第89話 立花の声と、名もなき違和感
二葉さんの厳しい放課後指導は、今日に限っては一時休戦となっていた。
図書室で借りていた参考書を返しに行くと言って、先に出ていったからだ。
ついでに職員室で追加の課題プリントももらってくるらしく、しばらくは戻らないだろう。
二葉さんに渡された対策ノートには、解いたページの端に短い赤い印が並んでいる。
あの手この手で俺の逃げ道を塞いでくる二葉さんの手腕は、見事としか言いようがない。
だが、張り詰めた糸が切れそうになる前に、たまにはこうして息抜きをする時間も必要だ。
俺は小さく息をつき、凝り固まった肩を回すと、鞄の中から現代文のノートを取り出した。
先日の授業中にうっかり居眠りをして板書を写し損ね、三桜さんに借りていたものだ。
ページを開くと、丸っこくて少し大きめの、丁寧な文字が目に飛び込んでくる。
余白にはところどころ、ひよこや犬など可愛らしい動物のイラストがこっそりと描かれていた。
普段のぽんこつで甘えん坊な印象とは裏腹に、ノートの取り方はとても几帳面だ。
見ているだけで不思議と心が和む、いかにも三桜さんらしいノートだった。
渡しそびれないうちに早く返しておこうと、俺は立ち上がり、彼女の席へと向かった。
放課後の教室は、部活に向かった生徒たちのおかげで半分ほど空席になっている。
前方の彼女の席に近づくにつれて、静かな教室には少し不釣り合いな、よく通る男子の声が聞こえてきた。
「――だからさ、そろそろ夏休みだし、クラスのみんなで打ち上げやろうって話なんだけど!」
「えっと、うん。打ち上げ、だね……」
「女子にも声かけたくてさ! 綾瀬さんから言ってくれたら、絶対盛り上がるって!」
「あの……でも、勝手に決めちゃうのはちょっと……」
「そっか、そりゃ勝手に決めるのはまずいよな。……でもさ、綾瀬さんから声かけてもらえたら、みんな話聞いてくれると思うんだ」
「えぇ……でも、他の子にも聞いてみないと……」
相槌を打つ彼女の声には、明らかな困惑が混じっている。
それでも声の主は構わず、次から次へとテンポよく話題を繰り出していく。
「そっかそっか! じゃあ気が向いた時でいいから、聞いといてくれない?」
「う、うん……」
「あとさ、打ち上げの場所なんだけど、駅前のあそこに新しくできた……」
声の主は、三桜さんの隣の席の立花陽斗だった。
彼は自分の席から身を乗り出すようにして、三桜さんに熱弁を振るっている。
明るめの茶髪に、ゆるく崩したネクタイ。
声がよく響き、身振りが大きく、いかにもクラスの中心にいるような陽気なやつだ。
休み時間でも、教室のどこにいても、立花の笑い声だけは耳に届く。
対する三桜さんは、少し身を引くような姿勢になっていた。
困ったような、けれど持ち前の愛想の良さで曖昧な笑顔を浮かべて、懸命に相槌を打っている。
口の端は上がっているのに、瞳は助けを求めるように泳いでいる――彼女特有の、断れない時の困り笑いだ。
立花の直球で押しの強いコミュニケーションに、完全にペースを握られているのがありありと伝わってきた。
俺は少し歩みを速め、彼女の席の横に立った。
「三桜さん、ノート返しに来た。これ、すごく助かった。ありがとう」
「あ、誠くんっ!」
「急に声かけて悪かったな。今、平気か?」
「ううん、全然! すっごく平気!」
息を吐くように俺の名前を呼んだ瞬間、三桜さんの顔がパッと明るくなった。
まるでずっと待ち望んでいた助け舟が来たかのように、勢いよく立ち上がる。
だが、安堵のあまり慌てすぎたせいで、彼女の足が椅子の脚に引っかかった。
「あっ……!」
ぐらりと体勢を崩し、小さな身体が前へ傾く。
「っと」
俺はとっさに手を伸ばし、彼女の二の腕を掴んで支えた。
「ふわっ……! ご、ごめっ……」
「椅子の脚、引っかかったんだろ。……足、ひねってないか?」
「ううん、どこも……」
掌に伝わる、頼りないくらい細い二の腕。
そういえば昨日も、階段で段ボール箱ごと彼女を受け止めたばかりだ。
……この子は、本当に危なっかしい。
見上げてくる瞳がうるっと潤んで、眉尻が申し訳なさそうに下がっている。
俺の心臓が少しだけうるさく鳴った。
「……気をつけろよ。あんまり慌てると怪我するぞ」
なんとか平静を装って声をかけると、三桜さんは「う、うん……」と小さく頷いた。
「ごめんね、誠くん。私、どんくさいから……」
「どんくさくはないだろ。ただ、ちょっと焦りすぎだ」
「えへへ、ありがとう、誠くん」
少しだけ顔を赤らめながら、彼女はゆっくりと身を起こす。
けれど、俺から離れるどころか、そのまま俺のシャツの袖をきゅっと小さな手で掴んできた。
そして半歩だけ、俺の背中に隠れるようにしてピタリと立ち止まる。
袖越しに伝わってくる彼女の体温。
すぐ後ろで彼女が身じろぎするたび、空気がかすかに揺れる。
肩越しに見下ろすと、その顔には明らかな安堵の色が浮かんでいた。
先ほどまでの無理に作った困り笑いが嘘みたいに消えて、ほっとしたような柔らかい表情がほどけている。
「お、相沢じゃん。お前ら、相変わらず仲いいよなー」
立花が気さくな調子で、からっとした笑顔のまま声をかけてきた。
嫌味や冷やかしの色は微塵もない、純粋な感嘆の声だ。
「ノート返しに来ただけだ。邪魔したか?」
「全然! いやー、綾瀬さん、話しやすくてさ。俺、気づいたらずっと喋ってた」
「お前が一人で喋り続けてただけじゃないのか?」
「マジ? あー、俺またやっちゃってたかー。綾瀬さん、ごめんね! 俺、一回話し出すと止まんなくてさ」
「う、ううん。そんなことないよ、立花くん。あのね、お話、とっても楽しかったの」
ぺこぺこと頭を下げる立花に、三桜さんが慌てて首を振る。
俺は半分だけ立花のほうへ向き直った。
「話すのはいいけどな、三桜さんの返事が置いてけぼりになってたぞ」
「あー、ほんとだ。ごめんごめん、俺、全然気づかなかった」
立花が頭をがりがりと掻いて、照れくさそうに笑う。
本当に悪気のない顔だった。
ただ押しが強くて声が大きいだけで、その言葉にも態度にも嘘がない。
決して嫌味なやつではないし、むしろ裏表のない、気持ちのいいやつだ。
だからこそ、他人の好意を無下にできない優しい三桜さんは、適当にあしらうことができなかったのだろう。
「それはそうと、綾瀬さんもさっきの件さ、急がなくていいから。気が向いた時にでも教えてくれれば大丈夫だから」
「あ、うん……ありがとう、立花くん」
「おう! 相沢も、またな!」
「ああ、また明日」
背中に隠れたままの三桜さんが、俺の袖を掴んだまま小さく頷く。
立花は「おっし」と声を上げて、自分の鞄を漁り始めた。
帰り支度に意識が移ったらしく、三桜さんの方にはもう視線を向けていない。
立花の興味が逸れたのを確認して、俺は背中の彼女へ半身を向けると、声のトーンを落とした。
「そういえば、三桜さん」
「へ? な、なに?」
「ノートの最後の方に描いてあったあの犬のイラスト、あれ何犬だ?」
「えっ!? あ、あれは見ちゃダメなやつだよぉ! ただの落書きだもん!」
三桜さんが、あわててノートを胸元に隠すように抱え込んだ。
「耳が垂れてたから、ビーグルか? それともダックスフンド?」
「ち、違うもん! ゴールデンレトリバーだもん!」
「ゴールデンにしては丸すぎなかったか?」
「うぅ……だから落書きなんだってばぁ……」
ノートを胸に抱えたまま、三桜さんが赤い顔で唸る。
「けっこう上手かったと思うけどな。ああいうの、俺は嫌いじゃない」
「ほんとに……?」
「ほんとだ」
「もう、誠くんのいじわるぅ……」
抗議するように唇を尖らせながらも、その声からはさっきまでの無理な力みがすっかり抜けていた。
俺の存在が彼女にとっての安心感に繋がっているなら、これほど嬉しいことはない。
俺の袖を掴む手の力が、少しだけ緩むのを感じる。
けれど。
「……断れなかったか?」
さらに小声で尋ねると、三桜さんは俺の袖をきゅっと握り直すようにして、おずおずと上目遣いで顔を上げた。
「……ちょっとだけ」
「立花、あいつは悪気はないんだけど、ペースが速いからな」
「うん。声が大きくて、勢いがあって、元気で……すごくいい人なんだけど」
「けど?」
「……ただ、あの勢いに、ついていけないだけなの。私、すぐ言葉が出なくなっちゃって」
気まずそうに笑ってから、彼女は続ける。
「でもね。さっき、『他の子にも聞いてみないと』って言えたの。断ったわけじゃないけど……ちょっとだけ、自分の気持ちを挟めた、かな」
「そうだな。前みたいに全部引き受けちゃってた時より、ずっといい」
「ほんと? 私、少しは進歩してる?」
――ああ。
数日前の購買裏で、野良猫を撫でながら交わした約束を思い出す。
もしいっぱい頼まれて止まれなくなったら、止めてほしい。
あの時、彼女はそう言った。
そして今、彼女は自分から少しだけブレーキをかけることができた。
その小さな芽は、ほんの少しずつだが、確かに伸びている。
「練習中だもんな。少しずつでいい」
「うん。……誠くんが止めてくれるって言ってくれたから、少しだけ勇気が出たのかも」
「俺はただノートを返しに来ただけだろ」
「ううん。誠くんの声が聞こえただけで、すごく安心したの」
「……そうか」
「うん」
三桜さんが、花が綻ぶように柔らかく頬を緩める。
立花がすぐ隣にいた時には、どこにも見当たらなかったはずの、素の無防備な笑顔。
それを見て、俺の胸の奥を一瞬、ほろ苦いものが走った。
自分が無理をしていることを相手に上手く伝えられない、彼女の優しさと不器用さが痛いほど伝わってくる。
「じゃ、俺、席戻るな。二葉さんそろそろ帰ってくると思うし」
「あ……うん」
離れかけた三桜さんの手が、俺の袖の上で一度止まった。
その指先が、言葉の代わりみたいに小さく動く。
「まだ何かあるか?」
「ううん。なんでもない」
「……あんまり一人で抱え込むなよ。また何かあったら、いつでも声かけてくれ」
「うんっ! ありがとう、誠くん」
名残惜しそうに袖から手を離し、三桜さんがぺこりと頭を下げた。
俺はそれに軽く手を挙げて応えると、背を向けて教室の後方へ向かって歩き出す。
数歩、進んだところだった。
「――あ、そうだ綾瀬さん! さっきの店の話なんだけどさ……」
背後で、立花がまた三桜さんに話しかける声が聞こえた。
さっきと何も変わらない、明るくて、押しの強い、よく通る声。
前を向いたまま歩く。
振り返る理由はない。
立花は三桜さんに話しかけている。
それだけのことだ。
クラスメイト同士の、ごく普通の会話だ。
立花は裏表のないいいやつだし、三桜さんも少しずつ自分の意見を言えるようになっている。
俺が口出しすることじゃない。
けれど。
どくん、と胸の奥で何かが重く跳ねて――一瞬、足が止まりかけた。
靴底が床のワックスに張り付いたみたいに、歩幅が不自然に縮まる。
まるで、自分の知らないところで何かが引っかかったような。
名もなき違和感が、確かな重さを持って俺を引き留めようとした。
自分でも、その理由が分からなかった。




