第86話 戻らない嫁と、四人の温度
夏休みが視界に入り始めた、七月なかばの月曜日。
昼休みの教室は、開け放たれた窓から流れ込む熱気と、屈託のないざわめきに包まれていた。
「今日の放課後、カラオケ行こうぜ!」
「相沢はどうする? 今日、暇か?」
クラスメイトの声に、俺は軽く手を振り返した。
「悪い、今日は先約があってさ」
「おっ、そっか。じゃあまたな」
次々と席を立ち、購買や中庭へ散っていく騒がしさを背中で聞きながら、俺は一人で大きく伸びをした。
開け放たれた窓から、じっとりとした夏の風が吹き込んでくる。
それと同時に、ズボンのポケットに入れていたスマホが小刻みに震え始めた。
画面を開くと、並んだ四つの個人トークと、一番上に固定された五人グループから、ひっきりなしに言葉が飛んできている。
あの水族館の帰り、ラーメン屋の席で誰かが「連絡先バラバラは不便でしょ」と言い出して作った、五人だけの部屋だ。
最初は集合連絡用のつもりだったのが、今や写真や愚痴まで飛び交う賑やかなトークルームに育っている。
いつからだろう。
通知が来ていなくても、スマホを開いたときに最初に探す画面が変わっていた。
以前は『エデン・オンライン』のコンパニオンアプリを真っ先に開いていた。
ルナの最終ログインが今日になっていないか、それだけを確かめるためだ。
今は——この画面を、先に開いている。
はっきりした境界は、思い出せなかった。
先週の金曜日は、四人との約束を嵐のように消化する一日だった。
約束通り朝の迎えに立った一花さんは、改札を出た俺を見つけるなり、遠慮のかけらもなく腕を絡めてきた。
二の腕に伝わる柔らかさと、顔が寄った瞬間にかすめた柑橘系の香水。
あの無防備な距離感のバグり方は、朝から心臓に悪かった。
昼休みには、二葉さんからきっちりカロリー計算された三段重を押し付けられた。
机越しに身を乗り出してきた時の、制服の下に隠された圧倒的な質量。
弁当箱を受け取る際、不意に指先が絡め取られるように触れ合った時の、ひんやりとしたなめらかな体温に、彼女の静かな独占欲が透けて見えた。
放課後は三桜さんと一緒に、購買裏の野良猫を撫でた。
しゃがみ込んだ拍子にバランスを崩した彼女が、俺の肩に全体重を預けてきた時の華奢な感触。
小動物のように高い体温が、肩越しに嘘のない温もりを伝えてきた。
そして極めつけは、新作パンを両手に掲げて突撃してきた篠崎だ。
勢い余って俺の胸元に飛び込んできた時の、小さな体からは想像できない柔らかな衝撃。
あの日から週末を挟んで今朝までの間、四人からのメッセージは鳴り止まなかった。
「うわっ……つめたっ! なんだよ」
不意に、無防備な頬に氷のように冷たい物体を押し当てられ、俺は変な声を出して飛び上がった。
振り返ると、結露したペットボトルを片手に持った一花さんが、面白そうに笑って立っていた。
「お疲れ。頭から煙出てるかと思ったら、案外平気そうじゃん。はい、これ」
「……冷やすならもうちょっと手加減しろよ。心臓止まるかと思った」
「大げさだなぁ」
一花さんは俺の机に軽く手をついて、こちらの顔を覗き込んでくる。
「ほら。お礼のひと口目は、あたしの前で飲むこと」
「……飲む前から感想の催促か」
「いいから」
押し付けられた桃のソーダの蓋を開けて、ひと口飲む。
甘くて冷たい炭酸が、火照った喉を滑り落ちていった。
「……美味い」
「でしょ」
満足げに笑って、一花さんは自分の分のペットボトルを開けた。
「あたしの奢り。感謝してよね」
「悪いな。ごちそうさま。って、なんでわざわざ俺の分まで?」
「べ、別に。自販機で当たりが出てもう一本もらえたから、しょうがなく誠に恵んであげただけだし」
「……一花さん、学校の自販機にルーレット機能なんてついてないだろ」
「うるさい! 細かいこと気にするとハゲるよ!」
「理不尽すぎるだろ……」
痛いところを突かれたのか、一花さんは僅かに頬を染めてそっぽを向いた。
そんな彼女の分かりやすい自爆に苦笑しながら、俺は鞄から二葉さんの作ってくれた弁当箱を取り出す。
当の本人は、三桜さんの忘れ物に付き合わされて職員室へ出向いている。
丁寧に詰められたおかずは、隙間なく美しく配置されていた。
いつもより少しだけ手が込んでいるのが分かる。
箸を伸ばして、煮物をひとつ口に運んだ。
味が、きちんと芯まで染みている。
と、手元のスマホが震えた。
『誠くん! 二葉ちゃんね、今日のお弁当、朝からずっと作り直してたんだよ!』
グループのトークに投下された、三桜さんからのタレコミだった。
すかさず二葉さんから制止が入る。
『三桜。余計な報告は不要よ。マコトは黙って、栄養を摂取すればいいの』
文面は普段どおり冷静なのに、几帳面なはずの読点が、ひとつだけ余計な場所に落ちている。
『ありがとう、二葉さん。これ、すごく美味いよ』
『……当然よ。夏の暑さを見越したカロリーも計算してあるから。残さず食べなさい』
『ちゃんと全部食べるよ』
俺が返信を送る裏で、さらに三桜さんが畳み掛ける。
『だって本当だもん! 一花お姉ちゃんみたいに炒り卵焦がして換気扇回してたわけじゃないんだから、いいでしょ!』
『……ちょっと三桜、なんでそこであたしへの流れ弾が来るわけ!?』
『一花お姉ちゃん、あの時すごい煙出てたよ……?』
『三桜、あんたどっちの味方なの』
『え、えっと、中立……?』
次々とグループトークに流れる三姉妹のやり取りを見て、俺は思わず顔を上げた。
目の前の一花さんが、スマホの画面を睨みつけながら凄まじい速度でフリック入力している。
「一花さん、卵焦がしたことあるのか?」
「べ、別に焦がしてないし! ちょっと焼き色が濃くなっただけだから!」
「なるほど、見栄えの問題か」
「もう、三桜のやつ、みんなのいるところで余計なことばっかり言って……!」
画面の中での言い合いと、目の前で耳まで赤くしている一花さんの様子に、俺は堪えきれずに吹き出した。
さらにそこへ、篠崎から個人トークに勢いだけのスタンプと文字が飛んでくる。
『センパイっ! 今日の放課後は一緒に帰りますからね! 五秒でそっちに行きますから逃げちゃダメですよ!』
『五秒って……俺、逃げる予定なんてないぞ』
『念のためです! 教室前で捕獲しますからね!』
目の前に一人、画面の中に三人。
教室の喧騒よりも、彼女たちの声のほうがすぐ耳元で騒いでいるように錯覚する。
ひっきりなしに鳴る通知音が、妙に心地よかった。
◇
夜。
夕食を済ませてシャワーを浴びた俺は、自室の机に向かっていた。
クーラーの効いた部屋は静かで、昼間の解放感が嘘のように落ち着いている。
パソコンの電源を入れ、見慣れたアイコンをクリックした。
『エデン・オンライン』のログイン画面から、いつものように広場へと降り立つ。
夜の広場は、多くのプレイヤーたちで賑わっていた。
行き交うアバターの間を縫って、俺は【リオン】を操作してメニューを開く。
フレンドリストのタブを選択した。
——【ルナ】 オフライン
灰色の文字が、冷たくそこにあった。
あの時、『利用制限中』というシステムメッセージを見てから、もう二週間近くになる。
運営の一時的なペナルティか、システムのエラーか。
詳しい理由は未だに分からないままだ。
「……一時制限にしちゃ、長いな」
それ以上は、あまり考えないようにしていた。
考えたところで、今の俺にできることは何もない。
俺はインベントリを開き、アイテムの整理をしてみる。
そこには、ルナと一緒に集めた素材アイテムが手つかずのまま残っていた。
『これ、後で武器の強化に使うから取っておいてね!』
『分かった。でも、ルナの分の素材は足りてるのか?』
『私は大丈夫。リオンの火力が上がった方が、パーティ全体の効率がいいから』
『……そっか。じゃあ、遠慮なく使わせてもらうよ』
『うん! 次ログインした時、一緒に鍛冶屋に行こうね』
過去のチャットの記憶が、アイテムのアイコンを見るだけで鮮明に蘇ってくる。
明日はどこへ行くか、何を作るかといった他愛のない会話。
しかし、ルナとのチャットログをどれだけ遡っても、新しいメッセージは一向に追加されない。
灰色のオフライン表示が、無言のまま俺を突き放してくる。
俺は【リオン】を歩かせ、武器屋の前の通りを抜けた。
いつもなら、ここでルナと待ち合わせをして、今日の狩り場を決めていた。
アイテム屋の横の掲示板の前も、二人で一緒にクエストを選んだ場所だ。
どれも、ルナがいたから意味のあった場所だった。
ゲームの中の景色はあの日から少しも変わっていないのに、どこか作り物めいて見える。
そのまま広場の中央に戻り、噴水前のベンチに腰を下ろした。
いつもなら、ログインした瞬間にチャットが飛んできたはずだ。
『おかえり、リオン! 今日はどこに行く?』
『ただいま、ルナ。そうだな……昨日手に入れた地図のエリア、行ってみるか』
『賛成! 準備できたら声かけてね』
その言葉がないだけで、エデンの世界はひどく色褪せて見えた。
隣の空席を見つめていると、会えない時間の長さがじわじわと実感に変わっていく。
ルナがいないエデンは、ただの綺麗な電子の箱庭でしかない。
「……寂しいな」
口にしてから、苦笑した。
こういうことは、普段は言わない。
その静寂を破るように、机の上のスマホがブルッと震えた。
『明日の朝も駅前で待っててあげよっか? 朝からあたしの顔見たいっしょ?』
『別にあんたのためじゃないけどね。ただの気まぐれだから』
一花さんからのメッセージだった。
気まぐれが、何度続いても気まぐれと言い張る人だ。
俺はゆっくりと文字を打ち込む。
『ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかな』
『素直で可愛いじゃん。あ、今日の一本はちゃんと貸しにしといたから』
そのすぐ後に、立て続けに通知が鳴る。
『今日の弁当、味はどうだった? 明日のリクエストがあるなら、カロリー計算に組み込むけれど』
『すごく美味しかったよ。リクエストは……二葉さんの得意なものでいいよ』
『……分かった。期待しておきなさい』
二葉さんへの返信を終えると、今度は三桜さんからだ。
『誠くん! 猫ちゃん、また一緒に見に行こうね!』
『ああ、行くよ。どうせまた俺だけ塩対応されるんだろうけど』
『えへへ、今度は誠くんにも懐いてくれるかもだよ!』
最後に、篠崎からスタンプと共に言葉が届く。
『センパイ! 今日の帰り道、楽しかったですね!』
『ああ。でも、また五秒で教室に突撃してくるのは勘弁してくれ』
『えーっ! じゃあ明日は三秒で着くようにダッシュしますね!』
篠崎の語尾は、文字になってもいちいち跳ねている。
四人からの言葉が、次々と画面を埋め尽くしていく。
文字の癖も距離の詰め方も、全員違う。
それなのに、この時間に揃って俺へ送ってくることだけは、きれいに一致している。
暗い部屋の中で、スマホの画面が明るく光り、手の中に確かな振動を伝えてくる。
ルナがいない喪失感。
そのぽっかりと空いた穴の輪郭を、現実の四人の気配が、騒がしく、そして優しく埋めようとしていた。
彼女たちの体温が、スマホの熱を通してすぐそばにあるように感じられる。
と、画面のいちばん上に、新しい通知が滑り込んできた。
『マコト。日付が変わる前に布団に入ること。夜更かしは許さない。いいわね』
「……はいはい、わかってるよ」
思わず声に出して笑ってしまった。
画面の向こうの管理は、今夜もきっちり通常運転だ。
『わかった。もう寝るよ。おやすみ、二葉さん』
『よろしい。おやすみなさい、マコト』
俺は灰色のフレンドリストから、ゆっくりと目を逸らした。
今日もルナは戻らない。
けれど、俺は一人じゃなかった。




