第88話 頼まれ事と、三桜の『いいよ』
二葉さんの宣言通り、俺の放課後は彼女の完全な管理下に置かれることになった。
二葉さんに対策ノートを渡された、その翌日。
俺の数学の点数を引き上げるためのスパルタ指導は、初日から一切の妥協がない。
ただ、今日は教員から頼まれた学級雑務で職員室に寄ると言って、二葉さんが席を外していた。
各教科分の連絡書類の受け取りで、しばらく時間がかかるらしい。
俺はその空き時間を利用して、購買裏のスペースへと足を向けるつもりだった。
三桜さんを誘って、いつもの野良猫の様子を見に行こうと思ったのだ。
だが、声をかけようと席を立ったところで、教室の前のドアからふらふらと廊下へ歩み出ていく三桜さんの姿が目に留まった。
その細い腕には、彼女の上半身ほどもある大きな段ボール箱が抱えられている。
「三桜ちゃーん、ごめんね! 図書室の奥に運んでおいてくれる? 部活急がなきゃでさぁ!」
箱を押し付けたらしい女子生徒が、背後から拝むように手を合わせ、足早に去っていくのが見えた。
頼んだ方も、深い悪気があるわけではないのだろう。
転校からのこの数ヶ月で、三桜さんが嫌な顔ひとつせず何でも引き受けてしまうことを、クラスの誰もが知っているからだ。
「……また、断れなかったんだな」
俺は小さくため息をつき、慌てて彼女の後を追いかけた。
中身がぎっしり詰まっているらしく、箱を抱えた三桜さんの足取りはひどく危なっかしい。
階段の踊り場に差し掛かったところで、案の定、三桜さんの短いボブカットがぐらりと揺れた。
「ふうっ……よい、しょっと……」
「三桜さん、俺が持つよ」
「ひゃあ!? あ、誠くん……うわっとと!」
背後から声をかけたのがまずかったのか、彼女は振り返ろうとして完全にバランスを崩した。
傾く段ボール箱。
俺は階段を二段飛ばしで駆け上がり、落ちてくる箱ごと彼女の身体を正面から受け止めた。
「っと、危ない!」
「きゃっ……ご、ごめんなさい!」
どん、と柔らかい衝撃が俺の胸元に飛び込んでくる。
箱を下から支えるように腕を回すと、必然的に彼女の身体をすっぽりと抱き込むような体勢になった。
制服越しに小動物のような華奢な肩のラインと、予想以上の柔らかさがダイレクトに伝わってくる。
顔が触れ合いそうなほどの至近距離。
ベビーパウダーのような甘さが、吐息の届く近さで香った。
「……怪我、ないか?」
「う、うん。大丈夫……あわわ、誠くん、近、近いよぉ……っ」
三桜さんの顔が、ぼんっと音がしそうな勢いで真っ赤に染まる。
彼女は潤んだ目をぱちぱちと瞬きさせながら、俺の腕の中で身を縮めた。
「悪い。って、これめちゃくちゃ重いな。何が入ってるんだ?」
俺は誤魔化すように箱を引き取り、踊り場の端に下ろした。
ずしりとした重量感。
これだけのものを、彼女の細い腕で一人で運ぼうとしていたのか。
「えっとね、図書委員さんが使ってる古い資料帳なんだって」
「図書委員? 三桜さん、図書委員じゃないよな」
「うん。でも、あの子、部活に急いでるみたいだったから」
へへっ、と照れ隠しのように笑って、三桜さんは埃のついた手のひらを軽くはたいた。
「三桜さん、最近こういうの多くないか? 昨日も、誰かの日直の仕事、手伝ってたよな」
「あー……うん。ちょっとだけね」
「ちょっとだけじゃないだろ。ここんとこ、毎日なにかしら引き受けてるだろ」
「あはは……大丈夫だよ? どれも、大したことじゃないし」
「その大丈夫、自分に言い聞かせてるみたいに聞こえる」
俺が少し強めの口調で指摘すると、三桜さんはしゅんとしたように俯いた。
額にはうっすらと汗が浮かび、制服の襟元が少し乱れている。
胸の前で、指がもじもじと絡まり合った。
俺はため息をつきながら、そのまくれ上がった袖口を軽く直してやった。
「だって、頼まれちゃうと、断れなくて……」
「どうして? 自分が忙しい時や、無理な時は断ってもいいんだぞ。猫のところに行く予定だってあっただろ」
「……いいの」
ぽつり、とこぼれた声は、いつもの明るい彼女からは想像できないほど弱々しかった。
「私が『いいよ』って引き受ければ、その子は助かるでしょ?」
「それはそうかもしれないけど、三桜さんが倒れたら元も子もないだろ」
「でも……私、そういうふうにしか、みんなの役に立てないから」
ぎゅっと、彼女が自分のスカートの裾を握りしめる。
「私、一花お姉ちゃんみたいに周りを明るく引っぱれないし、二葉ちゃんみたいに頭も良くないし……」
「三桜さん」
「何かしてあげないと、私なんて、ただの迷惑なポンコツになっちゃうもん」
冗談みたいな言い方なのに、語尾だけが力なく落ちた。
「……前の学校のときも、こうだったんだ」
三桜さんは、自分の上履きのつま先を見つめたまま、静かに言葉を継いだ。
「頼まれたら、いいよって言って。そうしてたら、みんなの中にいられたから……」
そこで言葉を区切って、彼女はふるふると首を横に振った。
まるで、それ以上を口にしてしまいそうな自分を止めるみたいに。
「で、でも! 今は違うよ! ここのみんなは優しいし、全然嫌じゃないの。本当に」
「嫌じゃないのは分かってる。三桜さんは優しいから、本当に嫌じゃないんだと思う。……手、貸して」
俺は迷わず手を伸ばし、スカートを握りしめていた彼女の両手を包み込んだ。
夏の放課後だというのに、彼女の指先はひどく冷たかった。
「ま、誠くん……?」
「でも、自分のしたいことを後回しにしてまで引き受けるのは、優しさとはちょっと違うだろ」
「……わがままって、思わない?」
伏せていた顔が、ほんの少しだけ持ち上がる。
「自分のしたいことを先にするの。みんなが頼んでくれてるのに、それを後にして」
その問いかけは、あまりにも切実だった。
三桜さんにとって、自分の望みを口にすることは——わがまま、なのか。
「思わないよ。俺だって、猫を見に行くほうを先にするしな」
俺は彼女の目線を逃がさないように、真っ直ぐに見つめ返した。
「役に立つとか立たないとか、そういうのは関係ない。三桜さんが笑って俺の横にいてくれるだけで、俺はすごく助かってる。だから、無理して笑う必要なんてないし、誰かの代わりになろうとする必要もない」
「……でも、私」
「本当に嫌な時や、無理な時は、嫌だって言っていい。断っても、三桜さんの価値は絶対に減らないから」
静かな踊り場に、俺の声だけが落ちる。
三桜さんは目を見開いたまま、俺の言葉を一つ一つ咀嚼するように瞬きを繰り返した。
「……減らない、かな?」
「減らない。俺が保証する」
彼女は小さく息を吸い込み、俺の手に包まれた自分の指先を見つめた。
やがて、その指先にきゅっと力が込められ、俺の手を握り返してくる。
冷たかった肌に、じんわりと確かな温もりが戻ってきていた。
「……そっか。誠くんがそう言うなら、そうなのかな」
「ああ。だから、この箱は俺が一緒に運ぶ。でも、次は少しだけ、自分のために断ってみる練習をしよう」
「自分のための、練習……」
三桜さんはその言葉を舌の上で転がすように反芻し、それから、ふにゃりと柔らかく笑った。
「……うん。わかった。次は、ほんの少しだけ……『ごめんね、今は無理なの』って、言ってみる」
それは、本当にささやかな一歩だ。
けれど、『いいよ』しか言えなかった彼女の中に、小さな芽がひとつ、確かに顔を出していた。
「よし。じゃあ、まずはこれを書庫にぶち込んで、それから猫だ」
「あ、うん! 今日もいてくれるかなぁ」
「急がないと、先に寝られるぞ」
「猫ちゃん、寝てるのがお仕事なんだよぉ!」
いつもの明るさを取り戻した声が、階段に響く。
俺が段ボール箱を持ち上げると、三桜さんはぱたぱたと横に並んで歩き出した。
第一書庫に箱を置き、俺たちは足早に購買裏へ向かった。
雲の厚い空の下、校舎の裏手に回ると、茶トラの野良猫がブロック塀の上で丸くなっていた。
「あ、いた! 今日も来てくれたねぇ」
三桜さんがしゃがみ込むと、猫は面倒くさそうに片目を開け、それから彼女の膝にすりすりと頭を押し付けてきた。
俺も隣にしゃがみ込み、そっと頭に手を伸ばしてみる。
「こいつ、三桜さんには甘えるくせに、俺が撫でようとしても匂いを嗅ぐだけなんだよな」
「えへへ。猫ちゃん、私のこと好きだもんね」
猫の喉がごろごろと鳴っている。
三桜さんは猫の背中を撫でながら、静かに微笑んでいた。
無理をして作り笑いをしていた少し前とは違う、穏やかで無邪気な表情。
「誠くん」
「ん?」
猫を撫でていた手を止めて、三桜さんがこちらを向いた。
少し恥ずかしそうに視線を泳がせてから、俺の目をまっすぐに覗き込む。
「……また今度、もしいっぱい頼まれて、自分じゃ止まれなくなったら」
少しだけ躊躇うように、けれど確かな意思を持って、彼女は言った。
「止めてくれる?」
頼まれ事を断れない三桜さんが、俺に頼み事をしている。
それがどれだけ大きな一歩なのか、たぶん本人は気づいていない。
「任された」
俺が頷くと、三桜さんは嬉しそうに目を細め、再び猫の背中へと視線を落とした。
彼女が少しだけ見せてくれた、自分のための小さな意思。
その余韻は、曇天の空の下でも、じんわりと、けれど確かに温かく残っていた。




