第82話 文具店の帰り道、覚悟の後押し
火曜の放課後は、やけに静かだった。
教室に残っているのは俺だけだ。
一花さんはクラスの女子に連れられて、二葉さんは先生に頼まれごとで職員室、三桜さんはクラスの子の手伝い——それぞれ違う用事で、いつのまにか教室からいなくなっていた。
俺は帰り支度をしながら、机の中に押し込んだままのプリントをのろのろ整理していた。
急ぐ理由もない日だった。
「センパーイ!」
教室のドアが勢いよく開いた。
「篠崎?」
「センパイ、まだいてくれてよかったっ」
制服姿の小柄な後輩が、息を切らしながら教室に入ってくる。
ボーイッシュなショートヘアが汗で少しだけ額に張りついていた。
急ぐ理由もなかったはずの放課後が、いきなり慌ただしくなった。
「一年の教室から走ってきたのか?」
「はい! センパイ、今日ヒマですか?」
両手で抱えているのは、クリップボードと薄っぺらいエコバッグ。
クリップボードの上端に、〈掲示係 七月分 買い出しリスト〉の文字が見えた。
「掲示係?」
「そうなんですよ! 夏休み前の掲示、うちのクラスは私の担当で。画用紙とか模造紙とか、駅前まで買いに行かなきゃいけないんですけど……」
篠崎が両手のバッグを持ち上げて、困ったように眉を下げてみせた。
「量もあるし、ああいう大きな紙って一人だと絶対に折っちゃうんです。センパイ、買い出し付き合ってくれませんか?」
「他のクラスメイトは?」
「みんな部活とか塾で忙しそうだったんで、つい『私が全部買い出し行ってくるよ!』って大見得を切っちゃって……」
てへ、と篠崎はバツの悪そうに笑う。
「お前らしいな。後先考えずに引き受けたのか?」
「だって、まさかこんなにかさばるなんて思わなかったんですもん……」
少し照れたように笑ってから、篠崎はもう一度、両手のバッグを持ち上げてみせた。
「だから、お願いします。センパイ」
断る理由は、特になかった。
「……じゃあ、行くか」
「やった!」
篠崎がぱっと顔を輝かせた。
嬉しさを隠す気がまったくない。
クリップボードは、そのまま俺の手に押しつけられた。
◇
駅前の商店街を並んで歩く。
火曜の放課後はまだ明るくて、部活帰りの生徒がちらほら見えた。
「まず文具店でマーカー買って、それからホームセンターですね」
「逆じゃなくていいのか?」
「マーカーは色を見て選んだほうがいいので、文具店が先です。ホームセンターだと種類少ないですから」
俺はへえ、と間の抜けた返事をする。
「慣れてるな」
「うち、母がいつも忙しいから、買い物って昔から私の担当だったんで。通学路にあった文房具屋、意味もなく長居して眺めてたんですよ。それでちょっと詳しくなっちゃいました」
「なんだか楽しそうだな」
「はい! 私、こういうの変にこだわりが強いんで。文具店って、見てるだけでテンション上がりません?」
得意げに笑う姿は、年下らしい無邪気さがあった。
俺が答える前に、篠崎はもう文具店のドアを引いていた。
「センパイ。模造紙に書くなら、水性と油性、どっちだと思います?」
「え? リストには書いてないな……適当に水性でいいだろ」
「ブッブー、不正解です。模造紙に水性で書いたら滲みますよ。ここは油性一択です!」
言われてみれば確かにそうだ。
俺は素直に感心して頷く。
「……なるほど」
「あ、この太字は見出し用にいいですよ。書き味がいいんです」
「書き味て」
「大事ですよ! 安いのだとインクがかすれて二度書きするハメになるんです。結局損します」
完全に篠崎のペースだった。
俺はリストにチェックを入れながら、ただ後ろをついていく。
篠崎が備え付けの試し書き用メモ帳に、さらさらと何かを描き始めた。
覗き込むと、丸っこくてかわいらしい犬のイラストが描かれている。
「うまいな」
「えへへ、でしょう? 授業中によく描いてるんです」
「それ、真面目に聞いてないってことだろ」
「あちゃっ、バレましたか!」
篠崎がペロッと舌を出す。
「あ、これセンパイにあげます」
試し書き用のメモ帳から一枚ちぎって、丸い犬のイラストを差し出してきた。
「……もらってどうすんだ?」
「お守りですよ。教科書に挟んどいてください」
「テストもう終わっただろ」
「じゃあ次のテストまでの予約です!」
断る隙もない。
俺はポケットにその紙切れをしまった。
「赤と青と黒と……見出し用に緑もいりますね。よし、これで完璧です!」
「迷いがないな」
「当然です! 妥協は最大の敵ですよ。さあ、レジ行きましょう」
会計を済ませると、篠崎は当然のように小さな紙袋を自分で持った。
「それくらい俺が持つよ。荷物持ちで呼ばれたんだし」
「だーめです! こういうのは半分こって決まってるんです!」
「……それ、二葉さんみたいな言い方だな」
「え、綾瀬先輩みたいですか? やだ、私の方がもっと可愛く言ったのに」
篠崎がぷくっと頬を膨らませた。
続いて向かったホームセンターでは、ホッチキスの芯を探すのに手間取った。
広い店内をあちこち見回している俺に、篠崎が呆れたような声を出す。
「センパイ、そっち工具コーナーですよ」
「ホッチキスも工具みたいなもんだろ」
「全然違います。事務用品は三番通路です」
篠崎は迷いのない足取りで棚の奥へ進んでいく。
「案内板あったのか?」
「入口に大きく貼ってありましたけど」
「……見てなかった」
「知ってます」
篠崎がくすくす笑う。
棚の間を歩いている途中で、横から男性の店員が声をかけてきた。
「何かお探しですか?」
作業着姿の中年の店員だった。
篠崎がほんの一拍、笑顔を作るのが遅れた。
目元に微かな強張りが走り、すっと俺の半歩後ろに入る。
小さな紙袋を胸の前に抱え直す、身を守るような仕草が見えた。
「大丈夫です、もう見つかりました」
俺が半歩前に出るようにして代わりに答えると、店員は会釈して去っていった。
篠崎はまた何事もなかったように俺の横に戻る。
あの切り替えの速さが、少しだけ気になった。
「あっ、センパイ、テープ。掲示物に使うならメンディングとセロハン、どっちが正解でしょう?」
「またクイズか。……適当にセロハンでいいだろ」
「チッチッチッ、甘いですね。セロハンは時間が経つと黄色くなるんです。ここはメンディング一択です」
「……ほんと何でも知ってるな」
「好きなんですよ、こういうの」
それから一拍おいて、篠崎はいたずらっぽく笑った。
「……センパイとこうして一緒に選ぶのも、含めてですけど」
「……息を吐くようにそういうこと言うよな」
「あはは、照れました? さあ、次は画用紙ですよ!」
俺は苦笑しながら、リストにチェックを入れる。
「係の予算、大丈夫か?」
「マーカーで八百四十円、芯が百八十円、テープが二百六十円で、残り二百二十円ですね」
「画用紙、足りるのか?」
「リストの裏を見てください。画用紙は別予算って書いてありますよ」
言われてリストをひっくり返すと、裏面に小さな字で補足がびっしり並んでいた。
「……気づかなかった」
「センパイ、こういうの読まないタイプですよね」
「よく知ってるな」
「いっつも見てますから」
悪気のない笑顔だった。
◇
買い物を全部終えて、商店街を引き返す。
夕焼けが屋根の向こうに広がっていた。
篠崎は右手に袋を下げ、左腕で画用紙を抱えている。
俺は模造紙の筒を肩に担いで、残りの荷物を持った。
「模造紙って、長くて意外とかさばりますよね」
「筒だからまだいいだろ」
「センパイは背が高いからそう言えるんですよ。私だと引きずっちゃいます」
「なるほどな。なら、荷物持ちで呼ばれた甲斐があったってことか?」
「はい、大助かりです」
篠崎は楽しげに言って、それから少しだけ歩調を緩めた。
夕方の商店街は買い物客が増えていて、ぶつからないように歩くうちに、篠崎との距離が自然と近くなる。
「……なんか、こういうのいいですね」
「こういうのって?」
「こうやって、センパイと他愛もない話しながら歩くの。センパイを独り占めできてるみたいで」
「……お前なぁ」
「冗談ですよぉ。でも、センパイ」
篠崎の声が、ふいに静かになった。
「……センパイって、最近ちょっと顔つき変わりましたよね」
「顔つき?」
「なんだろ……前はもうちょっと、ふわふわしてたっていうか。どこか遠くを見てるみたいだったんです。でも今は、なんか覚悟決めた人みたいな顔してます」
心臓が一つ跳ねた。
昨日、校門の前であの少女から告げられた言葉。
ルナの正体を巡る謎、三姉妹の本当の気持ち、そして他校の制服を着た彼女の底知れない瞳が、まだどこか頭の隅にこびりついている。
「……そうか? 自分じゃわからないけど」
「そうですよ。前はちょっと困ってる顔が多かったけど、最近はちゃんと前向いてる感じがします。私の顔を見て、安心した顔してますし!」
「お前な、自分で言うかそれ」
「だって本当のことですから! 私の癒やしパワーのおかげですね!」
えへへ、と篠崎が無邪気に笑う。
目の前の篠崎は、そんな俺の事情なんて何一つ知らない。
深い意味を込めているわけでもなく、見たままを素直に口にしただけだ。
「……そうだな。篠崎のおかげかもな」
「えっ」
篠崎がぱちくりと瞬きをした。
それから、耳まで真っ赤にして俯いてしまう。
「せ、センパイ、そういうの反則ですよ……」
「自分で振ったんだろ」
「うう……センパイの馬鹿」
ぷいっとそっぽを向いた篠崎が、二、三歩進んだところで、ちらりとこちらを振り返った。
「……センパイの方こそ、赤いですけど」
「夕日のせいだ」
「ふふっ、そういうことにしておきます」
笑いながら歩き出した背中を、少し慌てて追いかける。
「最近、毎日楽しいですね」
弾むような声だった。
けれどその奥に——この時間がずっと続いてほしいと願うような響きが、ほんのかすかに混じっている気がした。
「今日は本当にありがとうございました。一人じゃ絶対無理でした」
「また何かあったら呼べよ。荷物持ちくらいならいつでも手伝うから」
「……! はいっ、絶対呼びますからね!」
篠崎は照れたように頬を押さえ、それから数歩だけ先へ駆け出した。
くるりと振り返り、夕焼けを背にして楽しげに手を振る。
「早く行きますよ、センパイ!」
その声に苦笑して、俺は模造紙の筒を担ぎ直した。
騒がしくて、世話焼きで、やたら頼りになる後輩だった。
明日もたぶん、あの騒がしい放課後がやってくる。
それだけで、かさばるはずの荷物は案外軽く感じられた。




