第112話 終業式の空と、校門の外の影
体育館に詰め込まれていた全校生徒の熱気が、廊下を伝ってそのまま教室まで流れ込んできたようだった。
担任の話が終わり、日直が号令を言い終わるより早く、あちこちで椅子の脚が床を擦る。
通知表を鞄の底へ押し込む音と、明日からの予定を言い合う声が、窓の外の蝉の声と混ざって膨らんでいく。
夏休みはもう教室の戸口まで来ていた。
俺は空にした机の中をもう一度だけ覗いてから、教室の前のほうへ目をやった。
三桜さんの隣の席では地層の発掘が始まっていた。
「うおっ、なんだこれ。四月の時間割じゃん」
立花が机の奥から引きずり出したのは、角が丸まって半分透けた紙の束だった。
その下から学年だより、さらにその下から小テストの答案、いちばん底からは片方だけの靴下が出てくる。
ひとつ出てくるたびに、周りの席から悲鳴と笑い声が上がった。
「立花くん、それ一学期のあいだ、ずっと入ってたの?」
隣で筆箱を鞄にしまいかけていた三桜さんが、手を止めて覗き込んだ。
「入ってたっていうか、住んでたな。家賃も払わずに」
「靴下も住んでたの?」
「靴下は知らねえ。誰のだこれ」
「立花くんの机から出てきたんだから、立花くんのだと思うよ?」
三桜さんがあまりにまっすぐ首をかしげるので、立花は靴下をつまんだまま反論を探して、見つけられずに黙りこんだ。
「……立花くん、まだ奥に誰か住んでる気配がするよ」
「頼むからこれ以上、住人を増やさないでくれ」
三桜さんが机の奥を本気で心配そうに覗き込むので、周りの席からまた笑い声が上がった。
俺は鞄を肩にかけて、その発掘現場まで歩いていった。
「引っ越しの手伝いがいるか?」
「相沢、いいとこに来た。これ全部入る袋、持ってねえ?」
「全部はたぶん、どんな袋でも無理だぞ」
立花の足もとでは、茶色い紙袋が早くも横腹から裂けかけていた。
机の縁から一枚のプリントが滑り落ちて、三桜さんの上履きの先で止まる。
三桜さんはそれを拾い上げて、いちばん上の見出しを読んだ。
「『新学期の目標を書こう』……立花くん、ここ真っ白だよ」
「書いてねえからな。お、サンキュ、三桜ちゃん」
受け取ったプリントを、立花はそのまま裂けかけの紙袋へ突っ込んだ。
三桜さんは「どういたしまして」と笑って、筆箱をしまう作業に戻っていく。
ほんの一往復の、どこの教室にでもあるようなやり取りだった。
そのやり取りを、すぐ後ろで聞き逃さなかった耳があった。
背中にどさりと重みが乗る。
一花さんが俺の両肩に手を置いて、肩越しにひょいと顎を突き出していた。
肩甲骨のあたりに、ブラウス越しの丸みが遠慮なく押しつけられる。
——近い。
「タチバナくーん。今、さらっと三桜のこと名前で呼んだよね?」
「え、だめだった?」
立花の目が一瞬だけ三桜さんのほうへ飛んだ。
声の大きさはいつも通りなのに、その目の動きだけが妙に速かった。
「え、なにが?」
当の三桜さんは、鞄の口を閉めながらきょとんと顔を上げた。
「名前だよ、名前。三桜ちゃんって呼ばれてたじゃん、今」
「うん。だって私、三桜だもん」
「そういうことじゃないんだって……」
一花さんのため息が、俺の耳の裏にまともにかかった。
三桜さんは本当に何の話かわからないという顔で、姉と立花と俺を順番に見比べている。
立花の肩から目に見えない力がひとつ抜けたのがわかった。
「いや、だってさ。綾瀬さんって呼ぶと、三人いっぺんに振り向くんだよ。見てろよ」
立花は咳払いをひとつして、教室の前のほうへ向き直った。
「綾瀬さん」
俺の肩の上で一花さんが「なーに?」と小首をかしげ、片目をぱちりとつむった。
二列うしろ、俺の席の隣で鞄の留め具を留めていた二葉さんは、顔を動かさず、視線だけをすっとこちらへ滑らせた。
三桜さんにいたっては椅子ごと体をくるりと回して、「はーい!」と手まで挙げている。
「な?」
「完全に点呼だったな、今の」
「三桜、手を下ろしなさい。ここは教室よ」
「えっ、でも立花くんが呼んだから……」
「だろ? だから三桜ちゃんは三桜ちゃん。じゃないと俺が呼ぶたびに綾瀬家が総立ちで、授業が止まる」
「止まらないわ」
二葉さんは留め具から目も上げずに言った。
「じゃあ、あたしは?」
一花さんが俺の肩から、さらに身を乗り出した。
そのぶん背中に預けられる重みが増して、薄いブラウス越しに体温までがじわりと移ってくる。
背骨の一本一本で、一花さんの呼吸が数えられそうだった。
「綾瀬の……姉さん?」
「姉さんって。急に舎弟ができた気分なんだけど」
「……嫌か?」
「ううん、気に入った。じゃあ舎弟のタチバナくん、焼きそばパン買ってきて」
「初手からパシリかよ!」
一花さんがけらけら笑うたびに、その振動が背中越しに伝わってきた。
「で、二葉は?」
一花さんの問いに、立花の視線がゆっくりと二葉さんのほうへ動いた。
鞄を閉め終えた二葉さんが、背筋をすっと伸ばして立花を見返す。
ただ見ているだけなのに、教室の前のほうだけ気温が一段下がった気がした。
「……次女さん、で」
「生まれた順で呼ばれたのは初めてね」
「いや、名前で呼んだら凍らされそうでさ」
「賢明だわ」
そこで二葉さんは、ほんのわずかに首をかしげた。
「でも、その理屈なら私も姉よ。三桜から見れば」
「あ、そっか。じゃあ次女さんも姉さんで」
「それだと呼んだら二人振り向くじゃん」
俺の肩の上から、一花さんがすかさず刺した。
立花は天井を仰いで、空いた手で頭を抱えた。
「振り向き問題、戻ってきちゃったよ……」
「次女でいいわ。紛らわしいよりは、そのほうがまだ合理的よ」
二葉さんはあっさり引き下がって、何事もなかったように鞄を肩にかけた。
自分で出した反論を自分で畳んだだけなのに、なぜか立花のほうが一本取られた顔をしている。
「よし、決まりな。綾瀬姉さん、次女さん、三桜ちゃん。……あ、じゃあついでにさ、相沢も、もう誠でよくね?」
教室の前のほうだけ、空気が一瞬で固まった。
「だめ」
俺の耳のすぐ横で、一花さんの声から笑いが抜けていた。
「却下よ」
二葉さんはこちらを見もしなかった。
「えっ、だめだよ。誠くんって呼ぶのは私なのに……!」
「くんは付けねえって!」
立花が慌てて両手を振る。
「呼び捨てでもだめ! 誠くんは誠くんなんだから!」
三桜さんは椅子から身を乗り出して、両手で鞄を抱きしめたまま頬を膨らませた。
一花さんは俺の肩に顎を乗せ直して、さっきまでの軽い声に戻っていた。
「誠ってさ、呼ぶ人が増えると、なんか薄まる気がするんだよね」
「名前は減るもんじゃないだろ」
「減るわ。呼ぶ人の数で割られるもの」
今度はまっすぐこちらを見た二葉さんの目は、冗談を言っている人間の目ではなかった。
「……相沢で。相沢でいくわ。綾瀬家、怖えよ」
「俺の名前の話なのに、俺の意見は一回も聞かれなかったな」
「よし、帰るか!」
立花が勢いよく紙袋を持ち上げた。
横腹の裂け目が、待っていましたとばかりに底まで走る。
時間割と学年だよりと小テストの束が雪崩になって床へ落ちかけ——帰り支度を終えてこちらへ来ていた二葉さんが、とっさに両腕で受け止めた。
抱え込まれた紙束が、二葉さんの胸もとへぎゅっと押し当てられる。
ふだんの隙のない制服姿からは想像のつかない丸みが、白いブラウスの生地を内側から張りつめさせている。
「……立花くん」
「は、はい」
「自分の地層くらい、自分で持ちなさい」
二葉さんは紙束を立花の胸へ押し返すと、ブラウスについた紙の粉を指先で二度払った。
床には片方だけの靴下がぽつんと取り残されている。
二葉さんはそれを、爪の先でつまめるぎりぎりの面積だけつまんで、紙束のてっぺんへ載せた。
「これもよ」
「いや、それは俺のじゃない可能性も——」
「立花くんのだと思うよ?」
三桜さんがさっきとまったく同じ角度で首をかしげた。
「センパーイ!」
教室の後ろの戸が勢いよく開いた。
ネクタイをゆるく結んだ小さな影が、戸口で大きく手を振っている。
走ってきたらしく、ショートヘアの毛先が額に張りついていた。
「一学期最後のお迎えに来ましたよ! 一年のホームルーム、びっくりするくらい早く終わったので、最速で来ちゃいました!」
心花は俺を見つけるなり、まっすぐこちらへ駆けてきた。
そして三歩手前でぴたりと止まった。
笑顔はそのままだった。
ただ、目だけが紙束を抱えた立花のところで動かなくなっていた。
「お、一年? 相沢の後輩?」
立花が紙束を抱えたまま、ぐいっと身を乗り出した。
「俺、立花。こいつと同じクラスで——」
心花の足が半歩さがった。
振っていた手が、いつの間にか鞄の持ち手を胸の前で握り直している。
それから心花は、何でもない顔をして俺の腕のうしろへするりと回り込んだ。
立花の言葉はそこで途切れた。
「……あー、わり。声デカいってよく言われんだ、俺」
乗り出していた体を引っ込めて、立花は自分から一歩さがった。
それから紙束のてっぺんを片手で探って、何かをつまみ上げる。
「お詫び。机の奥から出てきた飴。たぶん四月の」
「四月の飴をお詫びに出さないで」
二葉さんの声には一片の慈悲もなかった。
俺の腕のうしろから、心花がそろりと顔だけをのぞかせる。
「あの、ありがとうございます。でも、センパイの前でおなか壊したら一生の恥なので、気持ちだけいただいときますね」
「だよな。俺も食わねえもん、これ」
「自分で食べないものを人にあげないの、タチバナくん」
一花さんがようやく俺の背中から体を離した。
そのまま心花の横に回って、小さな肩をぽんと抱く。
「この子、篠崎ちゃん。誠の後輩で、まあ、あたしたちのライバルってとこ?」
「ライバル? 何の?」
「知らなくていいことよ」
二葉さんが、鞄を肩にかけ直しながらぴしゃりと閉じた。
「……綾瀬家、やっぱ怖えよ」
心花は一花さんの腕の中で「ライバル……!」と嬉しそうに目を輝かせたあと、立花と視線がぶつかるなり、あわてて俺の隣へ戻ってきた。
半袖の袖口を、指先がちょんとつまむ。
隠れたつもりなのだろうが、小柄な体はそのぶん、俺の腕に隙間なく寄り添っていた。
ゆるめのブラウス越しに、見た目を裏切る重みが腕の裏側へやわらかく預けられる。
「センパイの隣、今日は混んでますね」
小さな声だった。
いつもの心花なら、混んでいようが空いていようが、肘で場所をこじ開けてくるところだ。
結局、立花も紙束を抱えたままついてきて、六人そろって階段を下りた。
昇降口を出たとたん、昼前の日差しが真上から降ってきた。
校庭の砂が白く照り返して、まともに目を開けていられない。
「溶ける……!」
右腕に一花さんがぶら下がってきた。
第一ボタンを外したブラウスの襟を、空いた手でぱたぱたとあおいでいる。
あおぐたびに襟の合わせ目が浮いて、汗ばんだ首筋から鎖骨、その先の影までがちらちらと覗いた。
「誠、こっちもあおいでよ。ほら、ここ」
一花さんは俺の腕を引き寄せて、わざわざ襟の開いたところを見せつけるように胸を反らした。
反らしたぶん、ネクタイの先が持ち上がった丸みの上で浮いて揺れる。
「自分であおげ」
「あ、今ちょっと見たっしょ」
「見せてきたのはそっちだろ」
「見せてきたのに見ないのは、それはそれで失礼じゃない?」
反論の言葉を探しているうちに、今度は左の袖口がくいっと引かれた。
二葉さんは俺の半袖の端を二本の指でつまんでいた。
「……二葉さん、それは?」
「目印よ」
俺の体越しに、一花さんが首を伸ばした。
「校門まで一本道だよ? どこで見失うのさ」
「一本道でも、見失うときは見失うの」
言い切った二葉さんの耳の先が、日差しのせいにしては赤かった。
そのくせ、袖をつまむ指の力は少しも緩まない。
両腕をふさがれた俺の背中で、シャツの裾がつんと引かれた。
肩越しに振り返ると、心花が俺の真後ろに張りつくようにして歩いている。
少し前を歩く立花と心花のあいだに、ちょうど俺の体が挟まる位置だった。
「心花、そこ歩きにくくないか?」
「平気です! ここ、センパイの足音がいちばんよく聞こえる席なので」
にこっと笑った心花の声は、教室にいたときより半音だけ明るさを取り戻していた。
それでも、裾をつまむ指は離れない。
少し前を三桜さんと立花が並んで歩いていた。
立花の抱えた紙束のてっぺんで、例の靴下が旗みたいにひらひら揺れている。
「立花くん、夏休みの宿題のプリントはちゃんとあるの?」
「……ある。たぶん。この地層のどっかに」
「どっかじゃだめだよ! 八月の終わりに泣いても知らないからね」
「三桜ちゃんに言われると、なんか本気で不安になってくんだけど」
三桜さんは得意げに胸を張った。
「三桜。人の心配をする前に、自分の数学の課題を気にしなさい」
俺の袖をつまんだ二葉さんが、前を向いたまま淡々と言い放った。
「うっ……二葉ちゃん、今それ言わなくてもいいじゃん!」
「なんだ、三桜ちゃんも人のこと言えねえじゃん」
「立花くんよりは絶対に進んでるもん!」
振り返ってぷくっと頬を膨らませる三桜さんに、二葉さんは「まだ一頁も開いていないはずよ」と容赦なく追撃した。
ついこのあいだまで三桜さんを口説き倒していた男と、その三桜さんだ。
それが今は、宿題の進み具合で張り合う、ただの隣の席同士に戻っていた。
校門の脇の掲示板には、色の濃いポスターが一枚増えていた。
提灯の明かりが並ぶ絵の上に、太い筆文字で夏祭りの三文字が躍っている。
俺の腕を抱えたまま、一花さんがいきなり急ブレーキをかけた。
真後ろで心花が、俺の背中にこつんと額をぶつけた。
「誠、夏祭り行こ。浴衣で!」
「急に止まるな、肩が抜ける。……浴衣は決まりなのか」
「決まり。夏祭りに浴衣なしなんて、誕生日にケーキが出てこないのと同じだから」
前を歩いていた三桜さんが、くるりと振り返った。
さっきまでの得意げな顔が、みるみるしぼんでいく。
「……私、浴衣持ってない」
「あたしも持ってないよ。だから今度、一緒に見に行こ、三桜」
「行く!」
しぼんでいた顔が、一秒もかからずに満開に戻った。
「二葉は……あ、あんたはタンスの奥に紺のがあるんだっけ?」
「あるわ。手入れもしてある」
二葉さんは、問いが終わりきる前に答えた。
「手入れって。……で、今年は誰に見せるつもりなわけ?」
「虫干しの予定があっただけよ」
「虫干しのついでに夏祭り行く人、初めて見たんだけど」
二葉さんの指先が、左の袖口をきゅっとつまみ直した。
「二葉ちゃんの紺、絶対似合うよ! 背が高いから、すとんってきれいに落ちるもん」
「紺の浴衣の次女さんって、なんか強そうだな」
「褒め言葉として受け取っておくわ、立花くん」
「っと、俺こっちだから」
立花は校門を出たところで立ち止まり、塀沿いの道を顎でしゃくった。
「じゃあな。綾瀬姉さん、次女さん、三桜ちゃん」
名前を順番に呼んでから、立花は少しだけ間を置いて、俺の後ろへ小さく片手を上げた。
距離は一歩も詰めなかった。
背中越しに心花がぺこりと頭を下げる気配がした。
「あ、相沢」
「ん?」
「海とか行くなら俺も誘えよ」
紙束を抱え直しながら、立花は何でもないことのように言った。
正面と右隣から、三桜さんの「海……」と一花さんの「海ねえ」が、ほとんど同時に小さく転がった。
「ああ。行くときは、ちゃんと声かける」
「約束な!」
立花は紙束を片腕に寄せて、空いた手で俺の肩をばしんと叩いた。
そのまま身を乗り出して、俺の顔のすぐ横で声をあげて笑う。
屋上で叩かれたときより、ずっと軽くて遠慮のない手のひらだった。
背中のシャツを握る指に、小さく力がこもった。
肩越しに振り返ると、心花は俺の背中から半分だけ顔を出して、俺の肩のすぐ向こうで笑っている立花の顔を、まばたきもせずに見上げていた。
「じゃ、またな!」
立花は紙束のてっぺんで靴下の旗をなびかせながら、塀沿いの道を遠ざかっていった。
その背中が道の先で小さくなると、シャツの裾をつまんでいた指がふっとほどけた。
「心花ちゃん、行こ! 坂の途中の自販機ね、新しい味が出てたの」
「えっ、本当ですか三桜先輩! 何味です? しょっぱい系ですか、甘い系ですか?」
「えっとね、塩レモンサイダー味の麦茶!」
「うわ、すっごく冒険したやつですね! センパイの分も買っときましょう!」
「賛成!」
飲まされる側の意見は、ここでもまったく聞かれなかった。
三桜さんに手を引かれて、心花は小走りに前へ出ていった。
さっきまで俺の背中に隠れていたのが嘘みたいに、ショートヘアが日差しの中で弾んでいる。
右腕には一花さん、左の袖口には二葉さん。
両側から引かれる重さを抱えたまま、俺は駅へ続く坂道を下りはじめた。
坂の下のほうでは、陽炎が夏休みの入り口みたいに揺れていた。
◇
塀沿いの道は校門前の賑やかさが嘘みたいに静かだった。
立花陽斗は抱えた紙束を顎で押さえながら、塀の落とす細い影を選んで歩いていた。
頭の中では、さっき決めたばかりの呼び名を順番に転がしている。
綾瀬姉さん。
次女さん。
三桜ちゃん。
相沢は、相沢。
誠でよくね、と言った瞬間の三人の顔を思い出して、立花は今さら首の後ろが寒くなった。
あれは呼び方の相談ではなかった。
縄張りの確認だった。
それでも、悪くない終業式だったと思う。
相沢の隣で笑っても、もう誰も変な顔をしなかった。
学校の敷地の角まで来たところで、立花は足を止めた。
電柱の陰に白いレースの日傘が咲いていた。
日傘の持ち主は、電柱にほとんど体をくっつけるようにして、校門のほうを覗き込んでいる。
ゆるく波打った長い髪が、背中の半ばまで流れていた。
深い紺色のブレザーを着て、ブラウスは第一ボタンまで隙なく留めている。
胸もとに結ばれているのは、清華のネクタイではなく紺のリボンだった。
見慣れない制服だ。
少し離れた路肩には、磨き上げられた黒塗りの車が一台、エンジンをかけたまま停まっていた。
色の濃い窓の向こうに、黒いスーツの肩がぼんやり見える。
日傘の視線を追ってみても、その先にあるのは校門と、坂を下っていく制服の背中ばかりだった。
「なあ、あんた。誰か待ってんの?」
日傘がびくんと跳ね上がった。
こちらを向いた顔を見て、立花は思わず瞬きをした。
美人だった。
テレビの向こうでしか見ないような、整いすぎた顔立ちだ。
ただ、その整った顔が、隠れんぼで見つかった子どもみたいに盛大に引きつっていた。
「ま、ま、待っておりません。私はその……通りすがりで」
「通りすがりって、電柱にくっついて?」
「くっついてなど……これは、その、電柱を……」
日傘の柄を握る白い指が、目に見えて泳いでいる。
「電柱を?」
「で、電柱の鑑賞を……」
「電柱に見どころとかあんの?」
「……ございます。たぶん」
立花は電柱を見上げた。
灰色の柱には、色あせた迷子犬の貼り紙が一枚、半分はがれて揺れているだけだった。
「鑑賞ポイント、その犬?」
「ち、違います! あの、コンクリートの……配合の妙などが……!」
「電柱の配合とか気にしたことねえよ」
立花は電柱から日傘へ目を戻した。
鑑賞と言うわりに、彼女はさっきから一度も電柱のほうを見ていない。
「うちの学校の誰か待ってんなら、呼んできてやろうか? 二年なら、だいたい顔わかるし」
「け、結構です! お呼びにならないでください、決して!」
「じゃ、伝言だけでも。名前は?」
「な、名乗るほどの者ではございません……」
「時代劇かよ」
思わず笑って一歩近づくと、日傘の下からふっと風が抜けてきた。
甘い花の匂いがした。
香水なのか石けんなのか立花にはさっぱりわからないが、とにかくやたらといい匂いだった。
その一歩がまずかったらしい。
路肩の黒い車のドアが、音もなく開いた。
黒いスーツの中年の男が片足を路面へ下ろしかけている。
こちらを見据える目つきは、どう贔屓目に見ても歓迎の色ではなかった。
立花の目線を追って車を見た彼女の顔から、すうっと血の気が引いた。
彼女は車のほうへ片手をぴしりと突き出した。
片足を下ろしかけた姿勢のまま、男の動きがぴたりと止まる。
「……今のおっさん、あんたの手一本で止まったよな?」
「と、止まっておりません! あの方は、その……少し、外の空気を吸いたくなっただけですの」
聞き慣れない語尾が耳の端に引っかかった。
けれど立花がそれを拾い直すより先に、男は無言のまま片足を車内へ戻し、ゆっくりとドアを閉めていった。
閉まりきる最後の一瞬まで、その目は立花の顔から一ミリも動かなかった。
「空気吸うのに、あんな睨む?」
「睨んでおりません! あれは、生まれつきああいうお顔立ちで……」
「生まれつきなら、しょうがねえけどさ」
「し、失礼いたしますっ」
日傘の子は立花に向かって深々と頭を下げた。
腰から上が地面と平行になるくらいの、見たこともないほど丁寧なお辞儀だった。
顔を上げるが早いか、彼女は真っ赤な顔で日傘をぐらぐら揺らしながら、車のほうへ小走りに駆けていく。
ドアが開いて、閉まって、黒塗りの車は滑るように走り出した。
角を曲がりきるまで、真っ黒な窓は一度もこちらへ開かなかった。
あとには電柱と、迷子犬の貼り紙と、立花だけが残った。
「……なんだったんだ、今の」
立花は紙束を抱え直して、誰もいなくなった電柱の陰を眺めた。
美人だった。
それは間違いない。
ただ、電柱を鑑賞して、黒服のおっさんを手一本で止めて、時代劇みたいな断り方をして、見たこともない深さのお辞儀を残して逃げていった。
美人だけど、なんか挙動不審な人。
それが立花の正直な第一印象だった。
日傘の下から抜けてきた風の名残を、鼻がまだ覚えている。
紙束のてっぺんで例の靴下がだらりと揺れた。
まあいいか、と立花は肩をすくめる。
夏休みは始まったばかりだし、海の約束も取りつけた。
立花は鼻歌まじりに、塀沿いの道を歩きだした。




