第107話 三桜、自分の声で
日曜のプールの余韻は、翌日の放課後になった今でも、俺の中に確かな熱として残っていた。
冷たい水の感触、濡れた肌から伝わってきた予想以上の柔らかさ。
誰にも内緒の、プールでの秘密の特訓。
小指を絡めて誓った海での約束の熱、そして日焼けの残る腕にまで焼き付いた四人それぞれの温度が、ふとした瞬間に蘇っては俺の心臓を不規則に叩いた。
だが、平日の放課後の空気は、そんな甘い回想を許してはくれなかった。
きっかけは、教室を出る間際に聞こえてきた立花の声だった。
「綾瀬さん、ちょっとこの後、時間くれない?」
「え……立花くん? 何か、忘れ物?」
「や、そうじゃなくて。ちょっと、話したいことあってさ」
いつもと同じ、屈託のない誘い文句。
だが、それを受けた三桜さんの顔から、笑顔が一枚剥がれ落ちるのが視界の端に映った。
「……うん、少しなら」
細い声で頷いた瞬間の指先が、ブラウスの裾を強く握り込んだのを、俺は見てしまった。
放っておけない、と身体が勝手に動いた。
立花に呼び出されたのなら、たぶん行き先は静かな場所だ。
旧校舎裏へと続く渡り廊下の陰。
案の定、そこに二人の後ろ姿を見つけた俺は、途中で足を止め、コンクリートの柱に背を張り付けるようにして息を潜めた。
「綾瀬さん。ちょっと、俺の話を聞いてくれ」
「立花くん? あの、配りもののプリント、枚数間違えてたかな……?」
「違う。日直の仕事の話じゃない。もっと大事な話だ」
いつもは教室に響き渡るほど騒がしい立花の声が、今は別人のように低く、真剣な響きを帯びていた。
そのまっすぐな視線の先には、三桜さんがいる。
少しサイズの大きい夏服のブラウスの裾をぎゅっと握りしめ、三桜さんはうつむいたまま固まっていた。
「こういうの慣れてないんだ。回りくどいのは苦手だから、直接言う」
立花が一度、息を吸い直した。
「俺、本気なんだ。綾瀬さんのこと、好きだ」
「あ、あの……ごめんなさい、私……その、立花くんの気持ちは、嬉しい、けど……」
蚊の鳴くような、震える声。
断らなければいけない。
でも、自分に向けられた好意を無下にすることが怖くて、言葉が喉に詰まっている。
「……焦んなくていいから。ゆっくりでいい。怒ったりしないからさ」
返事はなかった。
「初めて教室で話した時から、ずっと気になってた」
立花が一歩、踏み出す。
悪気はない。
ただ純粋に、自分の思いを届けようとするだけのまっすぐな好意だ。
「俺がでかい声で喋っても、綾瀬さんは嫌な顔しないで笑ってくれただろ。この前、俺が委員会の仕事で一人残されてた時も、委員でもないのに最後まで手伝ってくれた。いつも自分のことより、周りのことばっか優先してて……そういうとこが、眩しかったっていうか」
立花の言葉に、三桜さんの肩がびくっと跳ねた。
喉が細く動き、何かを言いかけて、そのまま音にならずに閉じる。
顔からゆっくり血の気が引いていくのが、こんな距離からでも分かった。
彼女の、断れないという優しさを、立花は好意として受け取っていたのだ。
それは、いちばん彼女に効く言葉だった。
止めないと。
反射的に足が動きかけた。
だが、踏み出そうとした爪先が、地面に縫い付けられたように止まる。
俺に、何ができる?
三桜さんの何なんだ、俺は。
ただのクラスメイトで、ただの——何でもない。
なのに、立花が三桜さんの正面に立っているというだけで、胸の底がじりじりと焼けるように痛い。
どの立場で、二人の間に割って入るというのか。
「……行かないの、マコト」
ふいに隣から、ひんやりとした声が降ってきた。
振り返ると、いつの間にか二葉さんが俺の肩に触れるほどの距離に立っていた。
半袖のブラウス越しに、彼女の静かな体温がじかに伝わってくるほどの近さ。
腕を組み、冷ややかな視線を前方に送っているその姿勢は、着痩せする彼女の身体のラインを思いがけず強調していた。
「二葉さん……いつの間に」
「今来たところよ。放置すれば時間経過で三桜の逃げ場が塞がるわ。合理的な介入時点は、今よ」
「でも、俺が口出しする権利なんて……」
「権利?」
二葉さんが首を傾げ、呆れたように小さく鼻を鳴らす。
「馬鹿ね。……そんなもの、後からどうとでもなるのに」
「後からって……」
二葉さんはこちらを見なかった。
冷ややかな横顔のまま、ほんの少しだけ声のトーンを落として続ける。
「立場が欲しいなら、動いた人間に後からついてくるものよ。動かない人間には、何も来ない」
それはたぶん、俺への説教のふりをした、彼女自身の何かだった。
組んでいた腕がわずかに緩み、指先が俺の袖口をかすめる。
触れているのか、いないのか、判別のつかない距離。
「もうっ! 誠も二葉もじれったいっしょ!」
渡り廊下の角から、ゆるく巻いた茶髪を揺らして、一花さんが堂々と飛び出していった。
腰に手を当てたまま、立花と三桜さんの間に割り込む。
「一花……お姉ちゃん?」
「タチバナくん。あんた、うちの妹が困ってるの見えないの?」
「いや、俺は別に、無理にどうこうしようってわけじゃ……」
「それ以上言うと、私が許さないよ?」
「え……」
「三桜」
一花さんは立花の言葉を遮り、妹の顔だけを見てまっすぐに言った。
いつものからかうような態度は消え、そこにあるのは妹を守ろうとする姉の顔だった。
「あんたが嫌なら、断っていいんだよ」
「でも……立花くん、本気で言ってくれてるのに、断ったら……」
「それとこれは別。あんたの気持ちは、あんたのもんでしょ。誰のためでもない、自分のために嫌だと言っていいの」
一花さんが妹の隣に並び、その腕にそっと手を置いた。
「私、ここにいるから」
その言葉に、三桜さんの瞳からふっと迷いが消えた。
三桜さんは、ぎゅっと握りしめていたブラウスの裾からゆっくりと手を離す。
少しゆったりとしたブラウスのシルエットが、彼女の華奢な輪郭を一層際立たせていた。
そして彼女は、深く息を吸い込み、立花の目をしっかりと見返した。
「ごめんなさい。あなたの気持ちは、嬉しい。でも私は……あなたの気持ちには、応えられない」
震えてはいたが、はっきりとした自分の声だった。
「ずっと、嫌だって言えなかった。誰かに何か頼まれたら、笑って引き受けて……自分がどう思ってるかなんて、後回しにしてた」
三桜さんの瞳から、涙が一筋だけ伝った。
それでもまつ毛は伏せず、立花から目を逸らさない。
「でも……これは、私の気持ちだから。立花くんとは、付き合えません」
誰かの期待を裏切るのが怖くないわけがない。
それを承知で口にした、彼女自身の意思だった。
いつだったか、三桜さんの言う大丈夫は自分に言い聞かせているみたいだと、俺は言ったことがある。
その響きは、今の声のどこにもなかった。
「……そっか」
立花は大きく息を吐き出した。
予想外の本気の拒絶に、目を見開いて固まっている。
だが、決して声を荒げることはなかった。
怒りも恨みもない、純粋な呆然だけがそこにあった。
「わかった。無理言って悪かったな。……真剣に答えてくれて、サンキュ」
立花は喉を大きく上下させて、それから制服のスラックスのポケットに手を突っ込んだ。
取り出したのは、きちんと畳まれた清潔なハンカチだった。
彼のようなタイプがそんなものを持ち歩いているのは、少し意外だった。
「ほら、コレ。泣かせた詫び。使ってよ」
差し出されたハンカチに、三桜さんは震える手を伸ばしかけて、途中で止めた。
それを受け取ることが、今の彼女には難しいと知っている顔で、立花はゆっくりと手を引っ込める。
「……いや、悪ぃ。今のはナシで。俺、ほんとカッコ悪ぃな」
自分に呆れたように、肩を竦めた。
無理に作ったような小さな笑み。
それは、これ以上三桜さんを困惑させまいとする、彼なりの繊細な気配りだった。
「タチバナくん」
一花さんが立花に向き直った。
「本気で言えるのって、かっこいいと思うよ。それだけは言っとく」
「……ありがとな」
立花は呆然としたまま、力なくその場に立ち尽くした。
沈黙が落ちる。
一花さんが小さく息をつき、三桜さんの肩をぽん、と叩いた。
「よく言えたじゃん」
「一花お姉ちゃん……うん」
いつの間にか歩み寄っていた二葉さんは、何も言わず、三桜さんの反対側にすっと寄り添った。
言葉はなかったが、袖と袖が触れる距離だけで、姉としての意思表示になっていた。
その二葉さんの背中を追うようにして、俺もゆっくりと柱の陰から歩み出る。
それに気づいた三桜さんが、ゆっくりとこちらを振り向く。
泣きそうな、それでいてどこか安堵したような顔で、俺の姿をまっすぐに捉えた。
それでも涙は、さっきの一筋で尽きてしまったみたいだった。
「誠くん……」
掠れた声が、俺の名前の形をしていた。
俺は何も言えなかった。
何かを言わなければいけない。
彼女のまっすぐな瞳に応えなければいけない。
よく頑張ったな、とか。
大丈夫だよ、とか。
なのに、口の中は乾いて、言葉が一つも形にならなかった。
「聞いて、たんだね」
「……ああ。ごめん、立ち聞きするみたいになって」
「ううん。……いてくれて、よかった」
そう呟いた三桜さんは、それ以上何も言わなかった。
気の利いた言葉なんて一つも出てこなくて、俺はただ不器用に小さく頷き返すことしかできなかった。
蝉だけが、馬鹿正直に鳴き続けていた。
胸の奥で渦巻く得体の知れない熱を、俺はまだ持て余していた。
安堵、だけではない。
これは——何だ。
その先の名前に、あと少しで手が届きそうな気がして、俺は無意識に指を握り込む。
視界の隅で、俺の様子を見ていた一花さんが、ふっと息をこぼしたのが分かった。
俺より先に、その名前を知っている笑い方だった。




