第106話 一本目の貸しと、沈まない右腕
売店の裏の影になった浅いプールで、三桜さんは俺と並んで、五つ数えるあいだ水に浮いてみせた。
「できた」と呟いた声も、三回揺らした小指も、売店へ行った三人には内緒だ。
俺たちはタオルを巻き直して、何食わぬ顔で売店の裏をあとにした。
パラソルに戻って五分もしないうちに、売店のほうから三人が帰ってきた。
先頭の二葉さんはペットボトルを腕にいくつも抱えている。
その後ろにかき氷のカップを二つ持った一花さん。
最後に水色のてるてる坊主のままの心花が、自分のカップを大事そうに両手で包んでついてきた。
「お待たせ。……マコト、腕はどうなの」
「冷やした。三桜さんの見張りつきで、ばっちりだ」
「ばっちり見張ってたよ! 一秒も離れなかったもん!」
三桜さんがタオルの中で胸を張った。
一から十まで本当のことしか言っていないのが、かえって可笑しかった。
二葉さんは俺の右腕に手のひらを当てた。
温度を確かめるように少しだけ押す。
それから抱えていたペットボトルの一本を、何も言わずに俺の二の腕へぴたりと押し当てた。
「っ、冷た……」
「冷やすためのものよ。冷たくなかったら困るわ」
「二葉、誠のだけ二本ってずるくない?」
一花さんがかき氷のスプーンで俺の腕のボトルを指した。
「一本は飲む用。こっちは腕の用よ。腕は飲まないわ」
「腕の用って何!? じゃあ、あたしの腕の用は?」
「あなたの腕は焼けていないでしょう」
「私も腕の用ほしいです! ちょっとだけ焼けてる気がします、たぶん!」
「篠崎さんは朝から長袖だったわ」
心花の抗議は袖ごとタオルの奥へ押し戻された。
二葉さんの手はボトルを押し当てたまま、まだ俺の腕から離れない。
ボトルの表面に浮いた水滴が、二葉さんの指を伝って、俺の肘のほうへ流れていった。
「ていうか二葉、それ誠に持たせればよくない?」
「角度があるの。素人に任せると冷やす位置がずれるわ」
「ペットボトルに角度とかあんの!?」
一花さんは二葉さんの返事を待たずに、三桜さんへカップを差し出した。
「はい三桜、いちご。今度は溶ける前に食べな」
「わあ、ありがと、一花お姉ちゃん!」
一花さんの手にはブルーハワイ、心花の手にはメロン。
三人の手もとで赤と青と緑の氷が、夕方の光を透かして並んでいた。
「……かき氷のシロップは、色と香りが違うだけで、味はどれも同じなのよ」
二葉さんがぽつりと言った。
「二葉、それ今言う? いちばん言っちゃいけないタイミングで言う?」
「えっ、えっ、そうなんですか!? じゃあ私が毎年メロンにするか悩んでた、あの真剣な時間って……」
「でも、いちごはいちごの味がするよ?」
三桜さんがひと口すくって、ぱくりと食べた。
それから目をつむってもうひと口。
「……いちごの味、する」
「香りが違うと言ったでしょう。舌が香りにだまされているの」
「じゃあ、鼻つまんで食べてみな、三桜」
一花さんに言われるまま、三桜さんは片手で鼻をきゅっとつまんだ。
浅いプールで見たのとそっくり同じつまみ方だった。
スプーンを口に運んで、もぐもぐと動かして——。
「……あまい。ただあまいだけ」
「ほんとだ! つまんだらメロンがいなくなりました! メロン、どこ行っちゃったんですか!?」
「鼻の奥よ」
「二葉先輩、言い方が怖いです!」
鼻をつまんだまま、三桜さんがちらりと俺を見た。
俺も何も言わずに目だけで返す。
鼻から息を出していれば水は入ってこない——そんな話をしたのは、つい三十分前のことだ。
「よーし、食べたらスライダー行こ、誠。最後の一本は、ほぼ貸し切り——」
スプーンをくわえたまま塔を振り返った一花さんが、そのまま固まった。
塔の階段の上り口には、いつのまにか黄色い鎖が渡されていた。
鎖の真ん中で、「本日の受付は終了しました」と書かれた札がのんきに揺れている。
「……え」
「あ、受付、十七時半まででしたよ。売店の壁に貼り紙がありました」
心花がメロンをすくいながら、こともなげに言った。
「篠崎ちゃん、見てたなら言ってよ!?」
「かき氷の列で、自分のをブルーハワイにするかレモンにするかで五分も悩んでたの、一花先輩じゃないですか! 私なんか、ちゃんと二分五十秒で決めましたもん!」
「その悩みタイマー、まだ動いてたの!?」
一花さんはかき氷のカップを握りしめたまま、鎖の札と俺の顔を何度も見比べた。
夕方まで取っておいた、一番いい一本。
取っておいたぶんだけ、肩の落ち方が大きかった。
「……一本目」
ぽつりと落ちた声はさっきまでよりずっと低かった。
何か言わなければいけない気がした。
俺はあの放送を浅いプールの中で聞いている。
聞いていて、戻らなかった。
「一花さん。……悪い」
「なんで誠が謝んの。誠はちゃんとここで腕冷やしてたじゃん」
それは、そうなのだけれど。
そうだと思われていることが、日焼けよりも少しだけちくちくした。
一花さんはふうっと長く息を吐いた。
それからいつもの顔に戻って、にっと笑う。
「じゃ、貸しね」
「また貸しが増えるのか」
「一本目の貸し。今日の利子なんか目じゃないくらい、高くつくからね。覚悟しときな」
言うなり、一花さんの手のひらが俺の右腕にぺしっと振り下ろされた。
「いっ……!」
「あ」
思っていたよりいい音がした。
一花さんは自分の手のひらと俺の腕を見比べて、目をまるくする。
「ご、ごめん。今の、強かった?」
「焼けてるとこにちょうど入った」
「……ちょっと、貸して」
一花さんはカップを足もとに置くと、俺の腕を両手でそっと持ち上げて、叩いたところへ顔を寄せた。
ふうっと、細く息を吹きかける。
かき氷を食べたばかりの、ひんやりとした息だった。
一度では足りなかったのか、少し場所をずらしてもう一度。
「……これで相殺ね」
「叩いたぶんと、吹いたぶんでか」
「そ。だから一本目の貸しは、まるまる残ってるってこと」
「一花。日焼けを自分で叩いて自分で吹いて消すのは、ただの自作自演よ」
「二葉は黙ってて」
一花さんの耳の先が、足もとのブルーハワイとは正反対の色に染まっていた。
スピーカーからは、今度は閉場を知らせる放送が流れはじめていた。
◇
男子更衣室は昼間の混雑が嘘のようにがらんとしていた。
シャワーで塩素を流して、Tシャツに袖を通す。
右の袖口が二の腕を擦った瞬間、思わず息が止まった。
布一枚がこんなに重たいものだとは知らなかった。
出口の柱にもたれて待つのは今日二度目だった。
朝と違うのは、日差しの色と、待たされる長さを最初から覚悟していることくらいだ。
「センパーイ、お待たせしました!」
最初に出てきたのはやっぱり心花だった。
手に提げたビニール袋の中で、黒いラッシュガードが小さく丸まっている。
「そいつ、どうするんだ」
「帰ったら、お別れ会です。去年からの付き合いなので、ちゃんとお礼を言ってから引退してもらいます」
「ラッシュガードの送別会なんて初めて聞いたぞ」
「だって最後に、いちばんすごい仕事をしてくれたんですもん! ……あ、いえ、壊れたのが仕事ってわけじゃなくて、その、最後の最後でちゃんと閉まってくれたっていうか」
言いながら、心花の声がだんだん小さくなっていった。
ビニール袋をそっと背中に回して、足もとのタイルの目地を数えるみたいにうつむく。
さっきのジャグジーのことを思い出しているのだと、聞かなくてもわかった。
続いて二葉さんが、その少しあとに一花さんが出てきた。
一花さんの髪は、どうやったのか、もうほとんど乾いていた。
「一花。ドライヤーの前を十分も占領していたわね」
「女子のたしなみだし。濡れ髪のまま電車とか、ありえないじゃん」
「後ろに三人並んでいたわ」
「最後にちゃんと、ごめんねって言ったもん」
三桜さんが出てきたのはそれからさらに十分後だった。
「お、お待たせぇ……リボンが、うまく結べなくて……」
淡い色のブラウスの胸もとで、細いリボンが何度も結び直したような形に落ち着いていた。
左右の輪の大きさがまだ少しだけ違う。
「三桜先輩、それ、何回結び直しました?」
「……五回」
「五回目でそれなら上出来じゃん。ちょっと崩れてるくらいが、三桜っぽくて可愛いって」
「ほんと? 一花お姉ちゃん、ほんとにそう思う?」
「思う思う。六回目やったら、たぶん日が暮れてたし」
その横から二葉さんが妹の胸もとへすっと顔を近づけた。
「……左右で結び目の角度が四度ずれているわ。ほどきなさい」
「二葉ちゃん、待って! ほどいたらまた一回目に戻っちゃうよぉ!」
入場口を出たところで、心花がスマホを取り出した。
画面をすいすいと操作して、俺の目の前に突きつけてくる。
タイマーが十二分ちょうどで止まっていた。
「センパイ。今から取っておいた十二分を使います!」
「ここでか」
「はい! ここから駅まで、ちょうど十二分なんです。行きに歩いたとき、時計見てたので!」
後ろから一花さんが、呆れたように画面をのぞきこんだ。
「篠崎ちゃん、それ偶然でしょ」
「偶然じゃないです、運命です! 十二分余って、駅までが十二分。こんなにぴったりなこと、ありますか!?」
「……八分と計ったのは私よ」
「じゃあ、二葉先輩のおかげの運命です!」
二葉さんは何か言い返しかけて、口を閉じた。
自分の計った八分が後輩の運命の材料にされたのが、どうにも腑に落ちないらしい。
「二葉、運命の仲介手数料でも請求しときな」
「請求できるものなら、とっくにしているわ」
心花はタイマーのボタンをぽんと押すと、俺の左側にすっと並んだ。
右ではなく、左。
「右じゃないのか」
「右は焼けてて痛そうなので。今日は左をもらいます」
そう言って心花は、俺の左腕に自分の腕をそっと絡めた。
ジャグジーで飛びこんできたときとは別人みたいな、遠慮がちな絡め方だった。
絡めた腕の内側がシャワーの名残でまだ少し温かい。
夕方の歩道に五人ぶんの影が長く伸びていた。
俺と心花の影はひとつにくっつき、そのすぐ後ろを三つの影がついてくる。
「誠ー。篠崎ちゃんにくっつかれて、鼻の下伸びてるよー」
「伸びてない」
「伸びてます! センパイの鼻の下、今日いちばん長いです!」
「本人が言うな」
後ろからことさらに律儀な足音がひとつだけ近づいてきた。
「マコト。あと九分よ」
「二葉先輩、カウントダウンしないでください! 情緒がなくなっちゃいます!」
「情緒より、時間は正確なほうがいいわ」
三桜さんはいちばん後ろを歩いていた。
ときどき何かを思い出したように、両腕をまっすぐ前へ伸ばしかけては、慌てて下ろしている。
浮いていたときの格好だと気づいたのは、たぶん俺だけだった。
残りが三分を切ったあたりで、心花のおしゃべりがふっと途切れた。
「……センパイ」
「ん」
「今日、壁になってくれてありがとうございました」
さっきまでの弾んだ声ではなかった。
敬語のまま、少しだけ低くて、短い。
「壁は動かなかっただけだぞ」
「動かないでいてくれたのがうれしかったんです」
絡めた腕にほんの少しだけ力がこもった。
それきり心花は前を向いて、また何でもない話を始めた。
駅前のロータリーが見えてきたところで、心花のスマホがぴぴぴと鳴った。
「あっ」
「ぴったりだな」
「ぴったりです! ほら、やっぱり運命でした!」
「……改札までまだ五十メートルはあるわね」
「二葉先輩、そこは見なかったことにしてください!」
駅前には西の空から茜色が広がりはじめていた。
ロータリーの屋根も、タクシーの列も、行き交う人の背中も、少しずつ同じ色に塗られていく。
ここから先は帰る方向がばらばらだった。
「じゃ、誠。また明日ね」
一花さんが片手をひらりと振った。
それからふと思い出したように、指を一本だけ立てる。
「一本目。忘れたら、利子が利子を産むから」
「複利なのか」
「当然じゃん。あたしの貸し付け、甘くないの」
「マコト」
二葉さんが俺の右腕をちらりと見た。
それから腕に提げていた袋から、さっきの腕の用のボトルを取り出して、俺の手に押しつける。
「持って帰りなさい」
「もうだいぶぬるいぞ、これ」
「持って帰りなさいと言ったの。帰ったら、まず冷やすこと。冷やさないまま寝たら、明日の朝シャツの袖を通すときに後悔するわ」
「肝に銘じとく」
「銘じるだけでは冷えないわ。冷やすのよ」
ぬるくなったボトルは、二葉さんの手の温度まで一緒に移ってきたみたいに、妙に重たかった。
「センパイ、また明日です! ……あと、今日いちばんの思い出は、やっぱり八分のほうです!」
「おい」
「あっ、今のはなしです! 聞かなかったことにしてください! 十二分のほうも、同じくらいいちばんです!」
心花は真っ赤になって手を振ると、駅の階段のほうへ駆けていった。
途中で一度だけ振り返って、もう一度大きく手を振る。
最後に三桜さんが、姉たちの背中の陰からひょこりと顔を出した。
「誠くん。……またね」
小さく振った右手は小指だけが立っていた。
誰にも見えない角度で、三回。
帰りの電車で吊り革をつかもうとして、右腕が上がらなかった。
仕方なく左手でつかまる。
暗くなりはじめた窓に、袖からのぞく右腕が赤く映っていた。
袖の下で腕がまだ熱を持っている。
その熱の中に今日のいくつもの手が残っていた。
つん、と押して、白い跡が戻っていくのを面白がった指先。
何も言わずに押し当てられた冷たいボトルと、その上から最後まで離れなかった指。
ぺしっと叩いて、そのあと二度、ひんやりと吹きかけられた息。
それから影の水の中で、十本の指でしがみついて、すぐに羽みたいな手のひらで蓋をしてくれた、あの手。
浅いプールの影の中で並んで浮いた五秒のことは、誰にも言えない。
言えないことが今日一日でまたひとつ増えた。
窓の外では茜色がゆっくりと夜に沈んでいく。
右腕の熱だけが、いつまでたっても沈まなかった。




