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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第4章 夏を待つ五人と、還ってきたルナ

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第111話 夕立の軒先、三桜の温度

月曜の放課後、校舎の裏をぐるりと回って購買の裏手まで来てみると、そこには相変わらず人の気配がなかった。

 ブロック塀の上では茶トラの野良猫が、前足を舐めてはその足で丁寧に顔をこすっている。

 しゃがんで指先を差し出してみたが、ひと嗅ぎされただけで、あいつはまたすぐ顔洗いに戻ってしまった。

 俺には今日も撫でさせてくれないらしい。


 金曜の夕方に駅前で喉へ引っかかったものは、週末を挟むうちにすっかり角が取れていた。

 そのかわりこの数日、頭の隅に居座っているのは、もっと手前の話だった。

 旧校舎の裏で、震えながらも最後まで折れなかった声を聞いた日から一週間。

 三桜さんのそばにはいつも姉たちか誰かがいて、彼女はその輪の真ん中で、前と変わらない顔で笑っていた。

 あれから二人きりで言葉を交わす機会は一度もない。


 猫が顔を洗い終えるのを見届けてから——正確には、十分ほどかけて見届けてから、俺は校舎の表側へ戻った。

 昇降口の前を通りかかったちょうどそのとき、中から小さな影が飛び出してくる。


「あっ、誠くん!」


 短めのボブを跳ねさせて、三桜さんが駆け寄ってきた。

 サイズのゆるい半袖ブラウスが走るたびに片側へずれて、襟ぐりから細い肩の線がのぞく。

 本人はまるで気にする様子もなく、鞄を胸に抱えたまま俺の目の前でぴたりと止まった。


「まだいたんだ! みんな、誠くんはもう帰っちゃったって言ってたよ?」


「ちょっと購買の裏に寄ってたんだ」


「購買の裏って……猫ちゃん!? ずるい、ひとりで会いに行ってたの!?」


「三桜さんは日直だっただろ」


「日直より猫ちゃんだよぉ!」


 握りこぶしを二つ作って力説する声に、昇降口から出てきた何人かが振り返った。


「それ、担任の前では絶対に言うなよ」


「言わないよ。職員室では『日直の職務を全うしてまいりました!』って、すっごく真面目な顔してきたんだから」


「その真面目な顔、想像がつかない」


 三桜さんはぷくっと頬をふくらませてから、何かに思い当たった顔で、俺を下から覗き込んできた。


「……ねえ。猫ちゃん、何してた?」


「前足で顔を洗ってた。ずいぶん念入りに」


「誠くん、それ、どのくらい見てたの?」


「十分くらいかな」


 三桜さんの目がきらりと細くなった。


「猫ちゃんの顔洗いを、十分も。……誠くん、それはもう、待ってたって言うんだよ」


「言わない。猫を見てただけだ」


「私ね、ちょうど十分くらい前から日誌の清書をしてたの。時間、ぴったりなんだから」


「偶然だろ」


 そう返したものの、言い返す材料はどこにも見当たらなかった。

 三桜さんは勝ち誇ったように胸を張って、俺の隣にぴょんと並ぶ。


「一花さんたちは?」


「先に帰ってもらったの。日誌、時間かかりそうだったから」


 三桜さんは指を一本立てて、そのときの様子を再現してみせた。


「一花お姉ちゃんは『待ってるし!』ってごねてたんだけど、二葉ちゃんが『三桜の日誌は長いのよ。待っていたら日が暮れるわ』って、一花お姉ちゃんの襟首をつかんで引っぱってっちゃった」


「二葉さんの読み、正確だな」


「正確じゃないよ! ほら、まだこんなに明るいし!」


「暮れる手前まで書いてたってことだろ」


 三桜さんは言葉に詰まって、鞄の持ち手をきゅっと握り直した。


「……あとね、心花ちゃんも終礼のあと教室まで来てたよ。誠くんがいないってわかったら、『センパイに逃げられました!』って、お姉ちゃんたちと一緒に校門を出てった」


「人聞きが悪いな。逃げてない、猫だ」


「じゃあ心花ちゃんに、誠くんは猫ちゃんを選んだって言っとくね」


「やめてくれ。明日の朝、絶対に面倒なことになる」


「えへへ。じゃあ、内緒にしといてあげる」


 校門を出て、駅へ下る坂道に差しかかる。

 西へ傾いた日差しはまだ強く、アスファルトからは昼間の熱がゆらゆらと立ちのぼっていた。


「それにしても、日誌ってそんなに書くところあったか? 一行ずつ埋めたら終わりだろ」


「あるよ! 今日の授業でしょ、欠席でしょ、連絡事項でしょ……それから、天気」


「天気なんて一文字で済むだろ」


「済まないの。晴れって書いたらね、横がすっごく空いてたから、お日さまの絵を描いたの」


「絵を描く欄はないはずだぞ」


「空いてたんだもん。でもね、一回目はお日さまが小さすぎてゴマみたいになっちゃって、二回目は光の線を描きすぎてウニになっちゃって」


 三桜さんは宙に指で丸を描くと、その周りに線を何本も何本も足していった。

 どう見てもウニだった。

 それもかなり新鮮で威嚇してるやつだ。


「……三回目は?」


「三回目で、やっとお日さまになったの! 消しゴムをかけすぎて、そこだけ紙がちょっと薄くなっちゃったけど」


「日誌に穴が開く前にやめとけよ」


「でもね、裏から透かすと、お日さまだけ神々しく光るんだよ?」


「それ、ただの紙の限界だ」


 日誌の一欄にそこまで手間をかけるあたりが、いかにも三桜さんらしい。

 さっきの茶トラの念入りな顔洗いを、ふと思い出した。


「そういえば、猫が顔を洗うと雨が降るって言うよな」


「迷信だよ。だって私、日誌に晴れって書いたんだから。お日さまも三回描き直したんだよ?」


「日誌に天気を決める力はないだろ」


「先生のハンコももらったの。もう公式なんだよ」


「公式の使い方を間違えてる」


 坂を半分ほど下りたところで、三桜さんが急にきょろきょろと前後を見回した。

 同じ制服の姿は、ずっと前とずっと後ろにぽつぽつ見えるだけだ。

 それを確かめると、三桜さんは俺のシャツの袖をちょいちょいと引いて、つま先立ちで顔を寄せてきた。


「……あのね。特訓の、続きのことなんだけど」


「誰も聞いてないぞ」


「だめ。壁に耳あり、だよ」


「坂道に壁はないだろ」


「ガードレールに耳あり!」


 ガードレールを指さす手まで、内緒話の声量に合わせて小さく縮こまっている。


「ガードレールが誰にチクるんだよ」


「通りすがりのトラックに! 『あの子たち特訓するらしいよー』って運ばれちゃう!」


「どんな物流だ」


 小声のまま言い張る三桜さんの吐息が、耳の縁をくすぐっていく。

 内緒話のつもりらしいが、背伸びしたぶん重心がこちらへ傾いて、俺の二の腕には彼女の肩がまるごと預けられていた。

 ずれた襟ぐりから出た素肌の肩が、汗ばんだ腕にしっとりと吸いつく。


「夏休みに入ったら、また付き合ってくれる?」


「約束しただろ。海までにって」


「うん。……あのね、五秒のこと、ときどき思い出すの。授業中とか」


「授業は聞いとけ」


「聞いてるよぉ! 聞いてるけど、ふっと浮かんでくるの。あのとき誠くん、ちゃんと隣にいてくれたなあって」


 袖をつまむ指先にほんの少し力がこもった。


「次は十秒だな」


「いきなり倍!? スパルタすぎるよ。間をとって七秒にしよ?」


「五と十の間なら七秒半だろ。さらっと切り捨てるな」


「半分のところは、気持ちで浮くもん」


「気持ちで浮けたら誰も苦労しない」


 そんなことを言い合っているうちに、足もとの影がすうっと薄くなった。

 見上げると、いつの間にか校舎の向こうから湧き上がった入道雲が、頭の真上まで張り出してきている。

 白く輝いていた縁は鉛色に濁り、さっきまでの西日が嘘のように、坂道全体がひと息に暗くなった。

 足もとから生ぬるい風が吹き上がってくる。


「……誠くん。空、なんか急に機嫌悪くない?」


「猫の勝ちかもしれないな」


「やだ、私のお日さま……!」


 言い終わるより先に、乾いたアスファルトに黒い染みがひとつ、ふたつと落ちた。

 焼けた路面が濡れるときの埃っぽい匂いが、むわりと立ちのぼる。

 次の瞬間にはもう、数えるのが馬鹿らしくなるほどの粒が、坂道一面を叩きはじめていた。


「三桜さん、傘は?」


「朝、玄関で持ったの! 持ったんだけど、靴を履くときに下駄箱の上に置いて、そのまま……!」


「俺もない。走るぞ」


 俺は鞄を頭の上に掲げ、その半分を三桜さんの頭上へずらした。

 三桜さんが片手で俺のシャツの脇腹をぎゅっとつかむ。

 ふたりぶんの靴音は、たちまち水を蹴散らす音に変わった。


 駅前のアーケードまでは、まだずいぶんある。

 とても保ちそうになかった。

 雨の幕の向こうに、錆の浮いたシャッターを下ろした古い倉庫が見えた。

 入り口の上には申し訳程度の庇が突き出している。


「あそこだ!」


「う、うんっ……わ、わわっ」


 庇の下へ飛び込む最後の一歩で、三桜さんのローファーが濡れたコンクリートの段差を滑った。

 前のめりに傾いた体を、とっさに正面から受け止める。

 勢いのまま、小さな体がまるごと俺の胸に飛び込んできた。

 雨に冷えたブラウス越しに、その奥の体温がじわりと滲んでくる。

 みぞおちのあたりで柔らかなふくらみが濡れた布ごとたわんで、ふたりのあいだの隙間をすっかり埋めていた。


「……っ、ご、ごめんね!」


 慌てて飛びのいた三桜さんの肩が、俺のすぐ隣のシャッターにぶつかった。

 がしゃん、と派手な音が響く。


「わっ……倉庫さん、ごめんなさい!」


「シャッターにまで謝るのか」


「だって今の、すっごく痛そうだったんだよ……」


「痛そうなのは三桜さんの肩のほうだろ。大丈夫か?」


「うん、肩は平気」


 庇の奥行きは大人の肩幅ひとつぶんしかなかった。

 離れようにも、離れる先がない。

 結局、俺たちはシャッターに背中を並べ、肩と肩をくっつけて立つことになった。


 庇の縁から落ちる雨が、靴の先のすぐ向こうで白い簾になっている。

 坂道を流れ下る水は、側溝へ向かっていくつもの細い筋を作っていた。

 頭の上ではトタン屋根がひっきりなしに鳴り続けている。


 隣を見ると、三桜さんは鞄を抱えたまま、ふるっと小さく身震いした。

 濡れたボブの毛先が頬に貼りつき、そこを伝った雫が顎の先で揺れている。

 ブラウスは肩から二の腕にかけてぴたりと肌に張りつき、ずれた襟ぐりの下では、薄くなった生地越しに細い肩紐の線が気配だけ浮いていた。

 本人はまるで気づいていないらしい。


 俺は鞄を開けた。

 頭の上にかざしていたぶん外側はびしょ濡れだったが、奥に突っ込んでおいた汗拭きのタオルは、どうにか乾いたまま生き残っていた。


「三桜さん、これ使って——」


「待って!」


 俺がタオルを差し出すより早く、三桜さんが自分の鞄からタオルハンカチを引っぱり出した。

 手のひらに収まってしまいそうな、薄桃色の小さな一枚だ。

 三桜さんは鞄をシャッターの際に立てかけてハンカチを広げると、かかとを浮かせて、俺の頭へ手を伸ばしてきた。


「誠くんが先」


「いや、どう見ても三桜さんのほうが濡れてるだろ」


「誠くん、ずっと私のほうに鞄かざしてくれてたでしょ。だから頭は、誠くんのほうがびしょびしょなの」


「それにしても、そのハンカチ、俺の頭に対して小さすぎないか」


「小さいけど、がんばり屋さんなの」


 小さな布が俺の前髪をわしわしとかき回しはじめた。

 触れたそばから水を吸って、薄桃色がみるみる濃くなっていく。

 がんばり屋さんは、開始数秒にして早くも限界を迎えているように見えた。


 届かないぶんを背伸びで補うたびに、三桜さんの体がこちらへ寄ってくる。

 濡れたブラウスの胸もとが、俺のシャツに触れては離れ、離れてはまた触れた。

 顎の下から弾んだ息の熱が一定の間隔で吹きかかる。

 拭く手つきは真剣そのもので、眉間に小さなしわまで寄っていた。


 その顔を見下ろしているうちに、いつかの購買裏で聞いた声がよみがえってきた。

 ——自分じゃ止まれなくなったら、止めてくれる?


「……三桜さん。これは、止めたほうがいいやつか?」


 髪の上で小さな手がぴたりと止まった。

 見上げてくる目が少しだけ丸くなって、それからゆっくりとほどけていく。


「ううん。これは、止めなくていいやつ」


「見分けがつくのか」


「うん。頼まれたからしてるんじゃなくて、私がしたいからしてるの」


「……そうか。なら、大人しく拭かれとく」


「よろしい。……それでね、そのかわり」


 最後にもう一度、前髪の水気を丁寧に押さえてから、三桜さんはタオルハンカチを握ったまま俺を見上げた。


「次は、誠くんが私を拭いて。ちゃんと丁寧にだよ?」


 断る理由はどこを探しても見つからなかった。


「了解」


 俺は鞄を三桜さんの鞄の隣に下ろし、自分のタオルを広げて、三桜さんの頭にふわりとかぶせた。

 両手で包むようにして、濡れたボブを根もとから押さえていく。

 布越しに伝わってくる頭の形は驚くほど小さかった。

 耳の後ろ、こめかみ、うなじの生え際。

 タオルが通るたびに、三桜さんは目を閉じたまま、自分から頭をこちらの手のひらへ押しつけてくる。


 三桜さんの喉の奥から「ん」と小さな声が漏れた。


「さっきの猫より、三桜さんのほうがよっぽど懐っこいな」


「ほんと? 猫ちゃんに勝った?」


「あいつは俺に撫でさせてもくれないからな。圧勝だ」


「えへへ……猫ちゃんに勝っちゃった。じゃあ、誠くんが猫ちゃんを見てた十分、ぜんぶ私のね」


「時間の独占欲が強いな」


 タオルの下からくぐもった笑い声がこぼれた。

 手の中の小さな頭が、満足そうにもう一度ぐりぐりと押しつけられる。


 不意に風向きが変わった。

 横殴りになった雨粒が狭い庇の下まで斜めに吹き込んでくる。

 俺はタオルを三桜さんの頭に残したまま、とっさに半歩ずれて、風上の側に体を入れた。

 肩から脇腹にかけて、冷たい粒がばらばらと叩きつけられる。


「誠くん、そっちだと濡れちゃうよ」


「もうこれ以上濡れようがないから、同じだ」


 三桜さんは頭のタオルを肩へ落とすと、何か言いたげに唇をむずむずさせて、それから急にすっと背筋を伸ばした。

 両腕を胸の前で組む。

 顎をほんの少しだけ上げて、目を細める。

 どこかでものすごくよく見た角度だった。


「……合理的に考えて。くっついていたほうが、体温の損失が少ない……わ?」


「最後の『わ』に自信がなさすぎる」


「二葉ちゃんの真似だもん! 似てたでしょ?」


「腕の組み方だけは、かなり似てた」


 三桜さんは組んでいた腕をほどくと、今度は片手を腰に当てて、ぐいっと顔を寄せてきた。


「じゃあ、一花お姉ちゃん。……『誠ー、寒いっしょ? あたしであったまってけば?』」


 小首をかしげて上目遣いに見上げてくる仕草は、驚くほど一花さんに似ていた。

 締めくくりに、ぱちん、とウインク——を決めるつもりだったらしい。

 両目が同時にぎゅっとつむられた。


「今、両目ともつぶったぞ」


「ウインクは一花お姉ちゃんしかできないの! 三つ子なのに、そこだけ配られなかったの!」


「配られるものなのか、ウインクって」


 三桜さんは真剣な顔で、こくこくと頷いた。


「二葉さんも、配られなかったほうか?」


「二葉ちゃんは『片目だけ視界を遮断して、何の合理的な利点があるの』って、練習にも付き合ってくれないの!」


「言いそうだな、ものすごく」


 三桜さんは両手で顔を覆って、指の隙間から恨めしそうにこちらを睨んだ。

 顔を覆った手の横で、耳の先まですっかり赤い。


「……別に、二人の真似なんてしなくていいだろ」


「だって……」


「三桜さんは、三桜さんの言い方で言えばいい」


 指の隙間からのぞく目が、ぱちりと瞬いた。

 両手がゆっくりと顔から下りていく。

 三桜さんはしばらく、濡れて色の濃くなったローファーのつま先を見つめていた。


「……くっついてたいの」


 雨にかき消されそうなくらい、小さな声だった。


「寒いからとか、合理的だからとかじゃなくて。……誠くんに、くっついてたいだけ」


 言い終わるより先に、三桜さんは俺の左腕を両手で抱え込んでいた。

 濡れたブラウス越しに、二の腕がまるごと柔らかなふくらみの中へ沈み込む。

 水を吸って薄くなった布は、もうほとんど何も隔ててはくれなかった。

 押しつけられた丸みの形も、その奥でとくとくと急ぐ鼓動も、素肌とさして変わらない近さで伝わってくる。

 冷えきった布の向こうから、遅れて熱だけが追いついてきた。


 腕の芯までじんと痺れて、どこに力を入れればいいのかわからない。

 息の仕方を一瞬忘れた。


「……三桜さん。それは、ちょっとくっつきすぎじゃないか」


「くっついてたいって、言ったでしょ。言ったんだから、くっつくの」


「理屈が二葉さんに似てきたな」


「二葉ちゃんの真似じゃないよ。これは、私のやつ」


 三桜さんは俺の腕を抱えなおして、満足そうに肩口へ額をくっつけた。

 それからぽろりとこぼすように付け足す。


「それに、お姉ちゃんたちがいないのって、今日くらいかもしれないし……あっ」


「本音が漏れてるぞ」


「今の、聞こえなかったことにしてくれる?」


「ばっちり聞こえた」


「誠くんのいじわる……」


 抗議のつもりなのか、抱えられた腕がさらにぎゅうっと締めつけられた。

 逆効果だとは気づいていないらしい。


 どのくらいそうしていたのか。

 トタンを叩く音が少しずつ柔らかくなってきた。

 白い簾にもところどころ切れ目ができて、向こうの景色がうっすらと透けはじめている。


「小降りになってきたな。今のうちに走れば、駅まではなんとか——」


「ごめんね、今は無理なの」


 即答だった。

 俺の腕を抱く両手にぐっと力が入った。


「……それ、もしかして」


「うん。練習したやつ」


 三桜さんは肩口から少しだけ顔を上げて、得意そうに、けれど首筋までほんのり染めて笑った。


「誠くんで、使ってみた」


「俺で試すな」


「練習じゃないよ。……本番は、もうちゃんと言えたでしょ。あの日」


 あの日がいつのことか、聞き返すまでもなかった。

 柱の陰から見ていることしかできなかった、旧校舎の裏の放課後だ。


 三桜さんは俺の肩口に額を戻して、小さく続けた。


「走ったら、すぐ駅に着いちゃうでしょ。……だから、もうちょっとだけ、ここにいたいの」


 そう言われてしまうと、俺にはもう、走りだす理由がひとつも残っていなかった。


「……断られたな、俺」


「うん。誠くんのこと、初めて断っちゃった」


 三桜さんはくすぐったそうに肩をすくめて、抱えた腕にいっそう身を寄せてきた。


 それからしばらく、俺たちはほとんど何も話さなかった。

 雨は弱まったかと思えばまた強まって、トタン屋根を細かく叩き続けている。

 坂の下を車が一台、水を跳ね上げながらゆっくりと通り過ぎていった。

 左腕を抱える三桜さんの体温が、少しずつ俺のものと見分けがつかなくなっていく。

 ときどき彼女が小さく鼻をすする音がした。


「寒くないか?」


「誠くんの腕があるから、平気。……誠くんは?」


「左腕だけ、やけにあったかい」


「右は?」


「右は、まあ、普通に寒いな」


 三桜さんは考え込むように俺の右腕を見つめて、それから左腕を抱えた手を片方だけ、そろそろと浮かせかけた。

 途中で、両腕を同時に抱えるのは物理的に無理だと気づいたらしい。

 浮きかけた手は、しゅんとしぼむように元の場所へ戻っていった。


「……右は、明日にする」


「明日も雨が降る前提なのか」


「降らなくても、右は明日にするの」


 決定事項を読み上げるような口ぶりだった。


「晴れたらどうやってくっつく気なんだ?」


「晴れたら……日陰を探す」


「日陰でくっつく理由はないだろ」


「あるもん。紫外線対策!」


 やがて屋根を叩く音がまばらになった。

 庇の縁の簾がほどけて、一粒ずつの雫に変わっていく。

 三桜さんが俺の腕から片手だけを離して、庇の外へそっと差し出した。

 まだ降っているのか、確かめるみたいに。

 上に向けた手のひらへ、雫がぽつ、ぽつ、と落ちる。


 その横顔からふっと表情が抜け落ちた。

 手のひらの雫を見ているはずの目が、ここではないずっと遠く——光の届かない暗い底のほうを、じっと見つめているように見えた。

 ほんの一瞬だった。

 瞬きをひとつしたときには、もうそれはどこにもなかった。

 三桜さんは雫ごと手のひらを握りこんで、こちらを振り向いた。


「えいっ」


 俺の鼻先で握りこぶしがぱっと開いて、溜まっていた雫が頬に散った。


「冷たっ……何するんだ」


「お返し。さっき、私のこと猫ちゃんと比べたでしょ」


「褒めたつもりだったんだけどな」


「わかってるよ。わかってるけど、お返しなの」


 してやったりという顔で、三桜さんは濡れた手のひらを俺のシャツの袖でごしごしと拭いた。


「人の袖を雑巾にするな」


「雑巾じゃないよ、タオルがわり!」


「余計に悪化してる」


 雲の切れ間から、西日がまっすぐに差しこんできた。

 気づけば屋根を叩く音はすっかりやんでいた。

 濡れたアスファルトが一面に光を照り返して、坂道全体がまぶしい金色に揺れている。


 三桜さんが俺の腕をするりとほどいて、庇の外へ跳ねるように飛び出した。


「誠くん、晴れたよ!」


 水たまりを器用によけながら、三桜さんはくるりとこちらを振り返った。


「ほらね、日誌は嘘にならなかったでしょ。私のお日さま、ちゃんと勝ったよ」


「途中は、だいぶ負けてたけどな」


「最後に勝ったほうが、勝ちなの!」


 胸を張ってそう言い切ると、三桜さんは空を仰いだ。

 雲の裂け目から洗いたてのような青がのぞいている。

 濡れた毛先からこぼれた雫が、西日を受けてひとつ、ふたつと光りながら落ちていった。


 その横顔にふと何かが過った。

 唇の端にはさっきまでの得意げな笑みがまだ残っている。

 なのに目だけが、空のずっと高いところをまっすぐに見上げていた。

 嬉しいとも、寂しいとも違う。

 それが何なのか言い当てる言葉を、俺はまだ持っていなかった。

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