第81話 二葉の迎撃、裾を握る手
月曜日の放課後は、あっけないほど普通だった。
終業のチャイムが鳴って、クラスメイトがざわざわと教室を出ていく。
窓の外は七月の日差しで白く光っている。
土曜の海の匂いも、あの少女の冷たい指先も——休み明けの教室に戻ると、ひどく遠い。
教室に残っているのは、俺と二葉さんの二人だけだった。
「……まだ終わらないのか?」
教卓の上でプリントの束を揃えている二葉さんに声をかける。
一花さんと三桜さんは、それぞれ別の用事があって先に帰っていた。
二葉さんはクラスの雑事を引き受けて居残っている。
別に頼まれたわけでもないのに、放っておけない性分らしい。
「あと少しよ。マコトは先に帰ってもいいのよ」
二葉さんは手元から視線を外さずに答えた。
淡々とした声だ。
綺麗に揃えられた長い黒髪が、午後の光を受けて微かに透けて見える。
「手伝おうか?」
「結構よ。マコトの不器用な手が入ると、五十音順のソートが狂うわ。非効率極まりない」
「五十音順くらい間違えないって」
「知識と実行能力は別物よ。あなたの実務におけるエラー率は高すぎるわ」
「不良品みたいに言うなよ」
「経験則に基づいた客観的な評価よ」
経験則、という単語に嫌な予感がした。
「前に配布物を逆順で棚に入れたのは、どこの誰だったかしら」
「……あれは急いでたんだよ」
「言い訳しないの」
すげなく切り捨てられる。
けれど、二葉さんの鞄の横には、俺の机の中に乱雑に突っ込まれていたはずのノートが、教科ごとに綺麗に積み上げられていた。
「辛辣な割に、俺のノートまで整理してくれてるだろ」
指摘すると、二葉さんの手がぴたりと止まった。
ほんの一瞬だけ沈黙が落ちる。
「……視界に入って不快だっただけよ。ついでに揃えたほうが、私の精神衛生上、都合が良かったの」
「そっか。ありがとう」
「お礼を言われる筋合いはないわ」
二葉さんはそっぽを向いた。
耳の先が少しだけ赤くなっている。
相変わらず、行動と建前が裏腹すぎる。
「土曜日は、悪かったな。色々と振り回して」
ラーメン屋での解散から、日曜日は誰とも会わずに過ごした。
あの水族館での騒動と、その後の遊歩道での出来事が、まだ頭の片隅に引っかかっている。
「気にしていないわ。ただ、夕方に予定外のラーメンというのは、カロリー計算の観点から見ても暴挙だったわね。私の週末の栄養管理計画が完全に狂ったわ」
「でも、二葉さんも醤油ラーメン、スープまで全部飲んでただろ」
「それは、あのスープは出汁の構成が複雑で、検証する価値があったからよ」
「美味しかったからだろ」
「検証のためよ」
絶対に素直には認めない。
そういう不器用なところが、少しだけおかしくて、安心した。
あの少女の完璧すぎる言葉よりも、二葉さんのこの面倒な理屈のほうが、ずっと体温を感じる。
「そういえば、この前の期末、二葉さんの要点まとめがすごく効いたよ」
「ええ。私の立案した学習計画は、想定通りの投資対効果を生み出したようね」
「当然、みたいな顔してるな」
「当然よ。マコトの認知傾向に最適化して作成したもの」
「認知傾向って?」
俺が聞き返すと、二葉さんは手を止めずに淡々と答えた。
「複雑な数式で符号を見落とす癖よ。緑色の蛍光ペンで視覚的に補強しておいたわ。極めて効率的だったはずよ」
「……よく見てるよな、本当に」
二葉さんは小さく息をつき、最後のプリントを整え終えた。
「……もうすぐ終わるわ。退屈なら、校門で待っていてちょうだい」
「わかった。じゃあ、先に行ってる」
俺は鞄を手に取ると、教室を後にした。
昇降口を抜け、校門へと歩き出す。
部活帰りの生徒たちの声が遠くから響いていた。
日常の音だ。
そう思って息を吐き出した瞬間、足が止まった。
校門が見えた。
——見覚えのある影が、門柱の横に立っていた。
他校のブレザー。
ゆるふわのロングヘア。
穏やかな微笑みで、まっすぐこちらを見ている。
「こんにちは、【リオン】さま」
少女が小さく頭を下げた。
土曜の昼、駅前で崩れかけた仮面は、もう完璧に元通りだった。
「……天道」
「お休みの日はありがとうございました。とても楽しかったです」
「うん。……それより、なんでここにいるんだ?」
「ここでなら、お会いできるかなと思いまして」
悪びれもしない。
半歩だけ距離を詰めてくる。
「あの日、お別れしてからずっと考えていたんです」
「考えて……?」
「【リオン】さま。土曜のお返事——まだ、聞けていないんです」
「返事?」
「私を信じてくださいと——お願いしましたよね」
穏やかな声だった。
その穏やかさが、逃げ道を塞いでいる。
——俺があの駅前で答えたのは、記憶のことだけだ。
答えを待つ目だった。
「天道。俺は——」
「土曜日は、お友達がいらしてとても賑やかでしたね」
俺の言葉を、少女がやんわりと遮った。
「友達というだけじゃない。俺の大切な人たちだ」
「知っています。彼女たちは、一生懸命私の真似をしようとしている。でも、コピーは決してオリジナルにはなれません」
「誰も真似なんてしてない」
「そうですか? なら、どうして彼女たちはあなたに隠し事をするんでしょうね」
少女がさらに半歩、距離を詰めてきた。
甘い香りだけが、やけに生々しく近い。
だが、その言葉にはやはり熱がない。
完璧な台詞を再生しているような、ぞっとするほどの平坦さがあった。
「あなたはまだ迷っているはずです。誰が本物なのか、本当はわかっていないでしょう?」
「それは……」
「私だけが、あなたとの思い出を完璧に証明できるんです。いつか必ず、わかってもらえます」
このままここに長居するのは良くない。
そう思って後ずさりしようとした時だった。
「迷惑よ」
冷たい、氷のような声が背後から響いた。
振り返ると、二葉さんが立っていた。
きっちりと着こなした制服姿で、感情の読めない瞳で少女を見据えている。
「……あなたは」
少女の微笑みが、ほんのわずかに揺らいだ。
二葉さんは俺の横を通り抜け、少女との間にすっと割って入る。
俺を庇うような立ち位置だった。
薄い背中が、壁みたいに硬く見えた。
「他校の生徒が、用事もなく校門付近をうろつくのは、防犯上の観点から見ても推奨できないわ」
「うろついてなんていません。私はただ、【リオン】さまと少しお話ししていただけです」
「マコト、でしょう」
「……いいえ。【リオン】さまです」
「マコトには、あなたと話す義理はないはずよ」
二葉さんの声には、一切の容赦がなかった。
理詰めの刃で、少女の言葉を切り捨てていく。
「それは【リオン】さまが決めることです。あなたに、口を出す資格がありますか?」
「少なくとも、見ず知らずの他校生よりは親しい立場にいるわ」
「ふふっ。親しい、ですか」
少女が小さく笑い声をこぼした。
その目には、敵意に似た光が宿っている。
けれど笑みの割に、そこには少しも余裕がなかった。
「その親しい方のために、走っていらしたんですね」
「何のことかしら」
「あちらの昇降口から、駆け出していらっしゃるのが見えましたから」
二葉さんは、今度は答えなかった。
その沈黙は、否定にはならなかった。
「……見ていたのなら、尚更よ」
二葉さんの声が、低くなった。
「走ってでも来る人間がいるの。それだけは、覚えておいて」
「あなたは次女の方ですね。自分の感情が怖くて、いつも理屈の後ろに隠れている」
「見ず知らずの人間による心理分析は、極めて不正確よ」
「間違っていますか? 彼を管理しているふりをして、本当はあなたが彼に依存しているだけでしょう?」
図星を突かれたかのように、二葉さんの肩がわずかに跳ねた。
だが、二葉さんは一歩も引かなかった。
「依存は弱さを意味するわ。私はただ、自分の正当な場所を主張しているだけよ」
「彼が深夜にどんな言葉を紡ぐか、あなたは知っていますか? 彼がどれほど不器用で、どれほど優しい人なのか。……私の方が、ずっと深く彼を知っています」
土曜日の遊歩道と同じだ。
記憶を盾にして、揺さぶりをかけてくる。
だが、二葉さんは微塵も動じなかった。
「それがどうしたの」
「え……?」
「過去のデータがどれだけ豊富だろうと、現在進行形の事象には勝てないわ。今のマコトの時間を埋めているのは、私たちよ。イレギュラーな存在が割り込む隙はないわ」
二葉さんの右手が、背後に回された。
そして、俺のシャツの裾をきゅっと強く握りしめる。
振り返らなくてもわかる。
その手は、かすかに震えていた。
「過去の話なんて無意味よ。今、現実に彼の隣に立っているのは、私よ」
理屈で武装した言葉の奥底から、隠しきれない独占欲が漏れ出していた。
重くて、不器用で、途方もなく真っ直ぐな感情。
少女はその気迫に押されたのか、ふっと息を吐いた。
「……なるほど。今日は分が悪いみたいですね」
少女はいつもの完璧な微笑みを貼り付け直す。
「今はその隣を譲ってあげます。でも……私からは逃げられませんよ、【リオン】さま。あなたが振り向くまで、何度でも来ますから」
「何度来ても同じことよ。空いている場所は、ひとつもないわ」
「……空けていただきます」
優雅なお辞儀を残して、少女は踵を返した。
門の外に黒い車が停まっていて、少女はそこへ吸い込まれるように消えていった。
車が走り去るまで、二葉さんは俺の裾を握りしめたまま動かなかった。
◇
校門の周りから、生徒たちの姿もまばらになっていた。
夕方の風が、少しだけ冷たく感じる。
「二葉さん。……ありがとう。助かったよ」
俺が声をかけると、二葉さんはゆっくりと振り返った。
氷のように冷たかった表情は、もうそこにはない。
俺の裾を握る指先は白くなるほど力がこもっていて、その震えはさっきよりも大きくなっていた。
「なぜ、すぐに追い払わなかったの?」
責めるような口調だったが、声はわずかに上ずっていた。
「ごめん。急に現れたから、ちょっと驚いて」
「……非合理的よ。未知の変数に遭遇した場合、速やかに距離を置くのが最適解のはずよ」
「そうなんだけど、あの子が知ってることとか、色々考えてしまって」
「そんなこと、どうでもいいわ!」
声を荒らげた二葉さんに、俺は息を呑んだ。
二葉さんはうつむいたまま、俺の裾から手を離そうとしない。
清涼感のあるシャンプーの香りが、風に乗ってふわりと漂ってきた。
いつもなら、ここで「じゃあ帰りましょう」と冷静に切り出すはずなのに、今日は違った。
「二葉さん?」
「……あの子の言う通りよ」
消え入りそうな声だった。
顔を上げた二葉さんの耳は、真っ赤に染まっている。
いつも完璧に取り繕っている仮面が、完全に剥がれ落ちていた。
「理屈の裏に隠れているだけ。効率のためとか、管理のためとか……そう言っていないと、怖くて仕方がないの」
「怖い?」
「誰かに、マコトを取られてしまうのが。私の居場所が、なくなってしまうのが」
「そんなことない。俺はどこにも行かないよ」
「……一人で、抱え込まないで」
裾を握っていた指が、ようやくほどけた。
二葉さんが半歩踏み出し、俺の腕に両手を添えて身体を寄せる。
触れたところから伝わってくる体温は、さっきの少女の平坦な言葉とは比べ物にならないほど熱かった。
制服越しでもわかる、予想以上の柔らかさが腕に押し付けられる。
「理屈なんて、もういいの。私は……ただ、マコトの隣にいるためにいるんだから」
その言葉には、いつもの建前はひとつもなかった。
ただの、重すぎるほど真っ直ぐな本音。
「誰にも、譲る気はないわ」
俺の肩に軽く額を押し付けるようにして、二葉さんが呟く。
その重みをしっかりと受け止めながら、俺は頷いた。
「ああ。……わかってる」
「……なら、いいわ。困った時は、ちゃんと言いなさい」
声はいつもの二葉さんに戻っていた。
けれど、肩に押し付けられた額は動かなかった。
校門の前に二人で立っていた。
夕陽が校庭の金網をオレンジに染めている。
部活の声が遠い。
「帰ろう、二葉さん」
「……ええ」
二葉さんがゆっくりと身体を離した。
半歩、隣についた。
歩き出した二葉さんの歩調は、いつもより少しだけ遅い。
隣を歩く横顔は、揺れる髪に隠れてよく見えなかった。
けれど、髪の隙間から覗く耳だけは、まだ赤いままだった。
「……二葉さん。さっき、走ってきたって」
「聞こえていなかったことにしなさい」
二葉さんの歩幅が、ほんの少しだけ広くなった。
俺は少しだけ笑った。
困った時は言えと言われたけれど——今はまだ、隣に人がいるというだけで十分だった。




