第80話 五人分の水族館、青い天蓋の下で
三人の体温に挟まれたまま、俺たちは薄暗い水族館の順路をゆっくりと進んでいた。
水槽の青い光に照らされる四人のシルエットは傍から見ればいびつで、けれど不思議なほど心地よい。
このまま静かな時間をもう少しだけ——そう思った矢先だった。
そこへ、ドタバタとした足音が戻ってきて、篠崎が俺の背中にどんっとぶつかった。
「センパイ、次行きますよ! 大水槽です!」
「わかった、わかったから背中を押すな」
「早くしないとエイが寝ちゃいます!」
「エイはそんなすぐ寝ないでしょ。篠崎ちゃん、まじで体力おばけ……」
大水槽の前に出ると、青い光が一面に広がっていた。
頭上を巨大なエイがゆっくりと横切っていく。
「うわぁ……」
三桜さんが小さく息を呑んで、見上げている。
一花さんもテンションが上がったのか、俺の腕をぐいぐいと引っ張った。
「誠、あれ! めっちゃでかい! 食べられるのかな」
「一花さん、水族館でそういう感想はやめた方がいいと思う」
「えー、でもエイヒレってあるじゃん。あれのヒレも絶対美味しいって」
「あれとこれは別物だと思うぞ」
「同じでしょ。じゃあ、いま美味しそうって思った人、手ぇ挙げて」
一花さんが胸を張って振り返る。
三桜さんが慌てて両手を後ろへ隠し、篠崎が勢いよく手を挙げた。
「思いました! でも食べません! 私、見る専なので!」
「思ってる時点で一花さんと同罪じゃないか?」
「私は心の中だけなので、セーフです!」
篠崎が水槽にへばりついて、エイの裏側を指差してはしゃいでいる。
「センパイ! エイの裏側って顔みたいで面白いですよね!」
二葉さんは騒ぐ三人を横目に、いつの間にか俺のすぐ隣、肩が触れるか触れないかの距離に立っていた。
「……大きすぎるのも、考えものね」
「二葉さんは、あんまり大きい魚は好きじゃないのか?」
「……別に。ただ、全体の構造を把握しきれないから、少し落ち着かないだけよ」
そう言いながら、二葉さんの肩がわずかに俺の腕に触れた。
涼しい館内の空気の中で、カーディガンの温もりがじんわりと伝わってくる。
ペンギンの水槽の前を通り過ぎて深海の展示に入ると、照明がいっそう暗くなった。
奇妙な形をした魚たちが、水槽の中でじっと動かずにいる。
「……なんか、グロい」
一花さんが身震いして、俺の腕を抱え直した。
「こういうの、あたし無理かも。誠、早く行こ」
「深海魚はそういうもんだろ。……うおっ」
背中にドンと重みがぶつかってきた。
振り返ると、篠崎が俺の服を両手で強く握りしめて、ブルブルと震えていた。
「セ、センパイ……あそこのチョウチンアンコウ、目が合いました……食べられます……」
「ガラス越しだから食べられないって」
「無理です! あんな大きな口でこっち見ないでください!」
篠崎が背中に顔を押し付けてくる。
薄いシャツ越しの体温が、背中にまっすぐ押しつけられた。
「あー、もう限界。あたし先に抜けるから」
一花さんが腕を放して数歩先へ進み、篠崎も慌ててその背中を追いかけていった。
一方で、二葉さんはひとつの水槽の前から動こうとしていなかった。
「二葉さん?」
「……オオグソクムシよ」
「えっ」
水槽のガラスに顔を寄せた二葉さんの横顔が、青白い照明を淡く受けている。
「無駄のないフォルムね。深海の過酷な環境に適応した、完全な合理性を感じるわ」
「……趣味がいいのか悪いのかわかんないな」
「マコトにはこの美しさがわからないのね。残念だわ」
「……その残念そうな顔、本気なんだな」
「本気よ。……ほら、もう少し寄って見てごらんなさい」
袖を引かれた。
いつもより、少しだけ力が強い。
言われるままにガラスへ目を近づけると、平たい甲殻の縁だけが細く白く浮いて見えた。
「……まあ、たしかにすごいな」
「でしょう」
真顔でオオグソクムシを見つめる二葉さんの横顔は、妙に真剣だった。
三桜さんが「二葉ちゃん、意外とそういうの好きなんだね……」と呟いて、少しだけ引いている。
深海を抜けた先の、通路沿いのカフェエリアで少しだけ休憩を取ることにした。
ガラス張りの壁の向こうで、海の面が午後の光を鈍く跳ね返している。
館内を歩く家族連れの姿が増え、旗を掲げたガイドに連れられた団体客も通り過ぎていった。
「今度こそ、絶対に落とさない……」
三桜さんが、新しく買ったパフェのカップを両手で大事そうに抱え込んでいる。
「三桜先輩! 窓の外、船が通ってますよ!」
「えっ、どこ——あっ」
三桜さんが篠崎の声に勢いよく振り向いた拍子に、カップが手の中で傾いた。
「わわわっ!」
俺が慌ててカップの底を支え、なんとか床への落下を阻止した。
「あ、あぶなかったぁ……誠くん、ありがとう……」
「三桜さん、落ち着いて食べなよ」
「うんっ……」
三桜さんがパフェをテーブルに置いて、ようやくほっと息をついた。
そこへ、売店のほうから戻ってきた篠崎が椅子を引き寄せて、ちょこんと隣に腰かけてくる。
片手には、買ってきたばかりのクレープがしっかり握られていた。
向かいの席は、先に来ていた一花さんが陣取っていた。
「三桜先輩、私も一口ください!」
「篠崎、それ持ったまま言うことか?」
「甘いものは重ねるほど美味しいんです!」
三桜さんが困ったように笑って、スプーンを差し出した。
「あ、いいよ。はい、あーん」
「あたしもあたしも! イチゴのところちょうだい!」
「一花お姉ちゃん、さっきのパフェも一番多く食べたよね……?」
「あれは分配。これは味見。カウントが別」
三桜さんがスプーンを持ったまま固まって、助けを求めるようにこちらを見た。
篠崎が身を乗り出して、俺の袖を引く。
「センパイ、一花先輩の計算方式、独特すぎませんか?」
「突っ込むと理屈が増えるだけだぞ。俺はもう諦めた」
四人分の声が、カフェエリアの高い天井に跳ね返っている。
「……マコト」
声に振り向くと、二葉さんが一人だけ、ブラックコーヒーの紙コップを持っていた。
「二葉さんはパフェ、いいのか?」
「私は甘いものはそれほど」
そう言う二葉さんの視線は、パフェではなくその向こうへ向いていた。
三桜さんがカップを抱え込むようにして、両側から伸びてくる手をスプーンで払っている。
「……今日はまだ、三桜は一つも落としていないわ」
「今のだって、ぎりぎりだったけどな」
「落としていないことに変わりはないでしょう」
そう言い切って、二葉さんは前を向いた。
それでも一度だけテーブルの向こうへ目をやって、すぐに逸らす。
「……ああして見ているだけで、少し疲れるわ」
「まあ、元気すぎるからな」
二葉さんがふっと息をつき、俺の隣の椅子に腰を下ろす。
カーディガンの袖が、俺の腕にかすかに触れて止まった。
「マコトも、お疲れ様」
「ん?」
「さっきからずっと、振り回されているでしょう。……少しは、休むといいわ」
そう言って、二葉さんは紙コップに口をつけた。
淡々とした言葉だったけれど、その響きはどこか柔らかかった。
休憩の時間は、あっという間に過ぎていった。
パフェを平らげた三人が席を立って、順路の後半をゆっくりと歩き出す。
途中の売店で篠崎がソフトクリームを買い足したのを、三桜さんが目を丸くして見ていた。
水槽を一つ一つ見て回るうちに通路の人影がまばらになり、ガラスの向こうの海が少しずつ色を濃くしていった。
最後に残っていたのは、クラゲのエリアだった。
円柱型の水槽の中で、青い光に照らされたクラゲがふわりふわりと漂っている。
——今日の昼前に、ここであの子と一緒にいるところに一花さんたちが乱入してきて、大変なことになった場所だ。
「そういえば、お昼前にここに来た時……」
三桜さんが、少しだけ苦笑いを浮かべた。
「私、あのときパフェで手がクリームまみれになっちゃって……ハンカチびちょびちょだったんだよ」
「あー、あの時はほんとカオスだったし」
一花さんが思い出し笑いをしながら、また俺の右腕に絡みついてきた。
「今度は落ち着いて見れるっしょ。ねー、誠」
「一花。マコトの腕を独占するのは不公平だわ」
二葉さんが、無言で俺の左腕を掴んだ。
さっき休めと言った本人が、いちばん先に腕を取りに来ている。
両側から引っ張られる。
「ちょっと二葉、あんたさっきから抜け駆け多くない?」
「抜け駆けじゃないわ。権利の主張よ」
「権利って何さ。あたしが先にキープしてたんだけど」
「先着順は、優先権の根拠にならないわ」
「じゃあ愛の総量で勝負。あたしのほうが絶対多いし」
二葉さんが、一瞬だけ黙った。
理屈で切り返すと思っていたのに、左腕を掴む指の力だけが静かに増した。
「……その勝負なら、私は負けないわ」
「頼むから、その手の張り合いは水族館の外でやってくれ」
「一花お姉ちゃん、二葉ちゃん、引っ張ったら誠くんが痛いよぉ」
三桜さんが慌てて二人の間に入ろうとするが、一花さんも二葉さんも意地になって腕を離さない。
「痛くない。たぶん」
「たぶん、って何よ」
一花さんが下から睨んでくる。
示し合わせたように、左右の指の力が同時に増した。
「……いや、今は痛い。二人とも、腕がもげる」
「マコトが少し右に寄りすぎているのがいけないのよ」
「はあ? 誠があたしの方に気持ちが傾いてるんだから自然の摂理でしょ」
バチバチと火花が散りかけた空気を、無邪気な大声が真っ二つに割った。
「センパイ! クラゲの裏側ってどうなってるんですか!?」
横から響いた篠崎の明るい声で、二人の腕の力が少しだけ緩んだ。
ドンッ。
鈍い音が響いた。
「いっだぁっ!」
「篠崎ちゃん、何やってんの!?」
「く、クラゲをよく見ようとしたら……水槽との距離感を間違えました……」
篠崎が両手で鼻を押さえてうずくまっている。
一花さんが吹き出し、三桜さんが慌てて駆け寄った。
「心花ちゃん、大丈夫!? 鼻血出てない?」
「だ、大丈夫です、三桜先輩……ちょっと星が飛びましたけど……」
「ほら、手どけなって。……見せてみ」
さっきまで笑っていた一花さんが、俺の腕を離して屈み込む。
篠崎の手をそっと鼻から引き剥がして、覗き込んだ。
口調は雑なのに、指先の動きだけが妙に丁寧だった。
「うん、血は出てないし。次は距離感考えなよ、篠崎ちゃん」
「……一花先輩、優しいです」
「うるさい。鼻血まみれで歩かれたら、こっちが恥ずかしいんだけど」
「……呆れたわね。水槽のガラスは透明なのだから、視覚だけに頼って距離を測るべきじゃないわ」
二葉さんが小さくため息をつきながら、ようやく俺の左腕を解放してくれた。
クラゲは昼前と同じ速さで、傘を開いては閉じていた。
◇
「本日の閉館時間まで、あと十分となりました」
館内アナウンスがゆっくりと通路に流れた。
クラゲの通路を抜けると、出口へ続くロビーが明るかった。
窓の外の光が、いつの間にか橙色に傾いている。
朝から回っていたはずの時計の針が、ずいぶん先まで進んでいた。
「あー、もうそんな時間か」
五人で連れ立って、出口へ向かった。
自動ドアが開くと、真昼の光はもうどこにもなかった。
空はゆっくりと茜色に染まっていて、海の向こうの水平線が眩しい赤を溜めている。
遊歩道の家族連れは、昼間に見たときより数を減らしていた。
振り返って、水族館の青い看板を見上げた。
朝の白い光の下で見た同じ看板が、今は夕暮れの赤みに縁取られている。
朝から夕方まで、一つの水族館で過ごした一日だった。
「じゃあ帰りましょう、センパイ! お腹空きました!」
「さっきクレープ食べてたでしょ」
「クレープは別腹です!」
「心花ちゃん、そのあとソフトクリームも食べてたよね……」
「ソフトクリームも別腹です!」
篠崎が胸を張った。
一花さんが「別腹いくつあんの」と突っ込んで、三桜さんが「胃袋が無限……」と小さく呟いた。
一花さんが腕を引っ張り、三桜さんが反対側の袖を掴み、二葉さんが半歩遅れてついてくる。
篠崎が先頭に立って「こっちです!」と元気に声を出した。
夕暮れの商店街を五人で歩いた。
どこかの店から焼き鳥の匂いが流れてくる。
街灯がぽつぽつと点り始めて、店先の暖簾が風に揺れていた。
篠崎が振り返って叫んだ。
「センパイ、ラーメンがいいですか!? それともカレー!?」
「……どっちでもいいよ」
「どっちでもいいは禁止です! センパイ、ちゃんと選んでください!」
「じゃあ——ラーメン」
「了解です! 三桜先輩、ラーメンですって!」
篠崎が両手を突き上げて振り返る。
三桜さんが慌てて袖口をつまんで顔を隠した。
「え、わ、私に振らないで……でも、味噌がいいな」
「味噌! 了解です! 二葉先輩は!?」
「……何でもいいわ」
「何でもいいも禁止です!」
「……醤油」
二葉さんが小さく溜め息をつきながら答えた。
けれどその口元は、わずかに緩んでいた。
「一花先輩は!?」
「あたしはとんこつ! 濃いやつ!」
「うわー……一番太りそうなの行きましたね」
「篠崎ちゃん、いま何て言った?」
「なんでもないでーす!」
騒がしかった。
うるさくて、近くて、温かかった。
昼間の遊歩道の静けさが嘘みたいだった。
あの少女の完璧な声も、すがるような指先も、疲れ切った目も——まだ胸の奥に残っている。
消えてはいない。
けれど——今、両腕にはそれぞれ別の人がぶら下がっていて、半歩後ろには離れないカーディガンの気配があって、前からは「早く行きますよー!」と声が飛んでくる。
俺の場所は、やっぱりここなんだ。
それ以上の言葉は見つからなかった。
見つける必要もなかった。
◇
暗い部屋に、スマートフォンの画面だけが白く光っていた。
少女はベッドの縁に座っている。
水色のワンピースのまま、着替えてもいない。
駅の改札を抜けて、車に乗って、家に着いて——その間ずっと我慢していたものが、暗い部屋の中でようやく溶けだしていく。
完璧な微笑みを作る必要がもうない場所で——少女の肩が、小さく震えた。
「……【リオン】さま」
声は、誰にも届かなかった。




