第90話 欠けた一枠と、夏の報せ
木曜日の夜。
放課後に三桜さんへ借りていたノートを返して帰り、夕食と入浴を済ませて自室に戻った俺は、机の上のパソコンを立ち上げた。
放り出した鞄と、脱ぎ散らかしたままの制服のネクタイが視界の端に映る。
だが、今はもうそれらに関心を向ける気は起きなかった。
薄暗い部屋を、ディスプレイの青白い明かりだけが照らす。
『エデン・オンライン』のログイン画面から、見慣れた拠点街の広場へと降り立った。
俺は【リオン】を操作して、すぐにフレンドリストを開いた。
一番上の名前は、今日も灰色のままだ。
【ルナ】 オフライン。
あの利用制限中のシステムメッセージを見てから、もうかなりの時間が経つ。
運営の制限なのかエラーなのか、未だに分からない。
ぽっかりと空いた穴のような寂しさは、今では静かな底流となって俺の中に横たわっていた。
詮索するつもりはなかった。
戻ってきたら、いつも通りに迎えるだけだ。
リストのさらに下を見る。
【アリア】もオフラインだった。
回復役が二人ともいない状況は、少しだけ心細い。
そんな静かな夜の空気を吹き飛ばすように、不意にチャットが飛んできた。
『兄貴ーーッ! こんばんはッス!!』
クロウ。
相変わらずのテンションで、画面の端から小柄なアバターが猛ダッシュで駆け寄ってきた。
俺の目の前で、ぴょんぴょんと嬉しそうに跳び跳ねる。
『おう、こんばんはクロウ。今日も元気だな』
『当たり前ッスよ! 兄貴が来るの、ずっと待ってたッス!』
『待たせて悪かったな。ノエルは……もう来てるのか?』
広場に面した酒場のカウンターの端に、弓使いのエルフが静かに寄りかかっていた。
ノエルだ。
彼女のアバターは全く動いていないように見えるが、チャットはすぐに返ってきた。
『こんばんは、リオン。今日は二人ともお休みみたいね』
『ああ。ルナもアリアもいない。回復なしの編成になるけど、狩り、行くか?』
『俺は全然いけるッスよ! 兄貴がいれば百人力ッス!』
『……馬鹿クロウ。リオンの負担が増えるだけでしょう。少しは頭を使いなさい』
『うぐっ! ノエル姐さん、相変わらず厳しいッス!』
クロウががっくりと肩を落とすエモートを返す。
そのやり取りを見ているだけで、俺の口元は自然と緩んでいた。
ルナがいない寂しさを、二人がこうして騒がしく埋めてくれる。
『大丈夫だ。ポーションは多めに積んである。少しレベルを落とした狩り場なら、三人の火力で押し切れるだろ』
『リオンがそう言うなら、付き合うわ』
『よっしゃーッ! じゃあ俺、さっそく先行して索敵してくるッス!』
言うが早いか、クロウのアバターが目にも留まらぬ速さで街の出口へと向かって走り出した。
その後ろ姿を追いかけながら、俺とノエルもフィールドへと足を踏み入れた。
向かったのは、少し前に実装された中級者向けの森林エリアだ。
ルナたちと一緒ならもっと奥の深層を狙うが、今日は安全第一の進行になる。
『前方、獣型の群れを発見ッス! 五体……いや、六体ッス!』
『了解。俺がヘイトを集める。ノエルは後方から削ってくれ』
『任せて』
俺は重い盾を構え、モンスターの群れの中央へと踏み込んだ。
挑発スキル【ウォークライ】を発動する。
赤いエフェクトが広がり、六体の獣が一斉にこちらへ牙を剥いた。
ガンッ、ガンッ、と連続して盾に衝撃が走る。
普段ならここで、ルナの回復魔法が温かく俺を包み込む。
あるいは、アリアの丁寧な防御バフがダメージを軽減してくれるはずだった。
だが、今日はどちらもない。
HPバーがじわじわと削れていくのを見ながら、俺はポーションのショートカットキーに指を置いた。
『兄貴、無理しないでくださいッス! 俺が二体引き受けるッス!』
『クロウ、突っ込みすぎよ。左側が空いてるわ』
『わ、分かってるッス! ……うおっ!?』
クロウが短剣を振るいながら側面へと回り込む。
その動きの隙を突こうとした一体の額に、ノエルの矢が寸分違わずに突き刺さった。
『ナイス、ノエル!』
『リオン、ポーションの残りに気をつけて。減りが早いなら一時撤退も視野に入れるわよ』
『まだいける。半分は残ってるからな』
俺が前線で耐え、クロウが遊撃し、ノエルが的確に急所を射抜く。
ヒーラー不在という制約の中で、三人の連携は不思議なほどに噛み合っていた。
クロウが俺を気遣い、ノエルが全体を冷静に俯瞰しているからだ。
『最後の一体、もらったッス!』
クロウの背後からの強襲で、最後の一体が光の粒子となって消えた。
【討伐完了】
『ふう。お疲れ、二人とも』
『お疲れ様ッス! いやー、やっぱり兄貴の盾は安定感が違うッスね!』
『……被弾が多かったわね。もう少し回避を意識しなさい、クロウ』
『ええっ!? 俺、けっこう華麗に避けてたつもりだったんッスけど!』
ボヤくクロウを尻目に、ノエルは淡々とドロップアイテムを拾い集めている。
俺たちは森の開けた場所にある切り株の周りで、少し長めの休息を取ることにした。
焚き火のオブジェクトを設置し、キャラクターを座らせる。
パチパチと薪が爆ぜる環境音が、ヘッドホンから心地よく流れてきた。
『兄貴、ルナさん、最近ずっと見てないッスね』
ふいに、クロウがぽつりと切り出した。
『ああ。もう二週間か。どうしたんだろうな』
『寂しいッスね……。ルナさんの魔法ドカーン! がないと、なんか物足りないというか』
『そうだな』
俺の短い返信に、クロウは何かを察したのか、慌てたように言葉を継いだ。
『あ、でも! 俺とノエル姐さんがいるんで、いつでも呼んでくださいッスよ! 兄貴一人にはさせないッス!』
『……クロウの言う通りね。私たちはここにいるわ』
ノエルの言葉は短かったけれど、そこには確かな温もりがあった。
ゲームの中のテキストチャットでしかないのに、不思議と胸の奥が熱くなる。
弟分の真っ直ぐな気遣いと、古参の静かな優しさが、ルナのいない夜を、そっと温めてくれていた。
『ありがとう、二人とも。すごく助かってるよ』
しばらく沈黙が落ちた後、ノエルの言葉がゆっくりと流れてきた。
『……ルナのことだけれど』
『ん? 何か知ってるのか?』
『いいえ。ただの勘よ。長くいると、なんとなく分かることもあるの』
そう言われると、そうかもしれない。
ノエルはこのパーティで最古参のひとりだ。
俺やルナよりも前から『エデン』をやっている。
『……あの子のことだから、戻ってきたらまた無茶するんでしょうね』
『無茶?』
『ええ。一人で何か抱え込んでいないといいけれど。……ルナがいないと、やっぱり少しバランスが崩れるわね』
ノエルのその一言に、俺は少しだけ目を丸くした。
ただのゲーム仲間への心配にしては、妙に実感を伴っているような気がしたからだ。
何か事情を知っているような、そんな薄い引っ掛かり。
『ノエルは、ルナと付き合い長いもんな。古参の勘ってやつか?』
『……そうね。まあ、あの子なら心配ないと思うけれど』
ノエルは、それ以上は語らなかった。
古参同士、心配の形も人それぞれ、ということなのだろう。
直後、画面の上部に派手な金色のシステムメッセージが流れた。
【運営からのお知らせ:八月より、夏季限定大型イベント『幻の海賊島』を開催いたします!】
【水着アバターや限定武器など、豪華報酬を手に入れよう!】
『うおおおおッ!! 夏イベントッス!!』
クロウが焚き火の周りを走り回りながら、大文字のチャットを連打してきた。
『海賊島ッスか! これは絶対行くしかないッスね! 限定装備、絶対ゲットするッス!』
『また面倒な周回クエストが来そうね……。水着のステータス補正はどうなのかしら』
『ノエル姐さん! 去年の夏イベ、すっごい楽しかったじゃないッスか! 今年は五人で行けたら最高ッスよ!』
五人。
クロウが何気なく言った言葉に、少しだけ胸が軋んだ。
五人揃ったパーティ。
俺、ルナ、クロウ、アリア、ノエル。
去年の夏イベは、確かに五人で限定ボスを討伐した。
ルナが一番にはしゃいで、アリアが堅実にバフを回して、クロウが突っ込みすぎてノエルに怒られて。
あの時の五人の連携と熱量を、今の三人で再現するのは難しい。
『……そうだな。五人揃ったら、行きたいな』
『ッスよね! ルナさんとアリアさんにも教えないとッスね!』
『うるさいわね。……まあ、性能次第では手伝ってあげてもいいわ』
『やったーッ! 今から楽しみで眠れないッス!』
『子供ね……』
ノエルの呆れたような一言に、俺は声を出して笑った。
夏の大型イベント。
いつもなら、ルナが誰よりも早く攻略情報を集めてきていたはずだ。
——ねえリオン! 水着、どんなのがいいと思う!?
そんなルナの声が、今にも聞こえてきそうな気がした。
『そろそろ俺、落ちるわ。明日も早いし』
『了解ッス! 兄貴、今日も楽しかったッス! おやすみなさいッス!』
『おやすみ、リオン。また今度ね』
二人の言葉に見送られながら、俺はログアウトボタンを押した。
画面が暗転し、ゲームの景色が消える。
部屋には再び静寂が戻ってきた。
クロウやノエルと過ごした時間は、間違いなく楽しくて、温かかった。
彼らがいれば、エデンの世界は十分に面白い。
けれど、ディスプレイに映る自分の顔を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。
楽しかったはずなのに、心のどこかに拭いきれない余白が残っている。
「……ルナがいたら、な」
誰に聞かせるわけでもなく呟いた言葉は、静かな夜の空気に溶けて、あっけなく消えていった。




