第84話 教室に二人、飲み込んだ空白
木曜日の放課後。
日直の日誌を職員室に届けて教室に戻ると、もう誰もいなかった。
西日が差し込む窓際で、机の上の荷物をカバンに詰める。
昨日の夕方、五人で騒がしく帰った通学路の声が、まだ耳の奥に残っていた。
左右から腕を引かれ、前でつまずく後輩を咄嗟に支える。
四人が集まれば、どうしたって息つく暇もないカオスになる。
だけど、あの騒がしさが心地よかった。
一人で静かに過ごしていた数ヶ月前には戻りたくないと、はっきりと思った。
誰もいない教室の静けさが、今は少しだけ物足りない。
「……あれ。誠、まだ残ってたんだ」
ふいに、開け放たれた後ろのドアから声がした。
振り返ると、鞄を肩にかけた一花さんが立っていた。
少し驚いたように目を丸くしている。
「一花さん。二葉さんと三桜さんは?」
「二葉は図書室で本返すって。三桜は購買の裏で野良猫と遊んでる」
「野良猫なんていたのか。三桜さん、引っ掻かれないといいけど」
「最近住み着いてるらしいよ。猫見つけた途端に『にゃんこー!』って突撃してったから、もう止めらんないって」
「相変わらずだな……で、一花さんは?」
「あたしはスマホの充電器忘れちゃってさ、取りに戻ってきたの。バッテリー残り二パーセントでさ、マジで死活問題」
言いながら、一花さんは自分の席に歩み寄り、机の中から白いケーブルを引っ張り出した。
「あったあった。これないと、今夜スマホが文鎮になるとこだったし」
一花さんはケーブルをくるくると巻いて、鞄の口に放り込んだ。
そのまま帰るのかと思いきや、なぜか俺の席の方へと真っ直ぐに向かってくる。
「日直、お疲れさま」
一花さんは俺の目の前で立ち止まると、前かがみになって机に両手をついた。
途端に、距離がゼロになる。
緩んだ襟元の奥、白い谷間が真上から視界に落ちてくる。
衣擦れの音が、やけに近くで鳴る。
「……近いって」
「んー? そう? 別に普通っしょ」
一花さんは悪びれる様子もなく、むしろさらに身を乗り出してきた。
華奢な腕が俺の机を囲い込むように伸び、退路を断たれる。
見下ろしてくる瞳の端に、小悪魔のような笑みが浮かんでいた。
細い腰のラインから伸びる脚が、俺の膝に触れそうなくらい近い。
服越しでもわかるほどの熱が、そこにある。
「普通じゃない。誰もいない教室でそういうことするの、心臓に悪いからやめてくれ」
「えー。誰もいないからいいじゃん。誠、あたしと二人きりになれて嬉しいくせに」
「からかうなよ。誰か来たらどうするんだ」
「誰も来ないって。みんな部活か、とっくに帰ってるし。それに、もし見られても『あ、お邪魔しましたー』ってドア閉められるだけだし」
「余計にタチが悪いだろ、それ」
からかうように喉を鳴らして、一花さんの顔がさらに近づく。
吐息が、頬にかかる。
本当に、この人は距離感がバグっている。
逃げ場がない状況に冷や汗をかきながら、俺はなんとか視線を逸らそうと抵抗した。
「……用事済んだなら、早く三桜さんたちのところに戻ってやれよ」
「照れちゃって、可愛い。ま、いいけど」
一花さんは軽く笑うと、机から体を離した。
ほっと息を吐いたのも束の間、彼女は俺の前の席にどさりと座り、くるりと背もたれ越しにこちらを向いた。
そのまま腕を重ねて、そこに顎を乗せる。
垂れた毛先が、西日を透かして金色に光っていた。
「静かだね」
「……ああ」
「昨日あんだけ騒がしかったのに。二葉の三段重とか、三桜のクッキーとか」
声のどこかに、懐かしむような響きが混じっていた。
たった一日前のことなのに。
「篠崎の焼きそばパンもな。俺のと被っただけで運命扱いされた」
「運命のパンね。あんなので運命認定してたら、購買が運命だらけになるって」
一花さんが顎を乗せたまま、可笑しそうに肩を揺らす。
「あのノリ、疲れるっしょ」
「疲れる」
「即答じゃん」
「疲れるけど——嫌じゃないよ」
腕に乗せた顎が、わずかに浮いた。
それからすぐに、一花さんが口の端を持ち上げる。
「へぇ。誠がそういうこと言うの、珍しいね」
「そうかな」
「そうだよ。いっつも近すぎるだの離れろだの言ってるくせにさ」
「……否定はしないけど」
一花さんが笑った。
教室の中に、その音だけが落ちて溶けた。
開いた窓から、生ぬるい風が流れ込んでくる。
湿った空気の底に、遠くから蝉の声が細く混じっていた。
「あのさ、誠」
不意に、声のトーンが一段落ちた。
顎を乗せたまま、顔がわずかに逸れる。
さっきまでの軽薄なからかいの色が消え、夕陽に照らされた一花さんの横顔に、かすかな影が落ちる。
軽さの底にあった何かが、ひとつ浮いてきた。
「……ん?」
間があった。
短いけれど、普段の一花さんにはない種類の間だった。
「あのデート、あんたどう思ったの。あの子、本物だったの?」
冗談半分を装いながらも、声の奥に隠しきれない本気が滲んでいた。
探るような、恐れるような視線。
「……」
俺は少しだけ口ごもった。
この前の土曜、天道が並べてみせた完璧すぎる証拠。
過去のやり取りを、一字一句違わず再現した記憶。
推理のパズルとしては、天道が本物だと認めるしかない材料が揃っている。
あの子が見せたものは、確かに本物に見えた。
けれど——。
「……わからない」
「わからないの? 誠にしてはずいぶん曖昧じゃん」
その目の奥が、笑っていなかった。
俺は、一花さんの目を真っ直ぐに見返した。
「わからないけど……俺は、本物かどうかより、今の方を大事にしたいと思った」
「今、って?」
「一花さんたち四人といる、今の時間だよ。昨日の帰り道みたいな、あの騒がしくて呆れるくらい近い距離を、俺は手放したくないんだ」
教室が、静まった。
蝉の声も、校庭から届いていた部活の掛け声も、ふっと遠ざかった。
風が止まったわけではないのに、空気だけが動きを止めたような気がした。
一花さんは、一瞬だけ言葉を失ったように目を丸くした。
背もたれに預けていた体が、わずかに硬直する。
唇が薄く開いて、何か言いかけて——言葉にならなかった。
あの朝を、思い出した。
天道が現れたばかりの頃——通学路で、俺が一花さんの腕を反射的に振り払ってしまった、あの朝。
貼りつけていた笑みが剥がれて、下に何もない空白が覗いた一瞬。
誰にも見せたくなかったものが、不意に露出してしまった空白。
あの下に何があったのか、一花さんは教えてくれないまま、笑って隠した。
今は——違っていた。
空白ではなかった。
何かが溢れそうで、それを必死に飲み込もうとしている。
ほっとしたような、泣きそうなような——どちらにもなりきれないまま、境目の上で揺れている顔だった。
「……ふぅん」
一花さんの声が、かすかにかすれた。
こちらから目を逸らして、ふいっと窓の外に視線を逃がす。
「ま、いいんじゃない。誠がそう言うならさ」
軽い声だった。
いつもの一花さんに戻ろうとしている。
けれど立ち上がりが、コンマ数秒だけ遅かった。
あの朝と同じずれ——ただし今回は、笑い方を間違えたのではなく、笑い以外のものを押し込めるための遅れだった。
俺が腕を振り払ってしまったあの日の傷が、少しだけ塞がったような気がした。
「あの子、全部知ってたんでしょ。あたしたちじゃ敵わないくらい、完璧だったかもしれないのに」
「そうかもしれない。でも、俺が一緒にいたいのは、今の騒がしい連中だからさ」
「何それ、あたしたちが騒がしいって言いたいの?」
一花さんが、少しだけ口を尖らせた。
「まあ、控えめに言ってカオスだな」
「ムカつく。じゃあもっとカオスにしてやるし」
一花さんは小さく鼻を鳴らした。
それからすっと席を立ち、鞄を肩にかけ直す。
教室のドアに向かう途中で、ふと足を止めた。
振り返らないまま、ぽつりと言う。
「ねえ、誠」
「ん」
「——それ、二葉とか三桜にも言ったりしないでよ」
声は軽かった。
いつもの茶化し。
けれどその底に、聞き取れないほど薄い、けれど確かに手触りのある何かが敷かれていた。
「言わないよ」
「ふーん。言ったら許さないから」
一花さんがドアの手前で振り返り、背中越しに小さく笑った。
夕陽が睫毛の先に引っかかって、きらりと光る。
いつもの挑発でも、虚勢でもない。
もっと小さくて、もっと壊れやすい——安心に近い、そんな不器用な笑顔だった。
「ほら、早く帰ろ。二葉たち、待ちくたびれて怒ってるかもね」
「そうだな。急ごう」
「アイス奢ってくれたら、二葉たちの機嫌取るの、手伝ってあげてもいいよ」
「わかった、奢るよ。何がいい?」
「んー、今日はちょっと高めのやつにしよっかな」
俺もカバンを手に取り、一花さんの後を追うように歩き出す。
肩の力が抜けたその後ろ姿が、窓からの光を受けて柔らかく滲んでいる。
誰が本物のルナなのか。
その謎はまだ解けていない。
だけど。
夕陽の中、前を歩く一花さんの背中を見つめながら。
——俺の答えは、もう決まってる。




