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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第4章 夏を待つ五人と、還ってきたルナ

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第107話 三桜、自分の声で

日曜のプールの余韻は、翌日の放課後になった今でも、俺の中に確かな熱として残っていた。

 冷たい水の感触、濡れた肌から伝わってきた予想以上の柔らかさ。

 誰にも内緒の、プールでの秘密の特訓。

 小指を絡めて誓った海での約束の熱、そして日焼けの残る腕にまで焼き付いた四人それぞれの温度が、ふとした瞬間に蘇っては俺の心臓を不規則に叩いた。


 だが、平日の放課後の空気は、そんな甘い回想を許してはくれなかった。


 きっかけは、教室を出る間際に聞こえてきた立花の声だった。


「綾瀬さん、ちょっとこの後、時間くれない?」


「え……立花くん? 何か、忘れ物?」


「や、そうじゃなくて。ちょっと、話したいことあってさ」


 いつもと同じ、屈託のない誘い文句。

 だが、それを受けた三桜さんの顔から、笑顔が一枚剥がれ落ちるのが視界の端に映った。


「……うん、少しなら」


 細い声で頷いた瞬間の指先が、ブラウスの裾を強く握り込んだのを、俺は見てしまった。

 放っておけない、と身体が勝手に動いた。

 立花に呼び出されたのなら、たぶん行き先は静かな場所だ。


 旧校舎裏へと続く渡り廊下の陰。

 案の定、そこに二人の後ろ姿を見つけた俺は、途中で足を止め、コンクリートの柱に背を張り付けるようにして息を潜めた。


「綾瀬さん。ちょっと、俺の話を聞いてくれ」


「立花くん? あの、配りもののプリント、枚数間違えてたかな……?」


「違う。日直の仕事の話じゃない。もっと大事な話だ」


 いつもは教室に響き渡るほど騒がしい立花の声が、今は別人のように低く、真剣な響きを帯びていた。

 そのまっすぐな視線の先には、三桜さんがいる。

 少しサイズの大きい夏服のブラウスの裾をぎゅっと握りしめ、三桜さんはうつむいたまま固まっていた。


「こういうの慣れてないんだ。回りくどいのは苦手だから、直接言う」


 立花が一度、息を吸い直した。


「俺、本気なんだ。綾瀬さんのこと、好きだ」


「あ、あの……ごめんなさい、私……その、立花くんの気持ちは、嬉しい、けど……」


 蚊の鳴くような、震える声。

 断らなければいけない。

 でも、自分に向けられた好意を無下にすることが怖くて、言葉が喉に詰まっている。


「……焦んなくていいから。ゆっくりでいい。怒ったりしないからさ」


 返事はなかった。


「初めて教室で話した時から、ずっと気になってた」


 立花が一歩、踏み出す。

 悪気はない。

 ただ純粋に、自分の思いを届けようとするだけのまっすぐな好意だ。


「俺がでかい声で喋っても、綾瀬さんは嫌な顔しないで笑ってくれただろ。この前、俺が委員会の仕事で一人残されてた時も、委員でもないのに最後まで手伝ってくれた。いつも自分のことより、周りのことばっか優先してて……そういうとこが、眩しかったっていうか」


 立花の言葉に、三桜さんの肩がびくっと跳ねた。

 喉が細く動き、何かを言いかけて、そのまま音にならずに閉じる。

 顔からゆっくり血の気が引いていくのが、こんな距離からでも分かった。

 彼女の、断れないという優しさを、立花は好意として受け取っていたのだ。

 それは、いちばん彼女に効く言葉だった。


 止めないと。


 反射的に足が動きかけた。

 だが、踏み出そうとした爪先が、地面に縫い付けられたように止まる。

 俺に、何ができる?


 三桜さんの何なんだ、俺は。

 ただのクラスメイトで、ただの——何でもない。

 なのに、立花が三桜さんの正面に立っているというだけで、胸の底がじりじりと焼けるように痛い。

 どの立場で、二人の間に割って入るというのか。


「……行かないの、マコト」


 ふいに隣から、ひんやりとした声が降ってきた。

 振り返ると、いつの間にか二葉さんが俺の肩に触れるほどの距離に立っていた。

 半袖のブラウス越しに、彼女の静かな体温がじかに伝わってくるほどの近さ。

 腕を組み、冷ややかな視線を前方に送っているその姿勢は、着痩せする彼女の身体のラインを思いがけず強調していた。


「二葉さん……いつの間に」


「今来たところよ。放置すれば時間経過で三桜の逃げ場が塞がるわ。合理的な介入時点は、今よ」


「でも、俺が口出しする権利なんて……」


「権利?」


 二葉さんが首を傾げ、呆れたように小さく鼻を鳴らす。


「馬鹿ね。……そんなもの、後からどうとでもなるのに」


「後からって……」


 二葉さんはこちらを見なかった。

 冷ややかな横顔のまま、ほんの少しだけ声のトーンを落として続ける。


「立場が欲しいなら、動いた人間に後からついてくるものよ。動かない人間には、何も来ない」


 それはたぶん、俺への説教のふりをした、彼女自身の何かだった。

 組んでいた腕がわずかに緩み、指先が俺の袖口をかすめる。

 触れているのか、いないのか、判別のつかない距離。


「もうっ! 誠も二葉もじれったいっしょ!」


 渡り廊下の角から、ゆるく巻いた茶髪を揺らして、一花さんが堂々と飛び出していった。

 腰に手を当てたまま、立花と三桜さんの間に割り込む。


「一花……お姉ちゃん?」


「タチバナくん。あんた、うちの妹が困ってるの見えないの?」


「いや、俺は別に、無理にどうこうしようってわけじゃ……」


「それ以上言うと、私が許さないよ?」


「え……」


「三桜」


 一花さんは立花の言葉を遮り、妹の顔だけを見てまっすぐに言った。

 いつものからかうような態度は消え、そこにあるのは妹を守ろうとする姉の顔だった。


「あんたが嫌なら、断っていいんだよ」


「でも……立花くん、本気で言ってくれてるのに、断ったら……」


「それとこれは別。あんたの気持ちは、あんたのもんでしょ。誰のためでもない、自分のために嫌だと言っていいの」


 一花さんが妹の隣に並び、その腕にそっと手を置いた。


「私、ここにいるから」


 その言葉に、三桜さんの瞳からふっと迷いが消えた。


 三桜さんは、ぎゅっと握りしめていたブラウスの裾からゆっくりと手を離す。

 少しゆったりとしたブラウスのシルエットが、彼女の華奢な輪郭を一層際立たせていた。

 そして彼女は、深く息を吸い込み、立花の目をしっかりと見返した。


「ごめんなさい。あなたの気持ちは、嬉しい。でも私は……あなたの気持ちには、応えられない」


 震えてはいたが、はっきりとした自分の声だった。


「ずっと、嫌だって言えなかった。誰かに何か頼まれたら、笑って引き受けて……自分がどう思ってるかなんて、後回しにしてた」


 三桜さんの瞳から、涙が一筋だけ伝った。

 それでもまつ毛は伏せず、立花から目を逸らさない。


「でも……これは、私の気持ちだから。立花くんとは、付き合えません」


 誰かの期待を裏切るのが怖くないわけがない。

 それを承知で口にした、彼女自身の意思だった。


 いつだったか、三桜さんの言う大丈夫は自分に言い聞かせているみたいだと、俺は言ったことがある。

 その響きは、今の声のどこにもなかった。


「……そっか」


 立花は大きく息を吐き出した。

 予想外の本気の拒絶に、目を見開いて固まっている。

 だが、決して声を荒げることはなかった。

 怒りも恨みもない、純粋な呆然だけがそこにあった。


「わかった。無理言って悪かったな。……真剣に答えてくれて、サンキュ」


 立花は喉を大きく上下させて、それから制服のスラックスのポケットに手を突っ込んだ。

 取り出したのは、きちんと畳まれた清潔なハンカチだった。

 彼のようなタイプがそんなものを持ち歩いているのは、少し意外だった。


「ほら、コレ。泣かせた詫び。使ってよ」


 差し出されたハンカチに、三桜さんは震える手を伸ばしかけて、途中で止めた。

 それを受け取ることが、今の彼女には難しいと知っている顔で、立花はゆっくりと手を引っ込める。


「……いや、悪ぃ。今のはナシで。俺、ほんとカッコ悪ぃな」


 自分に呆れたように、肩を竦めた。

 無理に作ったような小さな笑み。

 それは、これ以上三桜さんを困惑させまいとする、彼なりの繊細な気配りだった。


「タチバナくん」


 一花さんが立花に向き直った。


「本気で言えるのって、かっこいいと思うよ。それだけは言っとく」


「……ありがとな」


 立花は呆然としたまま、力なくその場に立ち尽くした。


 沈黙が落ちる。

 一花さんが小さく息をつき、三桜さんの肩をぽん、と叩いた。


「よく言えたじゃん」


「一花お姉ちゃん……うん」


 いつの間にか歩み寄っていた二葉さんは、何も言わず、三桜さんの反対側にすっと寄り添った。

 言葉はなかったが、袖と袖が触れる距離だけで、姉としての意思表示になっていた。


 その二葉さんの背中を追うようにして、俺もゆっくりと柱の陰から歩み出る。

 それに気づいた三桜さんが、ゆっくりとこちらを振り向く。

 泣きそうな、それでいてどこか安堵したような顔で、俺の姿をまっすぐに捉えた。

 それでも涙は、さっきの一筋で尽きてしまったみたいだった。


「誠くん……」


 掠れた声が、俺の名前の形をしていた。

 俺は何も言えなかった。

 何かを言わなければいけない。

 彼女のまっすぐな瞳に応えなければいけない。


 よく頑張ったな、とか。

 大丈夫だよ、とか。

 なのに、口の中は乾いて、言葉が一つも形にならなかった。


「聞いて、たんだね」


「……ああ。ごめん、立ち聞きするみたいになって」


「ううん。……いてくれて、よかった」


 そう呟いた三桜さんは、それ以上何も言わなかった。

 気の利いた言葉なんて一つも出てこなくて、俺はただ不器用に小さく頷き返すことしかできなかった。

 蝉だけが、馬鹿正直に鳴き続けていた。


 胸の奥で渦巻く得体の知れない熱を、俺はまだ持て余していた。

 安堵、だけではない。

 これは——何だ。

 その先の名前に、あと少しで手が届きそうな気がして、俺は無意識に指を握り込む。


 視界の隅で、俺の様子を見ていた一花さんが、ふっと息をこぼしたのが分かった。

 俺より先に、その名前を知っている笑い方だった。

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