第110話 的外れの矢と、静かな哀れみ
——同日、金曜日の放課後。
天道琴音が駅前で誠を待ち伏せる、少し前の出来事。
厳格な校風を思わせる、背の高い鉄格子の校門外。
傾きかけた日差しの下で、二葉は日傘の柄をきつく握りしめたまま、足早に歩き出てくる紺色のブレザーを見据えていた。
ここへ来ることは、一花にも三桜にも言っていない。
【リオン】には、なおさら。
あの女が現れるようになってから、数週間が過ぎた。
【リオン】と二人きりで交わした言葉を、そっくりそのまま口にしてみせた、あの正確さ。
その出どころだけが、いまも喉に刺さった棘のまま抜けない。
私たちの秘密に、どこまで手が届いているのか。
それを確かめに来た。
周囲には、迎えの車を待つ令嬢たちの姿がちらほらと見える。
誰もが一目で良家の子女とわかる洗練された身のこなしで談笑している中、一際目を引く清楚な立ち姿が、二葉に気づいてピタリと足を止めた。
「……少し、いいかしら?」
「あら。どちら様かと思えば……」
二葉が静かに声をかけると、琴音は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに余裕のある笑みを浮かべた。
周囲の令嬢たちが、見慣れない清華高校の制服を着た二葉を遠巻きに観察しているのがわかる。
だが、今の二葉には他人の目などどうでもよかった。
「綾瀬、二葉さん。ごきげんよう。私に何かご用でしょうか?」
「わざわざ挨拶は結構よ。単刀直入に聞くわ。あなたの目的は何?」
「目的、とは?」
「とぼけないで。突然現れては、色々と嗅ぎ回っている理由よ」
声の温度をわずかに落として詰めても、琴音の表情に動じた気配は微塵もない。
「嗅ぎ回るだなんて、人聞きの悪い。私はただ、純粋な好意で動いているだけです」
「その『純粋な好意』が、周囲にどれだけ迷惑をかけているか分かっていないの?」
「迷惑? それはあなたたちにとっての都合の悪いこと、という意味かしら?」
挑発には乗らない。
今日ここへ足を運んだ理由は、そんなことではないのだから。
「ひとつ聞かせて。あなたがマコトの前で並べてみせた、あの記憶。どこで手に入れたの?」
「あら。それを、私にお尋ねになるのですか?」
「答えないならそれでもいいわ。ただ、あなたが何を知っていて、何を知らないのか。それだけは把握しておく必要があるの」
「……ずいぶんと身勝手なお話です」
琴音の睫毛が、かすかに震えた。
「そちらこそ、どうしてルナさんのお名前を騙っていらっしゃるの? 揃いも揃って嘘を並べて、【リオン】さまを惑わせて。よほど質が悪いのは、あなたたちの方では——」
「私たちの話はしていないわ。あなたの話をしているの」
二葉は一歩踏み出し、彼女との距離を詰めた。
あんな得体の知れない女に、【リオン】の隣は一ミリだって譲りたくない。
胸の奥でどろりと渦巻く重い感情を冷たい視線で蓋をして、逃げ場を塞ぐように琴音を睨みつける。
「これ以上、不可解な行動でマコトを巻き込むつもりなら——」
「不可解、ですか?」
「ええ。突然現れて馴れ馴れしくしたり、かと思えば裏でこそこそ動いたり。不愉快なのよ」
琴音はふふっと上品に笑い、二葉の言葉を遮った。
その顔には、圧倒的な優位に立っているという確信が満ちている。
——いや。
確信と呼ぶには、あまりに必死な光だった。
琴音は周囲の目を気にするように少しだけ声を落とすと、一歩だけ二葉に近づき、耳元で囁くように宣告した。
「私、知っています。隠しても無駄ですよ。ルナさんの本当の正体……」
その言葉に、二葉の心臓がドクンと大きく跳ねた。
——まさか。
私たち三姉妹の秘密に、この女は辿り着いたというのか。
見えない刃を突きつけられたように全身の血の気が引きかけ、二葉がわずかに息を呑んだ次の瞬間。
琴音は勝利を確信したような得意げな声で、決定的な一言を放った。
「ルナさんの本当の正体は、あなたたちのお父様ですよね」
「…………は?」
二葉の口から、間の抜けた声が漏れた。
思考が完全に停止し、ただ瞬きを繰り返す。
その反応を、琴音は満足そうに見つめている。
切り札をついに晒した者の、晴れやかですらある顔で。
「驚くのも無理はありません。でも、私は真実にたどり着いたのです」
「……真実? 一体、何を言っているの?」
琴音は二葉の反応を、痛いところを突かれた動揺と受け取ったのか、さらに言葉を重ねてきた。
「隠そうとしても無駄ですよ。私にはすべてお見通しなのですから」
「……お見通し?」
「私、色々と調べさせていただきました。お父様が娘のふりをしてゲームをするなんて、少し悪趣味だと思いますけれど。そんな大人の遊びに【リオン】さまを巻き込むなんて、許せません」
「…………」
「ご自身のお父様がネットゲームで男の人を騙しているなんて、娘としては恥ずかしくて言えないですよね。同情いたします」
琴音は得意げにそう言い切り、二葉の返答を待っている。
沈黙が落ちた。
遠くで鳴る車のクラクションの音が、妙に鮮明に聞こえる。
二葉は、目の前で自信満々に胸を張るこの少女を、ただ静かに見つめ返した。
冷たく尖っていた二葉の警戒心が、音を立てて崩れていく。
代わりに込み上げてきたのは、深い哀れみと、どうしようもない可笑しさだった。
恐ろしいほどの情報収集力と、信じられないほどの的外れ。
この子は、根本的に間違っている。
完璧な手段で、最も間違った答えに辿り着いた少女。
表向きの名前ひとつを見つけて、そこから「ルナの正体は綾瀬家の父親」という、壮大にずれた推理を組み立てたのだ。
私たちの秘密になんて、爪の先ほども辿り着いていない。
こちらが警戒していたのは秘密の暴露のはずが、蓋を開けてみればとんでもない勘違いだった。
彼女の自信に満ちた言葉が、頭の中で滑稽な響きに変わっていく。
「……な、何ですの、その目は……! 事実を突きつけられて、言い返す言葉もありませんか!」
「……言い返す? いいえ、別に」
「図星を突かれて強がっているだけですよね。あなたのその態度、いつまでもつかしら」
二葉が一切慌てる素振りを見せず、ただ奇妙な生き物を見るような目を向けていることに、琴音の表情が初めて崩れた。
完璧な令嬢の仮面が剥がれ、焦りの色がにじむ。
——この子は。
この盛大にずれた答えを握りしめたまま、たった一人で戦っていたのだ。
「……ええ。全くその通りね。教えてくれてありがとう」
口をついて出た言葉に、二葉自身が少し驚いた。
けれど、嘘ではなかった。
「……え? ちょっと、どういう意味ですの?」
「言葉通りの意味よ。あなたの『素晴らしい推理』を聞かせてくれて感謝するわ」
二葉は小さくため息をつき、日傘の角度をわずかに下げた。
相手の手札が予想と全く違う方向を向いていたことで、肩の力が抜ける。
これ以上、この子と真面目に対峙するだけ時間の無駄だ。
彼女は私たちの脅威にはなり得ない。
ただの、盛大な勘違いをした厄介な他校の生徒に過ぎなかった。
むしろ、真剣に彼女を警戒してここまで足を運んだ自分が少し恥ずかしくなる。
「もういいわ。用は済んだから」
「ちょっと、待ちなさい! 話はまだ終わって——」
「私の中では終わったのよ。これ以上、あなたと話すことは何もないわ」
日傘の角度を戻して、二葉はゆっくりと背を向ける。
追いすがる声が、思ったよりも幼く響いた。
「逃げるつもりですか!? 図星を突かれて、反論すらできないなんて!」
「だから、教えてくれて感謝するって言ったでしょう?」
「負け惜しみを! あなたたちのお父様にも伝えておきなさい。これ以上は容赦しません!」
「ええ、せいぜい頑張ることね。さようなら、天道さん」
背後から追いすがろうとする声を背中で切り捨て、二葉は踵を返した。
【リオン】に報告する必要もないだろう。
あんな滑稽な勘違い、聞かせるだけ馬鹿馬鹿しい。
駅に向かう二葉の頭の中で、先ほどの得意げな顔が何度もフラッシュバックする。
二葉は口元に手を当て、こぼれそうになる笑いを必死に噛み殺した。
——お父様?
呆れ果てた二葉の無言の余韻だけが、夏の午後の空気に溶けていった。
◇
白い日傘が並木の向こうへ遠ざかっても、琴音はその場から動けずにいた。
勝ったはずだった。
それなのに、胸の奥がざらついて仕方がない。
——教えてくれてありがとう。
あの一言だけが、耳の奥に貼りついて剥がれない。
感謝ではなく、何か別の意味が込められていたような気がして。
けれどそれが何なのかは、どれだけ考えても言葉にならなかった。




