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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第4章 夏を待つ五人と、還ってきたルナ

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第105話 できた、と三桜が呟いた

十七時を回ったころ、日焼けした右腕を日陰の水で冷やしておくよう、二葉さんに言いつけられた。

 売店が閉まる前にと、二葉さんと一花さんと心花は飲み物とかき氷を買いに行き、パラソルには俺と三桜さんだけが残った。

 三桜さんの役目は、俺の見張りだそうだ。


 三人の背中が売店前の人だかりに紛れて見えなくなると、三桜さんが俺のほうへ向き直った。

 タオルの合わせ目を両手できゅっと握り直す。


「……誠くん。腕、冷やすんだよね」


「そう言いつけられたからな」


「冷たいとこ。日陰の」


「二葉さんはそう言ってたな」


「あっちの浅いの、今の時間なら、ちょうど売店の裏の影に入ってるよ」


 三桜さんの目はまっすぐ俺を見ていた。

 見張り役の顔ではなかった。


「続きはまたねって言ったでしょ。……またが、思ってたより早く来ちゃった」


 俺は一度だけ売店のほうを振り返った。

 閉まる前の売店には、帰りの飲み物を買う人が長い列を作っている。

 列はみんな表の窓口を向いていて、建物の裏手を気にする人などいない。


「……見張りはどうするんだ」


「するよ? 誠くんのすぐ隣で、一秒も離れないで見張る」


 それなら確かに、嘘はひとつも混じっていない。


 浅いプールは昼前よりもさらに人が減っていた。

 端のほうで家族連れが一組、浮き輪の空気を抜いて帰り支度をしているくらいだ。

 傾いた日差しは売店の建物にさえぎられて、水面の半分以上がすっぽりと影に沈んでいる。

 影の中の水は昼に見たときよりずっと青かった。


 縁に立った三桜さんは、俺が何か言うより先に、胸の上の留め具へ指をかけた。

 ぱちん、と外れる音がする。

 ほどけたタオルを、三桜さんは自分の手で縁のタイルに置いた。


 白地の小花が傾いた光の中でもう一度咲いた。

 一日じゅうタオルの下に隠れていた背中やおなかは、夕方の光を浴びても驚くほど白い。

 日向に出しっぱなしだった俺の腕と並べたら、きっと絵の具の見本帳になる。


「……あ」


 タオルから手を離したところで、三桜さんがぴたりと固まった。


「どうした」


「あっち向いててもらうの、忘れてた……」


「もう置いてるぞ」


「……だよね。置いちゃったよね」


 三桜さんは足もとのタオルと俺の顔を、二回ずつ見比べた。

 それから両手で自分の頬をぱちんと挟む。


「じゃあ、いいや! 今日、二回目だし!」


「二回目なら平気なのか」


「平気じゃないけど、平気ってことにするの!」


 耳まで赤くしたまま、三桜さんは階段を一段ずつ下りていった。

 腰まで沈んだところで、ほうっと肩の力を抜く。

 昼前には同じ深さで、俺の腕にしがみついて震えていたのに。


 俺も後に続いた。

 影の水が焼けた右腕を包んだ瞬間、思わず声が漏れそうになる。

 冷たいというより、腕の形をした熱がいっぺんに水へ溶け出していく感じだった。


「誠くん、腕、どう?」


「生き返った。二葉さんの言うことは聞いとくもんだな」


「じゃあ、私も冷やすの手伝う」


 三桜さんは両手で水をすくうと、水面から出ている俺の肩にそっと流しかけた。

 細い指のすき間からこぼれた水が、赤くなった二の腕を伝って落ちていく。

 もう一度すくって、また流す。

 ひどく真剣な顔で、何度も。


「……三桜さん。特訓しに来たんだよな」


「するよ! これは準備運動なの。誠くんの腕の」


「俺の腕を準備させてどうするんだ」


「冷えたら、支えてもらうとき痛くないでしょ?」


 理屈が通っていた。

 しかも、ちゃんと俺の腕のための理屈だった。


「よし。じゃあ、昼前の復習からだ。顔をつける」


「……うん」


 三桜さんは縁につかまって、大きく息を吸いこんだ。

 それから何かを思い出したように片手を離して、自分の鼻をきゅっとつまむ。


「それだと片手しか使えないだろ」


「鼻に入るのがいちばんやなんだもん」


「このあと両手を前に伸ばすんだぞ。鼻は、手を使わずに守れるようにならないと」


「鼻って、手を使わないで守れるの?」


「鼻から少しずつ息を出してればいい。出してるあいだは、水は入ってこない」


 三桜さんは鼻をつまんだまま、目をまるくした。


「……誠くん、もしかして天才?」


「泳げる人なら、たいてい最初に教わるやつだ」


「人類の知恵ってすごいね……」


「そこまで大げさな話じゃない」


 三桜さんは鼻から手を離して、もう一度息を吸った。

 今度は縁につかまったまま、自分から顔を沈めていく。

 ためらったのは顎の先が水に触れた一瞬だけだった。

 水面の下からこぽこぽと細い泡の列が立ちのぼってくる。

 言われたとおり、鼻から少しずつ。


 俺は胸の中で数えた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 昼前は、このあたりで顔を上げていた。

 よっつ。

 いつつ。


 ざぶ、と水を割って三桜さんが顔を上げた。


「……五つ! 今の、ちゃんと五つあったよね!?」


「あった。泡もちゃんと出てた」


「泡、見てたの!? やだ、恥ずかしい……あれ、鼻から出てたやつだよね」


「恥ずかしがるところが違うだろ」


「違わないよ! 鼻の泡を見られるのって、なんか寝顔を見られるのと同じくらいの感じなの!」


 どういう感じなのか、俺にはさっぱりわからない。

 わからないが、三桜さんの中では大事な線引きらしかった。


「次は浮くぞ」


「う、浮くって……私が?」


「顔をつけたまま両手を前に伸ばして、体を水に預ける。足は底から離す。息を吸ってれば、人間は浮くようにできてる」


「私も人間?」


「たぶんな」


「たぶんなの!? そこは言い切ってよぉ!」


 三桜さんの抗議を受け流して、俺は向かい合わせに立った。

 差し出された両手を取る。

 昼前に指を絡めた手が、今は肩の高さでまっすぐ俺のほうへ伸びていた。


「最初は手を持ってる。俺が後ろに下がるから、三桜さんは伸びてるだけでいい。吸って、顔をつけて、足を離す」


「す、吸って、つけて、離す……」


 三桜さんが息を止めて顔を沈めた。

 俺が後ろへ下がると、つないだ手に引かれて、小さな体がゆっくりと前へ倒れてくる。

 一瞬だけ背中が水面と平らに並んだ。

 ——と思った途端、三桜さんの頭がぐいっと持ち上がった。


 頭が上がれば、足が下がる。

 シーソーの反対側みたいに下半身がずぶずぶと沈んで、小さな体は水の中で二つに折れた。


「ぷはっ、しず、沈む、沈むよぉ!」


 つないでいた手がほどけた。

 ばしゃばしゃと水を掻いた三桜さんの手が、とっさにいちばん近くにあったものをつかむ。

 俺の海パンの、腰の紐だった。


「待て待て、三桜さん、そこは紐だ! ほどける!」


「ほどけない! ほどけないように、ぎゅってつかんでるの!」


「つかんでるからほどけそうなんだって!」


 足が底に届いたのは結び目が半分ゆるんだあたりだった。

 三桜さんは紐を握りしめたまま、俺の腹のすぐ前で肩を上下させている。

 自分が何を握っているのかに気づくまで、たっぷり三秒かかった。


「…………っ!」


 ぱっと手が離れた。

 離した手の行き場がなくて、三桜さんはそれを水の中でぶんぶん振り回した。


「ご、ごめんね!? つかめるの、それしかなかったの!」


「いいって。結び直せば済む」


 俺が紐を結び直すあいだ、三桜さんは真っ赤な顔を鼻の下まで水に沈めて、ぶくぶくと泡を吹いていた。

 顔をつけるのはもうすっかり平気になったらしい。


「……頭を上げたから沈んだんだ。頭が上がると、足が下がる」


「だって、上げないと誠くんがいるかわかんないんだもん」


 水面から口だけ出して、三桜さんがもごもごと言った。


「手、持ってたろ」


「持ってたけど……引っぱられてるうちに、私どこまで行っちゃうんだろって、急に」


「じゃあ今度は下から支える。俺は横にいる。引っぱらないし、どこにも行かない」


「下からって、どこを?」


「腹と脚のところ。三桜さんが浮くまで、手で持ち上げてる」


 三桜さんのまぶたがぱちぱちと二回またたいた。


「……お、お願いします」


 三桜さんがもう一度息を吸って、顔を沈めた。

 横に立った俺は、前へ倒れてくる体の下へ両手を差し入れる。

 右手はみぞおちのすぐ下に。

 左手は太ももの前に。


 濡れた肌は指が滑りそうなほどなめらかだった。

 お腹は昼前に触れたときと同じで、手のひらに収まりすぎるくらい薄い。

 そのくせ太ももの前側はやわらかくて、支えた指がわずかに沈みこむ。

 腰の横で結ばれたリボンの端が水の中でゆらゆらと揺れて、俺の手首を何度もくすぐった。


 ただ、浮いているとはとても言えなかった。

 手のひらに乗った体が板みたいにかちかちなのだ。

 伸ばした脚はつま先までぴんと突っぱって、背中は弓なりに反っている。

 支えている俺のほうが重さで腕ごと持っていかれそうだった。


 三桜さんが顔を上げた。


「ぷはっ……ど、どう? 浮いてた?」


「俺が持ち上げてた」


「浮いてなかったんだ……」


 三桜さんの肩が水面ぎりぎりまでしょんぼりと沈んだ。


「体じゅうに力が入りすぎなんだ。もっと抜いて。水の上に寝そべるみたいに」


「寝そべる……誠くんの手の上で寝るってこと!?」


「水の上でだ」


「でも、下にあるの誠くんの手だよ!?」


 そこにこだわられると、俺のほうまで急に手のひらの感触を意識してしまう。


「……や、やってみる。寝る。誠くんの手の上で、寝る」


「言い方」


 三回目。

 四回目。

 三桜さんは顔を上げるたびに「今のは?」と俺を見て、そのたびに少しずつ、手のひらにかかる重さが軽くなっていった。

 突っぱっていたつま先がほどけ、反っていた背中がゆるやかに平らになる。

 水面に小さな体がまっすぐな一本の線を描きはじめた。


 五回目で俺はそっと手を下げてみた。

 手のひらとお腹のあいだに水が一枚すべりこむ。

 浮いている。

 支えがなくても、三桜さんの体はちゃんと水の上に乗っていた。


 ——三秒ほどで、ばしゃりと崩れた。


「ぷはっ! い、今、誠くんの手なかった! なくなってた!」


「浮いてたぞ。三秒くらい、一人で」


「ほんと!? ……でも、手がなくなったってわかったら、急に怖くなっちゃって」


 三桜さんは水の中で自分の両腕を抱きしめた。

 浮けたことより、手が消えたことのほうが、まだずっと大きいらしい。


 そのときスピーカーから間延びした放送が流れてきた。

 スライダーの受付が本日はもう終わったという知らせだった。


 水の中で思わず売店の屋根の上の時計を探した。

 ここからは文字盤の裏側しか見えない。

 見えないのに、さっき一花さんが立ててみせた人さし指だけが、やけにはっきりと頭に浮かんだ。


「……誠くん?」


「いや。もうあんまり時間がないなと思って」


「あっ、そっか。お姉ちゃんたち、もう戻ってきちゃうかな」


 売店が閉まれば、三人はまっすぐパラソルへ戻ってくる。

 残っているのはたぶん長くて十分だ。

 俺は少し考えてから、三桜さんの隣へ並んだ。


「次は俺も一緒に浮く」


「え?」


「隣で、同じ格好で浮く。腕がくっつくくらい近くで。数えるのも、顔を上げるのも一緒だ」


「……誠くんも、顔つけるの?」


「つける。だから、どこにも行きようがないだろ」


 三桜さんは俺の顔をじっと見上げた。

 それから水の中で、自分の左腕を俺の右腕にぴたりと寄せた。

 冷やしたばかりの日焼けの上に、濡れてひんやりとした細い腕が重なる。


「……ここにいるって、これでわかる?」


「わかる。俺も三桜さんがどこにいるかわかる」


「五つ数えたら上げようね」


「ああ。同時にな」


 二人で並んで息を吸った。

 顔を沈める。


 水の中は思っていたより静かだった。

 放送も遠くの歓声も、膜を一枚へだてたようにくぐもっている。

 薄く目を開けると、ぼやけた青の中に三桜さんの横顔があった。

 固くつむったまぶた。

 ぷくりと膨らんだ頬。


 肩で切りそろえた髪が、水の中でふわりとほどけて揺れていた。

 鼻の先から細い泡がひと筋、きらきらと昇っていく。

 前へ伸ばした腕の先で、俺の指と三桜さんの指が、並んで影の水を指していた。


 底から足が離れた。

 俺のも。

 三桜さんのも。


 くっつけた腕越しに、三桜さんの体がゆっくりと持ち上がっていくのが伝わってくる。

 沈まない。

 突っぱってもいない。

 細い背中から腰へ、腰から白い脚の先まで、小さな体がひとつの線になって静かに水の上へ横たわっている。


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 よっつ。

 ——いつつ。


 顔を上げたのは、ほとんど同時だった。


 水を払うより先に、すぐ隣の顔が目に飛びこんできた。

 びしょ濡れの前髪の下で三桜さんの目がまんまるに開いている。

 睫毛の先から雫がひとつ、またひとつと落ちていった。

 俺たちは腕をくっつけたまま、鼻先が触れそうな距離でしばらく黙って見つめ合った。


「……できた」


 三桜さんがほとんど水音みたいな声で呟いた。


「浮いてた……よね。私、浮いてたよね。誠くんの手、どこにもなかったのに」


「ああ。最初から最後まで、一人で浮いてた」


「顔あげたら、誠くんがいた」


「隣にいるって言ったろ」


「うん。……ちゃんといた」


 確かめるようにもう一度言ってから、三桜さんの顔がゆっくりとくしゃくしゃにほどけていった。


「誠くん、できたっ!」


 次の瞬間、三桜さんの両手が俺の右腕をがしっとつかんだ。

 ぶら下がるみたいに体重を預けて、ぶんぶんと揺さぶってくる。

 冷やしたばかりの日焼けの上を、細い指が十本ぶん、容赦なく締めあげた。


「いっ……てて、三桜さん、そこ焼けてるとこだ」


「あっ!」


 指が弾かれたように離れた。


「ご、ごめん! ごめんね!? うれしくて、どこつかんでるか、ぜんぜん見てなかった……!」


 三桜さんは泣きそうな顔で俺の腕を見下ろすと、両手で水をすくって、つかんだばかりの場所に流しかけた。

 それから濡れた手のひらをそっと重ねる。

 今度は羽が触れるくらいの力で。


「……これなら、痛くない?」


「冷たくて気持ちいい」


「よかったぁ……」


 ほっとした声と一緒に、三桜さんの手のひらが俺の腕の上で小さく丸くなった。

 熱を持った場所に、冷たさをひとつずつ置いていくような手つきだった。

 手のひらを乗せたまま、三桜さんがぽつりと呟く。


「……海まで、間に合うかな」


「浮けたんだ。あとは前に進むだけだ」


「前に進むの、まだぜんぜんわかんないよ?」


「わからなくても、今日は一個進んだだろ」


 俺は水の中から右手を出して、小指を立てた。

 今度は俺のほうから。


「約束、まだ有効か」


 三桜さんは一瞬きょとんとして、それから慌てたように自分の小指を絡めてきた。

 水で冷えた細い指が根もとまでしっかり巻きついてくる。


「有効だよ。ずっと有効。……海で、みんながいるとこまで行くの。誠くんと並んで、泳いで」


 三桜さんは絡めた小指を小さく揺らした。

 一回。

 二回。

 三回。


「……前より一回多いな」


「今日は一個進んだから、一個多いの」


 そう言って笑った三桜さんの頬に、売店の屋根の縁から、斜めの光がひと筋だけ落ちていた。

 影の水と日向の水の境目で俺たちの小指が揺れている。


「……戻ろう。売店、もう閉まるころだ」


「あっ、見張り! 私、見張りの途中だった!」


「途中もなにも、ずっと隣にいただろ」


「そっか。じゃあ見張りは、大成功だね」


 三桜さんは得意げに胸を張って縁へ上がると、タオルを拾った。

 巻くより先に頭からかぶって、濡れた髪をごしごしと念入りに拭く。

 それから体にぐるりと巻きつけて、留め具をぱちんと鳴らした。

 今度は順番を間違えなかった。

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