第109話 駅前の紺色、知りすぎた微笑み
金曜日の放課後。
一週間の授業が終わった解放感で、清華高校の校門周辺はいつも以上の熱気に包まれていた。
昇降口の方から流れてくるざわめきや、部活に向かう生徒たちの笑い声が、夏の空気に溶けていく。
そんな賑やかな空気を背中で感じながら、俺は駅へと向かう緩やかな坂道を一人で下っていた。
じりじりと肌を焼くような強烈な西日が、アスファルトに濃い影を落としている。
首筋に滲む汗を手の甲で軽く拭いながら、俺はあの日の放課後を思い出していた。
旧校舎の裏で感じたあの名状しがたい熱は、今はもう嵐の後のように静まっていた。
心をかき乱すような焦燥感はない。
ただ、どこか心地よい疲労感だけが足取りに乗っていた。
風が吹き抜けるたびに、遠くから聞こえる蝉の鳴き声が一層大きく耳に響く。
駅前のロータリーに差し掛かると、バスを待つ列や足早に改札へ向かう人波でさらに混雑が増していた。
俺もそのまま真っ直ぐ改札へ向かおうとした時だった。
「——【リオン】さま」
喧騒を切り裂くように、ひときわ涼やかな声が鼓膜を揺らした。
振り返ると、ロータリーの端に停車していた艶やかな黒塗りの高級車の陰から、すっと細い影が歩み出てくるところだった。
他校の清楚な紺色のブレザー制服。
綺麗に切りそろえられたゆるふわの長い髪が、熱を帯びた風にふわりと揺れる。
周囲の高校生たちが思わず振り返るような目を引く立ち姿のまま、天道は俺の目の前で立ち止まった。
目が合った一拍だけ、その瞳から温度がすっと抜けた。
けれど次の呼吸には、もう見慣れた微笑みがそこにあった。
「天道……こんなところでどうしたんだ。お前の学校、ここから結構遠いだろ」
「ええ。ですが、少しだけお顔が見たくなりまして」
「……そういうこと言う割には、ずいぶん久しぶりじゃないか」
「だからこそ、どうしても今日はお会いしたかったのです。いけませんか?」
小首を傾げて上目遣いに問いかけてくる仕草に、周囲を歩いていた同世代の男子高校生たちが揃って足を止めるのがわかる。
「いけないとは言わないけど……目立ちすぎだろ、お前」
「あら。私が目立っているせいで、【リオン】さまにご迷惑をおかけしてしまいましたか?」
「迷惑ってわけじゃないが、その……こっちまで注目浴びるのは勘弁してくれ」
「ふふ、それはむしろ望むところです。こうしてお隣に立てる日が、そう何度もあるわけではありませんもの」
周囲の目など全く気にする様子もなく、天道は品の良い笑みを浮かべて距離を詰めてきた。
ためらいのない足取りで俺の隣に並ぶと、白いハンカチを取り出し、少しだけ爪先立ちして俺の首筋にそっと押し当てる。
「天道、いいって。それくらい自分でやる」
「いいではありませんか。……こんな暑い中を、歩いてこられたのでしょう?」
「いや、だからここ、駅前だって。周りの目があるだろ」
「他人の目など気になさる必要はありません。少しだけ、じっとしていてくださいな」
抗議の声を上げる間もなく、ブレザーの薄い生地越しに、彼女のしなやかな体温がそっと押し付けられた。
予想外の距離の近さに、心臓が大きく跳ねる。
顔を背けようとしても、彼女から漂う上品な香りが追いかけてきて、思考のピントが強制的に彼女へと合わされてしまう。
腕に伝わる彼女の体温が、夏の熱気とは違う種類で俺を焦がした。
「暑い中、本当にお疲れ様です」
「……ありがとう。でも、本当に急に来てどうしたんだ?」
「ただのお出迎えですよ。……それと、他愛のないことを、少しだけお尋ねしたくて」
「尋ねたいこと? わざわざ直接聞きに来るようなことか?」
言われた意味がすぐには飲み込めず、俺は思わず眉を寄せた。
天道はすぐには答えず、一度だけ、何かを確かめるように瞬きをした。
「ええ。直接お顔を見て、お話ししたかったのです」
「そうか……で、何の話なんだ?」
「ルナさんが、戻られたようですね」
天道は至近距離からこちらを見上げたまま、静かにそう言った。
その言葉に、俺は思わず息を呑んだ。
「お前……ルナが戻ったこと、知ってるのか?」
「ええ。存じております」
「なんで知ってるんだよ」
「……【リオン】さまのことでしたら、何でも」
答えになっていない答えだった。
それなのに、彼女の声には得意げな響きがひとつもない。
「……お前、まだそんなことを言うつもりなのか」
「いいえ。今日は、それを申し上げに来たのではありません」
「……じゃあ、何しに来たんだよ」
「【リオン】さまが、お元気になられたかどうか。……この目で、確かめたかったのです」
いつもなら、ここで自分こそが本物のルナだと重ねてくるはずだった。
拍子抜けした俺の頭の片隅で、小さな違和感がちりりと鳴った。
数週間前、天道が唐突に姿を現すようになった。
そして、その直後からルナが不可解なエラーでログインできなくなった。
二週間ほど前、ルナが唐突に復帰を果たした直後から、天道のあの執拗で強引なアプローチがほんの少しだけ息を潜めたような気がしていた。
まるで、見えない糸で連動しているかのように。
ゲームの世界のルナと、現実の天道琴音。
交わるはずのない二つの存在が、同じ時間軸で不自然にリンクしている。
——いや、まさかな。
すぐにその考えを打ち消す。
ルナの制限はただのエラーか、運営の別件だろう。
ただの偶然の被りに違いない。
天道がそんな大掛かりなことをできるはずもないし、する理由もない。
俺が小さく息を吐き出すと、ハンカチを引いた天道が不思議そうに見上げてきた。
「どうかされましたか?」
「……いや、なんでもない」
偶然だよな、と胸の中だけで呟き、それ以上は口にしなかった。
天道は少し不満そうに小首を傾げたが、すぐに元の清楚な笑みに戻る。
そこで俺は、初めて気づいた。
その白い頬に、うっすらと汗が浮いている。
この暑さの中、ブレザーを脱ぐ気配もない。
「……お前、暑くないのか。その制服」
「いいえ。慣れておりますから」
校則なのか、それとも彼女なりの矜持なのか。
「……なら、いいけど。あんまり無理はするなよ」
「……ありがとうございます。そのお言葉が聞けただけで、今日は充分です」
白いハンカチを丁寧に畳み直しながら、天道が目を伏せた。
「……それでは、私はこれで。またお会いしましょうね、【リオン】さま」
名残惜しそうに腕を離すと、天道は優雅な身のこなしで黒い車へと戻っていった。
静かに閉まるドアの音を聞きながら、俺は自分の腕に残った柔らかな感触と熱を振り払うように、小さく首を横に振った。
けれど、胸に引っかかったものだけは、そうやっても消えてはくれなかった。
◇
その日の夜。
天道家の広すぎる自室は、分厚いカーテンが引かれてひっそりと静まり返っていた。
紺色の制服からゆったりとした部屋着へと着替えた私は、ベッドの縁に力なく腰掛け、通話終了の電子音が鳴ったのを確認してからスマートフォンをゆっくりと耳から離した。
「……ごめんなさい、お父さま」
暗い部屋に、誰にも届かない謝罪がぽつりと落ちる。
仕事中の父からの短い電話は、いつものように優しい声だった。
学校は楽しいか、困っていることはないか。
そんな他愛のない問いかけに、私は完璧な令嬢として、問題など何一つないように振る舞い続けた。
私は、自分が勝手に何をしたか、お父さまに何も言えていない。
自分の目的のために、決して越えてはいけない一線を越えてしまったこと。
あの人に近づくためだけに、許されない手段を使ってしまったこと。
胸の奥を重い罪悪感が締め付ける。
ルナさんの居場所を奪い、【リオン】さまを困惑させていたのは、他の誰でもない私だ。
そして二週間ほど前の夜、その居場所をルナさんへ返したのも、この同じ指だった。
——せめて、ルナさんだけでも、あの方のもとへ。
あのときの私にあったのは、それだけだった。
正しいことをしたのかは、今も分からない。
返したところで、自分がしたことが消えるわけではないのだから。
それでも、あのままにしておくことだけは、どうしてもできなかった。
けれど、今日お会いした【リオン】さまは、あの日のような寂しそうな目をしていなかった。
何ひとつできないはずのこの手にも、できたことがひとつだけあったのだ。
机の一番下の引き出しを開け、そこに伏せてある写真の裏を指先でそっと撫でた。
角が丸くなったその感触だけが、今の私を繋ぎ止める唯一の拠り所だった。
……大丈夫。
あの夜の私とは、もう違う。
その証なら、今日もひとつ増えたばかりだ。
【リオン】さまにお会いする前のことだった。
あの方々のお一人が、わざわざ私の学校まで訪ねてきた。
だから、教えて差し上げたのだ。
私だけが辿り着いた、あの信じがたい真実を。
私の言葉に、痛いところを突かれて絶句したあの呆然とした顔。
あれは間違いなく、見えない急所を深くえぐられた人間の反応だった。
私が突きつけた真実は、確実に彼女たち三姉妹を追い詰めている。
暗い部屋の中で、私は祈るように胸の前で両手を強く握りしめた。
——もう少しだけ、待っていてくださいね、【リオン】さま。
もう、あなたを悲しませるようなやり方はいたしません。
今度は正面から、あの方々の前に立ってみせますから。




