第91話 後輩の距離、名前ひとつ分
金曜の放課後。
ホームルームが終わった途端に、教室は週末の空気に染まった。
二葉さんは「頼まれた提出物の集計があるから、先に帰りなさい」と告げて職員室へ向かい、一花さんはクラスの女子に腕を引っ張られてどこかへ消え、三桜さんは購買裏の茶トラに会いに行くのだと嬉しそうに駆け出していった。
数分もしないうちに、教室は放課後の抜け殻になる。
鞄に教科書を詰め込みながら、俺は小さく息を吐く。
昨夜、ゲームをログアウトした後の自室の静寂が、まだ胸の奥に薄く張り付いている。
だが、それを引きずって立ち止まっているわけにはいかない。
二葉さんへの帰宅報告だけは忘れないようにと心の中で復唱し、俺は教室を後にした。
昇降口でローファーに履き替え、外へ出た瞬間。
七月の日差しが容赦なく降り注いできた。
「センパーイ!」
弾むような声とともに、視界の端から小柄な影が飛び込んできた。
「うおっ」
咄嗟に身構える間もなく、俺の左腕に柔らかい衝撃がぶつかる。
制服のネクタイをゆるめ、少し大きめの半袖ブラウスの袖をラフにまくった、ボーイッシュな夏の着こなし。
一年生の篠崎だった。
「見つけましたよ、センパイ!」
俺の腕にしっかりと抱き着いたまま、満面の笑みで見上げてくる。
小柄な篠崎は自然と上目遣いになる形だが、そのボーイッシュな印象とは裏腹に、腕に押し付けられる感触は予想以上に柔らかく、そして重い。
――近い。
服越しに伝わってくる体温と柔らかな質量に、俺の心臓が急にうるさく鳴り始める。
「お前な、急に飛びついてくるなって……」
「センパイが一人で帰るとこ見えたんですもん! 追いかけなきゃ損です」
「なんで俺が一人だって分かったんだよ。二葉さんが残るなんて、言ってないだろ」
「だって、さっき二葉先輩が先生に呼ばれて職員室に入っていくの、見ましたから。あれなら、しばらく帰れないなって」
「そもそも、なんで一年のお前が職員室や二年のフロアをうろついてるんだよ」
「決まってるじゃないですか。センパイたちの動向の偵察です!」
篠崎は胸を張って、自信満々に言い切った。
「今日の五限目、窓際の席でこっくりこっくりしてましたよね。体育の授業中にグラウンドから見上げてたら、首がゆっくり傾いていくの、ばっちり見えました。それに今日のお昼、購買でしょっぱい系の惣菜パンばっかり選んでましたよね。甘いパンの棚、一回も見ないんですから!」
悪気ゼロの笑顔で、あっさりと恐ろしいことを言う。
彼女の観察眼というか、情報収集能力には毎度驚かされる。
「……お前、たまにぞっとすること言うよな」
「愛ですよ、愛! 後輩の愛らしいアピールです!」
「ストーカー一歩手前だろ」
「そんなことないですよー。授業を聞く耳とセンパイを見る目は別回路なだけです。好きな人の買ったお昼ご飯くらい、把握してて当然です!」
「器用なのか何なのか」
「可愛いって言ってくださいよ」
全く悪びれる様子のない篠崎に、俺は思わずため息をついた。
篠崎は俺の腕に絡みついたまま、ご機嫌な足取りで歩き出す。
時折小走りになるその動きに合わせて、大きめの半袖ブラウスの裾がふわりと揺れ、甘いシャンプーの匂いが夏の空気にふっと混ざった。
そのまま、俺たちは駅方面へ続く緩やかな坂道を下っていく。
「そもそも、お前の家は反対方向だろ」
「駅までは同じですよ。途中までの幸せ、もらいにきました」
さらりと言ってのけて、篠崎は俺の腕を抱え直す。
……この後輩は、自分の油断がどれくらい危ないか、たぶん知らない。
日陰のない坂で、照り返しが足元からじわじわ上がってきていた。
「くっついてたら暑いだろ」
「暑いですよ。だからセンパイの影、貸してください」
「影って」
「大きくて頼りになるところが、影に向いてるんですよ」
見上げてくる目の中に、七月の空がまるごと収まっている。
頭ひとつ分ほど下から、逸らしもせずに。
「褒めてるのかそれ」
「褒めてます!」
即答だった。
「そういえば、センパイ。昨日、あんまり眠れてないですよね?」
不意に、篠崎が俺の顔を覗き込んできた。
「……なんで分かるんだ?」
「朝、昇降口を通る時にちょっとだけあくびしてましたから。それに、なんだか背中が、少しだけ寂しそうでしたし」
図星を突かれて、俺は言葉に詰まった。
昨夜の余韻。
あの騒がしい仲間たちがいても埋まらない、ぽっかりと空いた穴のような感覚。
誰にも見せていないつもりだったのに、篠崎の目は誤魔化せなかったらしい。
「……篠崎には、敵わないな」
「ふふん。伊達にセンパイのストーカーやってませんからね!」
「お前、やっぱり自分がストーカー一歩手前だって自覚あるだろ」
「細かいことは気にしないでください! とにかく、センパイが寂しい時は、私が元気分けてあげますから」
一切の駆け引きがない、真っ直ぐで純粋な好意。
逃げ場のない距離で向けられる全力の明るさに、俺は思わず口元を緩めていた。
駅前の商店街に差し掛かると、人通りが少し多くなってきた。
向かいから、大声で笑い合う他校の男子生徒の三人組が歩いてくる。
すれ違う直前、篠崎の明るい声がふっと途切れた。
俺の腕を掴む指先に、ぎゅっと力がこもる。
篠崎は笑顔を顔に貼り付けたまま、俺の背中側に半歩だけ隠れるように身を縮めた。
普段の明るさの、その奥で何かが身構えている。
俺は何も聞かず、自然に自分が壁になるように、歩く位置を少し外側にずらした。
男子たちの集団が通り過ぎていく。
彼らの背中が遠ざかると、篠崎の強張っていた肩の力が抜け、小さく息を吐く音が聞こえた。
「……ありがとう、ございます」
「ん? 何かしたか?」
俺がとぼけて返すと、篠崎は少しだけ目を丸くし、今日一番の柔らかい笑顔を見せた。
「センパイの隣、すごく安心します」
俺の腕に頬をすり寄せるようにして、篠崎は再びご機嫌な足取りに戻った。
駅前の自動販売機の前で、篠崎が「あ、喉乾いた」と足を止めた。
肩に掛けた鞄から小銭入れを取り出し、並んだボタンを見上げる。
「センパイも飲みます? おごりますよ」
「後輩におごられるのは、なんか気が引くんだが」
「いいんです。この前、荷物持ちしてもらったお礼、まだですから。何がいいですか?」
「……じゃあ、お茶」
篠崎がつま先立ちになってボタンを押し、取出口から冷えたペットボトルを取り出して差し出してくる。
「はい、センパイ」
「悪いな」
受け取ったペットボトルのお茶がひんやりと冷たかった。
篠崎は自分用の缶コーヒーのプルタブを開けて、くいっとひと口飲んだ。
「ぷはっ。生き返る」
「ブラックか。意外だな」
「暑い日はシャキッとしたいんですよ。あ、甘いのも好きですけどね」
ブラックの缶を傾ける手つきだけが、小柄な制服姿に不似合いなほど大人びていた。
自販機の横のベンチに並んで腰を下ろす。
木陰がちょうどかかっていて、七月の日差しが少しだけやわらぐ。
「センパイって、なんで優しいんですか?」
唐突だった。
「急にどうした?」
「いえ、ふと思っただけです。今日だって、別に用事あったかもしれないのに、こうやって一緒に帰ってくれるじゃないですか」
「用事はなかっただろ」
「でも、あったとしても付き合ってくれそうです。センパイは」
買い被りだ、と言い返しかけて、やめた。
「……そういえば、センパイって相変わらず私のこと『篠崎』ですよね。三桜先輩はずっと『心花ちゃん』って呼んでくれてるのに」
缶コーヒーの表面を指先でなぞりながら、篠崎がふと話題を変えた。
じっと、下から上目遣いで睨んでくる。
「ダメですか? 前にモールで、私のこと心花でいいですよって言ったの、センパイも隣で聞いてましたよね?」
「それは……」
俺は言葉に詰まった。
これまで篠崎のことは後輩として、ある程度線を引いて接してきたつもりだった。
だが、こうして隣を歩き、腕を絡められ、その真っ直ぐな好意を浴び続けていると、その線引きがなんだかひどく不自然なものに思えてくる。
「私、清華に入って、家からだと電車を乗り継いで通わなきゃいけなくなって。毎日、一人で長い時間、電車に揺られて」
缶コーヒーを両手で包むように持って、篠崎は足元を見つめた。
午後の日差しが、彼女の横顔を照らしている。
一瞬だけ、いつもの太陽みたいな明るさが消えて、年相応のどこか心細い素顔がのぞいた。
「窓の景色を見ながら、この電車が学校からどんどん離れていくの……ちょっとだけ寂しかったんですよ」
前にも聞いたことがあった。
家までの通学時間が片道一時間を超えることも、母親が忙しくて家に帰っても一人だということも。
「でも、今は寂しくないです」
篠崎が、ふっと顔を上げた。
目が合う。
「だって、隣にセンパイがいますから」
いつもの屈託のない明るさとは少しだけ違う。
あたたかくて、やわらかくて、ほんの少しだけ重い、そんな笑顔だった。
それを見ていたら、口が先に動いていた。
「……わかったよ、心花」
その瞬間だった。
隣に座っていた心花の動きが、ぴたりと止まる。
缶コーヒーを持ったまま、丸く見開かれた目が、信じられないものを見るように俺をまじまじと見つめている。
ぽかんと口を開けたまま、瞬きすら忘れたような顔だ。
「……え」
小さな声が漏れた。
あまりの反応のなさに、俺はだんだん恥ずかしくなってきた。
「……えっと、急に呼べって言われたから、その」
俺が照れ隠しに頭を掻こうとした、次の瞬間。
「わあぁぁっ!」
心花が、文字通り跳ねるように俺に抱きついてきた。
今度は腕だけでなく、全身の重みがのしかかってくる。
「ちょ、お前、コーヒーこぼれるって!」
「センパイ! もう一回! もう一回呼んでください!」
涙目のまま満面の笑みで、心花が俺の腕をぶんぶんと振り回す。
「やだよ、恥ずかしいだろ」
「そんなこと言わずに! ねえ、センパイ! 心花って、もう一回!」
ベンチに座ったまま押し倒されそうになる勢いで、胸元に柔らかな感触がぎゅうぎゅうと押し付けられる。
すれ違う人たちの視線が痛いが、心花の破顔を見ていると、もうどうでもよくなってきた。
「本当は……あの日、三桜先輩に『心花でいいですよ』って言ったの、できればセンパイにも言ってもらえたら嬉しいな、って思いもあったんですよ」
腕にしがみついたまま、心花が俺の肩にこつんと頭を乗せて呟いた。
「あ、この子、そう呼ばれたいんだ、って……センパイに、届けばいいなって」
「……そんなに前からか?」
「はい」
「言ってくれれば、もっと早く呼んだのに」
「そんなの、ずるいじゃないですか」
心花は拗ねたように、少しだけ強く俺の腕を抱きしめた。
「センパイが、自分から呼んでくれるの……ずっと、待ってたんです」
「……待たせたな」
「ぜんっぜん! 今日が、世界で一番いい日ですっ!」
興奮した声を上げてから、心花はふうっと息をついて、俺の腕に頭を預けた。
しばらく、蝉の声だけが二人の間に流れる。
しがみつく力が、少しずつ、落ち着いていく。
「センパイ」
「ん?」
「私、これから毎日、センパイに『心花』って呼んでもらえるんですね」
「まあ、そうなるな」
「えへへ……」
心花は幸せそうに笑って、缶コーヒーの残りをこくりと飲み干した。
やがて、どちらからともなくベンチを立ち上がる。
当然のように、心花はまた俺の左腕に絡みついてきた。
いつもと同じ帰り道のはずなのに、隣を歩く後輩の呼び方が変わっただけで、空気が少しだけ違って感じる。
俺は横目で、腕にぶら下がる小柄な後輩を見下ろした。
心花。
そう呼ぶことが、もう自分でも不思議じゃなくなっていることに気づいて、俺は小さく苦笑した。
この一年生は、いつの間にか俺の中で"篠崎"じゃなくなっていたらしい。
「あ、もう駅、着いちゃいますね」
商店街の向こうに駅舎が見えてくると、心花が惜しむような声を上げた。
彼女が乗る電車は、俺の家とは反対の方向だ。
駅の改札前に到着すると、心花は少しだけ名残惜しそうに歩みを遅くした。
「じゃあ、私はこっちですから」
心花は俺の腕から手を離し、改札の方へと向き直る。
離れた腕が、少しだけ涼しく感じた。
「ああ。お茶、ごちそうさん。気をつけて帰れよ、心花」
自分の口から、二度目の名前が滑り出た。
最初のときのような気恥ずかしさはなく、驚くほど自然に、口の中で馴染んでいた。
心花が振り向いた瞬間、その頬にぶわっと朱が差した。
さっきベンチではしゃぎ回ったときとはまるで違う、静かな、けれど熱い赤色。
両手で口元を覆おうとして、覆いきれずに指の隙間から、くしゃっとした笑顔がこぼれた。
「もぉーっ、センパイ、ずるいですっ!」
「何が?」
「不意打ちで呼ぶの、心臓に悪いんですからっ!」
真っ赤な顔でぷんすかしてみせてから、心花はもう一度、ふにゃっと笑った。
「センパイも、真っ直ぐ帰ってくださいね。二葉先輩に怒られちゃいますから」
心花は悪戯っぽく笑うと、改札の向こう側へと足を踏み入れた。
そして、くるりと振り返って、大きく手を振る。
「センパイ! 月曜も……呼んでくれますか?」
少しだけ上目遣いになって、照れくさそうに聞いてくる。
「……呼ぶよ」
「えへへ。また月曜日!」
その声は、駅の喧騒の中でもはっきりと俺の耳に届いた。
俺も小さく手を振り返す。
彼女は改札の奥で、もう一度跳ねるように大きく手を振ってから、ホームへと続く階段を駆け上がっていった。
その小さな背中が見えなくなるまで見送ってから、俺も改札を抜けて、反対側のホームへ続く階段に足を向けた。
心花の体温がまだ残っている腕を軽くさすりながら歩く。
一人になった帰り道は、なぜかいつもより少しだけ、足取りが軽かった。




