第85話 俺の答えと、小さな棘
帰宅してシャワーを浴びて、ようやく自室のベッドに仰向けに倒れ込んだのは、九時を回った頃だった。
七月の夜は少し蒸していて、エアコンの冷えた風が、ひんやりとしたシーツの感触とともに背中を包んだ。
机の上に放り出したカバンからは、今日一日を共にしたノートが顔を覗かせている。
長い一日だった。
放課後、一花さんと二人きりになった教室。
昇降口で合流した二葉さんと三桜さんは、案の定、待ちくたびれて少しだけご機嫌斜めだった。
四人で駅前の商店街まで歩いて、約束通り、アイスを奢らされた。
一花さんは宣言よりさらに上を行って、いちばん高いカップのやつを選び、勝ち誇った顔で俺に会計を押しつけた。
右から三桜さんに腕を引かれ、左からは二葉さんが無言で俺の歩幅を管理してくる。
その二人ごとまとめてからかうみたいに、前を歩く一花さんが振り返って笑う。
アイス一つで二葉さんたちの機嫌があっさり直ったのは、正直助かった。
機嫌が直れば直ったで、三人ぶんの声は最後まで止まらなかった。
食べ終えた三人がタワーマンションの方へ帰っていくのを見送って、俺は一人、電車に揺られて帰ってきた。
一人になった部屋で天井を見上げていても、あの余韻はまだ胸の奥で、確かな熱を持ってじんわりと居座っている。
——手放したくない。
我ながら、呆れるくらいに欲張りだと思う。
胸の底で輪郭を持ち始めたその想いは、教室で一花さんに告げた時よりも、ずっとはっきりしている。
そっと目を閉じると、四人の顔と声が、順番に浮かんでくる。
「あのデート、あんたどう思ったの」
「あの子、本物だったの?」
夕暮れの教室で、背もたれ越しにこちらを向いた一花さんの横顔。
いつも小悪魔みたいに余裕ぶって、距離感をバグらせてからかってくる。
でも、俺が今の方を大事にしたいと答えた時、ふとした瞬間に見せた、あの不器用で壊れそうな顔。
からかいの下に不安を沈めて、挑発と笑顔で上から蓋をしている。
素顔を見せることを、たぶん本人が思っているよりずっと恐れている。
「それ、二葉とか三桜にも言ったりしないでよ」
「言ったら許さないから」
——言わない。
あの言葉は、俺たちだけの秘密だ。
だから、もう泣きそうな顔はしないでほしい。
「マコトの体調を三十年先まで管理するのは、私の役目なのだから」
「隣にいたいから、譲らない。たとえ、相手が一花や三桜でも」
淡々とした声の裏側に、隠しきれないほどの重い熱を抱えている二葉さん。
理屈を並べて建前で武装しながらも、俺の隣という特等席だけは頑なに手放そうとしない。
肩が触れた時の、きっちりした見た目とは裏腹の、思いがけないやわらかさ。
ハート型にくり抜いた卵焼きを一花さんに暴かれた時は、耳だけが赤くなっていた。
無茶をしてるのは、二葉さんの方じゃないのか。
三十年先の体調まで管理しようとするなんて、いくらなんでも過保護すぎるだろ、と胸の内で苦笑する。
でも——嫌じゃないんだから、困る。
その独占欲は、言葉ではなく行動で伝わってくる。
「誠くん最近なんかちょっと元気なさそうだったから」
「誠くんの特別に、なります。ぜったいに、なってみせます!」
誰よりも素直で、感情が全部表に出てしまう三桜さん。
計算なんてできなくて、俺が疲れている時は真っ直ぐに気遣ってくれる。
涙目で抱きついてきた時の、小動物みたいな華奢な体温と、甘いベビーパウダーの匂い。
——ちゃんと、受け止めるから。
その代わり、いきなり泣きながら飛びついてくるのは心臓に悪いから、少しは勘弁してほしい。
打算のないその勢いが、俺の警戒心をいつの間にか溶かしてしまう。
「センパイが困ってたのはわかりました。迷子みたいな顔してましたから」
「センパイは私たちが守ります!」
小柄な体で、誰よりも元気に距離を詰めてくる篠崎。
俺の迷いや疲弊をいち早く見抜いて、下から覗き込んでくるときの真っ直ぐな瞳。
俺を守ると言って前に立ってくれた時の、小さな背中と力強い声。
俺の変化にいちばん早く気づいて、後輩のくせに盾になろうとしてくれるあの健気さ。
置いていくわけないだろ、大切な後輩なんだから。
明日も何かあったら、また呼んでくれていい。
俺にだけ見せてくれる安心したような笑顔を、もっと守ってやりたいと思う。
……そして。
「信じて」
「私が、あなたの本当のルナだから」
完璧な記憶と証拠を持って、俺の前に現れた天道琴音。
品のある紺のブレザーと、迷いのない眼差し。
あの子が提示した事実は、推理のパズルとしては一切の隙がない。
頭の中の理屈だけなら、天道がルナだと結論づけたくなる材料が揃っている。
情報の正確さなら、誰よりも完璧だった。
けれど、温度が違った。
言葉はどこまでも正確なのに、画面の向こうで三年かけて積もっていったはずのぬくもりが、あの完璧さからは伝わってこなかった。
——ルナには、ずっと救われてきたんだ。
誰が本物のルナなのか。
三人のうちの誰かか、それとも天道なのか。
その答えは、未だに出ない。
天道が見せた完璧すぎる証拠と、三姉妹が時折見せるルナの面影。
何度巡らせても、答えは一つに絞れなかった。
だけど、もう迷いはない。
——たとえ誰が本物のルナでも。
今までの時間を、嘘にしたくない。
俺がこの数ヶ月間で触れてきたのは、ただのゲームデータでも、文字の記録でもない。
体温があって、匂いがあって、笑って、怒って、泣きそうになる彼女たち自身だ。
一花さんの不器用な笑顔も。
二葉さんの重すぎるほどの想いも。
三桜さんの真っ直ぐな温もりも。
篠崎の無防備な信頼も。
全部、俺が現実で受け取ってきた、本物の温度だ。
天道が提示した完璧な記憶という事実も、俺は否定しない。
あの子は、四人の壁に阻まれても、それでもまた校門の前に立つ。
その想いも、きっと本物なのだろう。
だとしたら、天道琴音という新しい存在も含めて、俺は彼女たちと正面から向き合う。
ルナの正体を追う探偵としてじゃなく、ただの俺として。
誰かを切り捨てるためじゃない。
全員の温度を、俺自身で確かめるためだ。
胸の内で言葉にするたび、腹の底が静かに固まっていく。
そのためなら、どんな真実だって受け止めてみせる。
胸につかえていた何かが、すっと消えていく感覚があった。
大きく息を吐き出し、ベッドから体を起こす。
と、机の上のスマホが震えた。
「誠、今日のアイス、高いだけあって美味しかったし。また奢ってくれてもいいよ?」
一花さんだった。
礼を言っているようで、ちゃっかり次の約束を取り付けようとしている。
「あと、二葉たちの機嫌取り、ちゃんと手伝ってあげたでしょ。貸しにしとくから」
「明日の朝も駅前で待ってるから。寝坊したら容赦なく置いてくから、覚悟しときなさいよね」
手伝った、というか。
アイスを頬張りながら「奢らせてあげたんだから、むしろ感謝してほしいんだけど」と胸を張っていただけな気がする。
返信を打つ前に、また震えた。
「マコト。アイスの分、明日の弁当でカロリーを調整する。異論は認めない」
「それと、夜更かしはしない。睡眠は七時間を下回らないこと。いいわね」
二葉さんの文面は今夜もきっちり整っていて、句点の位置まで几帳面だった。
カップひとつでどこまで管理されるんだ。
「誠くん、見て見て! 購買裏の猫ちゃん、今日は膝に乗ってくれたの!」
「明日は誠くんにも撫でさせてあげるからね!」
「おやすみなさい、誠くん! また明日!」
三桜さんからは、夕方の光の中で腹を見せて眠る野良猫の写真が三枚。
警戒心のかけらもないその寝顔が、正直、ちょっと羨ましい。
「センパイ、明日は購買の新作パン、私が並んでセンパイの分も確保しときますから!」
「あ、私、明日は早起きなので先に寝ちゃいますね! おやすみなさいです!」
篠崎は今日も通常運転だった。
四人分の通知が、狭い画面の中でわいわいと騒いでいる。
今日の帰り道の続きが、そのまま手のひらの上まで追いかけてきたみたいだった。
一花さんに、「アイスはまた今度な。明日、よろしく」と軽くかわし。
二葉さんに、もう寝ると約束し。
三桜さんに、猫によろしくと返し。
篠崎に、パンは楽しみにしてると打って——スマホを机の端に伏せた。
そのまま机の前に座り、パソコンの電源を入れた。
モニターの横では、【ルナ】のアクリルスタンドが、いつもの角度でこちらを見上げている。
ログイン画面を抜けて、夜の広場に【リオン】が降り立つ。
フレンドリストを開く。
【ルナ】のアイコンは、灰色に沈んだままだ。
ルナのアカウントは、まだ戻らないままだった。
その事実が、部屋の空気に音もなく積もっていく。
あの完璧な少女が現れた直後にルナが消えた。
偶然か?
小さな棘が胸に刺さったまま、俺は静かにウィンドウを閉じ、机の上のスタンドライトを消した。




