第87話 二葉の対策ノート、あなただけを見ている
終業式が近づいてきた。
六時間目のあとの短いホームルームが終わると、教室は夏休みを目前に控えた浮ついた喧騒に一気に包み込まれた。
「今年はどこ行くー? 海?」
「バイト決まったから、遊ぶ暇ないんだよなあ」
「俺、夏期講習組なんだよ……最終日以外は絶望だぞ」
解放感と嘆きが入り混じるクラスメイトたちの声をBGMに、俺は自分の机の上で、開いた手帳のカレンダーをぼんやりと指でなぞっていた。
先月の期末テストの結果は、良くも悪くも中の上といったところだ。
壊滅的な点数ではないものの、応用問題でいくつか痛いミスをしており、手放しで喜べるような結果ではなかった。
夏休みの計画を考えるほど、あの取りこぼした問題の悔しさが、じわりと蘇ってくる。
「……はぁ。やっぱり、最後の公式の展開で引っかかってたよな」
ため息をつきながら、数学の答案用紙の赤いバツ印を頭の中で辿る。
夏休みを目前にして、クラス中が浮かれた空気を満喫しているというのに。
俺一人だけが、予定を立てようとした矢先に蘇ってきた悔しさに、じわじわと胸を塞がれていた。
「……ため息をつくと、幸せが逃げるわよ、マコト」
ふいに、左隣から静かな声が降ってきた。
視線を向けると、二葉さんが自分の席から身を乗り出すようにして、俺の顔を覗き込んでいた。
「二葉さん。……何をそんなに、じっと見てるんだよ」
「マコトの浮かない顔を眺めていたの。……大方、返ってきた数学の答案を思い出していたのでしょう。あの最後の大問、符号のミスで全滅していたわね。相変わらず、詰めが甘い」
「うっ……見事に急所を突かれた」
きっちりと着こなした制服姿の彼女は、呆れたような、けれどどこか柔らかい眼差しで俺の顔を見つめている。
二葉さんの期末テストの結果は、暴力的なまでに完璧だった。
数学の九十八点をはじめ、他の教科もほぼ満点。
学年トップクラスの成績が返却された時、クラス中がざわついたのを俺は今も鮮明に覚えている。
「二葉さんは数学、九十八点だったんだよな。相変わらず凄いよ。……でも、あの答案返却の時、なんか不満そうな顔してなかったか?」
「当然よ。最後の計算でつまらないミスをしたわ。私としたことが、らしくない」
「二点マイナスでらしくないって……学年トップクラスの基準は厳しすぎるだろ」
俺が苦笑すると、二葉さんは小さく肩をすくめた。
「マコトのその点数に対する危機感の無さの方が、私にとっては驚きだわ」
「ぐうの音も出ないよ。自分でも、この辺りは少し怪しいと思ってたんだけどな」
「怪しいと分かっていながら放置したの? ……それは感心しないわね」
「正論すぎる。返す言葉もない……」
容赦のない指摘に肩を落としていると、放課後の教室からは、少しずつ人が減っていった。
椅子を引く音、鞄のファスナーを閉める音。
部活へ向かう者や、遊びに行く者。
それぞれの日常へと戻っていくクラスメイトたちの背中を、俺はぼんやりと見送った。
「マコト」
「ん? どうした?」
クラスの半数以上がいなくなった教室で、二葉さんは自分の椅子を少し引きずり、俺の机へとぴたりと寄せてきた。
ただでさえ近い隣の席からの、さらなる接近。
彼女が机に腕を重ねてこちらへ体を傾けると、俺の腕がまるごと押し返されるほどの弾力が、制服ごと乗り上げてくる。
スレンダーな印象を与える彼女の輪郭からは想像もつかない、豊満な柔らかさ。
息を継いだ拍子に、清涼感のあるシャンプーの香りが思考の芯まで滑り込んでくる。
「……っ」
服越しに伝わってくる柔らかな感触と高めの体温に、俺の心臓が急にうるさく鳴り始める。
逃げ場のない距離感に動揺している俺をよそに、二葉さんは淡々とした手つきで、自分の鞄から一冊の分厚いノートを取り出した。
「これ、使いなさい」
「ノート? これって……二葉さんのまとめノートか?」
「いいえ。マコト専用の対策ノートよ」
渡されたノートを開いて、俺は言葉を失った。
そこには、美しい文字でびっしりと数式や解説が書き込まれていた。
ただの授業ノートではない。
俺が間違えた数学の応用問題と、その類題。
さらには英語の長文読解のつまずきやすいポイントや、物理の公式の派生までが、完璧な構成でまとめられている。
俺の弱点だけを抽出した、完全に俺のためだけの参考書だった。
「返却された答案を細かく分析して、あなたが夏休みに補うべき範囲を、各教科ごとに一週間かけて整理しておいたの」
「え……この一週間、俺の弁当の仕込みもしてくれてただろ? いつこんなの作ったんだよ」
「並行処理くらいできるわ。仕込みなんて、待っている時間の方が長いもの」
「昨日の夜、日付が変わる前に布団に入れって言ってきたの、どこの誰だったかな」
「……私の睡眠時間には問題ないから、気にしないで。それより、数学のページを見て」
二葉さんはさらに距離を詰め、俺の持つノートを横から覗き込んできた。
肩と肩が触れ合い、彼女の体温が直に伝わってくる。
ノートの端を指差す彼女の白い指先を追いかけようとしても、どうしても視線が、腕に押し当てられている胸元の柔らかな膨らみへと吸い寄せられそうになる。
これは、まずい。
いろいろな意味で思考が追いつかない。
「……マコト。目線が泳いでいるわ」
「泳いでない。ちゃんとノートを見てる」
嘘だ。
視線の半分は、ノートの外にある。
「そう。では、私がいま指していたのはどの単元かしら?」
「…………」
「やり直しよ」
指先が、ページの一点をこつりと叩いた。
「ここ。あなたが間違えた問題の根本的な原因は、この公式の変形を理解していないからよ。だから、こっちの基礎問題から解き直しなさい」
「あ、ああ……なるほど。確かに、ここが抜け落ちてたわ」
「分かればいいの。今日中にこの三ページ分、終わらせるわよ」
有無を言わさない委員長のような口調。
けれど、そのノートに込められた労力は、ただの親切や世話焼きの範疇を優に超えている。
「これ、本当に俺のためだけに、一から作ってくれたのか……?」
「ええ、そうよ。マコトがどこでつまずくかなんて、私には手に取るように分かるの」
「そりゃ、毎日隣にいるから……」
「隣にいるからじゃないわ」
二葉さんは、きっぱりと俺の言葉を遮った。
「私が、いつもあなたのことばかり考えているからよ」
「……え」
「あなたのペンの止まり方、視線の動き、ため息のタイミング……全部、私の頭から離れないの。だから、どこが理解できていないかくらい、感覚で分かるわ」
俺の弱点を完全に把握し、俺のためだけに専用の対策ノートを一から作り上げる。
その重すぎるほどの熱量と、彼女が俺に向けてくれている途方もない執着が、ページをめくるたびにひしひしと伝わってきた。
ノートの隅には、ここは必ず見直すこと、という小さく几帳面なメモ書きまで添えられている。
言われた通りにシャープペンを握って、三ページ分の基礎問題を上から順に潰していく。
隣では、二葉さんが赤ペンのキャップを外して待ち構えていた。
「違う。そこで両辺を展開したでしょう。前は無駄がないと褒めたけれど、あなたはその解き方で符号を落としたの。恒等式は代入で片がつくわ」
「うわ、手のひら返しが早い……」
「次」
褒めもしないし、慰めもしない。
間違えれば違う、正解すれば次。
それだけの繰り返しだ。
赤ペンを持った手が、俺の解答の脇に短い印だけを落としていく。
けれど、その淡々とした往復が、不思議と嫌ではなかった。
「——次は類題ね。ここからここまで、続けて解きなさい」
「……休憩は?」
「全部終わってからよ。あなたが取りこぼしたのは、この形の問題だもの。数をこなす以外に道はないわ」
二葉さんは赤ペンのキャップを指先でくるりと回すと、俺の手元のページを次へ送った。
「英語も同じ。マコトは語彙力があるのに、骨組みを意識しないから長文で失速するの。夏休みのうちに、構文の取り方から徹底的にやり直すわ」
「……よくもまあ、そこまで細かく調べたな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
三十分ほどで、ノートの数学のページは俺の字で埋まっていた。
詰まりそうな箇所には、必ず一行だけ補足が添えてある。
解けば解くほど、このノートの精度が身に沁みた。
「……あのさ、二葉さん」
「……何かしら。どこか、解説が分かりにくいところでもあった?」
「いや、そうじゃなくて。……ここまで俺のこと、見ててくれたんだな」
俺の言葉に、ノートを指差していた二葉さんの手が、ぴたりと止まった。
「……」
彼女はゆっくりと顔を上げ、俺の目を見た。
いつもは冷静で理知的な瞳が、ほんの少しだけ揺れているように見えた。
「……迷惑、だったかしら?」
「え?」
「頼まれてもいないのに、勝手にあなたの弱点を把握して、こんなノートまで作って押し付けて」
二葉さんの声は、いつもの淡々とした調子とは違い、どこか自信なげに細く震えていた。
机の下で、彼女の手が自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめているのが見える。
「……ここまでされると、重いって……引く?」
いつも何もかも見通したような顔をしている二葉さんが、俺の返事ひとつを、本気で怖がっている。
机の下で裾を握りしめたまま、まばたきも忘れて答えを待っている。
「引くわけないだろ」
俺は迷わず、はっきりと口にした。
「むしろ、すごく嬉しいよ。俺のためにここまで時間を使ってくれて……二葉さんが隣にいてくれて、本当に助かった」
「……っ」
「ありがとう、二葉さん。このノート、絶対無駄にしないから」
真っ直ぐに伝えると、二葉さんはわずかに目を見開いた後、ふいっと顔を逸らした。
しかし、至近距離にいるせいで、彼女の耳の端までが真っ赤に染まっているのは隠しきれていない。
スカートを握りしめていた手から力が抜け、代わりに、彼女の指先が俺の制服の袖口を、ちいさく、けれど確かな力でつまんだ。
「……ばか」
吐息のような、小さな呟き。
押し付けられていた柔らかな感触が一度離れ、今度は彼女の頭が、ことり、と俺の肩に軽く預けられた。
「……マコトがそこまで言うなら、当分の放課後は、マコトの時間を私がもらうわ」
俺のために時間を割く、じゃない。
俺の時間そのものを、欲しがっている。
「ああ、お願いするよ。スパルタ指導で頼む」
「ええ。覚悟しておきなさい……逃がさないから」
肩越しに聞こえる声は、さっきまでの硬さが嘘のようにほどけていて、甘い熱を帯びていた。
誰もいなくなった放課後の教室。
窓から吹き込む夏の風が、重なっていた彼女の体温を静かにかすめていく。
俺たちは顔を見合わせて、小さく笑い合った。
少しだけほどけた二葉さんの表情の余韻が、夏の午後の教室に、いつまでも優しく残っていた。




