第108話 夏空、肩を叩いて
翌日の火曜日。
朝の教室に足を踏み入れた瞬間から、俺は自分の呼吸がどこか浅くなっているのを感じていた。
休み時間を告げるチャイムが鳴り終わるや否や、あちこちで机がくっつけられ、笑い声が弾ける。
七月の強い日差しが窓から差し込み、騒々しい教室の空気を明るく照らしていた。
普段なら俺もその喧騒の中に適当に溶け込んでいるはずだった。
だが今日の俺の心の中だけは、昨日の放課後の残響がいつまでもくすぶり続けている。
斜め前の席に目を向ける。
立花は、昨日玉砕したばかりだというのに、表面上はいつも通りに振る舞っているように見えた。
「おい立花! 次の移動教室、お前ノート持ったか?」
「ばーか、俺はいつでも手ぶらだっつーの! ほら、見せろ!」
「また写す気かよ!」
誰かと大きな声で言い合っては、笑っている。
声量は昨日までよりほんの少しだけ落ちていたが、それを気にしている人間は教室にいないだろう。
ただ、ふとした間に、立花の視線が窓の外へ流れる瞬間を、俺は何度か見つけてしまった。
二、三列前の席には、三桜さんの小さな背中がある。
ゆるめの半袖ブラウスの肩口が、いつもよりわずかに丸まって見えた。
今日はまだ、一度も目が合っていない。
合わせられなかった、が正しいかもしれない。
その代わりのように、一花さんが時折こちらへ意味ありげな視線を寄越してくる。
からかうでもなく、責めるでもない。
昨日の放課後に見たあの笑い方が、まだ続いているような目だった。
旧校舎の裏手。
三桜さんの、震えながらも確かな芯を持っていた声。
立花の、三桜さんを気遣うように作った無理な笑顔。
そして柱の陰で息を潜めていただけの俺の、何もできない無力感と、胸の奥で渦巻いていた正体不明の熱。
——いてくれて、よかった。
昨日の声が、耳の奥でまだ震えている。
教室の空気はいつも通りなのに、俺だけがそこに取り残されているような気がした。
◇
昼休み。
購買で適当なパンを買い込んだ俺は、教室の喧騒から逃れるように廊下へ出た。
誰かと話す気分になれず、ふらりと屋上へ続く階段を上る。
少しだけ一人になって、頭を冷やしたかった。
コンクリートの冷たい階段を上りきり、重い鉄の扉を押し開ける。
途端に、眩しい夏の光と、グラウンドの熱を含んだ風が正面から吹き付けてきた。
目を細めながら屋上へ足を踏み出すと、視界の端に見覚えのある人影が映った。
フェンスに背中を預け、夏空を見上げている明るめの茶髪。
ネクタイをいつもの一段分だけ緩めた制服姿。
「……立花」
思わず呟いた声に、彼が振り返る。
俺の姿を認めた立花は、一瞬だけ驚いたようにわずかに目を見張ったが、すぐに力の抜けた笑みを浮かべた。
「お、相沢。お前もサボりか?」
「サボりじゃない。ちょっと風に当たりに来ただけだ」
「俺も同じ。教室、ちょっと息苦しくてさ」
「……無理しなくていいんじゃないか。誰も気にしてないと思うけど」
「分かってねえな。ここで俺が落ち込んでたら、余計に綾瀬さんが気を使っちまうだろ」
軽い口調で言い切ってから、立花はふっと視線を空の方へと逃がした。
空元気を装っている自覚は、彼自身の中にちゃんとあるらしい。
「……」
「なんてな。冗談だ。あんな見事にフラれた翌日に、へらへらしてるのも疲れるっていうかさ」
その自嘲気味な響きに、俺は短く相槌を打ちながら歩み寄り、彼から数歩離れた位置のフェンスに背を預けた。
背中越しに伝わってくる金網の熱さが、妙に現実感を持って背中を刺す。
しばらくの間、風の音だけが二人の間を通り抜けた。
「あー……昨日は、悪い。変なとこ見せちまったな」
立花が頭の裏をガリガリと掻きながら、あっさりと切り出した。
言い訳も前置きもなく、真っ直ぐに核心を突いてくる。
「いや……俺の方こそ、立ち聞きみたいなことして、悪かった。どう動いていいか分からなくて」
「気にしてねえよ。つーか、俺、結構本気だったんだぜ?」
「ああ。見てて分かったよ」
「だろ? あんなストレートにぶつかっていったのに、あっさり砕け散ったわ」
「……かける言葉が見つからないな」
「慰めなんていらねえよ。ただ……」
立花はそこで一度言葉を切って、フェンスの手すりに軽く肘をついた。
近くで見ると、彼の横顔に卑屈な影や、不貞腐れたような色はない。
いつもなら、思ったことを片っ端から口に出す男だ。
その立花が、次の言葉を選びあぐねている。
「でもさ」と、立花はいつもの教室で聞くよりもずっと落ち着いた、静かな声で言った。
「振られてよかったとは言わねえけど、ちゃんと断ってくれたのは正直ありがたかった。無理に笑って流されるよりずっといい」
あの時、三桜さんと向かい合っていたのは、俺ではなく立花だった。
「綾瀬さん、最後まで俺の目を見て、ごめんなさいって言ったんだ。……あれで完全に、目が覚めた。本気で答えてくれたから、俺も本気で納得できた」
「三桜さんは……そういうところ、すごく真っ直ぐだからな」
「おう。俺の想いと同じくらい、あっちの想いも真剣だったってことだ」
「……」
「綾瀬さん、優しいだろ。人に嫌だって言えないくらい。でも昨日、自分で言い切った。あれは——すごいことだと思うんだよな」
立花の横顔に浮かんだのは、未練ではなかった。
断ってくれた相手への、静かで率直な敬意だった。
自分の敗北を完全に受け入れた人間の、潔い諦めの声。
「ま、相沢には敵わねえよ」
あっさりと、立花はそう言った。
「俺が敵うとか敵わないとか、そういう話じゃ……」
「そういう話だろ。綾瀬さん、お前のこと見る時だけ、全然違う顔すんのな」
「……違う顔?」
「おう。他の奴と話す時はいつもニコニコしてて、優しくて、でもどこか気を使ってるのが分かる。でも相沢を見る時は、なんていうか……もっとこう、全部預けてるっていうか」
「それは、単に俺が彼女たち三姉妹と話す機会が多いから……」
「んなわけあるか。男の俺から見ても、あの信頼感は別格だわ。昨日だって、お前が来た瞬間に綾瀬さんの空気が変わったんだぜ」
夏空を仰ぎながら、立花は長く息を吐いた。
「俺なんかじゃ、最初から入る隙間もなかったわ」
俺を見る時だけ、違う顔をする。
その事実を、俺に恋破れた男の口から突きつけられる。
すると、なぜか俺の胸の奥で、昨日から渦巻いていたあの熱がじわりと広がった。
戸惑いと、申し訳なさと、そして決して口には出せない、ほんの小さな優越感。
「なあ、お前ら、付き合ってんの?」
不意に、唐突な問いが飛んでくる。
俺は反射的に首を振った。
「付き合ってない。俺たちはただのクラスメイトだ」
「マジか」
「マジだ。変な勘違いはしないでくれ」
「いや、勘違いも何も……あんな顔させておいて、ただのクラスメイトはねえだろ」
立花はじっとこちらを見つめた。
探る目ではなく、純粋に不思議そうな顔だった。
短い沈黙の後、立花はゆっくりとフェンスから背中を離した。
靴底がコンクリートを踏む音が、やけに大きく聞こえる。
そのまま彼は俺の正面に立ち——ぽん、と俺の肩を叩く。
少しだけ力を込めた、男同士の遠慮のない手のひらの重さ。
その手は、思っていたよりずっと大きくて、温かかった。
そこには、俺に対する敵意は微塵もなかった。
「まあ、お前らうまくやれよ。俺は俺で切り替えるわ」
「立花……」
「なんだよ、そんな申し訳なさそうな顔すんなって。お前のこと嫌いじゃないからな。むしろ、綾瀬さんが選ぶのがお前でよかったわ」
「……ありがとう」
自分の口から出てきた素直すぎる言葉に、俺は自分で少しだけ面食らった。
拒絶よりも先に感謝が滑り出したのは、多分こいつの言葉に嘘がなかったからだ。
「おっ、素直に受け取ったな。次から遠慮しねえからな」
「別に遠慮してほしいなんて言ってないだろ」
「ははっ、違いねえ」
立花は白い歯を見せて笑うと、屋上の扉の方へ向かって歩き出した。
未練も色気も、そこにはもう残っていない。
ただの陽気で真っ直ぐなクラスメイトの背中がそこにあった。
「じゃあな。午後の授業、サボんなよ」
「お前こそ、次、数学だぞ」
「げっ、マジか! ノート借りねえと!」
重い鉄の扉の向こうに消えていく立花を見送りながら、俺は自分の胸にそっと手を当てた。
制服のシャツ越しに伝わる心臓の鼓動が、少しだけ早い。
立花が俺の肩を叩いた時の、あの手のひらの重さと、祝福のような言葉。
それを聞いた時、俺の奥底で確かに安堵に似た感情が湧いたのだ。
誰かに三桜さんを奪われなくてよかった。
俺以外の男の隣で、彼女が笑わなくてよかった。
そんな、どうしようもなく身勝手で醜い想い。
昨日、俺はあの場で一歩も動けなかった。
どの立場で割って入るというのか、と自分に問うただけだ。
動かない人間には何も来ないと、二葉さんは言い切った。
俺は、何を望んでいるんだ。
ただのクラスメイトだと言い張って、自分から明確な境界線を引いているくせに。
いざ誰かが彼女に手を伸ばそうとすると、胸が焼けるように焦り、その隣を誰にも譲りたくないと願ってしまう。
夏空を埋め尽くす入道雲に手を伸ばせば、その熱が指先からじかに伝わってくるような気がした。
胸の底で確かに熱を持っているそれを、俺はまだ、掴みきれずにいる。
◇
窓の外の空が茜色に変わり始めた頃、綾瀬家の広いリビングは静かな空気に包まれていた。
テレビは点けていない。
一花お姉ちゃんが右側、二葉ちゃんが左側。
私はその真ん中で、部屋着の柔らかいスウェットのままソファに深く腰を沈め、自分の膝をぎゅっと抱え込んでいた。
「……ちゃんと、嫌って言えた」
ぽつりとこぼれ落ちた言葉は、自分でも驚くほど小さかった。
ずっと、誰かの期待に応えられないことが怖かった。
嫌われたくなくて、何かを頼まれたら自分の気持ちに蓋をして、作り笑いを浮かべて引き受けてきた。
でも、昨日は違った。
私は私のために、はっきりと嫌だと言葉にできた。
「うん、よく頑張ったね。……昨日より、ずっといい顔してる」
一花お姉ちゃんが、優しく言葉を重ねてくれる。
「私も本当に、心配したんだから。三桜が無理して受け入れちゃうんじゃないかって」
「ううん。そんなこと、もうしないよ」
私は小さく首を振ってから、昨日の彼の顔を思い出した。
「立花くん、怒ってなかった。呆然とはしてたけど、最後まで優しくて……」
「いい奴だったね。でも、三桜の気持ちは別でしょ?」
「うん。私には……他に、大切な人がいるから」
すぐ隣に座っていた一花お姉ちゃんが、ぐっと肩を寄せてきた。
少し身を乗り出すようにして抱き寄せてくれる、温かくて優しい姉の腕。
カーディガンの襟元から届く甘い柑橘の香りに包まれて、張り詰めていた私の緊張が少しずつほどけていく。
「情に流されて曖昧に受け入れていたら、遠からず三桜も立花くんも傷ついていたわ。合理的に考えて、線引きは早いほど傷が浅いのよ」
反対側に座った二葉ちゃんが、いつもの静かな声で言葉を継ぐ。
理屈っぽい言い回しとは裏腹に、ひんやりとした二葉ちゃんの指先が、私のスウェットの袖口をそっと摘まんでいた。
二人とも、私がどれだけ勇気を振り絞ったか、言葉にしなくてもわかってくれている。
そのことが嬉しくて、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「二葉ってば、言い方は固いけど、昨日からずっと三桜のこと気にしてたんだよ?」
「……余計なことは言わなくていいわ、一花」
「ふふっ、ありがとう、二葉ちゃん」
二葉ちゃんの返事はないけれど、袖口を摘まむ指がほんの少しだけ強くなった。
それだけで、私にはもう十分だった。
「……一花お姉ちゃんも。ここにいるからって、言ってくれたでしょ。あの言葉で、やっと声が出たの」
「んー? そんなこと言ったっけ」
しらばっくれた声と一緒に、私の髪がぐしゃぐしゃとかき回された。
「あの時、リオンがいてくれてよかった。……気づいたのは、全部終わってからだったけどね」
「リオンも、三桜が心配で付いてきたんでしょ。本当に、過保護なんだから」
「……リオンも甘いわね。私たちの問題なのだから、三桜一人で対処させるべきだったわ」
「そんなこと言って、二葉だってリオンが動かなかったら自分から飛び出してたくせに」
一花お姉ちゃんが指先で二葉ちゃんの膝をつつくと、二葉ちゃんはふいと視線を逸らした。
「……それは、合理的な危機管理よ」
「でもね……少しだけ、足が震えちゃった」
包み隠さずに正直な気持ちを打ち明けると、一花お姉ちゃんがふふっと息を漏らして笑った。
「いいのいいの。初めてなんだから震えて当然。次はもっと上手く言えるようになるよ」
「……次なんて、ない方がいいけれど」
二葉ちゃんの的確で冷静なツッコミに、私は思わず噴き出してしまった。
「あははっ、そりゃそうだわ」
一花お姉ちゃんも釣られたように笑い出し、広いリビングに三人の笑い声が響く。
二葉ちゃんの指が、ほんの少しだけ力を込めて私の袖口を引っ張った。
三人で座ったソファの温度が、少しだけ上がった気がした。
誰かのために笑うのではなく、自分の意思で選べたこと。
それがこんなにも心を軽くするなんて、知らなかった。
「……うん。私、もう大丈夫だよ」
ぎゅっと握りしめていた膝の力をゆっくりと抜き、私は二人に向かって笑いかけた。
「……そ。じゃあ、これで三桜も、私たちと同じスタートラインだね」
「ええ。ここからはまた、いつもの日常が戻ってくるだけよ」
「うん。……二人とも、ありがとう」
リオンは、昨日から私のことをどう思っているだろうか。
泣き虫で一人じゃ上手く言葉にできない私を見て、幻滅していないだろうか。
そんな不安も、心の中には少しだけ残っている。
でも、言い終えた私に、リオンはちゃんと頷いてくれた。
——リオン。
声に出さずにその名前を呼ぶだけで、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。
もっと、彼にふさわしい私になりたい。
窓の外の空は、オレンジ色から深い藍色へと変わり、もうすぐ完全な夜を迎えようとしていた。




