第83話 完全包囲網、五人の日常
水曜日の昼休み。
四時間目のチャイムが鳴り終わるやいなや、俺は喧騒に包まれた教室から逃げるように中庭へと向かった。
先週まではただの習慣だったけれど、今はどちらかというと生存戦略に近い。
教室でパンの袋を開けた瞬間、三方向から弁当箱と菓子袋が押し寄せてくるのだ。
晴れ渡った七月の空の下、吹き抜ける風は心地よい。
大きな桜の木の下にあるベンチに腰を下ろし、購買で買ってきたばかりの焼きそばパンとメロンパンの袋をガサガサと開ける。
昨日の帰り道から続く、妙にくすぐったい心持ちを、一人で静かに持て余したかった。
だが、そんなささやかな平穏は、三十秒と持たなかった。
「合理的に考えて、市販のパン二つだけでは炭水化物と脂質に栄養が偏りすぎるわ」
すっ、と左隣に冷ややかな影が落ちた。
すとんと音もなく腰を下ろしたのは、二葉さんだ。
教室でも中庭でも、その位置は彼女の指定席だった。
きっちりと第一ボタンまで留められた制服に、一糸の乱れもない黒髪のストレートロング。
優等生のお手本のような彼女は、なぜか俺の膝の上に、場違いなほど立派な黒塗りの三段重をどんと置いた。
「……二葉さん、これ、重箱? というか、お弁当?」
「成長期の男子に必要な一食あたりのたんぱく質を計算したら、一段では収まらなかっただけよ」
無表情のまま淡々と言う二葉さんだが、その言葉とは裏腹に、距離がやけに近い。
ベンチにはいくらでもスペースがあるというのに、彼女の肩が俺の左腕にぴたりと触れている。
きっちりとした細身のシルエットからは想像もつかない、予想以上の柔らかさと重みが服越しにむにゅっと押し付けられてきた。
これは、まずい。
「いい、いや、いくらなんでも近すぎないか……? っていうか、なんで三段もあるんだ。一人で食べる量じゃないぞ」
「マコトの体調を三十年先まで管理するのは、私の役目なのだから。ほら、口を開けて」
二葉さんが重箱の蓋を開けると、中には彩り豊かなおかずが芸術品のように並んでいた。
ほうれん草のお浸しに、色鮮やかなミニトマト、そして……。
「ちょっと待った二葉! それ、一番下の段、全部ハート型にくり抜いた卵焼きじゃん!」
右側から身を乗り出してきたのは、一花さんだ。
「……っ、見ないで」
二葉さんがわずかに耳の縁を染め、慌てて重箱の底を隠そうとする。
一花さんはそんな二葉さんを鼻で笑うと、今度は俺の右腕に自分の腕をきゅっと絡ませてきた。
ゆるく巻かれた明るい茶髪が、俺の肩口にさらりとこぼれ落ちる。
「あたしも今日、外で食べよーと思っててさ。偶然じゃん?」
「……毎日偶然って言ってるな、それ」
「毎日偶然なの。世の中って奇跡に溢れてるんだよ」
偶然のわけがなかった。
「で、誠。あんな重たいお弁当より、あたしの手作りサンドイッチ食べなよ。朝早く起きて作ってきたんだから」
そう言いながら、一花さんは上目遣いで俺を覗き込んでくる。
わざとらしく着崩された制服の襟元がわずかにたわみ、整った谷間の白いラインがはっきりと見えた。
耳元にかかる甘い吐息に、心臓が跳ねる。
「いや、俺のパンが……」
「誠くん! 食後のデザート焼いてきたんだよぉ!」
正面から勢いよく飛び込んできたのは、三桜さんだった。
勢い余ってつまずきかけ、俺の胸にぽふっと飛び込んでくる。
華奢な体が腕の中にすっぽりと収まり、小動物のような温かさと柔らかさが胸いっぱいに広がった。
「危ないぞ、三桜さん。転んだらどうするんだ」
「えへへ、ごめんね。でも誠くんが受け止めてくれるって信じてたから! はい、特製クッキー!」
俺の胸元に顔を埋めながら、三桜さんが不器用な手つきで可愛らしくラッピングされた袋を差し出す。
袋の中からは、バターと砂糖の甘い香りが漂ってきた。
「ちょっと三桜、あんた昨日練習で砂糖と塩間違えてたっしょ」
一花さんがジト目で袋を指差す。
「き、今日は間違えてないもん! 昨日三回焼き直して、ちゃんと味見もしたよ!」
「合理的に考えて、三桜の味覚を無条件に信じるのはリスクが高すぎるわ。私が毒見する」
二葉さんが横からクッキーを一つひょいと摘まみ、小さくかじった。
「……甘いわね」
「ほらぁ! 言ったでしょ!」
「甘すぎるわ。マコトの血糖値が急上昇して午後の授業に支障が出るレベルよ。没収」
「そんなぁ!」
「三桜先輩、その袋、下のほうに真っ黒焦げのやつ透けてますよ!」
ベンチの後ろからひょっこり顔を出したのは、篠崎だった。
「わわっ、心花ちゃん! しーっ、それは内緒ー!」
「残念、もうバッチリ聞こえちゃってますよー。あっ、センパーイ! 私も購買のカレーパンと焼きそばパン買ってきました! 一緒に食べましょ!」
篠崎はベンチの背もたれをひらりと乗り越え、俺の背中にドスッと寄りかかってきた。
ボーイッシュな着崩しからは到底想像できない、確かな胸の重みが背中にのしかかる。
思わぬ落差に、息が詰まった。
「——てか、すっごい囲まれてますね、センパイ」
「……お前で完成した」
「えー、私が最後ですかぁ」
「ちょっと篠崎ちゃん、炭水化物の中に炭水化物を入れるなんて、重すぎるって」
横から一花さんがツッコミを入れると、篠崎は俺の背中越しに口をとがらせた。
「センパイは育ち盛りですから! ね、センパイ!」
「あいにく、俺はもう焼きそばパンとメロンパンを持ってる」
「えっ! じゃあお揃いのパンですね! 運命です!」
「私もお揃いのパンがいい!」
「三桜は黙ってなさい。マコト、まずはこのほうれん草から——」
四人の声が入り乱れ、俺は深くため息をついた。
「お前ら、近すぎるって……もう少し離れてくれ」
左からは二葉さんの柔らかな圧、右からは一花さんの密着、正面には三桜さんの体温、背中には篠崎の重み。
完全に逃げ場がない。
まるで四方から同時に締め上げられているようだ。
「いいじゃん、誠は黙ってあたしたちに養われてれば。ねえ、あーんしてあげるから口開けて?」
「一花お姉ちゃんずるい! 私も誠くんに焦げてないクッキーあーんしてあげる!」
「綾瀬先輩たちばっかりずるいです! センパイは私とお揃いの焼きそばパン食べるんです!」
四人の声が中庭に響き渡る。
結局俺は降参して、ほうれん草の次に差し出された卵焼きを口に運んだ。
出汁がしっかり利いていて、素直にうまい。
「……うまい」
二葉さんの箸がぴたりと止まった。
それから視線をすっと逸らして、自分の弁当に目を落とす。
「……そう」
声が、小さかった。
「ずっるーい。二葉、あんたそれ狙ったでしょ」
「何のことかしら」
「味の好みバッチリ合わせてきてさぁ、それもう——」
一花さんが口を止めた。
自分で言いかけた言葉に、自分で気づいた顔をしている。
「……今のなし」
「一花。今のは正確な指摘だったわ」
「うっさい!」
一花さんが二葉さんの肩を小突く。
二葉さんは表情を崩さなかったが、耳の縁がまた一段と赤くなったのを、俺は見逃さなかった。
その一花さんが、俺の肩に頭をもたせかけてきた。
甘い柑橘の香りが、風に紛れてかすかに届く。
「誠。あたし眠い」
「昼飯の途中だろ」
「誠の肩、枕にちょうどいいんだもん」
体温が、肩越しに染み込んでくる。
「……もうちょっとだけ、こうしてたい」
声が一瞬だけ下がった。
いつもの軽さとは違う、何かがこぼれかけた声だった。
俺が何も返せずにいるうちに、一花さんは肩から頭を離す。
——離したくせに、腕だけは絡ませたままだった。
周りの生徒たちが、羨望とも呆れともつかない視線をこちらに向けているのがわかった。
数日前までなら、周囲の目を気にして胃を痛めていただろう。
だが今はただ、疲弊まじりの苦笑が漏れるだけだ。
四人が集まれば、途端に祭りのような賑やかさになる。
俺にとって、この騒がしい時間が、いつの間にか当たり前の日常になりつつあった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったのは、クッキーの最後の一枚を三桜さんと篠崎が半分こしている最中だった。
「もー、終わっちゃった」
「午後もがんばりましょ、センパイ!」
三段重とクッキーの空袋とパンの包装紙を、五人で手分けして片づける。
何でもない動作だった。
◇
放課後。
オレンジ色に染まり始めた校舎を背に、俺はカバンを持って校門へと向かった。
門の手前に、四人が揃っていた。
一花さんが鉄柵にもたれて腕を組んでいる。
二葉さんがその横で鞄を肩にかけ、スマホに目を落としている。
三桜さんが鞄を両手で抱えて、ときどき坂の下のほうを覗いていた。
篠崎が少し離れた場所で、意味もなく屈伸をしている。
誰も、何をしに集まったのかは言わない。
それを言葉にする段階は、もう過ぎていた。
帰宅する生徒たちの波の向こうに、やはり今日も、すっかり見慣れてしまった他校の制服姿があった。
スレンダーな立ち姿に、深い紺のブレザー。
天道だった。
周囲の清華の生徒たちが、場違いなほど洗練された彼女の姿を遠巻きに見つめている。
初めて校門の前にその制服を見た日は、空気が凍った。
今日は、誰も凍らなかった。
「ごきげんよう、【リオン】さま。……今日も、にぎやかですね」
俺の姿を認めた天道が上品に微笑み、一歩足を踏み出した。
一花さんが、鉄柵にもたれたまま半歩だけ横にずれる。
天道が反対側へ回り込もうとすると、二葉さんがスマホをポケットにしまい、何食わぬ顔でそちら側に立った。
大げさなことは何もない。
ただの半歩が、天道の進路をふさいでいた。
「はいストップ。天道さんはそこまでっしょ」
「他校生がこれ以上入ってくるのは、校則違反よ」
「誠くんには近づかせないからね!」
「センパイは私たちが守ります!」
三桜さんが鞄を抱えたまま俺の横に並び、篠崎が当然のような顔で俺と天道の間に入る。
まるで訓練された親衛隊のように、四人の壁が出来上がっていた。
打ち合わせも合図もない。
ここ数日で完全に身体に染みついた配置だった。
「あなたたち、またですか?」
天道の完璧な微笑みが、ピクリと引きつる。
「ええ、またよ。マコトは私たちが連れて帰るから。あなたに構っている暇はないの」
二葉さんが氷のように冷たい声で言い放つ。
「ていうか、毎日毎日飽きないよねー。誠はあたしたちのものなんだから、いい加減諦めなよ」
一花さんが腕を組みながら、挑発するように笑いかける。
「今日は駅前に迎えの車を手配しております。とても景色の良いレストランでディナーなどいかがかと——」
「あたしたちはコンビニ寄ってアイス食べて帰るから」
天道の提案を、一花さんが即座に切り捨てる。
「こ、コンビニのアイス!? そんな安っぽいものを——」
「無駄よ。どこで食べるかより、誰と食べるかの方がマコトの精神衛生上プラスに働くわ」
「みんなでソーダアイス半分こするんだもん!」
「私が奢りますよ!」
四人の凄まじい気迫とマイペースな反撃に押され、天道の口から思わず素の焦りが漏れた。
余裕のあったお嬢様としての態度が崩れる。
それでも、天道は校門の境界線を越えてこない。
彼女なりの、あるいは彼女の通う学校の厳格な一線があるのだろう。
「……それでは、また明日」
天道が軽く会釈して、踵を返した。
夕日に向かって歩き出す足取りは、崩れなかった。
ただ、肩が——ほんのわずかだけ、内側に丸まって見えた。
来ては阻まれ、そして帰っていく。
あの足取りの中に、どれだけの何かが詰まっているのか。
俺にはまだ、量れなかった。
四人が、ゆるやかに壁を解いた。
「……帰ったね」
三桜さんがぽつりと言った。
「うん」
「あの子、毎日来ますよねぇ」
篠崎が少し声のトーンを落とした。
「……執念ね」
二葉さんが短く言った。
けれどそこには、冷たさだけではない何かが混じっていた。
四人の間に、一拍の沈黙が落ちた。
敵を退けた後の高揚ではない。
ライバルで、邪魔者で、得体の知れない相手で。
それでも、来ることをやめない人間の背中を見送った後に残る、言葉にしにくい奇妙な連帯感だった。
「さ、帰ろ!」
一花さんが沈黙を振り払うように明るい声を上げ、俺の手をぎゅっと握って強引に歩き出した。
「あ、一花お姉ちゃんずるい!」
「順番に手を繋ぐべきよ。次は私ね」
「センパーイ、私も繋ぎます! 反対側の手、空いてますよね!」
三人が慌てて俺の反対側へ回り込んでくる。
右で一花さんが肩をぶつけ、左で二葉さんが半歩前を歩く。
後ろから三桜さんが袖をつまみ、前では篠崎が振り返って、逆向きに歩きながら話しかけてくる。
前後左右から引っ張られるままに、夕方の風を受けて歩き出した。
「センパイ、こっちですってばー」
篠崎が後ろ向きのまま、俺を急かすように手を振る。
「篠崎、前見ろ」
「大丈夫ですよー。センパイの顔見てたほうが楽しいですし!」
「こけるぞ」
「こけませんよー」
こけた。
篠崎がつまずいて前のめりになり、俺は咄嗟にその腕を掴んだ。
小さな手首が掌の中にすっぽりと収まる。
篠崎が赤い顔で見上げてきた。
「……こけたじゃないか」
「え、えへへ。センパイが掴んでくれると思ったんで、安心してこけました」
「それ、こけていい理由にならないだろ」
「はーい」
篠崎が手首を掴まれたまま、にっと笑った。
「ちょっと! あんた、わざと転んだでしょ!」
一花さんが鋭く突っ込む。
「偶然ですよ、偶然!」
「嘘つけ」
「一花先輩に言われたくないですぅ」
言い合う二人の横を、二葉さんが「騒がしい」と呟きながら通り過ぎていく。
三桜さんが「私も転びたかった……」と小声でこぼしたのは、たぶん俺にだけ聞こえていた。
恋のライバル同士であるはずなのに、彼女たちは呆れるほど騒がしくて、どこまでも温かい。
昨日の夕方、篠崎と二人で歩いた帰り道を思い出した。
明日もたぶん、あの騒がしい放課後がやってくる——あのとき、確かにそう思った。
そして、その通りになった。
五人の渦の真ん中で揉まれながら、俺はふと、不思議な心地よさに包まれている自分に気がついた。
ほんの数ヶ月前まで、昼休みも放課後も、ずっと一人で過ごしていた。
それが今は、こんなにも近い距離で、体温を伴って笑い合う相手がいる。
——俺はこれを、手放したくない。
何がとか、誰がとか、そういう整理のつく話じゃない。
この騒がしさごと。
四人の声が重なるこの温度ごと。
全部、このまま失くしたくなかった。
夕暮れの通学路に響く四人の笑い声を聞きながら、俺は小さく息を吐き、抗えない波の中に身を委ねた。




