↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第4章 夏を待つ五人と、還ってきたルナ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
112/116

第112話 終業式の空と、校門の外の影

体育館に詰め込まれていた全校生徒の熱気が、廊下を伝ってそのまま教室まで流れ込んできたようだった。

 担任の話が終わり、日直が号令を言い終わるより早く、あちこちで椅子の脚が床を擦る。

 通知表を鞄の底へ押し込む音と、明日からの予定を言い合う声が、窓の外の蝉の声と混ざって膨らんでいく。

 夏休みはもう教室の戸口まで来ていた。


 俺は空にした机の中をもう一度だけ覗いてから、教室の前のほうへ目をやった。

 三桜さんの隣の席では地層の発掘が始まっていた。


「うおっ、なんだこれ。四月の時間割じゃん」


 立花が机の奥から引きずり出したのは、角が丸まって半分透けた紙の束だった。

 その下から学年だより、さらにその下から小テストの答案、いちばん底からは片方だけの靴下が出てくる。

 ひとつ出てくるたびに、周りの席から悲鳴と笑い声が上がった。


「立花くん、それ一学期のあいだ、ずっと入ってたの?」


 隣で筆箱を鞄にしまいかけていた三桜さんが、手を止めて覗き込んだ。


「入ってたっていうか、住んでたな。家賃も払わずに」


「靴下も住んでたの?」


「靴下は知らねえ。誰のだこれ」


「立花くんの机から出てきたんだから、立花くんのだと思うよ?」


 三桜さんがあまりにまっすぐ首をかしげるので、立花は靴下をつまんだまま反論を探して、見つけられずに黙りこんだ。


「……立花くん、まだ奥に誰か住んでる気配がするよ」


「頼むからこれ以上、住人を増やさないでくれ」


 三桜さんが机の奥を本気で心配そうに覗き込むので、周りの席からまた笑い声が上がった。


 俺は鞄を肩にかけて、その発掘現場まで歩いていった。


「引っ越しの手伝いがいるか?」


「相沢、いいとこに来た。これ全部入る袋、持ってねえ?」


「全部はたぶん、どんな袋でも無理だぞ」


 立花の足もとでは、茶色い紙袋が早くも横腹から裂けかけていた。

 机の縁から一枚のプリントが滑り落ちて、三桜さんの上履きの先で止まる。

 三桜さんはそれを拾い上げて、いちばん上の見出しを読んだ。


「『新学期の目標を書こう』……立花くん、ここ真っ白だよ」


「書いてねえからな。お、サンキュ、三桜ちゃん」


 受け取ったプリントを、立花はそのまま裂けかけの紙袋へ突っ込んだ。

 三桜さんは「どういたしまして」と笑って、筆箱をしまう作業に戻っていく。

 ほんの一往復の、どこの教室にでもあるようなやり取りだった。


 そのやり取りを、すぐ後ろで聞き逃さなかった耳があった。

 背中にどさりと重みが乗る。

 一花さんが俺の両肩に手を置いて、肩越しにひょいと顎を突き出していた。

 肩甲骨のあたりに、ブラウス越しの丸みが遠慮なく押しつけられる。

 ——近い。


「タチバナくーん。今、さらっと三桜のこと名前で呼んだよね?」


「え、だめだった?」


 立花の目が一瞬だけ三桜さんのほうへ飛んだ。

 声の大きさはいつも通りなのに、その目の動きだけが妙に速かった。


「え、なにが?」


 当の三桜さんは、鞄の口を閉めながらきょとんと顔を上げた。


「名前だよ、名前。三桜ちゃんって呼ばれてたじゃん、今」


「うん。だって私、三桜だもん」


「そういうことじゃないんだって……」


 一花さんのため息が、俺の耳の裏にまともにかかった。

 三桜さんは本当に何の話かわからないという顔で、姉と立花と俺を順番に見比べている。

 立花の肩から目に見えない力がひとつ抜けたのがわかった。


「いや、だってさ。綾瀬さんって呼ぶと、三人いっぺんに振り向くんだよ。見てろよ」


 立花は咳払いをひとつして、教室の前のほうへ向き直った。


「綾瀬さん」


 俺の肩の上で一花さんが「なーに?」と小首をかしげ、片目をぱちりとつむった。

 二列うしろ、俺の席の隣で鞄の留め具を留めていた二葉さんは、顔を動かさず、視線だけをすっとこちらへ滑らせた。

 三桜さんにいたっては椅子ごと体をくるりと回して、「はーい!」と手まで挙げている。


「な?」


「完全に点呼だったな、今の」


「三桜、手を下ろしなさい。ここは教室よ」


「えっ、でも立花くんが呼んだから……」


「だろ? だから三桜ちゃんは三桜ちゃん。じゃないと俺が呼ぶたびに綾瀬家が総立ちで、授業が止まる」


「止まらないわ」


 二葉さんは留め具から目も上げずに言った。


「じゃあ、あたしは?」


 一花さんが俺の肩から、さらに身を乗り出した。

 そのぶん背中に預けられる重みが増して、薄いブラウス越しに体温までがじわりと移ってくる。

 背骨の一本一本で、一花さんの呼吸が数えられそうだった。


「綾瀬の……姉さん?」


「姉さんって。急に舎弟ができた気分なんだけど」


「……嫌か?」


「ううん、気に入った。じゃあ舎弟のタチバナくん、焼きそばパン買ってきて」


「初手からパシリかよ!」


 一花さんがけらけら笑うたびに、その振動が背中越しに伝わってきた。


「で、二葉は?」


 一花さんの問いに、立花の視線がゆっくりと二葉さんのほうへ動いた。

 鞄を閉め終えた二葉さんが、背筋をすっと伸ばして立花を見返す。

 ただ見ているだけなのに、教室の前のほうだけ気温が一段下がった気がした。


「……次女さん、で」


「生まれた順で呼ばれたのは初めてね」


「いや、名前で呼んだら凍らされそうでさ」


「賢明だわ」


 そこで二葉さんは、ほんのわずかに首をかしげた。


「でも、その理屈なら私も姉よ。三桜から見れば」


「あ、そっか。じゃあ次女さんも姉さんで」


「それだと呼んだら二人振り向くじゃん」


 俺の肩の上から、一花さんがすかさず刺した。

 立花は天井を仰いで、空いた手で頭を抱えた。


「振り向き問題、戻ってきちゃったよ……」


「次女でいいわ。紛らわしいよりは、そのほうがまだ合理的よ」


 二葉さんはあっさり引き下がって、何事もなかったように鞄を肩にかけた。

 自分で出した反論を自分で畳んだだけなのに、なぜか立花のほうが一本取られた顔をしている。


「よし、決まりな。綾瀬姉さん、次女さん、三桜ちゃん。……あ、じゃあついでにさ、相沢も、もう誠でよくね?」


 教室の前のほうだけ、空気が一瞬で固まった。


「だめ」


 俺の耳のすぐ横で、一花さんの声から笑いが抜けていた。


「却下よ」


 二葉さんはこちらを見もしなかった。


「えっ、だめだよ。誠くんって呼ぶのは私なのに……!」


「くんは付けねえって!」


 立花が慌てて両手を振る。


「呼び捨てでもだめ! 誠くんは誠くんなんだから!」


 三桜さんは椅子から身を乗り出して、両手で鞄を抱きしめたまま頬を膨らませた。

 一花さんは俺の肩に顎を乗せ直して、さっきまでの軽い声に戻っていた。


「誠ってさ、呼ぶ人が増えると、なんか薄まる気がするんだよね」


「名前は減るもんじゃないだろ」


「減るわ。呼ぶ人の数で割られるもの」


 今度はまっすぐこちらを見た二葉さんの目は、冗談を言っている人間の目ではなかった。


「……相沢で。相沢でいくわ。綾瀬家、怖えよ」


「俺の名前の話なのに、俺の意見は一回も聞かれなかったな」


「よし、帰るか!」


 立花が勢いよく紙袋を持ち上げた。

 横腹の裂け目が、待っていましたとばかりに底まで走る。

 時間割と学年だよりと小テストの束が雪崩になって床へ落ちかけ——帰り支度を終えてこちらへ来ていた二葉さんが、とっさに両腕で受け止めた。


 抱え込まれた紙束が、二葉さんの胸もとへぎゅっと押し当てられる。

 ふだんの隙のない制服姿からは想像のつかない丸みが、白いブラウスの生地を内側から張りつめさせている。


「……立花くん」


「は、はい」


「自分の地層くらい、自分で持ちなさい」


 二葉さんは紙束を立花の胸へ押し返すと、ブラウスについた紙の粉を指先で二度払った。

 床には片方だけの靴下がぽつんと取り残されている。

 二葉さんはそれを、爪の先でつまめるぎりぎりの面積だけつまんで、紙束のてっぺんへ載せた。


「これもよ」


「いや、それは俺のじゃない可能性も——」


「立花くんのだと思うよ?」


 三桜さんがさっきとまったく同じ角度で首をかしげた。


「センパーイ!」


 教室の後ろの戸が勢いよく開いた。

 ネクタイをゆるく結んだ小さな影が、戸口で大きく手を振っている。

 走ってきたらしく、ショートヘアの毛先が額に張りついていた。


「一学期最後のお迎えに来ましたよ! 一年のホームルーム、びっくりするくらい早く終わったので、最速で来ちゃいました!」


 心花は俺を見つけるなり、まっすぐこちらへ駆けてきた。

 そして三歩手前でぴたりと止まった。

 笑顔はそのままだった。

 ただ、目だけが紙束を抱えた立花のところで動かなくなっていた。


「お、一年? 相沢の後輩?」


 立花が紙束を抱えたまま、ぐいっと身を乗り出した。


「俺、立花。こいつと同じクラスで——」


 心花の足が半歩さがった。

 振っていた手が、いつの間にか鞄の持ち手を胸の前で握り直している。

 それから心花は、何でもない顔をして俺の腕のうしろへするりと回り込んだ。

 立花の言葉はそこで途切れた。


「……あー、わり。声デカいってよく言われんだ、俺」


 乗り出していた体を引っ込めて、立花は自分から一歩さがった。

 それから紙束のてっぺんを片手で探って、何かをつまみ上げる。


「お詫び。机の奥から出てきた飴。たぶん四月の」


「四月の飴をお詫びに出さないで」


 二葉さんの声には一片の慈悲もなかった。

 俺の腕のうしろから、心花がそろりと顔だけをのぞかせる。


「あの、ありがとうございます。でも、センパイの前でおなか壊したら一生の恥なので、気持ちだけいただいときますね」


「だよな。俺も食わねえもん、これ」


「自分で食べないものを人にあげないの、タチバナくん」


 一花さんがようやく俺の背中から体を離した。

 そのまま心花の横に回って、小さな肩をぽんと抱く。


「この子、篠崎ちゃん。誠の後輩で、まあ、あたしたちのライバルってとこ?」


「ライバル? 何の?」


「知らなくていいことよ」


 二葉さんが、鞄を肩にかけ直しながらぴしゃりと閉じた。


「……綾瀬家、やっぱ怖えよ」


 心花は一花さんの腕の中で「ライバル……!」と嬉しそうに目を輝かせたあと、立花と視線がぶつかるなり、あわてて俺の隣へ戻ってきた。

 半袖の袖口を、指先がちょんとつまむ。

 隠れたつもりなのだろうが、小柄な体はそのぶん、俺の腕に隙間なく寄り添っていた。

 ゆるめのブラウス越しに、見た目を裏切る重みが腕の裏側へやわらかく預けられる。


「センパイの隣、今日は混んでますね」


 小さな声だった。

 いつもの心花なら、混んでいようが空いていようが、肘で場所をこじ開けてくるところだ。


 結局、立花も紙束を抱えたままついてきて、六人そろって階段を下りた。

 昇降口を出たとたん、昼前の日差しが真上から降ってきた。

 校庭の砂が白く照り返して、まともに目を開けていられない。


「溶ける……!」


 右腕に一花さんがぶら下がってきた。

 第一ボタンを外したブラウスの襟を、空いた手でぱたぱたとあおいでいる。

 あおぐたびに襟の合わせ目が浮いて、汗ばんだ首筋から鎖骨、その先の影までがちらちらと覗いた。


「誠、こっちもあおいでよ。ほら、ここ」


 一花さんは俺の腕を引き寄せて、わざわざ襟の開いたところを見せつけるように胸を反らした。

 反らしたぶん、ネクタイの先が持ち上がった丸みの上で浮いて揺れる。


「自分であおげ」


「あ、今ちょっと見たっしょ」


「見せてきたのはそっちだろ」


「見せてきたのに見ないのは、それはそれで失礼じゃない?」


 反論の言葉を探しているうちに、今度は左の袖口がくいっと引かれた。

 二葉さんは俺の半袖の端を二本の指でつまんでいた。


「……二葉さん、それは?」


「目印よ」


 俺の体越しに、一花さんが首を伸ばした。


「校門まで一本道だよ? どこで見失うのさ」


「一本道でも、見失うときは見失うの」


 言い切った二葉さんの耳の先が、日差しのせいにしては赤かった。

 そのくせ、袖をつまむ指の力は少しも緩まない。


 両腕をふさがれた俺の背中で、シャツの裾がつんと引かれた。

 肩越しに振り返ると、心花が俺の真後ろに張りつくようにして歩いている。

 少し前を歩く立花と心花のあいだに、ちょうど俺の体が挟まる位置だった。


「心花、そこ歩きにくくないか?」


「平気です! ここ、センパイの足音がいちばんよく聞こえる席なので」


 にこっと笑った心花の声は、教室にいたときより半音だけ明るさを取り戻していた。

 それでも、裾をつまむ指は離れない。


 少し前を三桜さんと立花が並んで歩いていた。

 立花の抱えた紙束のてっぺんで、例の靴下が旗みたいにひらひら揺れている。


「立花くん、夏休みの宿題のプリントはちゃんとあるの?」


「……ある。たぶん。この地層のどっかに」


「どっかじゃだめだよ! 八月の終わりに泣いても知らないからね」


「三桜ちゃんに言われると、なんか本気で不安になってくんだけど」


 三桜さんは得意げに胸を張った。


「三桜。人の心配をする前に、自分の数学の課題を気にしなさい」


 俺の袖をつまんだ二葉さんが、前を向いたまま淡々と言い放った。


「うっ……二葉ちゃん、今それ言わなくてもいいじゃん!」


「なんだ、三桜ちゃんも人のこと言えねえじゃん」


「立花くんよりは絶対に進んでるもん!」


 振り返ってぷくっと頬を膨らませる三桜さんに、二葉さんは「まだ一頁も開いていないはずよ」と容赦なく追撃した。

 ついこのあいだまで三桜さんを口説き倒していた男と、その三桜さんだ。

 それが今は、宿題の進み具合で張り合う、ただの隣の席同士に戻っていた。


 校門の脇の掲示板には、色の濃いポスターが一枚増えていた。

 提灯の明かりが並ぶ絵の上に、太い筆文字で夏祭りの三文字が躍っている。

 俺の腕を抱えたまま、一花さんがいきなり急ブレーキをかけた。

 真後ろで心花が、俺の背中にこつんと額をぶつけた。


「誠、夏祭り行こ。浴衣で!」


「急に止まるな、肩が抜ける。……浴衣は決まりなのか」


「決まり。夏祭りに浴衣なしなんて、誕生日にケーキが出てこないのと同じだから」


 前を歩いていた三桜さんが、くるりと振り返った。

 さっきまでの得意げな顔が、みるみるしぼんでいく。


「……私、浴衣持ってない」


「あたしも持ってないよ。だから今度、一緒に見に行こ、三桜」


「行く!」


 しぼんでいた顔が、一秒もかからずに満開に戻った。


「二葉は……あ、あんたはタンスの奥に紺のがあるんだっけ?」


「あるわ。手入れもしてある」


 二葉さんは、問いが終わりきる前に答えた。


「手入れって。……で、今年は誰に見せるつもりなわけ?」


「虫干しの予定があっただけよ」


「虫干しのついでに夏祭り行く人、初めて見たんだけど」


 二葉さんの指先が、左の袖口をきゅっとつまみ直した。


「二葉ちゃんの紺、絶対似合うよ! 背が高いから、すとんってきれいに落ちるもん」


「紺の浴衣の次女さんって、なんか強そうだな」


「褒め言葉として受け取っておくわ、立花くん」


「っと、俺こっちだから」


 立花は校門を出たところで立ち止まり、塀沿いの道を顎でしゃくった。


「じゃあな。綾瀬姉さん、次女さん、三桜ちゃん」


 名前を順番に呼んでから、立花は少しだけ間を置いて、俺の後ろへ小さく片手を上げた。

 距離は一歩も詰めなかった。

 背中越しに心花がぺこりと頭を下げる気配がした。


「あ、相沢」


「ん?」


「海とか行くなら俺も誘えよ」


 紙束を抱え直しながら、立花は何でもないことのように言った。

 正面と右隣から、三桜さんの「海……」と一花さんの「海ねえ」が、ほとんど同時に小さく転がった。


「ああ。行くときは、ちゃんと声かける」


「約束な!」


 立花は紙束を片腕に寄せて、空いた手で俺の肩をばしんと叩いた。

 そのまま身を乗り出して、俺の顔のすぐ横で声をあげて笑う。

 屋上で叩かれたときより、ずっと軽くて遠慮のない手のひらだった。


 背中のシャツを握る指に、小さく力がこもった。

 肩越しに振り返ると、心花は俺の背中から半分だけ顔を出して、俺の肩のすぐ向こうで笑っている立花の顔を、まばたきもせずに見上げていた。


「じゃ、またな!」


 立花は紙束のてっぺんで靴下の旗をなびかせながら、塀沿いの道を遠ざかっていった。

 その背中が道の先で小さくなると、シャツの裾をつまんでいた指がふっとほどけた。


「心花ちゃん、行こ! 坂の途中の自販機ね、新しい味が出てたの」


「えっ、本当ですか三桜先輩! 何味です? しょっぱい系ですか、甘い系ですか?」


「えっとね、塩レモンサイダー味の麦茶!」


「うわ、すっごく冒険したやつですね! センパイの分も買っときましょう!」


「賛成!」


 飲まされる側の意見は、ここでもまったく聞かれなかった。


 三桜さんに手を引かれて、心花は小走りに前へ出ていった。

 さっきまで俺の背中に隠れていたのが嘘みたいに、ショートヘアが日差しの中で弾んでいる。


 右腕には一花さん、左の袖口には二葉さん。

 両側から引かれる重さを抱えたまま、俺は駅へ続く坂道を下りはじめた。

 坂の下のほうでは、陽炎が夏休みの入り口みたいに揺れていた。


  ◇


 塀沿いの道は校門前の賑やかさが嘘みたいに静かだった。

 立花陽斗は抱えた紙束を顎で押さえながら、塀の落とす細い影を選んで歩いていた。


 頭の中では、さっき決めたばかりの呼び名を順番に転がしている。

 綾瀬姉さん。

 次女さん。

 三桜ちゃん。

 相沢は、相沢。


 誠でよくね、と言った瞬間の三人の顔を思い出して、立花は今さら首の後ろが寒くなった。

 あれは呼び方の相談ではなかった。

 縄張りの確認だった。

 それでも、悪くない終業式だったと思う。

 相沢の隣で笑っても、もう誰も変な顔をしなかった。


 学校の敷地の角まで来たところで、立花は足を止めた。

 電柱の陰に白いレースの日傘が咲いていた。


 日傘の持ち主は、電柱にほとんど体をくっつけるようにして、校門のほうを覗き込んでいる。

 ゆるく波打った長い髪が、背中の半ばまで流れていた。

 深い紺色のブレザーを着て、ブラウスは第一ボタンまで隙なく留めている。

 胸もとに結ばれているのは、清華のネクタイではなく紺のリボンだった。

 見慣れない制服だ。


 少し離れた路肩には、磨き上げられた黒塗りの車が一台、エンジンをかけたまま停まっていた。

 色の濃い窓の向こうに、黒いスーツの肩がぼんやり見える。

 日傘の視線を追ってみても、その先にあるのは校門と、坂を下っていく制服の背中ばかりだった。


「なあ、あんた。誰か待ってんの?」


 日傘がびくんと跳ね上がった。


 こちらを向いた顔を見て、立花は思わず瞬きをした。

 美人だった。

 テレビの向こうでしか見ないような、整いすぎた顔立ちだ。

 ただ、その整った顔が、隠れんぼで見つかった子どもみたいに盛大に引きつっていた。


「ま、ま、待っておりません。私はその……通りすがりで」


「通りすがりって、電柱にくっついて?」


「くっついてなど……これは、その、電柱を……」


 日傘の柄を握る白い指が、目に見えて泳いでいる。


「電柱を?」


「で、電柱の鑑賞を……」


「電柱に見どころとかあんの?」


「……ございます。たぶん」


 立花は電柱を見上げた。

 灰色の柱には、色あせた迷子犬の貼り紙が一枚、半分はがれて揺れているだけだった。


「鑑賞ポイント、その犬?」


「ち、違います! あの、コンクリートの……配合の妙などが……!」


「電柱の配合とか気にしたことねえよ」


 立花は電柱から日傘へ目を戻した。

 鑑賞と言うわりに、彼女はさっきから一度も電柱のほうを見ていない。


「うちの学校の誰か待ってんなら、呼んできてやろうか? 二年なら、だいたい顔わかるし」


「け、結構です! お呼びにならないでください、決して!」


「じゃ、伝言だけでも。名前は?」


「な、名乗るほどの者ではございません……」


「時代劇かよ」


 思わず笑って一歩近づくと、日傘の下からふっと風が抜けてきた。

 甘い花の匂いがした。

 香水なのか石けんなのか立花にはさっぱりわからないが、とにかくやたらといい匂いだった。


 その一歩がまずかったらしい。

 路肩の黒い車のドアが、音もなく開いた。

 黒いスーツの中年の男が片足を路面へ下ろしかけている。

 こちらを見据える目つきは、どう贔屓目に見ても歓迎の色ではなかった。


 立花の目線を追って車を見た彼女の顔から、すうっと血の気が引いた。

 彼女は車のほうへ片手をぴしりと突き出した。

 片足を下ろしかけた姿勢のまま、男の動きがぴたりと止まる。


「……今のおっさん、あんたの手一本で止まったよな?」


「と、止まっておりません! あの方は、その……少し、外の空気を吸いたくなっただけですの」


 聞き慣れない語尾が耳の端に引っかかった。

 けれど立花がそれを拾い直すより先に、男は無言のまま片足を車内へ戻し、ゆっくりとドアを閉めていった。

 閉まりきる最後の一瞬まで、その目は立花の顔から一ミリも動かなかった。


「空気吸うのに、あんな睨む?」


「睨んでおりません! あれは、生まれつきああいうお顔立ちで……」


「生まれつきなら、しょうがねえけどさ」


「し、失礼いたしますっ」


 日傘の子は立花に向かって深々と頭を下げた。

 腰から上が地面と平行になるくらいの、見たこともないほど丁寧なお辞儀だった。

 顔を上げるが早いか、彼女は真っ赤な顔で日傘をぐらぐら揺らしながら、車のほうへ小走りに駆けていく。

 ドアが開いて、閉まって、黒塗りの車は滑るように走り出した。

 角を曲がりきるまで、真っ黒な窓は一度もこちらへ開かなかった。


 あとには電柱と、迷子犬の貼り紙と、立花だけが残った。


「……なんだったんだ、今の」


 立花は紙束を抱え直して、誰もいなくなった電柱の陰を眺めた。

 美人だった。

 それは間違いない。

 ただ、電柱を鑑賞して、黒服のおっさんを手一本で止めて、時代劇みたいな断り方をして、見たこともない深さのお辞儀を残して逃げていった。


 美人だけど、なんか挙動不審な人。

 それが立花の正直な第一印象だった。


 日傘の下から抜けてきた風の名残を、鼻がまだ覚えている。

 紙束のてっぺんで例の靴下がだらりと揺れた。

 まあいいか、と立花は肩をすくめる。

 夏休みは始まったばかりだし、海の約束も取りつけた。


 立花は鼻歌まじりに、塀沿いの道を歩きだした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。