第113話 回し飲みの麦茶と、日なたは鉄板
終業式の帰り道、駅へ下る坂の途中で、道の脇に自販機が見えてきた。
その前で三桜さんと心花が、缶を一本ずつ頭の上に掲げて振っている。
真上から照りつける日差しのせいで、二人の足もとの影だけが墨を落としたみたいに濃かった。
「誠くーん! 買えたよー!」
「センパーイ! 冷たいうちに来てくださーい!」
二人ぶんの声が坂の下から勢いよく駆け上がってくる。
急ごうにも、俺の右腕には一花さんがまるごと絡みついていた。
左の袖口は相変わらず二葉さんの指先につままれたままだ。
「一花さん、ちょっと急いでもいいか」
「えー、走ったら暑いじゃん。誠が汗かいたら、くっついてるあたしまでびしょびしょになるんだけど」
「じゃあ離れればいいだろ」
「それはこっちの都合で無理」
「どっちの都合も、俺の腕の上で決まってるんだよな」
一花さんは返事のかわりに、俺の腕を胸もとへ抱き込み直した。
汗ばんだ二の腕が、ブラウスの薄い生地ごしに柔らかいものへ沈んでいく。
坂を一歩下りるたびに、その沈み方が少しずつ深くなっていく気がした。
「走らなくても、缶は逃げないわ」
左から二葉さんが前を向いたまま言った。
「冷たさは逃げるけどね」
「なら、なおさら一花が離れるべきね。マコトの体温が上がるもの」
「二葉が袖つまんでるぶんも上がってると思うけど?」
「指二本ぶんよ。誤差だわ」
誤差だと言い切ったわりに、袖口をつまむ指はさっきより少しだけ深く生地を噛んでいた。
自販機の前まで来ると、二本の缶が左右から同時に突き出された。
「はい、センパイの分です!」
「はい、誠くんの分!」
同じ色の、同じ缶だった。
どちらも取り出し口から出てきたばかりの冷たさで、表面にびっしりと汗をかいている。
よく見れば、二人とも空いたほうの手に、それぞれ自分の分の缶まで握っていた。
「……俺、そんなに干からびて見えたか?」
「えっ。三桜先輩、センパイの分は私が買うって言いましたよね?」
「うん。だから私、賛成って言ったよ?」
「ですよね。じゃあなんで、三桜先輩まで買ってるんですか?」
「心花ちゃんが買うのに賛成したから、私も買ったの」
「それ、賛成の使い方として合ってます!?」
三桜さんは自分の缶を胸に抱えたまま、ぱちぱちと瞬きをした。
どこで話が食い違ったのか、本気でわかっていない顔だった。
「合ってるよ? 心花ちゃんが誠くんに冷たいの飲ませたいって言ったから、私も参加したの」
「参加の意味もちょっと違います!」
「相談した結果、注文が二重に通ったわけね」
二葉さんが短く総括した。
「二重に通っても、飲むのは俺ひとりなんだけどな」
「じゃ、センパイ。冷たいうちに一本目、いっちゃいましょう!」
心花は自分の缶を自販機の脇の段にとんと置くと、俺に差し出したほうの缶のプルタブを、ぷしゅっと景気よく起こした。
そのまま、俺の口もとへまっすぐ差し出してくる。
その隣で三桜さんも、自分の缶と俺の分のもう一本を、いそいそと段に並べていた。
「自分で飲めるって」
「無理ですよ。センパイ、両手ふさがってるじゃないですか」
「ふさがってない。左はつままれてるだけだ」
「ふさがっているわ」
二葉さんが間髪入れずに言った。
指二本ぶんの誤差は、いつの間にか左手一本の占有に格上げされていた。
「右もふさがってまーす」
「というわけで、今のセンパイは手が一本もない人です!」
心花はつま先立ちになって、缶をさらに高く持ち上げた。
頭ひとつぶん低いところから、精いっぱい腕を伸ばしてくる。
届かせようとするほど体が前へ傾いて、空いた手が支えを探すように俺の胸へぺたりと置かれた。
ゆるい半袖ブラウスの前が、俺のシャツにふわりと重なる。
布が二枚もあいだにあるのに、その奥の丸い重みだけは驚くほどはっきり伝わってきた。
逃げようにも、両腕はとっくに差し押さえられていた。
「篠崎さん。背伸びで届かないものは、無理に届かせなくていいのよ」
「届きますもん! ほら、もう飲み口がセンパイの唇の前です。はい、ごくん、ですよ」
傾けられた缶から、冷たいものが口の中へ流れ込んできた。
最初はちゃんと麦茶だった。
香ばしさが舌に広がったところで、急に細かい泡がぱちぱちと弾け、レモンの酸っぱさが横から割り込んでくる。
飲み下したあとには、汗みたいな塩気が喉の奥にうっすらと残った。
「……麦茶だった。途中までは」
「ですよね!? さっき自分のを一口飲んだんですけど、最初はすました顔で麦茶やってるのに、後ろからレモンが全力で走ってきて、最後に塩が『おつかれさまでーす』って言って帰っていくんですよ」
「塩、律儀だな」
「律儀なんですけど、ちょっと汗っぽいんですよね」
「汗っぽいは言い方がひどいだろ」
「あたしにも一口ちょーだい」
右腕の一花さんが、心花の手から缶をひょいとさらった。
止める間もなく、俺が口をつけたばかりの飲み口に、そのまま唇を重ねる。
白い喉がこくりと小さく上下した。
缶を離した一花さんは、俺を見上げて片目をつむってみせる。
飲み口のふちに、桜色のつやがうっすらと移っていた。
「間接いただきましたー」
「あーっ! それ、私がセンパイに買った缶です!」
「誠のものは、あたしのものでもあるっしょ。……あ、これ部活終わりの味がする。部活やったことないけど」
「やったことないのに、なんでわかるんだよ」
「雰囲気。運動部の汗って、たぶんこういう味じゃん?」
「その感想、買った心花に謝ってくれ」
缶は誰にも謝られないまま、今度は左側へ移っていった。
二葉さんが袖口から指を離して俺の胸の前へ手を伸ばし、一花さんの手から音もなく抜き取ったのだ。
「貸して。味の確認をするわ」
二葉さんは鞄のポケットからハンカチを出すと、飲み口のふちを丁寧にひと拭きした。
桜色のつやが白い布の端へきれいに移っていく。
「ちょっと。あたしのリップ、汚れ扱い?」
「一花の分を拭いただけよ」
「ふーん。誠の分は拭かないんだ」
ハンカチを畳みかけていた二葉さんの指がぴたりと止まった。
「……見えないものは拭けないわ」
澄ました顔のまま、二葉さんはハンカチを鞄へ戻し、缶を口もとへ運んだ。
空いた指が、いったん離した俺の袖口をくっとつまみ直す。
黒髪の隙間から覗いた首筋の白いところが、缶の冷たさとは裏腹に、うっすらと赤く染まっていた。
「……麦茶に謝ってほしい味ね」
「二葉ちゃん、謝ってほしいのに、それもう三口目だよ?」
「確認は一口では終わらないの」
三桜さんの素直な数え上げを、二葉さんは缶を傾けたまま受け流した。
受け流しながら、四口目にいった。
「みんな飲んでる……! 私も誠くんのを飲む!」
「三桜は自分のがあるでしょう」
「自分のと誠くんのとじゃ、味が違うかもしれないもん」
「同じボタンから続けて落ちてきた同じ缶ですよ、三桜先輩」
三桜さんは二葉さんから缶を両手で受け取ると、こくこくと小さく二口飲んだ。
それから缶のふちをじっと見つめる。
「……ちょっとだけ、違う気がする」
「気のせいだと思うぞ」
「違うの。なんか、こっちのほうが……」
言いかけたところで、三桜さんの頬にみるみる赤みがのぼっていった。
自分が何を口にしたのか、今になって気づいたらしい。
缶を持った両手が、胸の前できゅっと縮こまる。
「こっちのほうが、なに? 三桜、言ってみ?」
一花さんが俺の腕にぶら下がったまま、楽しそうに目を細めた。
「な、なんでもない! 麦の……麦の生まれが良かっただけ!」
「同じ畑の同じ麦だろ」
「ちょ、ちょっと待ってください! それ、私がセンパイのために買った缶ですよ!? 買った人が最後って、どういうことですか!」
心花は三桜さんの手から缶を受け取って、勢いよくあおった。
ごくり、と喉が鳴る。
そこで心花の動きがぴたりと止まった。
缶を持っていないほうの手で、指が一本ずつ折られていく。
「センパイと……一花先輩と、二葉先輩と、三桜先輩と……」
四本目の指が折れたところで、心花の頬がじわじわと赤くなった。
「……私、いま、四人と間接キスしちゃいました」
「そういうものは、数えなくていいのよ」
「心花ちゃんとなら、私うれしいよ?」
三桜さんは赤い頬のまま、本当にうれしそうに笑った。
照れ隠しでも冗談でもない、まっすぐな笑い方だった。
「そ、そういうの、真正面から言われると……さすがに照れるんですけど……」
心花は缶で顔の下半分を隠してしまった。
ようやく俺に返そうとしたその缶を心花が振ってみると、水音ひとつしなかった。
「……俺の分は?」
心花と三桜さんの「あっ」が、きれいに重なった。
俺のために買われた麦茶は、五人のあいだを一周して、空き缶になって帰ってきたのだった。
「だ、大丈夫! 誠くん、こっちがまだあるよ!」
三桜さんが段の上から、並べてあったもう一本をつかんで差し出した。
まだ封の切られていない、汗をかいたままの缶だ。
「これは誠くん専用ね。今度こそ、誰も飲んじゃだめだからね!」
「それなら左手を返してもらえるか、二葉さん」
「……三十秒よ」
袖口からようやく指先が離れた。
俺はプルタブを起こして、今度こそ自分の手で缶を傾けた。
やっぱり途中から麦茶ではなくなったけれど、喉を滑り落ちていく冷たさだけは本物だった。
缶を口から離した、ちょうどそのとき。
袖口がまた、二本の指につままれた。
「三十秒ぴったり」
「数えてたのか」
「数えていないわ。体内時計よ」
「どんな体内時計それ。誠専用?」
「専用ではないわ。マコトにしか使っていないだけよ」
「それを専用って言うんだよ」
三桜さんと心花が自分の分を飲み干すのを待って、空き缶をまとめて回収箱へ落とす。
二人はまた前へ駆けだした。
坂は駅のほうへゆるくカーブしながら下っていて、塀や電柱の落とす影が白い道の上に点々と並んでいる。
最初の影の手前で三桜さんがぴたりと止まった。
「心花ちゃん、ここから日なたは鉄板ね! 踏んだら、じゅってなるよ!」
「じゅってなったら、どうなるんですか?」
「……焼き麦茶になる」
「さっきのみたいな味のですか!? それはちょっと嫌です!」
「麦茶はもともと焼いてあるものよ」
「えっ。じゃあ、もっと焼き麦茶になる!」
うしろからの二葉さんの正確すぎる訂正を、三桜さんはそのまま燃料にして燃え上がった。
三桜さんが次の影までぴょんと跳んだ。
スカートの裾がふわりと浮いて、華奢な脚が白い光の中で一瞬だけ伸びる。
続いて心花もショートヘアを弾ませて跳んだ。
着地の拍子に、サイズに余裕のあるブラウスの胸もとが一拍遅れてやわらかく弾む。
ふだんは生地の余りに埋もれている輪郭が、その一瞬だけ布を内側から押し上げていた。
「誠くんたちもだよ! 日なた踏んだらアウトだからね!」
「この状態で跳べって言うのか」
右に一花さん、左に二葉さん。
どう考えても、三人四脚で幅跳びをやれと言われているのと変わらなかった。
「誠、あたしごと跳んで」
「三人ぶんの体重で跳べるわけないだろ」
「いいから。せーのっ」
掛け声と同時に一花さんが俺の腕を引いて地面を蹴った。
つられて跳んだ俺の腕に、一花さんの体が体重ごとぶつかってくる。
着地の衝撃で、腕を挟み込んでいた柔らかさが、ぎゅっと押し潰されるように形を変えた。
狙ってやっているのは、真横で笑っている顔を見れば一目瞭然だった。
「今の、絶対わざとだろ」
「着地は誰がやってもこうなるんだって。物理だよ、物理」
「物理のせいにするな」
「じゃあ重力のせい。文句は地球に言って」
言い返すより先に左の袖口がくいっと引かれた。
見れば二葉さんは跳びもせず、すました顔で俺の隣に立っていた。
足もとはきっちり影の中だった。
「二葉はやんないの?」
「くだらないわ。私は普通に歩いているだけよ」
「ふーん」
それから坂を下る十数歩のあいだ、俺はなんとなく二葉さんの足もとを見ていた。
電柱の細い影の上を、靴のつま先が正確になぞっていく。
塀の影が途切れたところでは、歩幅をわずかに広げて、次の影へ音もなく渡る。
白いところは一度も踏まない。
「二葉、さっきから日なた一回も踏んでないよね」
「日焼けを避けているだけよ」
「二葉ちゃん、それ、鉄板よけてるのと同じだよ!」
「同じではないわ。目的が違うもの」
「目的が違っても、足の置き方がまったく一緒ですよ、二葉先輩!」
二葉さんは返事をせず、次の影へ渡った。
ただ、渡るときにほんの少しだけ跳んでしまったせいで、俺の腕に肩がとんとぶつかる。
第一ボタンまできっちり留めたブラウスの下で、見た目よりずっと豊かな量感が、二の腕の裏にやわらかく押し当てられて形を変えた。
二葉さんは何事もなかったように体を離し、指先だけで袖口をつまみ直した。
「今、ちょっと跳んだよね?」
「段差があったのよ」
坂のどこを見回しても、段差らしいものはひとつもなかった。
坂を下りきったところで、影がぷっつりと途切れた。
駅前の通りへ渡る横断歩道は、日を遮るものが何ひとつないまま白く焼けている。
信号はまだ赤だった。
「……鉄板しかない」
「三桜先輩、ここ、どうやって渡るんですか?」
「えっと、えっと……あっ! 誠くんの影!」
三桜さんの指がまっすぐ俺の足もとを差した。
全員の視線がそこへ集まる。
真昼に近い太陽はほとんど真上にあって、俺の影は靴のまわりに小さく丸まっているだけだった。
「……センパイの影、ちっちゃくないですか? センパイ本体はこんなに大きいのに」
「昼だからな。影の長さは、本体より太陽の高さで決まるんだ」
「じゃあ太陽、もうちょっと下がってください!」
「あと五、六時間も待てば下がるわ」
「それまでここで待つの? あたしたち干物になるって」
「……走ろう!」
信号が青に変わった瞬間、三桜さんが心花の手を引いて飛び出した。
「じゅってなる! じゅってなるー!」
「なってます! 足の裏、もう焼き麦茶ですー!」
前の二人の悲鳴を追いかけるように、一花さんが俺の腕を引いて走りだす。
左の袖口をつまむ二葉さんも、指を離さないまま一緒についてきた。
横断歩道の白い縞を、五人ぶんの足音がばらばらに叩いていった。




