりこむ。
浮いている。
支えがなくても、三桜さんの体はちゃんと水の上に乗っていた。
——三秒ほどで、ばしゃりと崩れた。
「ぷはっ! い、今、誠くんの手なかった! なくなってた!」
「浮いてたぞ。三秒くらい、一人で」
「ほんと!? ……でも、手がなくなったってわかったら、急に怖くなっちゃって」
三桜さんは水の中で自分の両腕を抱きしめた。
浮けたことより、手が消えたことのほうが、まだずっと大きいらしい。
そのときスピーカーから間延びした放送が流れてきた。
スライダーの受付が本日はもう終わったという知らせだった。
水の中で思わず売店の屋根の上の時計を探した。
ここからは文字盤の裏側しか見えない。
見えないのに、さっき一花さんが立ててみせた人さし指だけが、やけにはっきりと頭に浮かんだ。
「……誠くん?」
「いや。もうあんまり時間がないなと思って」
「あっ、そっか。お姉ちゃんたち、もう戻ってきちゃうかな」
売店が閉まれば、三人はまっすぐパラソルへ戻ってくる。
残っているのはたぶん長くて十分だ。
俺は少し考えてから、三桜さんの隣へ並んだ。
「次は俺も一緒に浮く」
「え?」
「隣で、同じ格好で浮く。腕がくっつくくらい近くで。数えるのも、顔を上げるのも一緒だ」
「……誠くんも、顔つけるの?」
「つける。だから、どこにも行きようがないだろ」
三桜さんは俺の顔をじっと見上げた。
それから水の中で、自分の左腕を俺の右腕にぴたりと寄せた。
冷やしたばかりの日焼けの上に、濡れてひんやりとした細い腕が重なる。
「……ここにいるって、これでわかる?」
「わかる。俺も三桜さんがどこにいるかわかる」
「五つ数えたら上げようね」
「ああ。同時にな」
二人で並んで息を吸った。
顔を沈める。
水の中は思っていたより静かだった。
放送も遠くの歓声も、膜を一枚へだてたようにくぐもっている。
薄く目を開けると、ぼやけた青の中に三桜さんの横顔があった。
固くつむったまぶた。
ぷくりと膨らんだ頬。
肩で切りそろえた髪が、水の中でふわりとほどけて揺れていた。
鼻の先から細い泡がひと筋、きらきらと昇っていく。
前へ伸ばした腕の先で、俺の指と三桜さんの指が、並んで影の水を指していた。
底から足が離れた。
俺のも。
三桜さんのも。
くっつけた腕越しに、三桜さんの体がゆっくりと持ち上がっていくのが伝わってくる。
沈まない。
突っぱってもいない。
細い背中から腰へ、腰から白い脚の先まで、小さな体がひとつの線になって静かに水の上へ横たわっている。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
よっつ。
——いつつ。
顔を上げたのは、ほとんど同時だった。
水を払うより先に、すぐ隣の顔が目に飛びこんできた。
びしょ濡れの前髪の下で三桜さんの目がまんまるに開いている。
睫毛の先から雫がひとつ、またひとつと落ちていった。
俺たちは腕をくっつけたまま、鼻先が触れそうな距離でしばらく黙って見つめ合った。
「……できた」
三桜さんがほとんど水音みたいな声で呟いた。
「浮いてた……よね。私、浮いてたよね。誠くんの手、どこにもなかったのに」
「ああ。最初から最後まで、一人で浮いてた」
「顔あげたら、誠くんがいた」
「隣にいるって言ったろ」
「うん。……ちゃんといた」
確かめるようにもう一度言ってから、三桜さんの顔がゆっくりとくしゃくしゃにほどけていった。
「誠くん、できたっ!」
次の瞬間、三桜さんの両手が俺の右腕をがしっとつかんだ。
ぶら下がるみたいに体重を預けて、ぶんぶんと揺さぶってくる。
冷やしたばかりの日焼けの上を、細い指が十本ぶん、容赦なく締めあげた。
「いっ……てて、三桜さん、そこ焼けてるとこだ」
「あっ!」
指が弾かれたように離れた。
「ご、ごめん! ごめんね!? うれしくて、どこつかんでるか、ぜんぜん見てなかった……!」
三桜さんは泣きそうな顔で俺の腕を見下ろすと、両手で水をすくって、つかんだばかりの場所に流しかけた。
それから濡れた手のひらをそっと重ねる。
今度は羽が触れるくらいの力で。
「……これなら、痛くない?」
「冷たくて気持ちいい」
「よかったぁ……」
ほっとした声と一緒に、三桜さんの手のひらが俺の腕の上で小さく丸くなった。
熱を持った場所に、冷たさをひとつずつ置いていくような手つきだった。
手のひらを乗せたまま、三桜さんがぽつりと呟く。
「……海まで、間に合うかな」
「浮けたんだ。あとは前に進むだけだ」
「前に進むの、まだぜんぜんわかんないよ?」
「わからなくても、今日は一個進んだだろ」
俺は水の中から右手を出して、小指を立てた。
今度は俺のほうから。
「約束、まだ有効か」
三桜さんは一瞬きょとんとして、それから慌てたように自分の小指を絡めてきた。
水で冷えた細い指が根もとまでしっかり巻きついてくる。
「有効だよ。ずっと有効。……海で、みんながいるとこまで行くの。誠くんと並んで、泳いで」
三桜さんは絡めた小指を小さく揺らした。
一回。
二回。
三回。
「……前より一回多いな」
「今日は一個進んだから、一個多いの」
そう言って笑った三桜さんの頬に、売店の屋根の縁から、斜めの光がひと筋だけ落ちていた。
影の水と日向の水の境目で俺たちの小指が揺れている。
「……戻ろう。売店、もう閉まるころだ」
「あっ、見張り! 私、見張りの途中だった!」
「途中もなにも、ずっと隣にいただろ」
「そっか。じゃあ見張りは、大成功だね」
三桜さんは得意げに胸を張って縁へ上がると、タオルを拾った。
巻くより先に頭からかぶって、濡れた髪をごしごしと念入りに拭く。
それから体にぐるりと巻きつけて、留め具をぱちんと鳴らした。
今度は順番を間違えなかった。




