第111話 夕立の軒先、三桜の温度
月曜の放課後、校舎の裏をぐるりと回って購買の裏手まで来てみると、そこには相変わらず人の気配がなかった。
ブロック塀の上では茶トラの野良猫が、前足を舐めてはその足で丁寧に顔をこすっている。
しゃがんで指先を差し出してみたが、ひと嗅ぎされただけで、あいつはまたすぐ顔洗いに戻ってしまった。
俺には今日も撫でさせてくれないらしい。
金曜の夕方に駅前で喉へ引っかかったものは、週末を挟むうちにすっかり角が取れていた。
そのかわりこの数日、頭の隅に居座っているのは、もっと手前の話だった。
旧校舎の裏で、震えながらも最後まで折れなかった声を聞いた日から一週間。
三桜さんのそばにはいつも姉たちか誰かがいて、彼女はその輪の真ん中で、前と変わらない顔で笑っていた。
あれから二人きりで言葉を交わす機会は一度もない。
猫が顔を洗い終えるのを見届けてから——正確には、十分ほどかけて見届けてから、俺は校舎の表側へ戻った。
昇降口の前を通りかかったちょうどそのとき、中から小さな影が飛び出してくる。
「あっ、誠くん!」
短めのボブを跳ねさせて、三桜さんが駆け寄ってきた。
サイズのゆるい半袖ブラウスが走るたびに片側へずれて、襟ぐりから細い肩の線がのぞく。
本人はまるで気にする様子もなく、鞄を胸に抱えたまま俺の目の前でぴたりと止まった。
「まだいたんだ! みんな、誠くんはもう帰っちゃったって言ってたよ?」
「ちょっと購買の裏に寄ってたんだ」
「購買の裏って……猫ちゃん!? ずるい、ひとりで会いに行ってたの!?」
「三桜さんは日直だっただろ」
「日直より猫ちゃんだよぉ!」
握りこぶしを二つ作って力説する声に、昇降口から出てきた何人かが振り返った。
「それ、担任の前では絶対に言うなよ」
「言わないよ。職員室では『日直の職務を全うしてまいりました!』って、すっごく真面目な顔してきたんだから」
「その真面目な顔、想像がつかない」
三桜さんはぷくっと頬をふくらませてから、何かに思い当たった顔で、俺を下から覗き込んできた。
「……ねえ。猫ちゃん、何してた?」
「前足で顔を洗ってた。ずいぶん念入りに」
「誠くん、それ、どのくらい見てたの?」
「十分くらいかな」
三桜さんの目がきらりと細くなった。
「猫ちゃんの顔洗いを、十分も。……誠くん、それはもう、待ってたって言うんだよ」
「言わない。猫を見てただけだ」
「私ね、ちょうど十分くらい前から日誌の清書をしてたの。時間、ぴったりなんだから」
「偶然だろ」
そう返したものの、言い返す材料はどこにも見当たらなかった。
三桜さんは勝ち誇ったように胸を張って、俺の隣にぴょんと並ぶ。
「一花さんたちは?」
「先に帰ってもらったの。日誌、時間かかりそうだったから」
三桜さんは指を一本立てて、そのときの様子を再現してみせた。
「一花お姉ちゃんは『待ってるし!』ってごねてたんだけど、二葉ちゃんが『三桜の日誌は長いのよ。待っていたら日が暮れるわ』って、一花お姉ちゃんの襟首をつかんで引っぱってっちゃった」
「二葉さんの読み、正確だな」
「正確じゃないよ! ほら、まだこんなに明るいし!」
「暮れる手前まで書いてたってことだろ」
三桜さんは言葉に詰まって、鞄の持ち手をきゅっと握り直した。
「……あとね、心花ちゃんも終礼のあと教室まで来てたよ。誠くんがいないってわかったら、『センパイに逃げられました!』って、お姉ちゃんたちと一緒に校門を出てった」
「人聞きが悪いな。逃げてない、猫だ」
「じゃあ心花ちゃんに、誠くんは猫ちゃんを選んだって言っとくね」
「やめてくれ。明日の朝、絶対に面倒なことになる」
「えへへ。じゃあ、内緒にしといてあげる」
校門を出て、駅へ下る坂道に差しかかる。
西へ傾いた日差しはまだ強く、アスファルトからは昼間の熱がゆらゆらと立ちのぼっていた。
「それにしても、日誌ってそんなに書くところあったか? 一行ずつ埋めたら終わりだろ」
「あるよ! 今日の授業でしょ、欠席でしょ、連絡事項でしょ……それから、天気」
「天気なんて一文字で済むだろ」
「済まないの。晴れって書いたらね、横がすっごく空いてたから、お日さまの絵を描いたの」
「絵を描く欄はないはずだぞ」
「空いてたんだもん。でもね、一回目はお日さまが小さすぎてゴマみたいになっちゃって、二回目は光の線を描きすぎてウニになっちゃって」
三桜さんは宙に指で丸を描くと、その周りに線を何本も何本も足していった。
どう見てもウニだった。
それもかなり新鮮で威嚇してるやつだ。
「……三回目は?」
「三回目で、やっとお日さまになったの! 消しゴムをかけすぎて、そこだけ紙がちょっと薄くなっちゃったけど」
「日誌に穴が開く前にやめとけよ」
「でもね、裏から透かすと、お日さまだけ神々しく光るんだよ?」
「それ、ただの紙の限界だ」
日誌の一欄にそこまで手間をかけるあたりが、いかにも三桜さんらしい。
さっきの茶トラの念入りな顔洗いを、ふと思い出した。
「そういえば、猫が顔を洗うと雨が降るって言うよな」
「迷信だよ。だって私、日誌に晴れって書いたんだから。お日さまも三回描き直したんだよ?」
「日誌に天気を決める力はないだろ」
「先生のハンコももらったの。もう公式なんだよ」
「公式の使い方を間違えてる」
坂を半分ほど下りたところで、三桜さんが急にきょろきょろと前後を見回した。
同じ制服の姿は、ずっと前とずっと後ろにぽつぽつ見えるだけだ。
それを確かめると、三桜さんは俺のシャツの袖をちょいちょいと引いて、つま先立ちで顔を寄せてきた。
「……あのね。特訓の、続きのことなんだけど」
「誰も聞いてないぞ」
「だめ。壁に耳あり、だよ」
「坂道に壁はないだろ」
「ガードレールに耳あり!」
ガードレールを指さす手まで、内緒話の声量に合わせて小さく縮こまっている。
「ガードレールが誰にチクるんだよ」
「通りすがりのトラックに! 『あの子たち特訓するらしいよー』って運ばれちゃう!」
「どんな物流だ」
小声のまま言い張る三桜さんの吐息が、耳の縁をくすぐっていく。
内緒話のつもりらしいが、背伸びしたぶん重心がこちらへ傾いて、俺の二の腕には彼女の肩がまるごと預けられていた。
ずれた襟ぐりから出た素肌の肩が、汗ばんだ腕にしっとりと吸いつく。
「夏休みに入ったら、また付き合ってくれる?」
「約束しただろ。海までにって」
「うん。……あのね、五秒のこと、ときどき思い出すの。授業中とか」
「授業は聞いとけ」
「聞いてるよぉ! 聞いてるけど、ふっと浮かんでくるの。あのとき誠くん、ちゃんと隣にいてくれたなあって」
袖をつまむ指先にほんの少し力がこもった。
「次は十秒だな」
「いきなり倍!? スパルタすぎるよ。間をとって七秒にしよ?」
「五と十の間なら七秒半だろ。さらっと切り捨てるな」
「半分のところは、気持ちで浮くもん」
「気持ちで浮けたら誰も苦労しない」
そんなことを言い合っているうちに、足もとの影がすうっと薄くなった。
見上げると、いつの間にか校舎の向こうから湧き上がった入道雲が、頭の真上まで張り出してきている。
白く輝いていた縁は鉛色に濁り、さっきまでの西日が嘘のように、坂道全体がひと息に暗くなった。
足もとから生ぬるい風が吹き上がってくる。
「……誠くん。空、なんか急に機嫌悪くない?」
「猫の勝ちかもしれないな」
「やだ、私のお日さま……!」
言い終わるより先に、乾いたアスファルトに黒い染みがひとつ、ふたつと落ちた。
焼けた路面が濡れるときの埃っぽい匂いが、むわりと立ちのぼる。
次の瞬間にはもう、数えるのが馬鹿らしくなるほどの粒が、坂道一面を叩きはじめていた。
「三桜さん、傘は?」
「朝、玄関で持ったの! 持ったんだけど、靴を履くときに下駄箱の上に置いて、そのまま……!」
「俺もない。走るぞ」
俺は鞄を頭の上に掲げ、その半分を三桜さんの頭上へずらした。
三桜さんが片手で俺のシャツの脇腹をぎゅっとつかむ。
ふたりぶんの靴音は、たちまち水を蹴散らす音に変わった。
駅前のアーケードまでは、まだずいぶんある。
とても保ちそうになかった。
雨の幕の向こうに、錆の浮いたシャッターを下ろした古い倉庫が見えた。
入り口の上には申し訳程度の庇が突き出している。
「あそこだ!」
「う、うんっ……わ、わわっ」
庇の下へ飛び込む最後の一歩で、三桜さんのローファーが濡れたコンクリートの段差を滑った。
前のめりに傾いた体を、とっさに正面から受け止める。
勢いのまま、小さな体がまるごと俺の胸に飛び込んできた。
雨に冷えたブラウス越しに、その奥の体温がじわりと滲んでくる。
みぞおちのあたりで柔らかなふくらみが濡れた布ごとたわんで、ふたりのあいだの隙間をすっかり埋めていた。
「……っ、ご、ごめんね!」
慌てて飛びのいた三桜さんの肩が、俺のすぐ隣のシャッターにぶつかった。
がしゃん、と派手な音が響く。
「わっ……倉庫さん、ごめんなさい!」
「シャッターにまで謝るのか」
「だって今の、すっごく痛そうだったんだよ……」
「痛そうなのは三桜さんの肩のほうだろ。大丈夫か?」
「うん、肩は平気」
庇の奥行きは大人の肩幅ひとつぶんしかなかった。
離れようにも、離れる先がない。
結局、俺たちはシャッターに背中を並べ、肩と肩をくっつけて立つことになった。
庇の縁から落ちる雨が、靴の先のすぐ向こうで白い簾になっている。
坂道を流れ下る水は、側溝へ向かっていくつもの細い筋を作っていた。
頭の上ではトタン屋根がひっきりなしに鳴り続けている。
隣を見ると、三桜さんは鞄を抱えたまま、ふるっと小さく身震いした。
濡れたボブの毛先が頬に貼りつき、そこを伝った雫が顎の先で揺れている。
ブラウスは肩から二の腕にかけてぴたりと肌に張りつき、ずれた襟ぐりの下では、薄くなった生地越しに細い肩紐の線が気配だけ浮いていた。
本人はまるで気づいていないらしい。
俺は鞄を開けた。
頭の上にかざしていたぶん外側はびしょ濡れだったが、奥に突っ込んでおいた汗拭きのタオルは、どうにか乾いたまま生き残っていた。
「三桜さん、これ使って——」
「待って!」
俺がタオルを差し出すより早く、三桜さんが自分の鞄からタオルハンカチを引っぱり出した。
手のひらに収まってしまいそうな、薄桃色の小さな一枚だ。
三桜さんは鞄をシャッターの際に立てかけてハンカチを広げると、かかとを浮かせて、俺の頭へ手を伸ばしてきた。
「誠くんが先」
「いや、どう見ても三桜さんのほうが濡れてるだろ」
「誠くん、ずっと私のほうに鞄かざしてくれてたでしょ。だから頭は、誠くんのほうがびしょびしょなの」
「それにしても、そのハンカチ、俺の頭に対して小さすぎないか」
「小さいけど、がんばり屋さんなの」
小さな布が俺の前髪をわしわしとかき回しはじめた。
触れたそばから水を吸って、薄桃色がみるみる濃くなっていく。
がんばり屋さんは、開始数秒にして早くも限界を迎えているように見えた。
届かないぶんを背伸びで補うたびに、三桜さんの体がこちらへ寄ってくる。
濡れたブラウスの胸もとが、俺のシャツに触れては離れ、離れてはまた触れた。
顎の下から弾んだ息の熱が一定の間隔で吹きかかる。
拭く手つきは真剣そのもので、眉間に小さなしわまで寄っていた。
その顔を見下ろしているうちに、いつかの購買裏で聞いた声がよみがえってきた。
——自分じゃ止まれなくなったら、止めてくれる?
「……三桜さん。これは、止めたほうがいいやつか?」
髪の上で小さな手がぴたりと止まった。
見上げてくる目が少しだけ丸くなって、それからゆっくりとほどけていく。
「ううん。これは、止めなくていいやつ」
「見分けがつくのか」
「うん。頼まれたからしてるんじゃなくて、私がしたいからしてるの」
「……そうか。なら、大人しく拭かれとく」
「よろしい。……それでね、そのかわり」
最後にもう一度、前髪の水気を丁寧に押さえてから、三桜さんはタオルハンカチを握ったまま俺を見上げた。
「次は、誠くんが私を拭いて。ちゃんと丁寧にだよ?」
断る理由はどこを探しても見つからなかった。
「了解」
俺は鞄を三桜さんの鞄の隣に下ろし、自分のタオルを広げて、三桜さんの頭にふわりとかぶせた。
両手で包むようにして、濡れたボブを根もとから押さえていく。
布越しに伝わってくる頭の形は驚くほど小さかった。
耳の後ろ、こめかみ、うなじの生え際。
タオルが通るたびに、三桜さんは目を閉じたまま、自分から頭をこちらの手のひらへ押しつけてくる。
三桜さんの喉の奥から「ん」と小さな声が漏れた。
「さっきの猫より、三桜さんのほうがよっぽど懐っこいな」
「ほんと? 猫ちゃんに勝った?」
「あいつは俺に撫でさせてもくれないからな。圧勝だ」
「えへへ……猫ちゃんに勝っちゃった。じゃあ、誠くんが猫ちゃんを見てた十分、ぜんぶ私のね」
「時間の独占欲が強いな」
タオルの下からくぐもった笑い声がこぼれた。
手の中の小さな頭が、満足そうにもう一度ぐりぐりと押しつけられる。
不意に風向きが変わった。
横殴りになった雨粒が狭い庇の下まで斜めに吹き込んでくる。
俺はタオルを三桜さんの頭に残したまま、とっさに半歩ずれて、風上の側に体を入れた。
肩から脇腹にかけて、冷たい粒がばらばらと叩きつけられる。
「誠くん、そっちだと濡れちゃうよ」
「もうこれ以上濡れようがないから、同じだ」
三桜さんは頭のタオルを肩へ落とすと、何か言いたげに唇をむずむずさせて、それから急にすっと背筋を伸ばした。
両腕を胸の前で組む。
顎をほんの少しだけ上げて、目を細める。
どこかでものすごくよく見た角度だった。
「……合理的に考えて。くっついていたほうが、体温の損失が少ない……わ?」
「最後の『わ』に自信がなさすぎる」
「二葉ちゃんの真似だもん! 似てたでしょ?」
「腕の組み方だけは、かなり似てた」
三桜さんは組んでいた腕をほどくと、今度は片手を腰に当てて、ぐいっと顔を寄せてきた。
「じゃあ、一花お姉ちゃん。……『誠ー、寒いっしょ? あたしであったまってけば?』」
小首をかしげて上目遣いに見上げてくる仕草は、驚くほど一花さんに似ていた。
締めくくりに、ぱちん、とウインク——を決めるつもりだったらしい。
両目が同時にぎゅっとつむられた。
「今、両目ともつぶったぞ」
「ウインクは一花お姉ちゃんしかできないの! 三つ子なのに、そこだけ配られなかったの!」
「配られるものなのか、ウインクって」
三桜さんは真剣な顔で、こくこくと頷いた。
「二葉さんも、配られなかったほうか?」
「二葉ちゃんは『片目だけ視界を遮断して、何の合理的な利点があるの』って、練習にも付き合ってくれないの!」
「言いそうだな、ものすごく」
三桜さんは両手で顔を覆って、指の隙間から恨めしそうにこちらを睨んだ。
顔を覆った手の横で、耳の先まですっかり赤い。
「……別に、二人の真似なんてしなくていいだろ」
「だって……」
「三桜さんは、三桜さんの言い方で言えばいい」
指の隙間からのぞく目が、ぱちりと瞬いた。
両手がゆっくりと顔から下りていく。
三桜さんはしばらく、濡れて色の濃くなったローファーのつま先を見つめていた。
「……くっついてたいの」
雨にかき消されそうなくらい、小さな声だった。
「寒いからとか、合理的だからとかじゃなくて。……誠くんに、くっついてたいだけ」
言い終わるより先に、三桜さんは俺の左腕を両手で抱え込んでいた。
濡れたブラウス越しに、二の腕がまるごと柔らかなふくらみの中へ沈み込む。
水を吸って薄くなった布は、もうほとんど何も隔ててはくれなかった。
押しつけられた丸みの形も、その奥でとくとくと急ぐ鼓動も、素肌とさして変わらない近さで伝わってくる。
冷えきった布の向こうから、遅れて熱だけが追いついてきた。
腕の芯までじんと痺れて、どこに力を入れればいいのかわからない。
息の仕方を一瞬忘れた。
「……三桜さん。それは、ちょっとくっつきすぎじゃないか」
「くっついてたいって、言ったでしょ。言ったんだから、くっつくの」
「理屈が二葉さんに似てきたな」
「二葉ちゃんの真似じゃないよ。これは、私のやつ」
三桜さんは俺の腕を抱えなおして、満足そうに肩口へ額をくっつけた。
それからぽろりとこぼすように付け足す。
「それに、お姉ちゃんたちがいないのって、今日くらいかもしれないし……あっ」
「本音が漏れてるぞ」
「今の、聞こえなかったことにしてくれる?」
「ばっちり聞こえた」
「誠くんのいじわる……」
抗議のつもりなのか、抱えられた腕がさらにぎゅうっと締めつけられた。
逆効果だとは気づいていないらしい。
どのくらいそうしていたのか。
トタンを叩く音が少しずつ柔らかくなってきた。
白い簾にもところどころ切れ目ができて、向こうの景色がうっすらと透けはじめている。
「小降りになってきたな。今のうちに走れば、駅まではなんとか——」
「ごめんね、今は無理なの」
即答だった。
俺の腕を抱く両手にぐっと力が入った。
「……それ、もしかして」
「うん。練習したやつ」
三桜さんは肩口から少しだけ顔を上げて、得意そうに、けれど首筋までほんのり染めて笑った。
「誠くんで、使ってみた」
「俺で試すな」
「練習じゃないよ。……本番は、もうちゃんと言えたでしょ。あの日」
あの日がいつのことか、聞き返すまでもなかった。
柱の陰から見ていることしかできなかった、旧校舎の裏の放課後だ。
三桜さんは俺の肩口に額を戻して、小さく続けた。
「走ったら、すぐ駅に着いちゃうでしょ。……だから、もうちょっとだけ、ここにいたいの」
そう言われてしまうと、俺にはもう、走りだす理由がひとつも残っていなかった。
「……断られたな、俺」
「うん。誠くんのこと、初めて断っちゃった」
三桜さんはくすぐったそうに肩をすくめて、抱えた腕にいっそう身を寄せてきた。
それからしばらく、俺たちはほとんど何も話さなかった。
雨は弱まったかと思えばまた強まって、トタン屋根を細かく叩き続けている。
坂の下を車が一台、水を跳ね上げながらゆっくりと通り過ぎていった。
左腕を抱える三桜さんの体温が、少しずつ俺のものと見分けがつかなくなっていく。
ときどき彼女が小さく鼻をすする音がした。
「寒くないか?」
「誠くんの腕があるから、平気。……誠くんは?」
「左腕だけ、やけにあったかい」
「右は?」
「右は、まあ、普通に寒いな」
三桜さんは考え込むように俺の右腕を見つめて、それから左腕を抱えた手を片方だけ、そろそろと浮かせかけた。
途中で、両腕を同時に抱えるのは物理的に無理だと気づいたらしい。
浮きかけた手は、しゅんとしぼむように元の場所へ戻っていった。
「……右は、明日にする」
「明日も雨が降る前提なのか」
「降らなくても、右は明日にするの」
決定事項を読み上げるような口ぶりだった。
「晴れたらどうやってくっつく気なんだ?」
「晴れたら……日陰を探す」
「日陰でくっつく理由はないだろ」
「あるもん。紫外線対策!」
やがて屋根を叩く音がまばらになった。
庇の縁の簾がほどけて、一粒ずつの雫に変わっていく。
三桜さんが俺の腕から片手だけを離して、庇の外へそっと差し出した。
まだ降っているのか、確かめるみたいに。
上に向けた手のひらへ、雫がぽつ、ぽつ、と落ちる。
その横顔からふっと表情が抜け落ちた。
手のひらの雫を見ているはずの目が、ここではないずっと遠く——光の届かない暗い底のほうを、じっと見つめているように見えた。
ほんの一瞬だった。
瞬きをひとつしたときには、もうそれはどこにもなかった。
三桜さんは雫ごと手のひらを握りこんで、こちらを振り向いた。
「えいっ」
俺の鼻先で握りこぶしがぱっと開いて、溜まっていた雫が頬に散った。
「冷たっ……何するんだ」
「お返し。さっき、私のこと猫ちゃんと比べたでしょ」
「褒めたつもりだったんだけどな」
「わかってるよ。わかってるけど、お返しなの」
してやったりという顔で、三桜さんは濡れた手のひらを俺のシャツの袖でごしごしと拭いた。
「人の袖を雑巾にするな」
「雑巾じゃないよ、タオルがわり!」
「余計に悪化してる」
雲の切れ間から、西日がまっすぐに差しこんできた。
気づけば屋根を叩く音はすっかりやんでいた。
濡れたアスファルトが一面に光を照り返して、坂道全体がまぶしい金色に揺れている。
三桜さんが俺の腕をするりとほどいて、庇の外へ跳ねるように飛び出した。
「誠くん、晴れたよ!」
水たまりを器用によけながら、三桜さんはくるりとこちらを振り返った。
「ほらね、日誌は嘘にならなかったでしょ。私のお日さま、ちゃんと勝ったよ」
「途中は、だいぶ負けてたけどな」
「最後に勝ったほうが、勝ちなの!」
胸を張ってそう言い切ると、三桜さんは空を仰いだ。
雲の裂け目から洗いたてのような青がのぞいている。
濡れた毛先からこぼれた雫が、西日を受けてひとつ、ふたつと光りながら落ちていった。
その横顔にふと何かが過った。
唇の端にはさっきまでの得意げな笑みがまだ残っている。
なのに目だけが、空のずっと高いところをまっすぐに見上げていた。
嬉しいとも、寂しいとも違う。
それが何なのか言い当てる言葉を、俺はまだ持っていなかった。




