第79話 騒がしい帰還と、取り戻した体温
向き合いたい人たちがいる——天道にそう告げて、駅の改札で見送った。
あとは、水族館で待っている四人のところへ戻るだけだった。
来た道を引き返して商店街の裏道に入ると、飲食店のざわめきがすぐ近くを包んだ。
ランチ時をわずかに過ぎた頃で、店先の看板の裏で店員が休憩している。
潮の匂いがまた少しだけ濃くなった。
さっきと同じ道なのに、足取りが軽い。
水族館の青い看板が、また視界の正面に戻ってきた。
入口の広場に、見慣れた影が四つ。
誰かがベンチの背に腰を預け、誰かがベンチの端に浅く座り、誰かが自販機の前をうろうろし、誰かが柱にもたれて空を見上げている。
パフェのカップは、どこにも見当たらない。
「誠ーーっ!」
一花さんの声だった。
四つの影の一つが、弾かれたようにこちらへ駆け出してくる。
サンダルが地面を叩く高い音が、広場のタイルの上で跳ねた。
「ちょっと、遅いんだけど! 何分待たせんの、馬鹿誠!」
怒っている——ように見せかけて、目が潤んでいた。
腕に飛びつかれる。
さっきの遊歩道にはなかった体温が、腕の中にあった。
「……一花さん、痛い」
「うっさい! あたしの心配返せ! 一時間だよ、一時間!」
「そんなに経ってたか?」
「経ってた! 二葉が『追いに行く』って言い出すのを篠崎ちゃんが必死で止めてるし、三桜はずっとオロオロしてるし……もう、こっちは生きた心地がしなかったんだからね!?」
腕がしびれそうな力でしがみついている。
痛い。
けれど温かかった。
「遅かったわね」
二葉さんが数歩遅れて歩いてきた。
いつもの淡々とした声。
けれどカーディガンの裾を握った指の関節が、わずかに浮いていた。
「別に、心配なんかしていないわ。……ただ、これだけ待たされたら、少しは文句を言う権利くらいあるでしょう」
「ごめん、二葉さん」
「……謝ってほしいわけじゃないわ。次からは、もっと早く歩きなさい」
言い終える前に、少しだけ目を逸らした。
強がりを言いながらも、その視線の逸らし方が全部を白状している。
カーディガンの裾を握る力が、ほんの一瞬だけ強くなった気がした。
「誠くん、大丈夫だった?」
三桜さんが小走りに駆け寄ってくる。
小さく、肩で息をしていた。
「大丈夫だよ。心配かけてごめん」
「……ほんとだよ。ずっと心配してたんだからね」
三桜さんが、空いているほうの俺の袖をきゅっと掴んだ。
小さな手に、思ったよりも力が入っている。
一花さんとは反対側の腕に、別の温もりが届いた。
三桜さんが、俺の腕にすり寄るように少しだけ体重を預けてきた。
二葉さんは小さくため息をついて、赤くなった耳を隠すようにそっぽを向いた。
一花さんは一花さんで、腕にしがみついたまま離れない。
「センパイ」
篠崎が三人の後ろから顔を出した。
いつものように軽く手を振っている。
けれど目がいつもより真剣だった。
「……大丈夫でしたか?」
声が低かった。
いつもの弾む調子じゃなく、確かめるような響きだった。
「ああ。大丈夫だ」
篠崎が一瞬だけ息を吐いて、すぐにいつもの笑顔に戻った。
肩の力が抜けるのが目に見えた。
——こいつも、待っていてくれたのか。
「あ。約束のドリンク、もう買ってあります」
突き出されたペットボトルは、見たことのない色をしていた。
さっき自販機の前をうろうろしていたのは、これを選んでいたかららしい。
「三桜先輩お墨付きの一本ですよ」
「……その情報だけは、聞きたくなかった」
その横で、袖にかかっていた小さな力が、遠慮がちに二度ほど引かれた。
「……あのね、パフェなんだけど」
三桜さんがおずおずと切り出した。
「四人で、分けて食べちゃったの。溶けちゃいそうだったから……」
「うん、いいよ。そのつもりで返したんだから」
「誠のぶん、あたしがいちばん多く食べたから」
一花さんがにやりと笑った。
「聞いていないわ、一花。マコトのぶんの配分まで、あなたに委ねた覚えはないのだけれど」
「言ってないってば。じゃんけんで勝ったんだから正義」
「じゃんけんで決めたのは食べる順番だけでしょう。一口の分量は取り決めの外よ」
「そういう細かいことは勝者が決めるの」
二葉さんが眉間に指を当てて、深く息を吐いた。
一花さんは腕を抱えこんだまま、涼しい顔で舌を出している。
「……ではその勝者は、いつまでマコトの腕を占有しているつもりなの」
「ヤキモチ? 離してほしいなら、もっと素直に言えばいいのに」
「別に、私が離してほしいわけじゃないわ。マコトが困っているのよ」
「はいはい、そういうことにしといたげる」
「センパイ、綾瀬先輩たち、いつ見ても仲いいですね」
「これで仲いいのか……」
篠崎が声を立てて笑い、三桜さんが半笑いで肩をすくめた。
真昼の光が広場に照りつけて、五人の影が短く落ちている。
さっきの遊歩道の静けさが、もう遠かった。
「で、誠」
一花さんが不意に真顔になった。
腕を絡めたまま、俺の顔をぐいと見上げてくる。
「うちら、まだ半分も見てないんだけど」
空いているほうの右手首を、俺の目の前に突き出してくる。
入場時に押された再入場の青いスタンプが、まだくっきり残っていた。
「……もう一回入るのか?」
「入るに決まってるでしょ。あんたのデートの付き添いで、あたしらはまだ水族館をまともに見れていないんだから」
「一花お姉ちゃんも見たかったんだね……」
「三桜、それ言わないの」
「わ、ごめん」
三桜さんが首をすくめて、慌てて自分の袖口を口元に当てた。
そのやり取りを聞いていた二葉さんが、静かにうなずく。
「私も賛成よ。せっかく入場料を払ったのだから、元を取るのは合理的な判断だわ」
「二葉ちゃんまで……」
「センパイ、私、深海のところがまだ全然見れてないんです! 行きましょう、行きましょう!」
篠崎が跳ねるように前へ出る。
三桜さんは俺の袖を掴んだまま、上目遣いに笑った。
「わ、私も——もう一回、見てみたいな。誠くんと」
……断れる空気ではなかった。
というより、断りたくもなかった。
少女と二人で回ったあの水族館とは、たぶん別の場所になる。
「わかった。もう一回、みんなで入ろう」
「やった!」
一花さんが拳を突き上げた。
五人で連れ立って、再び青い看板の下をくぐり抜けた。
真昼の光の余韻を背中に残して、館内の涼しい風が頬を撫でる。
薄暗がりに目が慣れるより先に、篠崎が元気よく駆け出した。
「センパイ! 早く早く!」
「走るなって。水槽は逃げないから」
「篠崎ちゃん、元気すぎでしょ。しっぽ見えてるよ?」
一花さんがけらけらと笑いながら、俺の右腕にしっかりしがみついてくる。
肩口に、夏らしいトップスから覗く素肌が触れた。
触れたところだけが、やけに熱かった。
「あたしらはおとなしく回ろうねー、誠」
「その腕、離してくれないか?」
「やーだ。迷子になっちゃうし」
「一花、見苦しいわ。マコトが歩きにくそうにしているでしょう」
二葉さんが淡々とした声で言いながら、なぜか俺の左側にぴったりとくっついて歩き始めた。
紺色のワンピースの裾が、歩くたびに俺のズボンに掠れる。
「二葉さんも近いんだけど」
「私は合理的な距離を保っているだけよ。館内は人が多いから」
「その理屈、さっきも聞いた気がするんだけどな」
熱帯魚のエリアに入ると、三桜さんが小さな水槽の前で立ち止まっていた。
「誠くん、見て見て。この四角いお魚、すっごく可愛い……」
「ハコフグだな。動きが鈍くて可愛いよな」
「うんっ。……あ、こっち見た」
三桜さんがふんわりとしたスカートを揺らしながら、水槽に顔を近づける。
その後ろ姿を、二葉さんが黙って見つめている。
視線に気づいた三桜さんが、振り返った。
「二葉ちゃんもこっちで見る?」
「……私はいいわ。三桜が見ているのを、ここで見ているから」
「もう、二葉ちゃんってば」
三桜さんが照れたように笑って俺のそばに戻ってくると、服の裾をきゅっと引っ張った。
一花さんが右腕をホールドし、二葉さんが左に寄り添い、三桜さんが裾を掴んだまま見上げてくる。
——同じ順路を、まるで違う速さで歩いている。
腕や服越しに伝わってくる三人の確かな熱が、いつの間にか強張っていた俺の心を少しずつ解きほぐしていく。
あの遊歩道で胸に刺さった小さな棘も、今はこの騒がしさの奥に沈んでいた。




