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三年間愛を育んだネトゲ嫁が三つ子になって転校してきた〜「「「私があなたのお嫁さんだよ?」」」三姉妹全員が譲らない、甘くて騒がしい正妻戦争〜  作者: ハイさん
第3章 四人目のルナと、完璧すぎる記憶

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第84話 教室に二人、飲み込んだ空白

木曜日の放課後。

 日直の日誌を職員室に届けて教室に戻ると、もう誰もいなかった。


 西日が差し込む窓際で、机の上の荷物をカバンに詰める。

 昨日の夕方、五人で騒がしく帰った通学路の声が、まだ耳の奥に残っていた。

 左右から腕を引かれ、前でつまずく後輩を咄嗟に支える。

 四人が集まれば、どうしたって息つく暇もないカオスになる。


 だけど、あの騒がしさが心地よかった。

 一人で静かに過ごしていた数ヶ月前には戻りたくないと、はっきりと思った。

 誰もいない教室の静けさが、今は少しだけ物足りない。


「……あれ。誠、まだ残ってたんだ」


 ふいに、開け放たれた後ろのドアから声がした。

 振り返ると、鞄を肩にかけた一花さんが立っていた。

 少し驚いたように目を丸くしている。


「一花さん。二葉さんと三桜さんは?」


「二葉は図書室で本返すって。三桜は購買の裏で野良猫と遊んでる」


「野良猫なんていたのか。三桜さん、引っ掻かれないといいけど」


「最近住み着いてるらしいよ。猫見つけた途端に『にゃんこー!』って突撃してったから、もう止めらんないって」


「相変わらずだな……で、一花さんは?」


「あたしはスマホの充電器忘れちゃってさ、取りに戻ってきたの。バッテリー残り二パーセントでさ、マジで死活問題」


 言いながら、一花さんは自分の席に歩み寄り、机の中から白いケーブルを引っ張り出した。


「あったあった。これないと、今夜スマホが文鎮になるとこだったし」


 一花さんはケーブルをくるくると巻いて、鞄の口に放り込んだ。

 そのまま帰るのかと思いきや、なぜか俺の席の方へと真っ直ぐに向かってくる。


「日直、お疲れさま」


 一花さんは俺の目の前で立ち止まると、前かがみになって机に両手をついた。

 途端に、距離がゼロになる。

 緩んだ襟元の奥、白い谷間が真上から視界に落ちてくる。

 衣擦れの音が、やけに近くで鳴る。


「……近いって」


「んー? そう? 別に普通っしょ」


 一花さんは悪びれる様子もなく、むしろさらに身を乗り出してきた。

 華奢な腕が俺の机を囲い込むように伸び、退路を断たれる。

 見下ろしてくる瞳の端に、小悪魔のような笑みが浮かんでいた。

 細い腰のラインから伸びる脚が、俺の膝に触れそうなくらい近い。

 服越しでもわかるほどの熱が、そこにある。


「普通じゃない。誰もいない教室でそういうことするの、心臓に悪いからやめてくれ」


「えー。誰もいないからいいじゃん。誠、あたしと二人きりになれて嬉しいくせに」


「からかうなよ。誰か来たらどうするんだ」


「誰も来ないって。みんな部活か、とっくに帰ってるし。それに、もし見られても『あ、お邪魔しましたー』ってドア閉められるだけだし」


「余計にタチが悪いだろ、それ」


 からかうように喉を鳴らして、一花さんの顔がさらに近づく。

 吐息が、頬にかかる。

 本当に、この人は距離感がバグっている。

 逃げ場がない状況に冷や汗をかきながら、俺はなんとか視線を逸らそうと抵抗した。


「……用事済んだなら、早く三桜さんたちのところに戻ってやれよ」


「照れちゃって、可愛い。ま、いいけど」


 一花さんは軽く笑うと、机から体を離した。

 ほっと息を吐いたのも束の間、彼女は俺の前の席にどさりと座り、くるりと背もたれ越しにこちらを向いた。

 そのまま腕を重ねて、そこに顎を乗せる。

 垂れた毛先が、西日を透かして金色に光っていた。


「静かだね」


「……ああ」


「昨日あんだけ騒がしかったのに。二葉の三段重とか、三桜のクッキーとか」


 声のどこかに、懐かしむような響きが混じっていた。

 たった一日前のことなのに。


「篠崎の焼きそばパンもな。俺のと被っただけで運命扱いされた」


「運命のパンね。あんなので運命認定してたら、購買が運命だらけになるって」


 一花さんが顎を乗せたまま、可笑しそうに肩を揺らす。


「あのノリ、疲れるっしょ」


「疲れる」


「即答じゃん」


「疲れるけど——嫌じゃないよ」


 腕に乗せた顎が、わずかに浮いた。

 それからすぐに、一花さんが口の端を持ち上げる。


「へぇ。誠がそういうこと言うの、珍しいね」


「そうかな」


「そうだよ。いっつも近すぎるだの離れろだの言ってるくせにさ」


「……否定はしないけど」


 一花さんが笑った。

 教室の中に、その音だけが落ちて溶けた。

 開いた窓から、生ぬるい風が流れ込んでくる。

 湿った空気の底に、遠くから蝉の声が細く混じっていた。


「あのさ、誠」


 不意に、声のトーンが一段落ちた。

 顎を乗せたまま、顔がわずかに逸れる。

 さっきまでの軽薄なからかいの色が消え、夕陽に照らされた一花さんの横顔に、かすかな影が落ちる。

 軽さの底にあった何かが、ひとつ浮いてきた。


「……ん?」


 間があった。

 短いけれど、普段の一花さんにはない種類の間だった。


「あのデート、あんたどう思ったの。あの子、本物だったの?」


 冗談半分を装いながらも、声の奥に隠しきれない本気が滲んでいた。

 探るような、恐れるような視線。


「……」


 俺は少しだけ口ごもった。

 この前の土曜、天道が並べてみせた完璧すぎる証拠。

 過去のやり取りを、一字一句違わず再現した記憶。


 推理のパズルとしては、天道が本物だと認めるしかない材料が揃っている。

 あの子が見せたものは、確かに本物に見えた。

 けれど——。


「……わからない」


「わからないの? 誠にしてはずいぶん曖昧じゃん」


 その目の奥が、笑っていなかった。

 俺は、一花さんの目を真っ直ぐに見返した。


「わからないけど……俺は、本物かどうかより、今の方を大事にしたいと思った」


「今、って?」


「一花さんたち四人といる、今の時間だよ。昨日の帰り道みたいな、あの騒がしくて呆れるくらい近い距離を、俺は手放したくないんだ」


 教室が、静まった。

 蝉の声も、校庭から届いていた部活の掛け声も、ふっと遠ざかった。

 風が止まったわけではないのに、空気だけが動きを止めたような気がした。


 一花さんは、一瞬だけ言葉を失ったように目を丸くした。

 背もたれに預けていた体が、わずかに硬直する。

 唇が薄く開いて、何か言いかけて——言葉にならなかった。


 あの朝を、思い出した。

 天道が現れたばかりの頃——通学路で、俺が一花さんの腕を反射的に振り払ってしまった、あの朝。

 貼りつけていた笑みが剥がれて、下に何もない空白が覗いた一瞬。

 誰にも見せたくなかったものが、不意に露出してしまった空白。

 あの下に何があったのか、一花さんは教えてくれないまま、笑って隠した。


 今は——違っていた。

 空白ではなかった。

 何かが溢れそうで、それを必死に飲み込もうとしている。

 ほっとしたような、泣きそうなような——どちらにもなりきれないまま、境目の上で揺れている顔だった。


「……ふぅん」


 一花さんの声が、かすかにかすれた。

 こちらから目を逸らして、ふいっと窓の外に視線を逃がす。


「ま、いいんじゃない。誠がそう言うならさ」


 軽い声だった。

 いつもの一花さんに戻ろうとしている。

 けれど立ち上がりが、コンマ数秒だけ遅かった。

 あの朝と同じずれ——ただし今回は、笑い方を間違えたのではなく、笑い以外のものを押し込めるための遅れだった。

 俺が腕を振り払ってしまったあの日の傷が、少しだけ塞がったような気がした。


「あの子、全部知ってたんでしょ。あたしたちじゃ敵わないくらい、完璧だったかもしれないのに」


「そうかもしれない。でも、俺が一緒にいたいのは、今の騒がしい連中だからさ」


「何それ、あたしたちが騒がしいって言いたいの?」


 一花さんが、少しだけ口を尖らせた。


「まあ、控えめに言ってカオスだな」


「ムカつく。じゃあもっとカオスにしてやるし」


 一花さんは小さく鼻を鳴らした。

 それからすっと席を立ち、鞄を肩にかけ直す。

 教室のドアに向かう途中で、ふと足を止めた。

 振り返らないまま、ぽつりと言う。


「ねえ、誠」


「ん」


「——それ、二葉とか三桜にも言ったりしないでよ」


 声は軽かった。

 いつもの茶化し。

 けれどその底に、聞き取れないほど薄い、けれど確かに手触りのある何かが敷かれていた。


「言わないよ」


「ふーん。言ったら許さないから」


 一花さんがドアの手前で振り返り、背中越しに小さく笑った。

 夕陽が睫毛の先に引っかかって、きらりと光る。

 いつもの挑発でも、虚勢でもない。

 もっと小さくて、もっと壊れやすい——安心に近い、そんな不器用な笑顔だった。


「ほら、早く帰ろ。二葉たち、待ちくたびれて怒ってるかもね」


「そうだな。急ごう」


「アイス奢ってくれたら、二葉たちの機嫌取るの、手伝ってあげてもいいよ」


「わかった、奢るよ。何がいい?」


「んー、今日はちょっと高めのやつにしよっかな」


 俺もカバンを手に取り、一花さんの後を追うように歩き出す。

 肩の力が抜けたその後ろ姿が、窓からの光を受けて柔らかく滲んでいる。


 誰が本物のルナなのか。

 その謎はまだ解けていない。

 だけど。


 夕陽の中、前を歩く一花さんの背中を見つめながら。


 ——俺の答えは、もう決まってる。

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